第四話 ロケット
「どうして今、『ロケット』なんでしょうか?」
由佳嬢のストレートな質問に、思わず振り向きそうになる自分を必死でこらえて前を走るバンをにらみつける。
「この前、古沢さんたちと飲んで帰ってきた後、父はそのまま何時間も書斎にこもって古い書類や資料をひっくり返していたかと思うと、今度は急に徹夜で物作りを始めたりして、家族みんな驚いているんです」
(やはりあれがきっかけだったのか)
俺は酔っ払って余計な事をべらべらしゃべってしまった自分を悔いた。あの日、飲み会の席で社長に右目を失った原因を問われた時、いつもなら適当にはぐらかすものを、アルコールのせいか、あるいはほとんど身内とも言える気安さからか、うっかり高校時代の事故のことを話してしまったのだ。
何も恐い物などなかった高校時代、常に胸に抱いていた壮大すぎる夢の話。そして、それが壊れてしまった顛末と、一生消えない傷を負わせてしまった大切な友人の事。
それまで心の奥に封印し、誰にも見せなかった懐かしい想いは、いったん口を開くと堰を切ったようにあふれ出てきた。
話しても話してもまだ足りないような気がして、ついついしゃべりすぎてしまった。
川島社長は最後まで一言も口を挟まず耳を傾け、長い一人語りが終わると、まるで父親がわが子に向けるようなまなざしで俺に杯を向けてくれた。
「たぶん、俺の話が原因だと思います」
多摩川を渡る手前で道は急に渋滞し始め、アクセルを踏んでいるより次第にブレーキを踏む時間のほうが増えてきた。
俺は車の流れが止まったところで向き直り、彼女の表情をじっと見つめた。彼女もまた、試すように見つめる俺のまなざしをじっと見つめ返してくる。そこに先ほどまでの恥じらいの表情はない。
「お話ししていただけますか?」
別に隠したって意味はない。物怖じしない彼女のことだから、俺が話さなければ社長に食らい付いてでも聞き出すに違いない。
「ずいぶん長い話になりますけど……」
俺は小さくため息をつくと、ゆっくり話し始めた。カーラジオではこの先が事故渋滞で当分混雑することを告げている。目的地に着くまでにはまだしばらくかかるだろう。
俺たちのロケット作りは、最初はちょっとした好奇心から始まった。
中学二年の夏休み。夏祭りの後、コンビニの出口にあるポストの上に置き去りにされ、にわか雨でびしょびしょに濡れた数本のロケット花火を発見した俺は、銀色の粉が流れ出しているのに気づいて何気なく手でほぐしてみた。しかし、分解してみてそれがあまりに単純な構造をしていることに驚いた。筒状の本体の中央には銀色の火薬が鉛筆の芯のように詰まっているだけ、それを巻いているのは中国語が印刷された単なる新聞紙。ただそれだけ。特別な技術は何もなかった。
これだったら自分でも作れそうな気がしてネット上で検索すると、火薬の成分は簡単に判明した。
その中で最も簡単なものを選び、薬局や肥料店で薬品を買いそろえる。最も苦労したのは意外に一番簡単に手に入りそうな炭素の粉。結局その時は適当なものが見つからず、近所のホームセンターで木炭とすり鉢を買い込んだところで安原に見つかったのだ。
「何してるの?」
背中から急に声をかけられ、俺は飛び上がらんばかりに驚いた。火薬の製造はやばいことらしいという罪悪感もあり、不自然にびくびくしていておかしかったらしい。そのころ安原は同じクラスで、顔くらいは覚えていたが直接話をしたことはなかった。
「何だ、安原かよ。何って……キャ、キャンプの準備だよ」
コバルトブルーのTシャツに膝丈のデニムパンツという少年のようないでたちの彼女は、その答えに首をかしげ、あからさまに疑わしい表情を浮かべる。
「木炭は判るけどさ、すり鉢を持ってキャンプ? 何それ?」
「別にいいだろ! 色々あるんだよ」
それ以上答えずにレジを抜け、駐輪場に停めてある自分の自転車に荷物をくくりつけていた俺は、追いついてきた安原に再び声をかけられる。
「古沢君、もしかして、火薬でも作ろうとしてるんじゃないの?」
俺はその瞬間にビクリと凍りついた。彼女が何を根拠にそう推理したのかは今でも判らない。
数秒の沈黙の後、壊れかけのロボットのようにあぎこちなく振り向いた俺は、得意そうな光を浮かべた彼女のアーモンド形の大きな瞳と対面することになる。だが、次の瞬間彼女の発した一言が俺たちのその後の運命を決定付けるようになるなんて事、その時は考えさえしなかった。
「ほら、やっぱりそうだ。ねえ古沢君、あなた物理部に入らない?」
それが安原との腐れ縁の始まりだった。終わりがあんなことにならなければ、美しい青春の思い出になったに違いない。だが、しかし……
「あ、この先を左にお願いします」
無言で俺の長話に聞き入っていた由佳嬢は、溝の口駅を越えたところで急に目が覚めたように姿勢を正して指を指す。言われるままにわき道にそれ、両側に真新しい建て売り住宅が並ぶうねうねとした道を登りきると、不意にぽっかりと視界がひらけた。車が十台ほど停められる駐車場の先に、市街地が一望できる小さな空き地が広がっている。
「この先車を停める所がありませんので、待ってもらえますか? すぐに戻りますので」
車を降りた彼女はスカートのしわを伸ばすようにしながら言う。
「え? かまいませんけど、よかったら目的地まで送りますよ。その後ここに戻ればいいんだし」
「……でも、階段だし、車ではちょっと」
「へえ、こんな所にどなたかお住まいですか? 車が入れないんじゃ不便ですよね」
「彼は車は使わないと思います。故人ですから」
「え?」
「この上に兄の墓があるんです」
「……」
どう答えればいいのかわからなかった。由佳嬢はそんな俺を見つめて小さくぺこりとお辞儀をすると、駐車場の脇から伸びる石段をパタパタと駆けるように登って行く。
俺はその場に取り残され、手持ち無沙汰のまま手すりに持たれて景色に見入るしかなかった。
眼下に平たく広がる市街地。そんな中、駅前の複合ビルがひときわ目立つ。その向こうにはきらきらと光る多摩川の流れ。日差しが一瞬かげり、どこかで鳥の鋭い鳴き声が響く。涼風が吹き抜け、石段の脇にある古木の葉がざわりと騒いだ。俺はなぜか唐突に胸騒ぎがして思わず振り返る。だが、目線の先にあるのはさっき登ってきた狭い道があるばかり。
気が付くと、あれほどうるさく鳴いていたアブラゼミの合唱はいつの間にかぴたりと止んでいた。
俺は吹き抜ける風に身を委ねながら、由佳嬢への一人語りの続きを自然と思い起こしていた。
二学期の始業式が終わると、安原は早速、問答無用で強引に俺を物理部室へ引きずっていった。物理教室の隣にある部室には、まだ暑い最中だというのに暗幕が引かれ、真っ暗な中で数台のディスプレイが怪しげに光を放っている。テーブルの上に散乱したコーラやアミノ酸飲料のペットボトルがその光を浴びてぼんやりと浮いて見え、何より耐え難いほどの蒸し暑さが部屋に充満していた。
「もうっ! またこんなに真っ暗にして!」
安原は頬を膨らませるとさっと暗幕を引きあけ、サッシを開け放った。それまで締め出されていた初秋の太陽とさわやかな風が室内にさっと射し込み、漂っていた蒸し暑くおどろおどろしい空気を一掃する。次いで彼女は巨大なポリ袋を取り出すと、テーブルの上を埋め尽くす空のペットボトルとスナック菓子の袋をだーっと一気に放り込む。それだけでもテーブルの上は見違えたようにすっきりとした。
「なんで真っ暗なの?」
「知らない。パソコン班の先輩たちはすぐこうやって部屋を閉め切っちゃうんだから。日の光を浴びたら溶けちゃうとでも思ってるんじゃないかな」
そう言いながら安原は満杯になったポリ袋の口を手早く縛ると部屋の隅に置き、続き部屋になっている物理準備室の扉をノックもなしに押し開く。
「せんせー! 入部希望者連れてきましたー あれ?」
準備室の真ん中には物理教師と実験助手の事務机が置かれ、部屋の片隅にはもうひとつ、何本もの丸めた紙が置かれ分厚いルーズリーフが広げられたままの小ぶりな作業台があった。すぐそばの窓枠におかれたポータブルラジオからは地元FM局の音楽番組が控えめな音量で流れていたが、ここにも人影はなかった。
「まだ来てないのかな。まあいいや」
彼女は勝手知ったるといった感じでつかつかと部屋に入り込み、部屋の隅の作業台の脇に丸椅子を二つ運ぶと俺を手招きした。
「いいのか? 勝手にこんな所に入り込んで」
「いいの。先生には許可もらってるもん。それよりこれ、見て!」
彼女はかたわらの巻紙をばさばさと開く。
「ふふーん。すごいでしょ」
彼女は得意そうに胸を張る。広げられたA2版の模造紙には、『安原弐式』とタイトルのついた精密な図面が紙一杯にびっしりと描かれていた。
「安原これ……もしかして?!」
「そう、ロケット。どう?古沢君も一緒にやろうよ?」
そう言う彼女の瞳には、口調とは裏腹になぜか不安そうな、少しさびしげな光が浮かんでいた。
今なら判る。あの時の彼女は、自分を理解してくれる存在を切実に求めていたのだ。
「お待たせしました」
どのくらい経ったのか、ぼんやりと景色を眺めていた俺はその声でわれに返った。
由佳嬢はそれ以上何も言わず俺の隣で手すりにもたれ、静かに夕日に照り映える市街地に目を向ける。俺はオレンジ色に染まる彼女を振り返り、まぶたが心もち腫れ、瞳が濡れているのに気づいた。
「今日は兄の命日だったんです」
「そうだったんですか」
再び沈黙が流れる。
「父が持ち出したあのロケットノズル、実はあの素材は兄が以前大学で研究を重ねていた素材なんです。あのころは父も兄の試作実験に付き合ってよく徹夜していました」
「……なるほど。あれほどのものがすんなり出てきたので驚きましたが、そういう事情があったんですね」
「でも、父は兄が死んだ後、研究の成果すべてを封印してしまいました。兄の所属していた大学の研究室から問い合わせがあった時も、父は頑として試作品やデータの提出を拒んだんです」
「それで大丈夫なんですか?」
「うちの内部で自主的に行った実験データや試作品を提供する義務はありません」
由佳嬢は固い口調で断言するように言う。
「それ以上に、父は兄のいた研究室が許せなかったんだと思います。兄は……」
それきり言葉をつぐんだ彼女は、思いを振り払うように大きく顔を振ると、不意に表情を和らげる。
「それより古沢さん、おなかがすいてませんか? こんな場所に付き合わせてしまったお詫びに私、おごります」
「え? 別に気にされることはないです」
「行きましょうよ。私この下においしい中華のお店知ってるんです。古沢さん好き嫌いありませんよね?」
「……ええ、まあ」
結局、俺は彼女に引きずられるように車に戻り、車内にこもった熱気を吹き飛ばそうとエアコンを全開にする。眼前に見下ろす街はすでに宵闇に沈み、ビルの明かりや行きかう車のヘッドライトが、まるで地上の星空のようにきらきらと輝きはじめていた。
「きれいですね。まるで星空みたい」
由佳嬢がつぶやく。
「古沢さんは、いつかあんな星の世界に行っちゃうんですね」
「え? ごめん、エアコンの音でよく聞こえなかった」
「あ、いえいえ、それより今は中華料理屋さん、ね」
そう言うと彼女はおどけたように大きく腕を振り「しゅっぱつしんこー!」と掛け声をかける。俺は苦笑しながら、しかしゆっくりと慎重にサイドブレーキを緩め、アクセルを踏み込んだ。
---To be continued---