金色のブレイブ・ハート・ストーリー⑭
「サジタリウス…… 間に、合わなかった、のか……」
赤黒く輝く、悪魔の紋様を見上げて私は茫然と呟いた。
禁術士ゴルベーザが深く息を吐きながら、自嘲するように口の端を歪めて項垂れる。戦略級魔導士である彼が見せる横顔は酷く疲れており、それは魔力を消費したというだけのものではないことが伺えた。
「聖女様、なぜ、先に私を止めて下さらなかったのですか……」
俯き、頬を痙攣させながら奥歯を噛み締める彼の眼元が濡れて光る。
与えられた聖なる任務と、あまりに乖離してしまった自身の信じる教義との狭間で心潰されてしまった哀れな男がそこにいた。信じるものも信じ切れず、信じるべきものすら見失った彼には、寄る辺無き信念だけが無残にも残されている。
彼は殺したくなかったのだ。
神の意志だとしても、聖務だとしても、それでも今回の一件は彼の中の根本的な善悪の一線を越えてしまった。それでも逃げることが許されなかった彼の目の前に示された道は、自分を殺すか他人を殺すかという絶望的な二択だった。
Sランカーの戦略級魔導士と言えども、今の今まで信じてきたものを土壇場で容易に手放せるほど強くは無い。そしてその弱さを責めるほど、わたしの心も強くはなかった。
ゴルベーザは右手の中指に嵌めていた例の指輪を乱暴に抜き取ると、無造作に地面に転がし、地面に膝をついた。
あまりにも小さく切ない彼の背中に、私は無言でソフィアを下ろし、後ろを振り返る。
「ドロテア。 間に合うか……?」
「……大丈夫っ 今……っ!」
そう言って、【魔王】は両手を天にかざす。次の瞬間
まるで幹を伸ばし、枝葉を茂らせていた大樹が春を迎え芽吹いたかのように、生命力をみなぎらせ始めた。幹から枝へ、枝から葉へ。キラキラ光る魔力が流れ、夜空に息を飲むほどの幻想的光景が浮かび上がる。結界の完成だ。
私は空の切れ間に目をやって思わず呟いた。
「こんな美しい光景、見たことないよ……」
「……間に合って良かった。正直、結界は苦手」
思わず突っ込みそうになる。苦手も何もあるものか。こんな凄まじい結界を短時間で組み上げておいて何を言っているのだと軽く噴き出す。
そして、そのまま私は無言でその美しすぎる夜空を呆けたように見上げていた。
しばらくして、空から無理やり引き剥がすように視線を地上に戻す。ゴルベーザがまるで神の降臨に立ち会っているかのように茫然と空を見上げていた。そして唐突に顔を歪めると、嗚咽を漏らし子供のように泣き始めてしまった。彼の中で何かが切れてしまったのだと思う。おそらく、彼が騎士団に戻ることは無いだろう。
そのまま視線を横に滑らせると、とある一点で止まった。
空を見上げる銀髪のあどけない少女の無表情な横顔から目を離せない。私は何か言おうと何度か口を開けて閉じてを繰り返した。何が言いたかったのか、自分でもわからないまま思わず苦笑する。
すると、少女が私の視線に気づき、こちらを向くと眠たげな瞳を少しだけ緩ませた。苦笑しているのだとわかったのは何か通じ合うものがあったからなのだろうか。
戦闘の終わりと共に、互いにかける言葉が見つからないくらい互いが微妙な立ち位置にいることに気付いたというのは、悲劇というよりは喜劇なのだろうと思う。彼女は【魔王】で私は【聖女】だ。だが、それでも今、私たちがいがみ合う理由なんてどこにも無い。戦いは今、確かに終わったのだ。
「……ボロボロ。これでまた婚期が遅れる。ぷぷっ」
「お前こそボロボロじゃないか。旦那様に逃げられても知らんぞ」
荒い息を吐きながら強がる魔王に苦笑い。
地面に着いている膝は小刻みに震えているし、未だ整わない呼吸で肩が大きく上下している。
こめかみから顎へと続く赤いラインはまだ乾いておらず、ボリュームのある銀髪は砂埃で酷いことになっていた。体中も傷だらけで、異様に面積の少ない服は少なくない血液を吸い込んでまだら模様になっているし、服自体もボロボロで、胸の部分などは今にも乳圧ではじけ飛びそうだ。
満身創痍。そんな言葉が実に見事に当てはまる。
「……結界は、心配ない。一つ残らず止めて見せる」
「ああ、信じているさ」
そう言って、乾いた笑いを上げた後、微妙な沈黙が間に落ちた。
自嘲するように方頬を引き上げた魔王がスウッと不自然に目を逸らす。脆く崩れ落ちそうな作り笑いを浮かべながら視線を落とす彼女は酷く弱っているように見える。
「……助からなかった人は残念だけど、これも運命」
私は彼女の慟哭が聞こえた気がした。
そんな強がりを言うために、喉から溢れそうになる感情を何度も飲み込むところを、私は見ている。
自分のせいで巻き込んでしまった。救えなかった。守れなかった。
眠たげに垂れた瞳の中に渦巻く痛恨の念を、無視できるほど私は大人になれなかったし、共に共有するには二人の距離は遠すぎる。
だから、発動寸前のサジタリウスの光の下で、無意識に私の口から出た言葉は、自分で思っている以上に感情が剥き出しの青臭いセリフだった。
「誇れ…… 【魔王】」
「……誇、る?」
「ああ、誇れ。お前はそれだけのことをしたんだ。見ろ」
指の隙間から零れ落ちたものを罪だと言うのならば、人は存在そのものが罪だ。【魔王】も【勇者】も【聖女】も、神ですら全能ではない。救えなかった悲しみから目を逸らすことと、悲しい真実と向き合うことは同義ではないのだ。
今日、もう何度見たかかわからない空を見上げて私は目を細める。
「お前が命がけで練り上げた結界、アレがこの街を救う。確かに私は敵だし、お前がいなかったら始まらなかった戦だから、私が言えた義理は無いのかもしれない、それでもお前が救ったんだ」
「……そう、なのかな」
「ああ、そうだ」
誇れ。その資格がお前にはある。
自分の基軸すら定められず、迷ってどっち着かずを最後の最後まで繰り返し、危うく無辜の民をこの手で殺めてしまいかねなかった自分。
少しも迷うことなく、敵である他人の為に最初から手を差し伸べ続けた優しい少女の気高さに、私は本当の信仰の姿を見た。
彼女の問いかけがあったからこそ、最後の最後で人の心を、誇りを、殺さずに今こうして彼女と向き合うことが出来る。崩れ落ち、子供のように泣きじゃくるゴルベーザは、もしかしたら未来の私の姿であったのだと、恐怖すら感じずにはいられない。
自身の信仰にすら疑義を挿んでしまった弱い自分にとって、手を伸ばしては突き放され、それでも前を向き続けた彼女の強さは美しく、眩しいものであった。
目いっぱいの涙を湛えた灰色の瞳、それに映る天空の紋様に未来が見える。
発動寸前のサジタリウスと大結界の淡い光が、涙がこぼれないよう強がって空を見上げるドロテアの眼元をくっきりと照らしあげる。美しい。そう思った。
「主流派もリバデンス派も関係ない。神の愛は広く深い。いや、難しいことはやめよう。感謝しているんだドロテア。私は私の魂を裏切らずに済んだ。お前が夢想する未来があるのならば、私も手伝おう。だから……」
私は確信していた。
私たちの間に横たわる絶望的なまでに深い谷を、埋める事など出来はしないのかもしれない。だけど、底すら見えないその闇の底を踏み越え、懸け橋を架けることはきっと私たちにだって出来るはずだ。
そんな確信を胸に、発動寸前の結界に目を細めていると、その声は唐突に私の耳に届いた。
「……やめ、て……」
やめて? 何を?
この場の流れにも雰囲気にもそぐわない突然の呟きに、キョトンとしながらドロテアに視線を戻す。焦りとも驚きともつかない感情をその顔に浮かべた彼女が、私の背後に茫然と視線を向けていた。
首を傾げながら彼女の視線を追う。そして私は目を見開いた。
「き、きひひひひぃぃぃ~~ 死ねぇっ! みんなっ! 一人残らずっ! 死ンじまえよぉぉ~~っ!!」
それは狂気。
左右に開き切った両目の瞳には、限りなく透明な憎悪が煮え滾り、吊り上った口角の上に醜い皺が影を差す。気が触れたように左手で髪を掻き毟り、空に向かってツバを飛ばして奇声を上げる姿は狂人そのものだった。
ドクンっと心臓が音を立てる。背中をゾワリと悪寒が駆け抜ける。
正直言って戦闘の継続が難しいほどの重傷を負ったスカーレットが、今更目を覚ましたところで何ら脅威ではない。驚きはしても、焦る必要も、恐怖する意味も無かった。そう―――
―――異様な光を発する右手の指輪を、天に翳していなければ
本能が金切声で叫ぶ。アレを止めろ!
ドロテアが縋るように右手を上げるのと、私が飛び出すのと、そしてスカーレットの指先が爆発するのは同時だった。
飛び散る指輪の破片、必死の形相で止めようをする私たちを嘲笑うかのように、
「やめてぇぇぇぇ~~~~っっ!!!」
ドロテアの絶叫を振り切って、眩しく輝く漆黒の矢が夜空を駆け上がる。そして……
―――ドクンッ
空に煌めく赤黒い魔方陣が、突然跳ねた。
そして痙攣するかのように魔方陣自体が身を捩り、そして
膨張した。
「ははははぁぁ~~~っ! 死ねばいいっ! 亜人なんて死んじゃえぇぇぇ~~~っ!!!」
ギチギチ と、魔蟲が巨大な顎をこすり合わせる様な、根源的な恐怖を掻き立てる音が街に降り注ぐ。
魔法陣を構成する魔導線がうねり、その身を突き破るかのように棘のような何かが生えていく。醜く歪み、魔導的意味すら怪しい配列となった魔方陣が、肉瘤のように増殖し、厚みを増していく。
捕食。そんな言葉が私の脳裏をかすめた。
そしてソレは突然、脈動を始める。
まるで臓物だ。
断続的に波打つソレはあまりにも生物的で、生き物の腹を掻っ捌いた時特有の生臭さすら漂ってきそうだった。
「何だ……アレは……」
ドロテアは言った。自分を守る障壁は神竜の加護、【神威】であると。
神器とは、人の記憶の彼方の神代に、その神を殺すために作られた武器だ。
全力の私でも傷一つつけられなかった彼女の【神威】を、易々と貫いてくるあの指輪の力は、きっとその【神器】と関わる何かなのだろうと思う。そしてその指輪が、スカーレットの叫びに答えて魔方陣に溶け込んだ。
直感、いや、確信だ。あの魔方陣から繰り出されるナニカは、結界を抜ける。
「ドロテアっ」
「……ああ、あ、あああ……」
魂が抜けたように脱力し、ペタリと地面に座り込んだドロテア。うめき声を上げながら空を見つめる彼女の顔には絶望が浮かんでいる。スカーレットの狂ったような笑い声すら耳に入っていない。
人類最強の一角、【聖女】を眉一つ動かさずに完封した少女と同一人物だとは到底思えなかった。それほどまで絶体絶命な状況だということか。
違う。そう思った。
何が違うのかはわからない。何を言いたいのかもわからない。しかし、違うという想いだけが私の胸を掻き毟る。
そして許せないと思った。
何を許せないのか。悪辣な魔法に? こんな非道なことをしでかした聖騎士に? それとも気が狂った白星にか? 違う。そうじゃない。
「【魔王】よ。我が友よ…… 」
殺し合わない未来を、魔族と人が共存する、そんな荒唐無稽で大それた未来を夢見る夢想家が。
敵であるはずの人類の為に身を投げ出し、救えなかった命にすら心痛める優しき誇大妄想狂が。
「そんな顔をするんじゃない」
なんて顔をしているんだ。みっともないと思わないのか。情けないと思わないのか
間違ったことをしたのか。自身の魂に嘘をついたとでもいうのか。そうじゃないだろう。
ならば、こんなしょうもない事で、そんな顔をするんじゃない。
胸を張れ。前を見ろ。今、ここに、夢見る未来があるではないか。
私は踵を返した。
ドロテアの戸惑いを背中に感じながら歩を進め、ゴルベーザが投げ捨てた指輪を無造作に拾って握りこむ。
道を踏み外した時に正してやるのが友ならば、絶望し座り込んでしまった時に手を差し伸べるのもまた友だ。
そして私は瞑目した。
「来たれ、光よ」
光翼を解放。
あらん限りの力を背中の翼に流し込む。爆発的に高められた魔導素子が魔力筋を構成、全身に概念的に組み込まれていく。
握りこんだ指輪が、私の魔力を何倍にも増幅して周囲に循環させる。その際に指輪によって変質させられた魔力が制御を難しくさせていた。
感覚的にはその変換よって魔力が効率的に構成されていることが理解できるが、強制的に書き換えられる魔力が他人のモノのようで気持ち悪い。
なるほど、スカーレットほどの使い手が暴走したのはこれが理由か。貪るように魔力を食い散らかすその燃費の悪さも暴走の理由の一つだろうが、今はこれでいい。長期戦をするつもりはないのだ。
ふわりと宙に舞う。
「……待ってアイギス! 直撃したらあなたでも危―――」
「行ってくる。私は守る」
ドロテアの静止を振り切って、一息で大空へ。
大結界を足元に、グロテスクに蠢く魔法陣だったモノを眼前に。
私は一人、神に祈った。
「神よ」
神よ、この世界は死に満ちている。
あなたが創り給うたこの世界は、絶望と慟哭で溢れている。
あなたが望み、教えを説いた人は今、血と鉄と涙で築いた螺旋階段で、あなたの愛に応えようとしている。
あなたは何故こんなにも不完全な世界を創ったのか。あなたは何故こんなにも無慈悲に、人に試練を与え続けるのか。私は少しだけ、少しだけわかったような気がするのです。
「偉大なる神よ」
感謝いたします神よ。
あなたは赦し給うた。夢を持つことを。希望を描くことを。
人類の敵【魔王】が共存を望み、人類の守り人【聖女】がそれを助ける事を。赦し給うた。
きっと同族に罵声を浴びせられ、人類には石礫を以て応えられるような無謀な決意を、蛮勇とも言い得る尊き勇気をこの胸に秘めることを。
私たちは赦されているのですから。だから―――
―――もっと、強く
全力を解放。
伸ばした翼に、祝詞に乗せた金色の魂を際限無く溶かし込む。軋みを上げて膨らみ続ける光翼が限界を超えた強度で魔力筋を構成し、全身が悲鳴を上げる。
喉奥から漏れ出そうになる悲鳴を歯で噛み殺しながら、更に魔力を指輪に与え続けた。
もっと強く。
悪夢を切り開く強さを。そして
―――もっと、先へ
限界を突破。
左足を前へ、腰を沈める。聖剣を両手で握りしめて、右わきにダラリと垂らす。
展開し続けた膨大な魔力を、今度は集約するよう聖剣に流し込む。自分でも恐ろしくなるほどの密度で練り込まれた光の粒子が、らせん状にソフィアの刀身に絡みつく。剣先を越え、その延長線上に光剣を形作る。あまりに甚大な魔力の奔流に、芯となっているソフィアに亀裂が奔る。だがそれでも足りない。もっとだ。
もっと先へ。
過去に打ち込まれた楔を断ち切るんだ。未来を縛る鎖を切り裂くんだ。
「この愛しき世界に……」
魔方陣の肥大化と振動が止んだ。
同時に、ゴポっと音を立てて、ヘルメットのような形の魔法陣の、皮が捲れるように上部が裂けていく。半分に切った果実に切れ目を入れ、頂上から下に向かって向いているような光景。
今、悪夢が舌なめずりして最後の準備をしているのだ。
守って見せる。絶対に。
「光あれっ!!」
全身の筋肉が痙攣をしている。限界を超えた魔力筋が弾け、概念的に同化している現実の肉を裂いた。傷口から血が噴出する。
喉元まで上がってきた血の塊を下品に吐き出して、ただ目標だけを睨み付ける。魔方陣は過程が結実した結果としての概念現象だ。物理攻撃も魔法攻撃も受け付けない。それを切り裂くためにはこの【神器】と呼ばれる概念兵器で限界を超えるしかない。
おそらく体が耐えられるのは一発だけ。私の全てを賭けた一撃で、私は証明してやる。
「見ていろドロテアっ! 私が踏み躙らせないっ! お前の思いをっ! 私が証明してみせるっ!」
魔王よ。偉大なる魔族の王よ。私は否定させない。
優しき思いを、強き信念を、気高き勇気を。何人足りとも、否定などさせはしない。
右後方にダラリと垂らしたソフィアに今一度魔力を詰め込んだ。
「私は、守るっ!!」
今や100mは下らない規模となった巨大な光剣が、目を潰さんばかりに発光する。
光の粒子で足場を固定。グッと深く腰を沈める。奥歯を噛み砕かんばかりに食い縛る。
目標は上方数十m、今にも口を開こうとしている悪夢。
全てを乗せた斬撃を、下から上へ。
失うものはあっても、得られるもの無し。
進め。前へ。
「ああぁぁぁぁぁ~~~っ!!」
ソフィアを振り上げ出した瞬間、左肩が弾ける。と同時に左上腕の骨がボキッと音を立てて折れた。
だが止めるわけにはいかない。次など無い。
奥歯を噛み割って構わず全力を込める。光剣が大気を切り裂きながら目標へと疾走する光景と、ブチブチと筋肉が断裂する音が骨越しに耳まで届いた。
―――とーちゃんの夢は何~?
―――とーちゃんはいつか、アラウナイラ大聖堂でお祈りするのが夢だぞ! アイギス知ってるか? アイギスって名前の由来はな……
とうちゃん、あたし頑張ってるよ。つらいこともたくさんあるけれど。それでもあたし、頑張ってるよ。
いつか、いつかきっと、一緒にお祈りに行こうね。
「……アイギスぅぅ~~~っ!!!」
ドロテアの叫びが耳に届くのと、光剣が魔方陣に届くのが同時だった。
剣が障壁に阻まれた時のような抵抗感で、骨が砕けそうになる。概念的な障壁だろうか、力が逆流して私に襲い掛かる。全身がバラバラになるような痛みに意識が飛びそうになった。
負けない。絶対に。
―――君は今日から『マクラーレン』を名乗りなさい。聖魔法の使い手が獣人の子供など許されない
とうちゃん、あたしは変えて見せる。
誰よりも優しいあたしのとうちゃんが、世界一大好きだって堂々と言えるような世界に。
誰よりも敬虔な教徒である父ちゃんが、堂々とお祈りできるような世界に。
だから、あたしは【聖女】になるよ。
「ぉおおおおぉぉぉぉ~~~~っ!!!」
均衡が崩れようとしている。
私を砕かんと暴れ狂う魔法陣が、まるで意思を持っているかのように精神汚染まで仕掛けてくる。
それが最後の足掻きなのか、それとも私を押し返す予兆なのか。
知る余地はない。だけどわかりきっていることだってある。
今、射出されようと頭を出し始めた巨大な矢は、一度放たれれば最後、結界を突き抜け、この街の人々を殺し尽くす。
そんなこと、絶対にさせない。
―――あなたが信じるものは何。あなたの正義はどこ。あなたは誰?
今ならはっきりと答えられるよドロテア。
信じるものはここにある。私の正義はここにある。そして、私はここにいる。
―――アイギス。それがお前の名前の由来さ! 神の御力がお前に宿っているんだ!
私はアイギス・ゴールドハート。
諦めない。諦めないよ。私が私であることを、絶対に諦めない。
全身が光に包まれていくのがわかる。全身がはちきれそうだ。
折れた腕。千切れた肉。砕けた歯。
限界は遥か後ろ。千切れ飛びそうな光翼を力ずくで繋ぎとめて、前だけを見据える。
魔法陣が、低く唸るような絶叫を上げていた。
斬り裂け。切り裂くんだ。
ぐちゃぐちゃになった左手はもうだらりと下がったまま。肘が砕け、激痛が走る右手だけで、剣を担ぐように、全身全霊で体重を乗せた。
「神、よ……っ」
険しく厳しい理に、眦下げる事などいたしませぬ。
あなたが造り給うたこの世に生まれた幸せを、どうして嘆く事などできましょうや
神よ。
我等の想いは、届いておりますか
我等の祈りは、届いておりますか
救いなど要りませぬ。慈悲すらも不要にございます。
なぜならば、立ちはだかるは人の¦業、打ち破るのも人が¦業
これは私の、私達の試練なのですから
ただ願わくば、卑しき身にて願う事許されるならば、この祈り届かんことを。
だから、届け。
「届っっっけぇぇぇぇぇ~~っっ!!!!」
その瞬間。
世界は時を止めた。
前触れ無く、空が割れた。
空震。そして衝撃波。
―――ロロロロロォォォ~~~~~っっ!!
それは断末魔だった。慟哭だった。絶叫だった。
空に不気味に木霊する音が鳴りやんだ時、終わりは突然やって来た。
真っ二つに絶たれた悪魔の紋様。振りぬかれ、魂が抜けるように、急激に輝きを失っていく光剣。
光の筋が宙を断ち割った軌跡が、散逸した魔力でキラキラと光る。
手元のソフィアはもう砕けており、空に残った残像だけが確かに魔法陣を切り裂いた事を証明していた。
力がはいらない。魔力を練ることすら出来ない。構成した足場もじきに力を失い、私は墜落するだろう。
急激に大気に侵食される光翼をぼんやりと眺めながら、湧き上がるはずの歓喜を押しのけ、吹き上がる泥のような脱力感に負けて、私は倒れこむ。
髪の隙間から辛うじて見える魔法陣は、のたうち回るように痙攣し、力を散逸させながら小さくなってゆく。
そして、その切れ目から、まるで本が閉じられるように、ゆっくりと魔法陣が折りたたまれた。
「終わった…… のか……?」
眠い。ただただ眠い。
痺れが走る脇腹に手をやると、肉がごっそり弾け飛んでいて、驚くほど熱い血潮がべったりと手につく。
思わず苦笑した。
祈りは届いただろうか。守ることが出来たのだろうか。何もかも曖昧だ。
吸い込まれそうなほど無音の夜空に、一人呟く。神様……
―――ドウンッ!
くぐもった爆発音が聞こえる。
唯の一発から始まったその音が、連鎖するように立て続けに鳴り響く。
空気を揺らす振動が体に響いて思わず眉をしかめた。
次第に大きく激しくなっていく爆発音に向かって、朦朧とした意識を向ける。
折りたたまれた魔法陣が、風船のように膨れ上がっていた。
笑うしかなかった。
一度は発動し、今頃になって射出された矢が、折りたたまれた内部で誘爆しているのだ。
だが、もう大丈夫だろう。あの異様な力はもう感じない。あれなら一つ残らず結界で防ぐことが出来るはずだ。
安心した私は、地上に目を向けた。ドロテアが必死に何かを叫んでいて軽く吹き出しそうになる。
そんな顔をするんじゃない。泣き顔なんて【魔王】に相応しくない。
最後の力を振り絞って、ゴロリと仰向けに横たわった。痛みに顔を顰めて、今、ここに生きていることを実感する。
薄く目を開くと、膨張を続ける魔法陣に亀裂が入り、眩い光が漏れ出していた。
「神よ、感謝…… しま、す……」
素敵な名前に
素敵な家族に
ありがとう。私は幸せだったよ。
そして、最後の最後に、泣き虫の友人と出会えた奇跡に、心からの感謝を。
ただ、こうして自身の運命を悟った今でもなお、チクリと胸を刺すのは、唯一の心残り。
ごめんね
死にたく、ないよ……
会いたいなあ。孫の顔、見せたかったなあ……
「とう、ちゃん……」
音が消え、世界が光に包まれる。
視界を覆い尽くす閃光の彼方広がる夜空に、優しく笑うとうちゃんを見たような気がして
私はゆっくりと瞼を閉じた。




