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異世界最強は大家さんでした  作者: つよぐち2号
54/59

大家さんの家賃回収記①

彼女の朝は早い。

 まだ太陽も昇らぬ薄暗い朝月夜、いつもの時間にむくりと布団から身を起こす。もちろん二度寝などはありえない。

 洗顔、歯磨きを済ませたら、人影も無い薄闇の中、通りに出て準備体操だ。それが終わるころにようやく小鳥が姦しく朝の到来を告げ、数十万の人口を抱えるこの街は起き始める。

 

「はぁ~ すっかり冬だねぇ」


 冬の空気に吐息が白く煙った。ゼプツィールは比較的温暖な気候だといっても、1月の冷気を押しのけるほどの南国ではない。

 今日も寒くなりそうだと思い切り伸びをすると、いつもこの時間に店へと向かう肉屋の主人カイルが彼女を認めて手を上げた。


「お、ばあさん、今日も早いねえ。凍え死なんように気をつけろよ!」

「はんっ! 相変わらず口の減らないガキだ。アンタこそ女房の尻で怪我しないように気をつけなァっ!」


 彼女の朝が早いのと同様、商売人たちの朝もまた早い。

 仕入れ、仕込み、掃除、準備。

 開店までにしなければならないことは山ほどある。この街の人気店ともなればなおさらだ。


「あ、大家さんおはようございます。朝一パンが焼き上がりましたよ。いつものやつ、ご用意しておきますか?」

「ああ、よろしくねぇ。そう言えば頼まれてた豆の仕入れ、安い問屋を見つけたよ。今度紹介してやるからねぇ」

「本当ですか!? 助かります! 大家さんに教えてもらった「あんぱん」。注文が多くなり過ぎてどうしようかと思ってなんですよ!」

「そんなのいいンだよ。お前さんトコに卸してるって言ったら問屋のほうも鼻が高いってもんだ」


 そんなやり取りをしながらアパートに戻ろうとすると、ベランダの前で半裸の大男が頭を抱えて唸っていた。何をやっているのだと近づいていくと、何やらブツブツ呟いている。


「くっ! 何度見ても……っ 何度見てもBB――― 大家のパンツが神々しい……っ 間違いだっ 何かの間違いなのだっ! あの皺くちゃBBAさんがこれほどの逸品を保持しているなど……はっ 殺気っ 誰だ!? なっ 大家さんっ こんなところで何をっ!?」

「そりゃこっちの台詞だよ相変わらず失礼なガキだねっ! そンなことよりアンタ、また女性部に突き出されたんじゃなかったのかい?」


 大男が誰のかわからない女性下着を握りしめながら熱弁を振るう。


「ふんっ! オパンティーナ様の使徒たるこの私を縛ることなど、ましてや我が神棒をちょん切ろうなど出来るはずがなかろうっ 素人の裁ちバサミ如き敵ではないわっ!」

「まあ、あたしゃは家賃さえ払ってくれるんなら文句無いけどねぇ、もし性別変わっちまったらちゃんと報告すんだよ。手続きってモンがあンだからね」

「ふはっ 大家よ、要らぬ心配だっ そんなことより聞き給えっ 非常に遺憾な事実が判明したのだっ! 最近越してきた金髪の娘…… あろうことか男物のパンツを着用しているのだっ くっ 許し難き蛮行っ!」

「ンなこた知らんわっ!! 朝っぱらから近所迷惑なヤツだね!」


 朝っぱらから暑苦しい筋肉ポーズで憤りを表現する大男。構ってられないとばかりにため息をついて、彼女はアパートに戻る。

 すると非常に珍しい事に、早朝だというのに2階から頼りなさそうな優男と幼竜が下りてくる。優男は眠そうに欠伸などしているが、幼竜の方は元気いっぱいだ。


「あ! おーやばーちゃ! おはよーございますっ!」

「ふぁ~ おはようござい―――げっ ババァッ!」

「はいよ、おはようさんノリ。よしよし相変わらずアンタはめんこいねぇ~ それに比べて何だいアンタは。シャキっとしなっ!」

「きょ、今日はまだ家賃の日じゃないでしょ! 驚かさないで下さいよ人騒がせなっ!」

「アンタが勝手に驚いてるンだろうさ!」


 早朝の依頼を受けたのだろう優男は、ブツブツ言いながら幼竜と共に街へと消えていく。

 彼らの後姿を目を細めて見送ってしまうのは感傷だけが理由ではない。彼女には遥か昔、大事な人と交わした『約束』があった。

 

「ま、今更アタシがしゃしゃり出るのも筋違いってモンか」


 自嘲気味に呟いた彼女は今度こそ自宅に戻る。

 台所に立ち、コンロで湯を沸かす。朝の体操の後、熱いお茶を飲むのは日課である。

 実はこの世界の人間は誰でも大なり小なり魔力を持っているものなのだが、彼女にはそれが無かった。『少ない』のではなく、皆無なのだ。

 誰しもが魔力を持っているという前提で設計された生活空間は、彼女にとっては決して便利なものではない。

 今お湯を沸かしているコンロも特注で、魔石の粉末を燃料として起動する仕様となっており、毎月の魔石代は一般的な収入では決して賄えない程高額であった。


 お湯を沸かしている間に、仏壇の前で手を合わせる。写真も人物画も何も無く、木彫りの観音様だけが祀られた簡素なものであるが、それでも彼女はこの時間と仏壇を大事にしている。


 お湯が沸いたのでお茶を湯飲みに淹れてちゃぶ台の前に座った。

 決して安くは無い手帳をパラパラ捲りながらお茶をすすり、ホウっと一息。


「今日は…… 北地区か。治安が悪いから何も無いといいねぇ……」


 お茶を飲み終わると、彼女はパタンと手帳を閉じて玄関に向かい―――思い出したよう部屋に戻って仏壇へと視線を向けた


「それじゃ行ってきます」







◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇ 

 






「あ、大家さんおはようございます。野菜どうですか? 今日も新鮮なのが入ってますよ?」

「ああ、帰りに寄ってくよ」



「あっ 大家だ。今度旅料理教えてくれるって言ってたのにいつ教えてくれんだよ~ 俺来年には冒険に出るぞ」 

「あたしゃアンタみたいにヒマしてないんだよ。教えてやるから黙って待っときなァ!」

「ちょ、ドット! そんなのあたし初耳よ! 料理ならあたしが教えてあげるって言ったじゃないっ!」



「おおっとBBAさんチワッス~ マジ丁度いいトコロ来たっつーかマジ奇遇じゃね? 超運命! マジ運命! つかオレマジちょっとリハビリ兼ねて遠征行っちゃう系で~ 家賃マジ今受け取って欲しいっつーか~」

「ああん? アンタはキッチリしてるからいいよ。来月行くからそン時2か月分払いなァ」

「え、マジっ BBAさん超女神。マジ超女神だから」



「い、イサオ様とノリ様のアパートの大家様……っ 今日もお美しい……」

「あん? なんだいアンタ?」

  

 


 街を歩いていると大勢の者が彼女に声をかける。それはまるで彼女を知らぬ者はいないと言わんばかりの光景だ。

 道行く度に湧き出す会話を、彼女は歩みを止めることなく、器用に捌きつつ最短ルートで今日の目的地へと向かう。

 ゼプツィールは端から端まで20キロにも及ぶ巨大都市だ。ただ闇雲に歩いていたのでは目的地に着くだけで日が暮れる。

 しかし彼女はその見た目からは想像もつかないほど速いスピードで歩き、人目の少ない場所で『縮地』を多用しながら1時間もしないうちに北地区へとたどり着いた。彼女が年配の女性であることを差し引いたとしてもとんでもないスピードである。

 そして今、彼女は店舗兼住居となっているとある建物を見上げて呟いた。

 

「今日はここが1件目かい」


 そもそも何をしに南地区在住の彼女がここまでやってきたのか。

 それは今更言うまでもないだろう。 


「あ、大家さん、家賃今日でしたっけ? ちょっと待っててくださいね」 


 家賃の回収である。

 月初は西地区。半ばにかけて東地区を廻り、北地区の回収を済ませた後の月末に地元である南地区の戸を叩くというのが彼女のひと月の流れであった。

 そして今日は今月初の北地区廻りで、住宅ではなくテナントの家賃回収が中心である。

 店の店主らしき髭面の男が小走りで居住スペースへと駆け込み、硬貨が入った袋を片手に外へ出てくる。


「ひーふーみー…… はいよ、確かに198,000ギル。判を押すから領収簿よこしな」

「ははは。いや、もうそれはいいですよ。あなたが言いがかりなんてつける人じゃないってことわかってますんで」

「そうかい。じゃあ来月また来るよ」

「治安があんまり良くないのでお気をつけて下さいね」


 彼女は「ご心配ありがとさん」とばかりにヒラヒラと手を振る。

 この辺の治安が良くない事には理由がある。北地区は北東の隅に無法地区(ノーランド)があるのだ。

 一言で言うと、この街で後ろ暗い者が行き着く吹き溜まりである。そこは文字通り法が通用しない。住民達は法を守らない替わりに法に守られない。

 三興国と呼ばれる、この街の裏を牛耳る地下組織ですら手を拱くその地区は、裏の道理すら通らぬゼプツィールきっての危険地帯だ。

 「悪い事すると無法地区(ノーランド)に置いていくぞ」という叱り文句は、やんちゃな子供の親の定番の一つとなっているほどだ。


 そんな危険地帯が近くにあるためか、北地区は昔から治安が悪いと言われていた。

 もっとも実は他の要素も多分にある。

 北門は北の蛮族防衛の要とされ、ゼプツィールでは珍しい対人部隊や、傭兵たちの要所となっている。彼らの気質は総じて荒く、街で問題を起こすことも度々報告されていた。

 また国の予算も資源も、経済的要所である南から投入されることが多く、北に人的リソースを投入するのが後回しにされがちという、この街特有の事情がもある。そしてそれは去年夏の魔獣大侵攻以降、色濃くなってきていた。

 

 しかし、それらの事情全てを知ったうえで彼女に気負いや怯えは無い。

 どちらかというと別の懸念があるらしく、彼女は次の店子はどこかと手帳を捲り「う~ん」と軽く唸った。

 

「ありゃりゃ 次はダリアのトコかい。困ったね……」


 そんな独り言を呟いていると、次の目的のテナントが見えてくる。ここも店舗兼住居という2階建ての建物だ。

 すると、誰かが彼女が来たことを先回りして知らせたのだろうか。目的のテナントから男が飛び出してきて彼女に駆け寄ってくる。

 男は幾分強張らせた顔を青ざめさせ、今にも土下座せんばかりに頭を下げた。


「すんません大家さん! ウチのが、実は、今月も……っ」

「あー やっぱりねぇ……」


 想像通りの展開になった事に、彼女はどこか困ったように顔を顰める。

 今目の前で頭を下げている男は飲み屋を経営しており、安くて美味しいとすこぶる評判の良いその店の名は南地区在住の彼女の耳にも届くほどである。

 薄利多売な営業形態であるため店はいつも忙しく、夫婦二人でなんとか切り盛りしていた。

 

 そんな中、先月、妻であるダリアの出産のため、店は半月ほど休業。店を開けねば収入が在るはずも無く、男は先月、何とか家賃を来月にして欲しいと彼女に頭を下げたばかりだった。

 翌月に2か月分の家賃を支払うのは確かに苦しいが、夫一人でも手の回る範囲で客を入れれば何とか家賃を払えるという計算があったのだろう。

 しかし今月。男は再び彼女の前で頭を下げていた。そして実はその理由を彼女は知っていた。


「産後の肥立ちがどうにもならなくて……お金も借りてて…… もしかしたら来月も再来月も…… 大家さんっ! 店を失うわけにはいかないんだっ! 絶対何とかしますからっ! どうか、どうかもう少しだけ時間をっ! お願いしますっ!」


 ダリアが出産直後から体調を崩し、未だベッドから起き上がれない状態らしいのだ。評判の店が休業を続けているのだから、オーナーである彼女の耳にも当然情報は入る。

 魔法や魔法薬が堂々と存在する世界においても出産は命がけだ。腹の中、どんなリスクを抱えているかも知らないまま、女たちは出産という大仕事に挑まなくてはならない。そしてその結果、思いの外体力を消耗した母が病床に伏せる事もまた、決して珍しくない現実でもあった。

 

 ただでさえ目の回るような忙しい店を夫婦二人で切り盛りしていた所に妻は倒れた。それでも無事生まれた赤ん坊は、何も出来ずとも逞しく生きようとする。ミルクを飲ませねば死んでしまうし、下の世話をしなければ延々と泣き続ける。それを病床の妻に押し付ける事は出来なかった。

 そして店を開けることが出来ないまま、さらに一月が経った。つきっきりで妻を看病しながら赤ん坊の面倒を見ているというのだから当然である。


 しかし出ていくものは出ていってしまう。どうしたって先立つものがあるのだからこれもまた当然の帰結。

 結果、借金してまで今の現状を引き延ばして喘いでいる男が、再び彼女の前で頭を下げる事となった。


 男にとって店とは城だ。数10坪しかなくともそこは彼にとっての王国である。

 店を失った男がその先どうなってしまうのか。また店を開けばいいではないかと軽く言えるほど簡単な事では無い。

 一つの幸せな家庭が壊れるには十分すぎる事情だった。


「といってもねぇ。払ってもらうモンは払ってもらわないとねぇ」

「大家さん! 何でもします! 本当に何でもしますからっ! 私は家族を、初めての……息子なんだ……っ 何卒っ 何卒っ!」


 おそらくこの男は彼女の評判を知っているのだろう。

 その女、守銭奴。その強さ鬼神の如く。

 家賃を踏み倒す者には一切の情け容赦も無く、あらゆる手段を以って回収を実現する。

 闇討ちなどしようものなら、骨の髄まで恐怖を刷り込み完膚なきまで叩き潰す。

 彼女に潰された組織は数え切れず、最後に泣いて赦しを乞いながら家賃を差し出した悪党に向かって言うキメ台詞は「最初から大人しく払っときなァ!」である。

 この世界最強の大家さんと噂される女傑。それが彼女、タエコ・キリサキ・レーヴァンテインであった。


 何事かと出てきた近所の住民の面前で、すでに男は土下座していた。

 声を震わせ恥も外聞も全てをかなぐり捨てて。

 地面に額を擦りつけ、一分たりとも視線を上げることなく。

  


「あたしが巷で何て言われているか、知ってるだろう?」

「~~っ!」


 ビクリと男が体を震わせる。その背中には絶望感すら漂い、緊張のあまり軽くえづいてさえいる。

 彼女は炉端の石ころでも見るような目つきで男を見下ろす。

 場所貸しは慈善事業ではない。そして彼女は大家だ。家賃を回収する権利がある。払えないというのならば、何が起ころうともそれは払えない方が悪いのだ。

 これは男が悪い。諦めて然るべきなのだ。法も道理も全てが彼女にある。それが経済。それが社会。世界はそうして回っている。


 だから、彼女は冷酷に頬を釣り上げ、鼻を鳴らして吐き捨てたのだ。


「2割だね」

「……………………え?」


 意味が分からず顔を上げた男に彼女は不敵に言い放つ。


「2割って言ったんだよ。聞こえなかったかい? 家賃は半年待ってやる。借金するならあたしに借りなァ。利息は年利2割。嫁さんとガキが落ち着いたら馬車馬みたいに働きなっ! 踏み倒したら承知しないよ!」


 何を言われたのかわからないといった風に呆けた顔の男。

 数舜ののち、男の目にブワッと涙が吹き上がる。



「お、大家、ざん゛…… わ、わだじは…… おお、おおぉぉ……」



 そして男は泣き崩れた。

 彼女はそんな男を見て、忌々しいとばかりに舌打ち一つ。

 男に背を向け、さっさと歩き出した彼女は捨て台詞のように言い放った。



「大の男が泣いてんじゃないよみっともないね! ンなヒマあったら看病の一つでもしてやんなっ!」






◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇





「大家さん、お体に気をつけてくださいよ。外は寒いんで」

「あたしゃ丈夫だけが取り柄だからね。まあありがとさんよ」


 太陽はとっくに中天を過ぎ、沈みこむための助走を始めている。

 多くの魔獣や蛮族の前に立ちはだかって来た雄大な城壁も、この季節の空っ風の前では白旗を上げざるを得ない。

 

「はあ、寒くなって来たねえ……」


 大家は店子の店を出て、ホウっと息を吐きながら両手を擦り合わせた。 

 この時期、街からは浮浪者達が目に見えて少なくなる。

 冬眠でもしていたのかと首を傾げたくなるほど彼等は路上から姿を消し、春が訪れ忘れかけた頃にまた現れるのだ。

 比較的温暖な気候に恵まれているといっても、着の身着のまま路上で過ごせるほど冬は甘くない。

 乾いた冷気が容赦なく体から熱を奪い、キンキンに冷やされた石畳がピンポイントで追い打ちをかける。自然と言うある意味神にも等しい巨大な脅威の前で、たかだか人間が丸腰で立ち向かう事など出来るはずが無いのだ。

 きっと目につかないどこかに寒さを凌げる場所があり、彼等はじっとそこで息を潜めているのだろう。あながち冬眠という表現も間違っていないのかもしれない。

 

「寒いのは苦手だよまったく……」


 大家はどうしようもなく冬が嫌いだ。そしてどうしようもなく好きでもある。

 虫食いだらけの曖昧な記憶を俯瞰して後ろを振り返った時、目に飛び込む鮮烈な光景はいつも冬。

 吐く息が白く濁るこの季節になると、どうしても若りし頃の出来事を思い出してしまう。

 大家は苦笑しながらゆっくりと首を振った。


「歳をとったねえ…… まあいいさ。次で最期だね」

 

 そう呟いて彼女は歩き始めた。

 今日は北地区のテナントを中心に周り、既に20件ほどの集金を終えた。途中、ちょっとしたトラブルがあったものの、それ以降は至ってスムーズな家賃回収である。

 この調子だと夕方までには帰れそうだねえと独りごちながら、店の準備を始めた飲み屋街を歩く。

 早く帰れるとわかったら出来るだけ早く帰りたくなってしまうものだ。

 目的地は少し遠い。この通りを抜け、さらに20分ほど歩いた場所にあるが、この街を知り尽くしている彼女は裏道を通れば更に時間を短縮できることを知っていた。

 いつもなら裏道は通らない。治安の良くない北地区でさらに日が当たらない裏道では何が起こるかわからない上に、この辺には三興国の一つ、【簪】のアジトがあり、ロクでもない連中が屯していることが多いからだ。

 とはいっても【天拳】とまで謳われた彼女にとってゴロツキどもの狼藉が怖い訳ではない。ただ面倒なだけだった。

 

「ちょっと近道してこうかねぇ」


 気分である。早く帰ってゆっくりお茶を飲みたいとか、その程度の気分で彼女は路地裏に入った。

 勿論、思い出すのも馬鹿馬鹿しくなるほどこの地区に訪れている彼女にとって初めての出来事では無かった。この道も何度か通ったことがあり、何度かゴロツキ共をシバき倒しているからか彼女に絡んでくる者はいない。

 木箱に腰かけた屈強な男が、獲物が来たぜとばかりに腰を浮かしかけて固まった。


「おやおや、今日もなんかあたしに用かい?」

「す、すすすすすすいませんっしたぁっ!!」


 裏道のさらに路地裏から、一切の歯が無い不気味な男がユラリと現れて、そして出て来た時と同じようにユラリと路地裏に消えた。


「歯は生えてきたのかい? 入れ歯作んならトイチで貸してやるよ」

「ふぉ、ふぉんふぁふぉふぉ」


 その所業、悪鬼の如く。

 彼女はまさに王であった。

 そして王たる彼女はもちろん追い打ちも忘れない。


「何言ってんのかわかんないよ!」


 路地裏の影から聞こえる啜り泣きを気にすることも無く彼女は進む。

 途中、何度か似たような出来事があったが、誰一人大家にちょっかいをかけることなく、男たちは消えるか蹲るか土下座するかを選択した。壁に額を当ててブツブツ呟くという奇抜な対応をした者もいたが、とにかく何も起こらなかった。

 そして裏道ももう少しで抜けるという時、すぐ目の前の路地裏から木箱をひっくり返したような派手な音が鳴り響いた。

 

「てめえ! 新入りのくせに何だそのクチの訊き方は! えぇ!? 使いっぱしりも出来ねぇクセにナメてんのか!」

「う―――っ!」


 更に何かがブチ撒けられる音と、人が倒れ込む音。

 そして肉が肉を打つ鈍い音が路地裏に響く。

 大家はため息をついた。そのため息に「助けなきゃいけないねえ」という意味は込められていない。ただ鬱陶しいと思っただけ。

 どこかの新入りがヘマして彼等の流儀通りに指導がされているだけに過ぎない。

 日常茶飯事である。

 ここは煌びやかな表通りではない。腐敗と暴力が蔓延る裏も裏、三興国のテリトリーである。

 ゴミ置き場でゴミ拾いをする馬鹿がいないように、ここで善を説く阿呆もまたいないのだ。


 大家は全く興味すら向けずに前を見たまま路地裏に差し掛かる。

 無視するわけではない。見なかった事にするわけでも聞かなかった事にするわけでもない。

 何も無かった。

 それがごく一般的な正しい認識である。そう、こんな声が聞こえなければ。


「使えねえガキだ! ママのおっぱいでもしゃぶってろ――――よっ!」

「あぁ――――っ」


 ドカリと何かを蹴る音。そして大人というにはキーが高過ぎる悲鳴。

 大家がピタリと足を止める。


「何だその眼は……おぉ!? 顔がいいからって調子に乗りやがって…… もっと教育が必要みてえだなぁ……」


 日も当らない狭い路地にゴミが散乱し据えた臭いが鼻につく。腐りかけた木箱が破壊され、何かもわからない木箱の中身が壁にへばりついていた。

 足を振り上げては振り下ろすを繰り返すのは、一般的感覚からは少しズレた恰好をした男。

 体格がやけに良い事を除くと、顎を上下に振って相手を威嚇する事が至上の仕事と勘違いしているであろう、いわゆるチンピラだ。

 そしてゴミ山の上で丸くなり、男の蹴りを耐えている――――子供。


「……待ちなァ」

「あぁ!?」


 男がゆっくりと大家に視線を向ける。

 大家は体は前に向けたまま。手は上着のポケットに突っこんだまま。

 首だけを路地に向けて大家は言った。


「んだテメェババア、何か言ったか?」

「やめなって言ったんだよ。それ以上やったら死んじまうだろう」

「誰だテメェ、ババアがしゃしゃり出てくんじゃねえよ! 寿命が待ちきれねぇのか! おぉ!?」

「いいかいチンピラ、三度は言わないよ。優しい優しいこのあたしがねぇ――――」


 男が大家を無視して、いや、むしろ見せつける様に足を大きく振り上げ、思いっきり子供に向かって振り下ろし―――


「なっ! ババア! て、てめぇどうやって……っ!?」


 大家がその足を片手で受け止める。


「―――見逃してやるって言ってんだよっ!」


 瞬間、男は建物に切り取られた狭い空を見上げていた。

 何をされたのかもわからない。気付いたらゴミが散乱する地面に背中を打ち付け、肺から空気が逃げ出していた。

 かひゅっ かひゅっ と気管が痙攣する音が喉から漏れる。

 そんなこと知ったこっちゃないとばかりに、祖母ほども歳の離れた老婆は男の頭を踏みつけ、見下ろし、そして囁いた。

 

「アンタは、運がいいねぇ……?」

「カッ カハァっ! グッ な、何……を……?」

「子供に見せるにゃ刺激が強すぎるからさ」


 丁度、老婆の背後に落下を始めた太陽がある。

 逆光で見えなくなった老婆の口が、まるで悪魔のように残忍に開くのを、男はただ恐怖に震えながら見上げていた。

 

「本当にアンタは運がいい。あたしの前で子供を死なせたヤツはねぇ……」

「ひ、ひぃ……っ!」

「なかなか、死ねないんだよォ……?」


 それは兇相。

 地獄の悪魔すら裸足で逃げ出すほど圧倒的な禍つ笑み。

 生物的に覆す事の出来ないヒエラルキーのトップに君臨する捕食者の目。

 体を動かせない。

 頭を踏まれているだけだ。拘束されているわけではない。なのに体が動くことを拒否していた。男の短絡的思考では理解出来なくとも体は悟っているのだ。

 今動いたら死ぬ、と。

 感情と言う感情全てがただ一色の恐怖に塗りつぶされた男の掠れ行く意識の端で、老婆は既に気を失っている子供に目を向け、一つ、舌打ちをした。


「ああ、なんてこった。見たことあるガキだと思ったら、シェーラのとこのガキじゃないか」


 そう言って老婆が足をどけた瞬間、

 男の意識は暗転した。





――――――――――――――――――――――




「フェイの事、本当になんとお礼を言ったらいいか……」

「いつまで言ってんだい。気にするこたぁないよ。倒れてたガキを拾ってきただけさァ」


 年季の入ったテーブルについた大家が、出されたお茶を啜りながら答えた。

 対する女はこれでもかというほど何度も頭を下げている。


「シェーラママぁ、この人だれ~?」

「シェーラ母ちゃん、お腹すいた~」


 ペコペコと頭を下げる女性――――シェーラのエプロンを引っ張りながら、まだ5,6歳であろう子供たちが口々に言った。


「この方はね、ウチの大家さんよ。ご挨拶なさい」

「おおやさんこんにちわ…… こんばんわ?」

「シェーラ母ちゃんご~は~ん~」

「こらウェルス! ご挨拶しなさい。ご飯はもう少しだから我慢なさい!」

「え~~~」


 そうしているうちにも子供たちがわらわらと集まって来た。

 まるで餌を欲しがる雛鳥のように、母鳥であるシェーラに群がる子供達。

 といってもシェーラが子供たちの母親でない事は誰が見ても一目瞭然であった。 

 なぜならば、群がる子供たちの髪も目も肌も色はバラバラだし、そもそも種族からしてバラバラなのだ。


 そして何より母親、シェーラである。

 苦労が絶えない彼女は地味な服装も相俟って20代後半に見えるが、おそらくは24,5歳といったところだろう。パッと見ただけで20人近くいる子供の母親と言うにはどう考えたって無理があった。

 若すぎる母親と、明らかに血の繋がっていない多くの子供達。その事実から導かれる答えは一つしかない。

 そう、ここは孤児院である。


「ネム。フェイの様子はどう?」

「目を覚ましたの。体が痛いって言ってるけど大丈夫なの」

「そう、良かった……」  


 しかし、子供の無事を確認し、ホッと胸を撫で下ろすその姿は誰が見ても子を持つ母のソレであった。

 大家はカップを傾け、目を細めながらその光景を眺めている。その眼には何かを懐かしむような、羨むような色が宿っていた。暖かな目の前の光景を通して、遠く離れ手の届かない日々を想う郷愁、そんな悲しみにも似た感情がそこには在る。


「大家さん、どうかしましたか……?」

「ああ、いや、何でもないさ」


 大家は心配そうに覗き込むシェーラに不敵な笑みを返した。

 彼女は感情の機微に敏感だ。おそらくは種族的特性なのだろう。

 ハラリと肩から零れ落ちた見事な銀髪からピョンと覗くのは狼の耳。フェイの様子を確認するまでヘニョっとなっていた獣耳は愛らしくピコピコ動き、先程までしんなりしていたフサフサの尻尾が今はゆっくりと揺れ、ネコ獣人の子供がそれを追いかけている。

 彼女は狼の獣人。しかも神獣フェンリルを始祖に持つと言われる孤高の種族、銀狼族の末裔だ。

 本来は苛烈な気質を持つ種族であるはずなのに、彼女はなぜかおっとりした性格で、優しげな垂れ目が更にそれを強調している。苛烈である反面、愛情深いとされるその一面だけを集約したような女性であった。

 

「シェーラ、あたしゃそろそろ帰るよ。家賃はまた次の機会でいいさね」

「あ、待ってください。家賃は用意してあるんです。でもせめてご飯だけでも食べていって下さいな。それより外はもう暗いです。危ないです。泊まっていって下さい」

「さすがにそこまで厄介にはなれないだろ。それにあたしゃ別に夜道は怖くないしねぇ」

「実は子供たちの事でご相談したいこともあって…… もし何も無ければ泊まっていって下さいませんか……?」


 胸の前で手を組み、上目づかいでお願いされて断るほど大家は鬼ではない。

 

「話は聞いてやる、だけど今のは野郎の前でするんじゃないよ」

「ふぇ、なんでですか?」

「無自覚だから性質が悪いねぇ」


 シェーラは同性の大家から見てもため息が出る程美しい女性だ。そして同性として天を恨まずにはいられない程の巨乳である。

 胸の前で腕を組まれたら「たぷん」という効果音を脳が認識する。上目使いをする時はチワワのように瞳が濡れる。

 そんなもん、男がやられたら一発で撃沈するか襲い掛かるかの二択である。ヘタレ勇者なんぞが食らった日には悶死すること間違いなしだ。

 この孤児院を援助している野郎共が全員彼女を狙っている事は大家の耳にも入ってきていた。


「大家さん泊まるの~? 遊ぶ~?」

「ママといっしょにあそぶ?」

「母ちゃん腹へった~~~」

「はいはいあんたらはめんこいねぇ ばあちゃんが遊んでやるからねえ」

「「「やったーーー!」」」


 大家が優しげに眼を細める。

 イサオが見たら卒倒するほどの怪奇現象だが、その暖かさはホンモノだ。


「すみません。無理に引き留めてしまって。感謝します」

「いいさね。あたしもちょっと用事が出来てね。明日また来るのは面倒だったんだよ」


 そう言って大家は再度目を細めた。

 しかし、先程と違いその瞳はゾッとするほど冷たかった。同じ人物が同じ動作をしたとはとても思えない程の温度差がそこには在る。今彼女が見つめる先に目の前の暖かな光景は無い。

 倒れ伏した子供を蹴りつけるチンピラと、更にその向こうに広がるのは紅蓮に染まった集落。逃げ惑う人々。武器を振り下ろす兵士達。飛び散る血潮、撒き散らされる臓物、そして――――


「大家さんっ!」

「え、あ、ああ。す、すまないねぇ。ぼうっとしてたよ」


 シェーラが体を震わせている。恐怖にだ。

 高位種族である彼女をして、ヒリつくような本能的恐怖から逃げる事が出来なかった。

 大家の瞳に浮かんでいたのは、憎しみではない。悲しみでも無い。焦り、怒り、憤り、いや違う。もっと違う何か。もっと昏く、深く、濁った、闇の亀裂に沈む『澱み』のようなナニカだった。

 彼女に何があったのか。彼女は一体何を見てしまったのか。

 恐ろしい。知りたくない。触れたくない。その一心でシェーラが我が身を掻き抱く。

 一方、当の本人はしまったしまったとばかりにおでこを叩きながら、誤魔化す様に不敵な笑みを浮かべて席を立った。


「せっかくだから買い出し行ってくるよ。たまにはガキ共にいいモン食わしてやんな」






◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇






「大家さん、今日は何から何まで本当にありがとうございました。子供たちも大喜びで……」

「大したことはしてないさね。あのくらいなら暇つぶしに丁度いいさァ」


 魔導灯のオレンジ色の光が優しく部屋を照らす。普段は節約して使用していないであろう魔導灯のスイッチにはうっすらと埃が積もっていた。

 食堂である。先ほどまでの騒がしさは嘘のようでひっそりと静まり返り、今はもう寝静まったはずの子供たちの笑い声が幻聴のように余韻を残す。

 二人はゆったりとお茶を口にしながらテーブルをはさんで向かい合っている。友達という関係でもないのだろうが、何とも言えない穏やかな空気が二人の間に横たわっていた。


「相談があるんだろう? 聞くだけ聞いてやるさァ」

「はい、実は……、西区か南区に物件が無いかお伺いしたくて……」


 ふうと息を漏らすシェーラは、暖色系の明かりのせいか、幾分老け込んでいるように見える。20代半ばという年齢にはそぐわない「疲れ」がそこにはあった。


「治安、だね?」

「はい、今日もフェイが怪我を…… 実は知ってるんです。あの子がこの孤児院運営の足しにするために、良くない人のところに出入りしてる事……」


 今日はたまたま大家が通りかかったからよかったものを、下手すれば怪我では済まない状況だった。男のセリフから、ただ子供に因縁をつけただけとは思っていなかったが、よもや出入りするまでになっているとは。

 

「原因がわかってるならいいじゃないか。潰せばいい。アンタなら出来るだろうさ。違うかい?」

「ご冗談を…… 私にできることなんて限られています。それにフェイだけじゃない。この院を出て行った子達の少なくない数が……」

「裏社会に足を踏み入れてるってことかい?」

「……そう、です」


 慚愧に耐えないといった表情で歯を食いしばるシェーラ。その瞳は悲しみに濡れると同時に、自身に対する怒りが燃えている。

 彼女の仕事は親を無くした雛を保護し、外の世界へと飛び立つまで育てる事だ。彼らが羽ばたいた先の世界まで彼女の保護も責任も及ばないと大家は思う。しかしそんな事を言ったところで彼女を慰めることは出来ないだろう。

 同情や憐憫も、日々暮らしを共にすればいつの間にか愛情へと変わっていく。ある程度の割り切りは必要なのだと知っていても、愛情深い彼女にはそれが出来ない。


「本人を説得してみても…… まあ無駄さね。どこの国に行ったって孤児の巣立つ先は限られてる。カタギの世界で馬車馬のように使いつぶされるか、それとも裏でのし上がるか。どちらにしたって碌なモンじゃない」

「あの子たちだって一生懸命働けるんです! それなのに――――っ」

「世間様が悪いってかい? あたしゃそうは思わないね。みんな必死さァ。食ってかなきゃなんないし家族を路頭に迷わせるわけにもいかない。学も無けりゃ紹介も無い。どこの馬の骨かもわからないガキを雇う余裕は無いんだよ」

「わかってます! でもっ!!」


 バンッ とテーブルが鳴り、ティーカップがビクリと身を震わせる。

 興奮して立ち上がったシェーラはハッとしたように俯いて、悔し気に顔を歪めた。


「冷たい事言って悪いとは思ってンだよ。だけどそれが現実さ」

「すみません、大きな声出してしまって……」

「いいさ、気持ちはわかる。アタシだってね、何とかしたいさ。だけどカネぶっ込んで済む話じゃ無い。未来永劫ガキ共を養い続けるなんて無理な話だし、本人のためにもなりゃしない。それこそアタシに出来る事は限られてる」


 しばし重苦しい沈黙が部屋に満ちた。

 すると廊下の奥のほうからドアの開く音がして子供が寝ぼけ眼を擦りながらやってくる。


「ママぁ~ 大きい声がしたよ。何かあったの~?」

「何でもないのよティーシェル、もう遅いから寝なさいね?」


 シェーラの顔を見て安心したのか、素直にうなずいて部屋に戻っていく子供。

 それを見送ったシェーラが疲れた微笑みを浮かべ、何かを堪えるように両手で顔を覆った。


「私に学があれば…… 子供たちに勉強を教えてあげられるのに…… 私は本当に何も、何も出来ない……っ」

「シェーラ、あんたは気負い過ぎだ。野たれ死ぬしかなかった子供たちを救ってる時点でアンタを責める奴なんていやしないんだよ」

「わかってます。でも、だからせめて環境だけはと…… 北区は、危ない事が多すぎるんです」

「家賃は上がるけどいいのかい?」


 治安が良ければ人が集まる。人が集まれば金を生む。金を生めば地価も上がる。そして地価が上がれば家賃も上がる。当然の理屈だ。

 限られた予算の中で、子供を20人から抱えた若い女性が十分な広さを持つ家を借りるためには北区に行くしかなかった。実はそれでも足りないのだが、大家が相場の1/3以下の家賃でシェーラに貸し出していたのだ。まともに引っ越そうと思ったら、これまでの数倍の家賃が彼女の肩にのしかかることになる。

 しかし、シェーラはそれらを認識したうえで、決意の瞳を大家に向けた。


「かまいません。私も子供ではありません。ここを支援して下さってる方の一人と愛人契約を結ぶつもりです。話ももう進んでいるんです」


 その目に悲嘆も絶望も浮かんではいない。虚勢や嘘もない。ただの決意と誇りだけがそこには在った。

 大家がその迫力に思わず息をのむ。

 なるほど美しすぎる彼女が身を捧げるとなれば、金持ちたちはこぞって大枚を叩くだろう。それだけの価値が彼女にはある。

 しかし大家にはわからないことがあった。


「学の無い私には、それくらいしかお金を稼ぐ方法がありませんから」


 銀郎族は病的なほど誇り高い一族である。

 辱められるくらいならば喉を掻っ切って死ぬ事が是とされ、大戦時は実際にそれを実行する様を目にしている。それが愛人契約など有り得ない。同族以外と交わることすら禁忌なのだ。下手すると、話を聞きつけた同族が彼女を殺しに来る可能性すらある。

 

「銀郎族であるあんたがそこまでする理由は何だい……?」


 するとシェーラは、大家すら包み込む慈母のような笑みを浮かべ、穏やかな口調で、それがまるでこの世の真理であるかのように断言した。


「子供は宝です。この世界の」


 カカカ。大家が笑う。

 腹を抱えて。さも愉快で仕方がないといった風に。 

 息切れしてむせてしまうほど笑い転げた大家が、目じりを軽くこすって少しだけむくれているシェーラに言った。 


「ひひひ、こりゃ良いもん見させてもらったよ。家はきっちり用意してやるさァ。丁度改装中のアパートがあってねえ。家賃は……そうさね、今と同額でいいよォ」

「え、そんな……っ」

「ひひっ 勉強を教えたいなら丁度いいのがいる。ひょろいガキだがねえ、ここじゃ孤児と似たような境遇のヤツさ。家賃をまけてやるって言ったら喜んで受けてくれるだろうねぇ」

「そ、そこまでしてもらうわけには――っ」

「いいんだよ。育ったガキ共から回収させてもらうからね。良いモン見せてもらった礼さね。ガキに投資するってのも悪かァ無いね。引っ越しは1か月後。裏の連中にはアタシが話つけといてやる。最後の家賃を受け取りに来てそのまま案内してやるよォ」


 

 魔導灯で出来た大家の影が、まるで魔女のような輪郭を床に刻んでいる。

 何が彼女の琴線に触れたのか、いまだ笑いが収まらない大家の顔を、シェーラはただ茫然と見つめていた。





―――――――――――――――――――――――




「――っ くそっ!!」


 【簪】のアジトの一つ、とある一室を出たその男は思わず吐き捨てた。

 悔しさと情けなさがごちゃ混ぜになって胸の中で燻っている。男は苛立っていた。

 考えてみれば朝から悪い事続きだった。

 朝、目覚めると金と体を提供してくれていた女が置手紙一つ残して出て行った。憂さ晴らしに行った賭場では金を巻き上げられ、最近出入りしてるガキに使いを指示したらトラブルに巻き込まれ、結局自分が出ていく羽目になった。

 そしてヘマやらかしたガキをいつも通りボコっていたら、あの忌々しいババアにやりこめられてしまった。

 どうにも腹の虫が収まらなかった彼は、恥を忍んで兄貴分に相談したのだ。

 最初は、「舐められたなら落とし前つけてやれ」とか、「そいつに思い知らせてやれ」とか鼻息荒くまくし立てていた兄貴分だが、いざ相手が誰だという話になった時、青を通り越して白くなった顔で震えながら言った。「そのババアだけには手を出すな」と。


 男は思った。情けねえ野郎だ。そんな事言ってるからあんなババアにでかい面されるのだ。

 この世界は舐められたら終わりだ。暴力で飯を食ってる人間から暴力を奪って一体何が残る。

 やられたら倍々にしてやり返す。それがこの世界のルールではないのか。

 そんなヤツには従えないと、今度はさらに上の人物に直訴した。あの情けない男をもう兄貴分だとは思っていないが、縦社会の組織に生きる男である。上に止められたならばさらに上に了承を得なければならなかったのだ。


「いいか? お前は運がいい。だからその頭ン中の脳みその形した筋肉によく刻み込んでおけ。『あの婆さんには手を出すな』とな」


 偉そうにまくし立てたソイツの足は、まるで路地裏で犯される女のように震えていた。

 どいつもこいつも腑抜けやがって。キンタマ付いてんのか。

 話を聞くと、先日、そのババアが一人でやってきて、フェイとかいうあのガキを足抜けさせたらしい。金も払わずケジメもつけずにだ。

 考えられない。一体何を考えている。それでは下に対して示しがつかないではないか。

 思わず怒鳴り散らしそうになるのを男は何とか堪えた。上が決めた以上は従わなくてはならない。それがこの世界における絶対のルールだ。


 しかし、と男は思う。

 バレなければいい。バレなければ命令に反したことにはならない。

 ほかの連中からも話を聞く。どうやら上の連中はババア一人に相当な煮え湯を飲まされているらしかった。誰かの血縁とか、友好関係にあるわけでもなく、ただこっぴどくやられて怖気づいているだけだった。


 だったら自分がやってやる。

 そして事が終わった後で堂々と報告すればいい。

 命令違反以上の功績を上げれば誰も文句など言うはずがない。上の連中が出来なかった事をやってのけた自分の肩書にもハクがつく。

 確かに一人では勝てないだろう。あのババアは化け物みたいに強かった。もしかしたら名のある冒険者なのかもしれない。

 だが昔どれだけ強かったのかは知らないが所詮年老いたババアである。ドラゴンすら斃した大英雄も、今際の際では小娘にすら勝てないのだ。大人数で囲めばどうにでもなるはずだった。


 しかし、それでも男は迷う。三興国が一角、【簪】の幹部が揃いも揃って尻込みするのだ。相応の理由が無いわけがない。不安が無いと言えばうそになる。

 そうして決心がつかぬまま悶々として2週間。

 男の背中を押すようにして、契機は突然訪れた。



「おたくの旦那サマに伝えてくださいよ、『あのばあさんに手ェ出しちゃマズいってのは、裏の人間なら誰でも知ってる事ですぜ』ってね」



 下っ端である男が、依頼交渉の場に居合わせたのは全くの偶然であった。

 訪れてきたのは身なりの良い男。見るからに身分在る者、若しくはその使者だとわかる出で立ち。

 ここに依頼を持ってくるような連中はろくでもないし、その内容も例外なくろくでもない。

 使者はあのババアを脅迫、最悪の場合殺害しろとまで言ってきた。どうやら無法地帯近くにある孤児院絡みで何かあったようだ。

 詳しい理由は言わなかったが、聞いたところでどうせろくでもない理由に決まっている。

 そして、男にとっては理由などどうでもよかった。これはチャンスだ。のし上がり、個人的なパトロンを捕まえるまたとない機会だ。

 同じ時期に同じ人物を狙い、しかも上客からの依頼が舞い込んでくる。

 これは果たして偶然だろうか。いや違う。最初からこうなる運命だったのだ。 


 幹部に依頼を断られ、憮然とした表情でアジトを出る使者。

 男はその使者の背中に向かって言った。


「その依頼、俺が受けてやる」


 使者が振り返り、ニヤリと嗤う。



「話を…… 伺おうか」

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