マイラさんの休日
昼間っから酒場で酒を飲んで俺は荒れていた。
「なんだってンだクソが! あのガキが調子に乗りやがって!」
ドンとテーブルに酒瓶を叩きつける。
周りの連中が、呆れ半分面白半分で俺を宥めた。
「大体あんなガキのどこがいいってンだよマイラちゃんはよぉ!」
俺の愚痴に等しい怒声も、周りの喧騒にかき消され他のテーブルに届くことはない。
俺はぐるぐる回る視界に吐き気を催しながらも店員のおねえちゃんに追加の酒を注文した。
「前もそうだった! その前もそうだったんだ!」
ギルドのカウンターでマイラちゃんを誘おうとしたときだって、マイラちゃんは奴を見つけると、俺なんかいないもののように無視して奴に声をかけた。
このゼプツェン皇国で、いや、周辺各国含めても最大規模を誇るこのゼプツィールの冒険者ギルドで、一番人気を誇るマイラ嬢。
彼女を狙う冒険者は数知れず、そして多くの冒険者が突撃しては、その全てが無残にも散って行った。
冒険者仲間の間では、マイラ嬢は鋼鉄の女と呼ばれ、一時期は異性に興味がないとまで言われていたのだ。
それがどうだ、彼女がヤツを見る目は、他の冒険者とは明らかに異なっている。
誰だってわかる。あれは女の目だ。女が好きな男を欲し、求める目だ。
「クソっ! あんな青瓢箪のどこがいいってんだよ!」
自分が優秀な冒険者だとは思っていないが、それでもあのEだかDだかわからんランクの臆病者よりはマシだと思ってるし、稼いでると思う、
それなのに、ヤツと俺に向ける彼女の視線の温度差といったらどうだ。
「調子に乗りやがって……っ!」
この前の白星の日、たまたま外を歩いていたら、休日であったのだろうマイラ嬢が外をプラついていた。ギルドの制服姿を見慣れている俺にとってはえらく新鮮で、その透き通るような肌が眩しく光っているようにも思った。
俺は思わず声をかけようとした。すると、マイラ嬢は何かを見つけて目を輝かせる。不思議に思い、彼女の視線を追った先に、幼竜を頭に乗せたあの貧弱野郎が野菜を買おうとしていた。
すぐに駆け寄っていく彼女、右手を上げたまま取り残される俺。
納得が出来なかった。あんなタマもついてるかわからない女顔のヒョロ僧に、俺たちのアイドルが盗られると思うと我慢がならなかった。
俺は冒険者の理屈に従い、奴に直接痛い目見せてやろうとした時もあった。だかそのたびにブレットの野郎が青い顔をして、それだけはやめておけと俺に忠告をしたのだ。
怖気づきやがって!
あんな青二才の何に怯えてやがる。腰抜けどもが。
酒を飲んでいると曖昧な視界とは裏腹に、俺を馬鹿にする二人の声が聞こえてくるような気さえしていた。
俺の中に広がるドス黒い感情、もし俺があの潤んだ視線を受ける立場だったらと想像して腰のあたりから付き上がる痺れるような劣情。
俺は一人悪態をつくと立ち上がった。
やってやる、目にモノ見せてやる。冒険者の理屈に沿って、彼女を必ず俺のモノにしてやる!
確かに酒の力はあった。だがそれは、酒が入っていなかったとしても遅かれ早かれ抑えきれずに噴き出していたはずだ。
俺はテーブルに銀貨を投げ出し会計を済ませると店を出る。
今日は白星の日。斥候職の俺は、必要な情報はもうとっくに仕入れている。休日であるマイラ嬢は買い物以外にはあまり外出せず、彼女の弟はショボイ稽古のため、奴の教えを乞いに行っている。あんなニョーラに教えてもらったとしても何一つ役に立つわけがないが、今はそんなことは関係ない。
大事な事は、今彼女が家に一人でいるということなのだ。
幸い、俺は男で彼女は女だ、男が女に言う事を聞かせる方法などいくらでもある。何をやったってバレなきゃ問題など無い。
「へへへ…… ヒィヒィ言わせてやるぜっ!」
□□□□□□□□□
今日は白星の日、シフト上、私の休日だ。弟は今日も朝早くから家を飛び出していった。
普段ならゆっくりと気が済むまで寝て、昼過ぎから身だしなみを整えて買い物に行ったり、弟の訓練風景を遠くから監視したりしているのだが、今日は違った。
毎日起きる時間にきちんと起きて、日課である走り込みと体術の訓練で汗を流し、キッチリと水浴びで身を清めてから朝食をとる。
そして、普段はカギをかけ、弟には絶対に開けるなと言いつけてある私室で、背筋正しく椅子に腰かけて古文書を読み、再度水浴びをし、今は「ソレ」を手に2時間ほど瞑想に耽っている
おもむろに目を開いた。
ダメだ、全然ダメだ。
こんなんでは「ソレ」と向き合うには全然足りない。ソレをきちんと調査する為に、自身の全神経を研ぎ澄ませ最高の状態にもっていかなければ、到底その深みまでを知ることが出来ないのだ。
考えてみれば身の清め方も全然足りないように思えた。神聖で穢れ無き物体である「ソレ」と向き合うには神経だけではなく、体のほうも清く最高の状態を保たなければならないに決まってるではないか。
私は自身の愚かさと不甲斐無さを痛感した。
いや、落ち込むのは後だ。なによりも今は身を清めることを優先せねばならない。
私は服を脱ぎ、三度目の水浴びを開始する。体中隅々までゆっくり丹念に洗う。肌が赤くならない絶妙な力加減で全身くまなく磨きあげ、最後に数度水を被り深く息を吐いた。
「よしっ!」
頬を叩き気合を入れる。肌を滑る水滴を拭き、家着を着た。
普段ならここで弱めの柑橘とミントの混合香水を少量だけ振りかけるのだが、今日はそんなことはしない。神経を研ぎ澄ませている時に、それを邪魔するものを付けるなど愚の骨頂だ。
私は「ソレ」を掴むとベッドの上に正座した。
今から自分の感覚だけを頼りにソレを調査せねばならない。
冒険者ギルド・ゼプツェン支部ゼプツィール本部隠密工作班班長マイラ・レガースの名に懸けて任務は成功させなければならない。
数秒間目をつむり、深く深呼吸をして目を開ける。
そしておもむろに、ソレに顔を埋没させた。
す~~は~~~す~~~は~~~すぅ~~~~~~~~~っ
「きゃ~~っ!!!!! 有り得ない! 有り得ないですよぉぉ~~~~! すごい!イサオさんの…… イサオさんの匂いがすごいのおぉぉぉ~~~~っ!」
私はベッドの上を転がりまわった。そしてハッと気付く
マズイ! このままでは近所迷惑になってしまう! 落ち着かなければっ 深呼吸、深呼吸よマイラ!
社会的危機を感じた私は深呼吸をした。「ソレ」、イサオさんが忘れて行ったタオルに再度顔を埋没させて。
「おおふおおふおおぉぉ~~ぅふ! しゅごい……しゅごいのぉぉ! ああ! 何で、何でこんなにいい匂いするのぉ? 誰か知ってる人は!? 知らないよ! わたしこんなのし~り~ま~せ~ん~!」
私は再びベッドの上を転がりまわった。そして再度ハッと気付く
罠だ、これは罠だと思った。
深呼吸するたび、無意識的に顔を埋めてしまうので、自身を顧みて落ち着こうとするたびに天上へと至ってしまう。
「無限ループ……じゃないの……っ!」
ランクの高いダンジョンに行くと、そういったトラップ術式が仕掛けてある事があるという。
どんな屈強な戦士も偉大な魔法使いだって、前進も後退も出来ない無限回廊に放り込まれた時の恐怖は如何ほどのものか、解術出来ず、そのまま発狂したり餓死したりしてしまうことだって少なくないのだ。
このタオルにはそれと同等クラスの術式が仕込まれているらしかった。
なんて凶悪な罠だろう、私は戦慄に身を震わせ、あまりの恐ろしさに下半身をじんわりさせた。
「恐ろしい魔道具ね……」
私は忘れない様メモ帳に「タオルが魔道具」と書きこんだ。
それにしてもすごい威力だった。
先日、荷運びの依頼達成の手続きに来た彼が首に下げていたタオル。汗だくの彼が額を拭きながら手続きをしていたが、ふとした拍子にサイドボードに置き、そのまま忘れて行ってしまったのだ。
私は彼が離れた後、0.1秒でそれを確保し、同僚に「今度来た時渡してあげなきゃね」と微笑みながら、丁寧に畳んで密封袋に入れて、私のカバンに押し込んだ。
帰ってすぐに堪能……調査したかったのだが、きちんとコンディションを整える必要性を感じ、休日まで自室の机に飾っておいたのだ。もちろん直射日光に当てるなどというミスは侵さない。
そして今日、未だしっとり湿り気を感じるそのタオルは、密封され、数日間放置されたおかげで、口当たりも優しくまろやかに熟成されており、見た目、香り、味、共に極上の一品へと昇華され、私はそれに気圧される形で、昼過ぎに至るまでコンディションを整えていたのだ。
きっと顔は上気していると思う。呼吸は荒く、筋肉はギュウっと閉まり、内腿同士を擦り付けずにはいられない。
もう我慢など出来なかった。
私はタオルに顔を埋めてベッドに横たわり下半身に手を伸ば―――
―――ガチャガチャ
ドアノブを回す音が聞こえた。
明らかに他人の家とわかって入ろうとする者の所業だ。
そしてすぐにカギを開けようとする小さく金属が擦れる音が鳴る。
ウチのカギはそう簡単には開かない。私でも8秒かかるのだから上級の開錠技術が必要となる。
開けられずに諦めるならよし、開けて入ってくるもよし。私のやる事は何も変わらない。
私は丁寧にタオルをたたみ、密封袋に戻すとナイフを手に立ち上がった。
思い知らせねばなるまい。
巨大組織の隠密部隊精鋭の家に押し入ろうなどとする哀れな痴れ者に。
何よりこの私の至福のひと時を邪魔せんとする下種に、深く深く知らしめねばなるまい。
浮かべるは凶相
私は静かに行動を開始した。
☆☆☆☆☆☆☆☆
―――カシャン
ようやくカギが開いた感触が手のひらに伝わってきた。
確かに普通よりもいいアパートだ。一般区には珍しく上下水道も設置されている物件に違いない。
しかしこのカギの開錠難度は異常だ。もしかすると上級クラスの腕が必要なのではないか、開いたのは半分運もあるだろうが、斥候職である俺も面目躍如といったところか。
若く綺麗な女が暮らしているということもあって物盗りや強盗を警戒しているのだろう。
いい心がけだが俺には通用しない。
歩いてここまで来て、カギ開けに集中したおかげですっかり酒は抜け、頭もすっきりしていた。
力ずくでやってやる、腰が抜けるほど犯してやる。脅してこの先何度も何度も味わってやる。そのうちに俺無しではいられない体にしてやるんだ。
俺は頬を釣り上げながらドアを開け中に入った。
神経を集中させ気配を伺うが、何故か人の気配がしない。どこかに出かけてしまったのだろうか。
まあいい、色々物色し、少しでも脅すのに有利な材料を探して待っていればそのうち帰ってくるだろう。
広めの廊下を進むとリビングに出る。高級感は無いが、しっかりとした家具が配置され、綺麗に片付けられていた。正面を見ると、半開きのドアの向こうに殺風景な部屋がある。小さめの剣や防具がちょこんと置かれているので、一緒に暮らしているガキのものだろう。
右手にもドアがあった。俺はそのドアまで歩くと無造作に開ける。
ふわんと石鹸の香りが漂う、大人の女性の部屋がそこにあった。やはり人の気配はしない。
俺が物色しようと棚に手をかけた時、棚がす~っと横にずれた。そして横開きタイプの戸が現れる。
「隠し部屋か……?」
隠し部屋と呼ぶにはあまりにあっさりとした仕掛けだが、奥に部屋があることは間違いない。そして普通の人間なら、そちらに大事なものを置くはずだ。
俺は迷わず引き戸を開け中に入ると一瞬だけ怯んだ。珍しく窓の無いタイプの部屋で真っ暗だ。角度の関係で入口から入る光もごく僅かなので、中がよく見えない。
だから俺は部屋の中ほどまで進んで、冒険者なら基本中の基本の光源魔法を使い室内を照らした。
「―――っ!!!」
えっ?
最初に来たのは困惑。何がどうなっているかを理解することが出来なかった。
次に、その状況を理解した時、やって来たのは絶句。ただただ呆然と口をあけることしか出来ない
そして今感じているのは、肌がヒリつくような「恐怖」だった。
俺は一瞬眩暈に襲われ、ガラにもなく呻き声を上げる。
長方形の広めの部屋、家具はシンプルな机がぽつんと奥に置かれているだけで他には何もない
それだけならば驚くことなど何もない。こんなに狼狽したりはしない。だが……
「何だ…… 何だこれはっ!!」
俺は思わず一歩後退る。
壁という壁、天井という天上に張り付けられた無数の紙。肌が見える壁なんて無い。全てが紙で覆い尽くされている。
それはもうこだわりとか趣味とか、そんな言葉では片付けられなかった。
妄執だ。狂気と言ったっていい。
そう、全て、それら膨大な数の紙全てに、とある人物が描かれていたのだ。
そいつは、そいつの名は……
「……見ましたね?」
「ひぃっ!」
思わず固まった。
一体なぜだ、人の気配なんか感じなかった! 玄関のドアを開ける音どころか、物音ひとつ聞こえなかったぞ!
どこに潜んでいたんだこの女はっ!
俺はギギギと油の切れた馬車軸のようにゆっくりと振り返る。
この部屋の入口、そこには、
ギルドのアイドルが微笑みを浮かべ佇んでいた。
「い、いや……これは、何が―――」
「イサオさんですよ。そう、私の愛しい運命の人です……」
俺は恐怖に固まり視線だけで彼女の顔を見る。そして背中に氷をぶち込まれたかのような感覚に陥った。
目だ。
パッと見、柔らかな笑みを浮かべる彼女の目が、完全にイッていた。
「だ、誰だ……一体、お前は誰だ……?」
この目の前の女は一体誰だ。
少なくとも絶対に俺の知っているマイラ嬢ではない。マイラ嬢の形をした何かだ。マイラ嬢の声を発する何かだ。
するとその女が、「くしゃっ」と凄惨に顔を歪めた。
「あら、マイラですよ、覚えられていないのは悲しいですドルトンさん」
「し、知らないっ! 俺は知らないっ!」
思わず声を上げた。何なんだよ一体…… 本当に一体何がどうなってるんだよクソが……っ!
だって俺は本当に知らない、なんだこれは…… 怖い、ただひたすら怖い……
ちくしょう! 俺は知らねえ! こんな、こんな……
「俺はっ! 俺はそんなグロテスクな笑顔をする女は知らねえっ!」
いつの間にか歯がカチカチ鳴り出す。膝が笑って動けそうにない。
するとマイラを名乗る女がゆっくりとこちらに近づいてくる。そして俺など眼中にないとでもいうように通り過ぎると、奥の机のところまで進んだ。
今、入口は塞がれていない。
逃げるなら今しかない。そう思って逃走を試みた時、再度俺は目を剥く。
「無駄ですよ『影縫い』です。動けないと思いますよ?」
じょ、冗談だろ……?
影縫いなんて、高位の隠密職でもなかなか使えない上級スキルじゃねえか! どこの世界にそんな高位技術を取得してる受付嬢がいるってんだ!
いよいよ恐慌に陥った俺、なりふり構わず這ってでも逃げようとするが、体がピクリとも動かない。ランクBの斥候職である俺がだ!
「すごいでしょ? この色んなイサオさんの絵。これね、実は古代魔法を使って保存した写実像なんです。あまりに欲しい機能だったから勉強して使えるようになったんですよ!」
勉強して出来るはずねえだろうが!
失われているから「ロスト・ワード」って呼ばれてるんだよ! そんなこともわかんねえのかクソったれが! ふざけんじゃねえ!
「いい部屋でしょう? コツコツ集めたんですよ。これなんかカッコいいと思いませんか? 緑地公園でホームレスの人たちが襲撃された時に怒り狂ったイサオさんの横顔です。私、彼があんな顔をするなんて思いもしませんでしたよ! 実行犯全員を殴り飛ばして捕まえたんです。あの晩はすごかったですよぉ、何回も、何回も何回も何回も何回も何回もイキました。ああ、あの日の事を思い出すと私……私はっ!」
何を言ってるんだこの女は
陶然と蕩けた顔で股を弄る姿は異常としか言いようがない。
「それにね、見て下さいよ、私の宝物なんです。そうですね、例えばこの皮手袋」
女は机に置かれた手袋を手に取った。そしてうっとりとした表情で手袋に頬ずりをする。
「イサオさんの匂いがすっごく、すうっっっっごく、染み込んでるんだぁぁああぇえぇぇへへへへぇっぇ~~」
俺にはもう選択肢は残されていなかった。
「た、頼む…… 助けてくれ! このことは絶対に喋らない! 神に誓ったっていい! だから助け―――」
「ダメですよォ」
女がまたぐちゃっと醜悪な笑みを浮かべて語り出す。
「これを見た人はね、基本的には殺すんです。だけどドルトンさんは運がいいですよ! 短時間でウチのカギを開ける高い斥候技術、そろそろもう一人「草」が欲しいって思ってたんですよぉ!」
女はいつの間にか持っていた小さめのカバンをカパッと開ける。
中に見えるのは、用途を想像するのも悍ましい、禍々しい怨念を放つ道具の数々。
「や、やめてくれ……! おね、お願いだ……!! 頼むからやめ―――」
「さあ、行きましょう、もう一部屋借りてあるんですよ!」
「~~っ!!」
女が一歩一歩ゆっくりと近づいてくる。そして、しゅるっと俺の影を掴むと爽やかに言った。
「大丈夫です、痛いのは最初だけですから! そのうち泣いて続きを乞うようになりますよ! だってそう躾けますからっ!」
ぐるんと反転する視界、
どれくらい時間がたったのかわからないが目が覚めた時、
俺は寝台に乗せられ全身を拘束されていた。
あたりを見回す余裕なんてあるわけない。
俺の足元から立ち上る湯気、今やっと気付いた。俺は無様にも失禁してしまっていたのだ。
何に使うかもわからない器具を手に、にこやかに笑うマイラちゃんに似た化け物
「や……やめ……っ」
―――クチャッ
「あああぁぁぁぁぁあああああああ~~~っ!」
絶叫、絶叫、絶叫
そして……
☆☆☆☆☆☆
商店街を歩いていたら彼を発見した。
やっぱり私とイサオさんは運命の糸で結ばれてるのかしら!?
私はすぐに駆け寄って声をかけた。
「あ、イサオさんこんにちは! 今日は一人でどうしたんです?」
「あ、マイラさんこんにちは、今日はノリちゃんが霊泉に行ってて、今から公園でちんまい弟子の稽古っす。マイラさんはどうしたんすか?」
彼はドットが私の弟だということをまだ知らない。
弟を助けてもらったあの日、お礼を言いそびれて、あれよあれよという間にその話を持ち出すにはあまりにも時間が経ちすぎてしまっていた。今言い出したところで、恩人にお礼も出来ない失礼でイヤな女で話が終わってしまうだろう。
嘘で塗り固められた関係だとしても、それだけは耐えられそうにない。
いつもふとした拍子に考えてしまう。あの時、あんなバカな私ではなく、今の私だったらきっと彼との関係も変わっていたんだろうな、と。
私は少しだけ胸が痛くなり下を向いた。
「どしたの? 体調悪いの?」
いつも優しい彼
「い、いや、違いますよ! あの、そう! ちょっとウチのペットが家を汚しちゃって、掃除するための布を買いに来てたんですよ! もう大変ですよ!」
何とかごまかそうとする私に彼が言った。
「へぇ~ 大変すねえ。夕方でよければ手伝おうか?」
「ええ! そ、それって……」
来る、イサオさんがウチに来る!?
ど、どうしよう、台所は片付けきっていないし、部屋にはイサオさんのタオルが置きっぱなしだし、何より夕方になったらドットが帰ってきてしまう!
その前に何とかなるだろうか、いや、それより今、汚物の匂いがついたりしていないだろうか、新たな「草」が調教の過程で盛大にお漏らしをしてしまったので心配だ。
どうしよう、招きたい、でも色々問題があるかもしれない。
私はテンパっておもわず上目使いで彼に問いかけてしまう。
「あの……ウチに来たいの……?」
「え、あ、ああ! いや! そういうことではなくっ! て、手伝いが必要ならって思って!」
目に見えて狼狽える愛しい人。
それを見たら少しだけ満足した。ホントに可愛いんだからっ!
彼はそこらを歩いている冒険者とは全く違う。優しいし可愛いし何より純粋だ。
「ふふふ、そういうことにしておいてあげますっ! でもイサオさんならいつでも来ていいですよ!」
その言葉だけで彼の容量はいっぱいいっぱいのようだった。
顔を真っ赤にしながら「じゃあまた明日!」と逃げるように去っていく彼。
私はその後ろ姿を、見えなくなるまでずっと見つめていた。
幼くして両親を亡くし、弟を育てるため、死んだ方がマシと思えるような過酷な訓練を経て技能を身に着け、やっと贅沢は出来なくともお金には困らない生活を手に入れた。
彼はきっと立派な親御さんに育てられたんだろうと思う。私のような地の底を這いまわるような生活などしたことも無いに違いない。
そんな彼が、こんな私の過去を知ったらどう思うだろうか、何て言うだろうか。
「馬鹿ね」 そう呟いて軽く笑う。
ニカッと笑って「大変だったんだねー」とか、そんなようなことを言ってくれるに決まっている。
それが彼だ。そんな彼だから好きになってしまったのだ。
自分でも制御できない狂おしいほどの激情、自分にこんな熱くドロドロしたものが眠っているなんて想像もしたことが無かった。
こんなにもドキドキして、自分がどうなっても彼には笑ってほしいなんて、そんな陳腐な自己犠牲精神に目覚めるなんて思いもしなかった。
私は一瞬だけ目をつぶると、「よしっ」と気合を入れて歩き出す。
私にはまだ仕事が残っている。
最近彼の周りを、隙あらば殺せと言われているに違いない気配を持った連中が常にうろついている。
彼がどんな背景を持っていて、どんな力を持っているか私はほとんど知らない。だけど、半端ではなく大きなものを背負い、大きな流れに巻き込まれようとしていることはよくわかる。
一体彼が何をしたというのだろう、あの彼が過去、誰かを泣かせるような、そんな卑劣なことをしたというのか。
私は認めない。彼が彼である限り私は絶対に認めない。
だから私は静かに戦うことを決めた。彼は知らなくていい。彼はただ笑ってくれていればそれでいい。
私には私にしかできないことがあるはずだ。どれだけ汚くても、醜くても、彼のためならば、きっとそれが今私がやるべきことだ。
それでいい、今はそれでいいのだ。
でも、私は思う。
私は私で手に入れて見せる。
私は隠密職、どんな堅牢な砦にだって忍び込んで見せる、欲しいものはどうやっても手に入れる、気付かぬうちに奪って見せる。それが私、マイラ・レガースだ。
だから、そうきっといつか……
「絶対に好きって言わせますよ! イサオさんっ!」