金色のブレイブ・ハート・ストーリー⑫
「チャラ男、大丈夫か!?」
襟元を掴んで離そうとしないノリちゃんを抱っこしながら声をかける。
仰向けに地面に横たわり、脂汗をかき、荒い息を吐きながらもテヘペロ顔を返してくるあたり、男前過ぎて泣きそうになった。
「チャラ男、俺なら完全に治癒させられるけど、ちゃんとした病院に行ったほうがいいと思う、どうする……?」
俺は通常の治癒魔法は使えるものの概念魔法は使えない。
この世界の治癒魔法は自然治癒力の異常促進であり、怪我という事象そのものを変容させるような力は無い。骨が折れているような場合、下手に乱発すると骨が滅茶苦茶に癒着し、後遺症を残す恐れすらあるのだ。
「は、ははは…… ぶっちゃけマジ、ぐっ、マジ痛すぎてヤベェ……よ。シャレに……なんね……え」
「わ、わかった! せめて痛みだけでも……っ 今、眠らせてやるから!」
「マジ、頼むよ……」
無理に笑顔を作ろうとするも、痛みで頬を引きつらせるチャラ男に向かって俺は最低限の魔力を通した。大陸条約で禁止されている眠りの魔法だが知ったこっちゃない。1秒でも早く痛みから解放させてやりたかった。
波が引くように意識を手放し、寝息を立て始めたチャラ男を見て胸をなでおろす。
いつもありがとうチャラ男。感謝してる。
すると、衰弱しているチャラ男に気付いたノリちゃんが、目を真ん丸にしながら俺の襟元を更にギュッと握った。
「あ、あるじー! ちゃらおがたいへん!?」
「大丈夫だよ、ちょっとおやすみしてるだけさ」
心配そうにチャラ男を見つめるノリちゃんの頭を一撫でしてから、騒がしくなりはじめた周囲を見回してみる。
深夜とはいえここは高等区だ。
貴族やらお金持ちやらお偉いさんやらがわんさか寝起きしているこの地区の治安維持体制が甘いわけは無く、何か事件が起きたらすぐに衛兵がすっ飛んでくるというのに、ご丁寧にもドでかい氷柱がおっ立っているのだ。
それだけでも大事なのに、まさかの人間大砲点火。射出された当の蒼い弾丸は今もなお美しい伸身を維持しながらお隣の建物に突き刺さっているのだからたちが悪い。
多数の金属のブーツが地面を蹴る音。野太い掛け声。馬の嘶き
諦めにほど近い達観でもって、もうすぐそこまで来ているであろう治安部隊の方に視線を向けた。
「ま、しょうがないよな……」
逃げるつもりはない。
ここがどこなのかは正直わからなかった。アリアの指示に従ってがむしゃらに突き進んだ先がここだったのだから。だとしても高等区もド真ん中でやらかしておいて、「知りませんでした」で済むほど世の中は甘くないだろう。
だが今は怪我して動けないチャラ男がいる。
優秀な斥候職であるチャラ男も、こうなればただの不法侵入者でしかない。治安部隊が来れば清々しいほど問答無用で拘束されることになってしまうだろう。Aランカーとはいえ夜間の高等区に不法侵入した罪は決して軽くないのだ。
正直、俺にとってチャラ男くらいの人間を担いで逃走するのは、月に手取り20万ギル稼ぐよりもよっぽど簡単だ。外食するより気軽な気持ちで逃げる自信はある。
しかし、満身創痍のチャラ男はどこの骨が折れているかわからないような有様で、知識も無い人間が下手に動かすべきではないと思うし、今後の生活に支障を来すような事には万が一にもなってほしくない。
だから俺はこの場を離れるわけにはいかなかった。結果、この街を追われる事になろうとも、この世界唯一の友人に通すべきスジというのはある。
俺以外、事情を説明できる味方もいない状況で、もし恩人を見捨ててここを離れたら、俺は単なる屑だ。
「とうとう年貢の納め時かぁ……」
御用だ! とか お縄につけい! とか、そんな場違いなフレーズが脳内再生されては頭を抱えたくなる。
だが魔獣であるガーゴイルが、額から血を流す中年や、倒れている冒険者に必死に治癒魔法を唱えているのを見ると、悩むのも馬鹿馬鹿しい気持ちになった。俺にはノリちゃんがいる、問題はこれからどうするかだ。
まだグズついている彼女によしよしをしながら見事に壁に突き刺さっている青星に目を向ける。
そもそもノリちゃんが誘拐された時点で、いや、もしかしたら、俺がこの街にいるとヤツラに知られた時点で、もう詰んでいたのかもしれない。相手は世界最高戦闘集団、ゾディアックだ。このまま何も起きないと考えるほうが難しいのだ。
そんなことを考えていると、治安部隊が到着したのだろうか、号令と共に表門や壊れた外壁からワラワラと兵士たちが中に入り、俺たち半円状に取り囲む。無駄な事だと知りつつ、逃走経路を探りに反対側に目を向けると、今度は施設から出てきた人たちが手に武器を持ち、俺たちを包囲した。
彼らの顔に浮かぶのは戸惑い、困惑、そして隠せない怒り。俺たちを遠巻きに取り囲んで警戒態勢を敷き始めた時、突如として門のほうから人垣が割れた。その先からこちらに歩いてくる人物を認めて、俺は情けなくも反射的に目を逸らす。
「イガワ、この惨状は、貴様がやったのか……」
「お、皇女様!」
当然のように割れた人垣を当然のように進む女性。
月夜においても美しく輝く濃緑の髪を結い上げた麗人。皇城で顔を合わせた戦乙女、オフィーリア・グングニルその人だった。
未だ天高くそそり立っている氷壁、ぶち抜かれた壁、倒れた男たち。彼女はそれらを一瞥して、俺に向き直ると、燻る炎を押さえつけるように敵意すら込めた瞳で俺を睨みつけた。
「貴様はなぜここにいる? ここがどこかわかっているのか……っ?」
俺は思わず口をつぐむ。
彼女によく思われていないことは薄々感じていた。何といっても、俺を狙って引き起こされた魔獣大侵攻で多くの兵士が帰らぬ人となったのだ。その事実に対するやり場のない憤りと理性の狭間でむき出しになった憎悪を、皇城で外ならぬ本人にぶつけられた身としては、緑色の瞳に宿る熱が本物である事を認めざるを得ない。
「よりにもよってこのタイミングで…… 貴様は自分が何をしたかわかって―――」
「まあまあ、一方的に責めんのは良くねぇってオフィ。固いことばっかり言うなよ。お前の悪い癖だぜ?」
「ね、姉様! 甘過ぎます! 学術的な興味といったって国民の安全より優先されるべきではあり―――」
「そういうところが固いって言ってんだけどな、姉ちゃんは。あ! ノリちゃんこんばんわ!!」
興奮冷めやらぬ第3皇女の後ろから、頭をボリボリ描きながら一人の女性が歩み出る。
軍服で帯剣したオフィーリアとは対照的に、黄緑色の髪は風に任せたまま、襟がよれた寝巻のようなだらしのない恰好で、キリリとモノクルを押し上げるのは第2皇女 ティナ・グングニル。
黄緑色の髪を掻き揚げる仕草はとても美しいはずだが、俺の恩師と雰囲気が似過ぎているせいか、何度見ても婚期を逃した残念な女の人にしか見えなかった。
「よう! イガワ! 異常事態が発生したからって鼻息荒くしている妹に着いてきたら何かえらい事になってんなオイ!」
「姉さま! エライ事も何もっ! 姉さまもここがどこだかわかっているのですが!? こんな状況だから我等も足を踏み入れてますが、そもそもここは治外法権っ! 大国レガリアの―――」
「我が国の公的な商会施設…… のはずなのだが…… いったいこれはどういう事だ?」
その声は、表門とは反対側、施設側の人間で出来た人垣の向こうから聞こえてきた。
俺は驚きのあまり、その声の主に目を向ける。
先ほどと同じように人垣が割れていき、そしてまた先ほどと同じように、その先から悠々と歩いてくるのは金目金髪の美丈夫。俺は知っている。いや、忘れるわけがない。
「どこをどう見ても違法行為の雨あられだ。氷の壁に壊れた外壁。侵入者に魔獣に他国の実力部隊に皇族。そして何よりも……」
それはかつての戦友。
この世界に落とされてすぐ、右も左もわからぬ頃から俺に生き方を教え、文化を価値観を、そして戦い方を教えてくれた、かつて仲間だった男。
「イガワ…… 裏切り者の貴様がなぜここにいる」
ライオット・ハーネスト、金の勇者がそこにいた。
騒ぎを聞きつけて出てきたのだろうか、騎士鎧は身に着けず、ゆったりとした外着を羽織って、腰に剣をぶら下げるだけの軽装だが、それでもなお褪せることのない英雄としての貫禄が人々の視線を釘付けにする。
人垣から身二つほど抜け出し、真正面から俺を睨みつけるライオットからは、抑えきれない怒りが漂っていた。
王者の風格を持つカリスマの剣幕に、二人の皇女が軽く息を飲む。
「え、英雄ライオット・ハーネスト殿とお見受けする。不躾に申し訳ないがこの場は我々に任せてもらえないだろうか。公使館敷地内は確かに貴国の領域だが、現行事件の場合は我が国にも介入する権利がある。思うところはあるだろうがここは穏便に―――」
「部外者は黙っていただけるかな。これは俺とイガワの問題だ。そうだろう?イガワ……」
吐き捨てるようなセリフに、皇女様がビクリと身を震わせた。
すると、皇女様の横に控えていた一人の衛兵が、勇敢にも抗議の声を上げる。
「くっ た、例えあなたが勇者様だとしてもっ! その言い草は我が国の貴人に対し失礼だろうっ!」
薄闇の中、金色の瞳に危険な光が宿る。
「……黙ってろ……っ」
「――っ!」
ヘロヘロと腰を抜かして座りこんでしまう衛兵。
例えライオットの実力がSランクに毛が生えた程度のものだとしても、生まれ持ったカリスマというのは恐ろしい。魔王を倒した勇者という名声も相まって、この場にいる誰もが彼に逆らえる空気ではなかった。
今、数十人もの兵士たちに見守られながら、俺とライオットは対峙していた。
だが俺は軽く笑ってしまった。笑うしかないではないか。
一難去ってまた一難。
大陸最高戦闘集団ゾディアックが来たと思ったら次は金の勇者様ときたもんだ。つくづく自分の悪運っぷりに呆れるしかない。
それに、俺もかつては金の勇者と双璧を成す、黒の勇者として名を馳せた有名人だというのに、今となってみたらこの差は何だろうと愚痴の一つも言いたくなる。
金の男が歩むのは金の道。
今や救国の英雄。世界を救った勇者で、霞がかかるほど貴く遠い存在であるその男は、巷で語られるおとぎ話にすら姿を見せる伝説の戦士だ。
方や、襟元のよれた作業着に身を包み、申し訳程度の防具を装備し、つぎはぎだらけのインナーはどちらが前か後ろかすらもわからなくなっている。毎日こまめに磨いているブーツは、買い替えたほうが早い粗悪品だし、次に入手予定の服は、日本語で「いさお」と書かれた痛重い毛糸のセーターだ。
あまりの立場の違いに、昨日までの俺ならば僻みの一つでも言って腐っていたかもしれないと思う。
だが、今の俺は違う。
ノリちゃんと一緒にいられる、ただそれだけで、俺は世界中の誰よりも幸運なのだから。
剣呑な雰囲気に戸惑ってキョロキョロ周りを見渡すノリちゃんの頭をなでる。ニッコリと返された笑顔に笑顔で返す。怖いものなんて無い。
イケメンの気配に先ほどからウズウズしていたアリアを軽くはたいて、俺は気負いない瞳で、ライオットの視線を受け止めた。
「ライオット、俺はここが領館だったとは知らなかったんだ。他意はないよ」
「そういう問題ではないぞイガワ…… 貴様は無断で他国の領内に侵入したんだ。相応の報いを受けてもらうぞ……」
「そうか……、なら言わせてもらうけど、昨日、俺の何よりも大事な家族が誘拐された。そして彼女はこの場所で捕えられていた」
「何が……言いたい……?」
「いいかな? 俺はライオットがそんな事をするヤツじゃないと知ってるから何も言わない。公館側じゃなくて商館側の連中が何かやらかしたんだと思ってる。先に喧嘩売ってきたのはそっちだけど、争うつもりは無いんだ。情けないけど何も変わらないならそれが一番いい。だけどね、こっちは我慢してるってのに、更に何かを要求してくるんだったら……、俺は俺のスジを通すぞ……っ」
ライオットが瞳をギラリと輝かせ、無造作に腰もとの剣に手を伸ばす。
俺はそれを咎めるでもなく、ただ苦笑を浮かべて言い放った。
「俺には何もない。地位も、名誉も、金も、モノも、何も無い。この世界に来てから、俺は何も持っていなかった」
「……何だと……っ?」
「だけど今はノリちゃんがいる。彼女さえいれば俺は何もいらない。どこでも暮らしていける。だから怖くなんてないんだ。失うものなんて何もないんだからさ」
それは本心だった。
召喚されたその日から、俺はこの世界の奴隷だった。
ライオット、カイエン、そしてフレイヤ。
みんな俺に良くしてくれたし、俺を支え、励ましてくれた。恩義は感じている。だけど、心の底から彼らを受け入れることは、俺にはどうしても出来なかった。
どこまで行っても彼らはこの世界の住民であることを。
憎んでも憎み足りず、呪っても呪い足りないほど嫌いだったこの世界に生まれ、死んでいく彼らの存在を、俺の深層の部分が頑なに拒絶していたのだ。
すべてを奪われ、絶望し、いつしかこの世界に復讐するのだと、そんなことばかりを考えていた時期もある。俺を召喚した連中をどうやったら極限まで痛めつけることが出来るか、毎日妄想しては自己嫌悪に気が狂いそうになった。
結局何も壊せなかった中途半場な俺は、ただゆっくりと自分が壊れていく道を選び、一つ、また一つと、何かを諦めてうずくまっていた。
俺には何も無かったというさっきの言葉に嘘は無かった。まごう事無き正直な気持ちだった。
どれだけ一緒に笑いあったところで、俺は召喚された側だし、彼らは召喚した側なのだという歪んだ平行線が縮まることは、訪れなかった。
そして俺は逃げ出したんだ。全てをを投げ捨て、全てに背を向けて。
許されない事かもしれないが、今更取り繕う必要も感じない。
だから、俺は気付かなかった。
温厚だったライオットが怒っているのは、俺が全てを押し付けて逃げ出したからだと思っていた。もっときちんと向き合っていれば、この世界というフィルターを通した色眼鏡ではなく、もっと彼ら自身を見ていれば、答えはまた違ったものになったのだろうか。俺にはわからない。
だが、それは突然だった。
今、この瞬間、肌が裏返るような悪寒に俺は思わず一歩後退った。
そして下に向けていた視線を慌てて戻し、絶句する。
「憎しみ」が俺を見ていた。
それは虚無
目玉が抜け落ちたと錯覚するほど、眼窩にぽっかりと空いた空虚な闇。
それは憎悪。
あまりにも深く昏く淀んだ感情が、眼窩の奥に蜷局を巻いている。
全身の毛が逆立つ。あまりにも純粋な殺意に身を震わせた。
そして「憎しみ」は人を呪い殺すように呪言を吐き出した。
「貴様はそうやって……、フレイヤを……っ」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「貴様はそうやって……、フレイヤを……っ」
ゾワリと悪寒が背中を駆け巡る。
ライオットの口から飛び出したかつての仲間の名を懐かしむ暇もなく、俺は反射的に後ろに飛び退った。
―――ォンッ
数舜前まで俺がいた空間を剣閃が奔る。一拍遅れて爆発した剣圧が暴風となって俺たちを襲う。
斬りかかられた。本気で。迷い無く。殺意を以て。
その事実に混乱したままライオットに視線を向ける。
本気の踏み込み、顔は俯き体を沈め、震剣アーミンガムを右手に横薙ぎの姿勢のまま、スローモーション染みた動作で、ゆっくりと顔をあげるライオットの瞳が、どす黒く煮え滾っていた。
「な! ら、ライオット! いきなり何を―――」
「死ね……っ!」
「~~ッ!!」
半ば勘で頭を右に倒す。
こめかみに触れるか触れないかの位置をアーミンガムが突き抜けていく。修飾する言葉が見当たらないほど純粋な『突き』。俯いた顔から、憎悪に歪んだ眼だけが俺を捉えて離さない。
本気だ。本気で俺を殺す気だ。
切断された髪が数本ハラリ舞うのを感じながら、俺は体を倒した勢いのまま、左回し蹴りをライオットの脇腹に叩きこむ。
分厚いゴムを叩いたような感触だけを足先に残し、バックステップで距離をとる。視線の先には脇腹を抑えて歯をむき出しにするライオット。
効いていない。障壁で勢いを殺された!?
呼吸を整え、深く息を吸うと焦げた臭いが鼻につく。Sランクを超える迫撃では往々にしてこういうイカレタ現象が起きるのだ。
「ノリちゃん、ごめん、ちょっと皇女様のところに行ってて」
「の、ノリは、あるじと……」
「ノリちゃん、今は言う事を聞くんだ。わかったね?」
「……ノリわかった」
一瞬嫌がる素振りを見せたノリちゃんだが、元々聞き分けの良い子である彼女は、緊迫した俺の顔を見るとすぐに飛び立ちティナ皇女の下に向かった。
「アリア、いけるか?」
『状況が状況じゃ。じゃが忘れるなよ。我は人の肉は好まぬ。かつての仲間となれば尚更じゃ』
「わかってる。出来るだけ穏便に済むよう努力するから」
そう言って俺はスラリとアリアを抜き放つ。
闇夜においてもなお、燐光のように仄かに光る刀身が、殺意の邪霧の中、場違いに美しく煌めいた。
戦いは――― 好きじゃない。
傷つくのも、傷つけられるのも。憎むのも、憎まれるのも。バトルジャンキーなんてのは単なるキチガイだ。あんなのは漫画の中だけで十分だ。
「勇者殿! 街中での戦闘行為は禁じられているっ! それもSランカー以上になると大陸条約でも禁―――」
「黙れ……」
だけどいつだって選択肢というのは限られている。なぜかわからないが完全に頭に血が上ったライオットを前に、倒れたチャラ男を置いてこの場を去ることは絶対にできない。一番選びたい「逃げる」という選択肢は、せめてチャラ男の安全を完全に確保してからだ。
だから今は、ライオットと向き合うしかない。
「ライオット! 話を聞いてくれ! いきなり何なんだよ!」
ここまできてようやく、なぜライオットが斬りかかって来たか、その端緒となった事実を思い起こす。
直前までしていたのは会話、そしてライオットが口にしたのはかつての仲間、『フレイヤ』の名―――
「フレイヤがどうしだんだ!? おかしいだろ! 今は違っても、俺たちは仲間だったんだぞ!」
「汚い口を閉じろ裏切り者め……っ!」
「言っただろ! 俺は裏切ってなんかいない! 逃げ出したのは事実だけどっ 俺には何も出来なかったんだ。何も無かった俺にどうしろって言うんだよっ!!!」
「黙れぇっ!!」
ライオットがゆらりと動く。それは酷く緩慢な動作に見えた。だが次の瞬間―――
気付いたら目の前に迫る剣先があった。
俺の眼球に剣が突き刺さる直前、幾重にも常時展開している障壁が甲高い和音を響かせる。複数枚の障壁が持っていかれる感覚、背中に吹き出した汗が滝のように体を伝い落ちる。
―――なんて速さだっ!
いや違う、おそらくはタイミングとフェイントなのだろう。接触まで動きは見えていた。なのに俺は反応出来なかったのだ。
衝撃は、無い。
しかし0距離で弾けた凶刃の迫力に幻痛を感じて思わず目を押さえる。
「あるじーっ!!!!」
「イガワっ 大丈夫なのかっ!?」
「勇者殿ぉっ! 剣を納めてくださいっ!! あなたがこの場所で戦闘行為に及ぶ意味を、知らないはずがないでしょう!? イガワっ 貴様も早く剣を下げろっ!」
答える余裕は無い。
そもそもこの男はこんなにも強かったか? あの頃はSランクにギリギリ届くか届かないかという程度だったのではなかったか。
身の丈に合わない【勇者】という称号の重さに抗うよう、必死に研鑽したとしても知っている。だがここまで強くなれるものなのか?
俺が強化魔法の出力を上げれば負けるとは思えないが、それでも生身でこれほど使うのか。俺がもし常時障壁を展開する臆病者でなければ死んでいたぞ。
俺は口を開く前に、念のため強化魔法の出力を上げ、障壁を戦闘状態に持っていく。油断はできない。ライオットは未だ|【換装】すらしていない《・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・》のだ。
「ライオット、やめてくれ。俺に勝てないことくらいわかってるだろ。それに俺にお前と闘う理由がない」
「お前には無くても俺にはあるっ!!」
スススっと不自然な残像を残しながら俺の目前に踏み込んだライオットが、大上段からアーミンガムを振り下ろした。
その斬撃をアリアで受け止め、俺たちはそのままつばぜり合いに移行する。
互いの息遣いが聞こえる距離からライオットを睨みつける。狂気すら籠った焼けつくような敵意が、互いに重ねる剣の上で交錯した。
「身に覚えがねー……よっ……っ!」
「何も、持っていなかった……だと……? 何も無かっただと……? フレイヤが……、フレイヤがいただろうっ!!」
「なんでそこでフレイヤが出てくんだよっ!」
「あいつは……お前を……ッッ!!!!!」
つばぜり合いから強引に体当たりを食らう。
自身の身すら顧みないその愚挙により、ライオットは自身の剣で傷ついた肩から血が噴き出し、荒い息をついていた。
なぜそこまで彼が怒り狂うのか、俺には全く分からず、困惑だけが独り歩きする。
奴隷戦士フレイヤ。
確かゼプツィール出身だった彼女は、魔王討伐の旅の補佐役、斥候としてレガリアが俺たちパーティーに付けた犬の獣人だった。後々知ったところでは、俺の夜の処理をも命じられていたらしい。
―――ねえイガワ様、あなたがいた世界は、どんなところだったのですか?
わからないよ。野球ばっかりしてたからさ。そう答えた時、嬉しそうにフサフサの尻尾を揺らしていた事を覚えている。
知識も戦闘技能も、そして感情表現も豊かだった彼女がなぜ奴隷であったのか、何者であったのか、今でもわからない。
ただ、殺伐としたこの世界では生き辛いほどに優しい人だったと思う。心を壊しそうになっていた俺の背中を、ただ黙って擦ってくれるような人だった。
―――この旅が終わって、奴隷から解放されたら自由に旅がしたいです。その時は……
「望み通りフレイヤは解放されただろ! 功績が認められて! 自由に旅がしたいって言ってたんだ! 逃げた俺と何の関係がある!?」
心の均衡を保てている今だから思うこともある。俺はきっと彼女のことが好きだった。
ふんわりとした穏やかな笑顔を、決めたら曲げない強い意志を、いつも支えてくれた優しさを、俺は異性として意識をしていた。初恋、だったと思う。
だが、当時の俺にそんな余裕なんて無かったし、それが許される環境ではなかった。
甘酸っぱい思い出と呼ぶにはその旅程は鉄の香りが強すぎた。
だから俺は自分の意思を確認する必要以上の回数、この旅が終わったら元の世界に帰るのだと口にしていた。半ば意識的に彼女を遠ざけていたのだ。
だからこそ、怨嗟と共に吐き出されたライオットの言葉に、俺は心臓をわしづかみにされるような衝撃を受けたんだ。
「あいつは…… フレイヤは……っ! お前と一緒にいたかったんだ! わかっていたはずだっ! なのにっ!!」
やめろ、その先は言うな。
どうしようもなかったんだ。それしか道が無かったんだ。なのに何故4年もたった今になって責められなきゃならない。
関係ない。俺には関係ないんだ。だから―――
「なのにお前は逃げ出したっ! あいつを見捨ててっ!」
「ふざけるな――っ!」
喉を破らんばかりの大声で叫んだ。
血が滲むほど握りしめたアリアが、腕の痙攣に合わせて地面に引っ掻き傷をつける。
俺は、忘れたかった。忘れられなかった。あの屈辱を。あの怒りを。
「俺に何を言わせたい!? 俺に一体何が出来たっ!? 地位も名誉も、明日の飯代すら無かった! 後ろを向いたら背中を狙われた! 足を止めたら囲まれた! 口を開けば罵られたっ! そんな状況で彼女をどうしろと!? ゴミを漁ってコソコソ逃げ回るような生活を彼女にさせれば満足か!? そんな状況にした国の騎士であるお前が、どの口で言うんだっ!!」
肩で息をつきながら、感情のまま絶叫する。
あらん限りの怒りを視線に込めてライオットを睨みつけた。そして俺は思わず戸惑った。
先ほどまで激情の炎を纏っていたライオットが、感情の無い人形のような能面で俺を見ていたからだ。
まるで炉端の石ころに向けるような無機質な視線を身に浴びて、たじろぐ俺に向かって、金の男は独り言のようにつぶやいた。
「フレイヤはお前を追って…… そして―――」
その先を聞き取ることができなかった。
なぜなら……
―――バリバリバリィィッ
轟音。
「な、何だっ! 何の音だっ!?」
「砲撃か!? 一体何が……!?」
いきなり空に鳴り響いた破裂音とも破砕音ともつかない大轟音に、この場にいる全ての者がビクリと身を縮こませる。耳を塞いで座り込む者がいるほどの異常な音。
数舜、事態が呑み込めずに呆気にとられていた周りの衛兵たちが、我に返って騒ぎはじめる。
そして、軽く地面が揺れるのを感じた。
地震か!? いや違う。地震の揺れ方ではない。そもそもこの地域では地震など起きないのだ。
すると動揺冷めやらぬ俺たちを、今度は衝撃波が襲った。
慣れない地揺れと突然の突風に、バランスを崩して倒れる者が続出する。何だ、一体何が起きている!?
俺は未だ感情のない自動人形のように佇むライオットを視界から外して、反射的に愛する家族を確認する。ティナ皇女の腕の中、不思議そうにキョロキョロとあたりを見回すノリちゃんを確認して心底ホッとすした。
すると幾人かの衛兵が西の方を指さし、口々に何かを叫びだした。俺は恐る恐る彼らの指差す方を目で追って、そして絶句する。
何が起きた。西の空が……
「燃えて、る……!?」
西の空が白く燃えていた。無数の光の柱が天に突き上がり、夜空を照らしつける。
思わず見とれてしまうほど巨大で膨大な無数の光の乱舞。
燃えている? いや違う。あれは、まさか……
「始まった、ようですね……」
今や慌ただしく怒号飛び交うこの場所で、普通なら聞き逃してしまいそうな囁き声を、俺の耳は拾った。
猛烈な違和感を伴うそのセリフが聞こえてきたあたりに、俺は思わず視線を向ける。
そこには金色のバングルをつけた一団。ライオットと共にこの場に出向いたであろう、金獅子騎士団の団員たちが状況を把握しようと動き回っている。そしてその中、ただ一人身じろぎ一つせず、カミソリのように薄い笑顔を浮かべて西の空を見つめる若い男。確か街でライオットに遭遇した時、ライオットの隣にいた優男だ。
本能的に理解する。奴は何かを知っている!
「おい、お前何が起きているか知って―――」
―――キュイィィィィ
男に向かって一歩踏み込んだ俺は固まった。全身の体毛が逆立つ。
その魔響音、その赤い照射光。
待て、ふざけんな! それは、こんなところで起きていい現象じゃない!
街中で、人がいるところで許される魔法じゃない。
「レイ・ガンっ!? 禁呪じゃねぇかっ!? 街中で発動だとっ!?」
驚きと恐怖で唾を飲むのも忘れながら西の空を振り返る。
そして俺は見る。西の空一面に浮かぶ血のように紅い幾何学的紋様、ハルケーニ法分則により構築された次元複層構造による疑似立体魔法陣。それが齎すもの、それは
「血の雨 サジタリウス……」
ゾゾゾと蟲が背中を這いまわるような恐怖が俺を捉えて離さない。
超高位魔導士による大規模戦闘、それも街中で……っ
一体何人死ぬ? 何十人、何百、いや、何千人死ぬ?
焦りだけが空回りした。瞬きを忘れて乾ききった目の痛みと、頭が割れそうなほどの耳鳴りが何とか俺の正気を踏みとどまらせる。
すると、突然、レイ・ガンの魔道砲台が焼失し、西の街区に結界クラスの大規模障壁が編み上げ始められた。
その見知った強大な魔力に、俺は全てを悟る。
敵は、ゾディアック。そして
「ドロテアが闘ってる!」
行かなきゃ。そう思った。
正直ドロテアが負けるはずが無い。そんな事態は想像もできない。本気の俺だって彼女の前では数分と持たずに敗北するだろう。彼女の技術は相手に魔法を使う暇すら与えない。傷一つ負うことなく完勝する事が唯一の勝利と豪語する超越者は、俺相手にでも同じことをやってのけるだろう。
だが、現に今、戦略級魔法が起動しているという事実。何かが起きたのだ。
ノリちゃんすら捉えた神器モドキ。それと同じようなモノを相手が持っているとしたら……
「クソっ 待ってろ! 今行くからなっ!」
やることは決まった。
チャラ男には申し訳ないけど、そんな生易しい状況ではなくなった。後で絶対に何とかするから、今だけは許してくれ。
「ノリちゃん! あるじちょっと行ってくるから待ってて! 皇女様の言う事をちゃんと聞くんだ。出来るね?」
「おるすばんはノリにまかせてっ!」
「良い子だ! ティナ皇女様っ! ちょっとだけ、俺のノリちゃんをお願いします。俺は行かなきゃ!」
「わ、わかったよ。よくわからないけど無事に帰って来いよ!? 天使ちゃんはあたしに任せな!」
「ありがとうございます!」
表門に目を向けると、すでにオフィーリア皇女様が即席部隊の編成を済ませ、現場に向かおうとしていた。指示内容を聞く限り、兵士たちを戦闘現場には向かわせずに周辺住民の救助に充てるらしい。そして数人の兵士を伝令にやり、治療部隊を出撃させるよう命令している。的確な指示だ。あのクラスの敵相手に、一般兵など百人いても意味が無い。
そうして少しだけ冷静になった俺が表門へと一歩踏み出した時だった。この場にいる全ての人間の意識の隙間を突くように、ゆらりと、幽鬼のような動きで、俺の行く手を阻むように正面に回り込んだ男がいた。
そして男はゆっくりと口を開く。
「【換装】」
その瞬間、男は金色の光に包まれた。
そして暴力的な光が弾けるように消えた先、その男、【金の勇者】ライオット・ハーネストは、光り輝く金色の魔導外骨格を身にまとい、震剣アーミンガムを胸に掲げた
「どこに行くイガワ…… 俺の闘いは終わってない……っ!」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「どこに行くイガワ…… 俺の闘いは終わってない……っ!」
ドンっという音すら伴い、闘気が爆発する。
慌ただしく駆け回っていた人たちも一瞬静まり返り、ギョッとした顔で俺たちに注目していた。
俺はフルフェイスのヘルムの向こう側、見えないはず音瞳に狂気が宿るのを確かに見た。
「俺の戦いは始まってもいねーよ! 打ち切りENDはどうでもいいからどけろ!」
軽口を混ぜて毒づいてみるも、この戦いがすでに回避できないものだということを本能的に悟る。
ドロテアが心配だ。チャラ男の事もある。避けられないならば踏み越えていくしか道は無い。
「俺が4年前のままだと思ったら大間違いだ…… お前が……っ!」
素直に強くなったなと思う。
4年前、彼の【換装】はこれほどのものではなかった。魔力で顕現化した金色の西洋甲冑を着こみ、肉体との相互作用で全体的な能力を引き上げる程度の効果しかなかった。
だがどうだろうか、俺は金色のオーラを纏うライオットであろう巨人に目を細めた。
もはや「鎧」や「甲冑」と呼ぶのは難しいレベルまで魔力で練り上げられた武装は、身の丈4mほどはあり、近未来SFアニメで見かけたことのある強化外骨格のような様相を呈している。
思いの外スリムで流線的なフォルムはどこか女性的で、胴体部分にうっすらと見えるライオットの存在が、目の前の金の巨人が【換装】であることを物語っていた。
ライオット本気の戦闘形態に俺は思わずため息を一つ、そして本日2度目となるエゲつないレベルの強化魔法を行使した。出し惜しみする必要は無いだろう。
彼我の距離は10数m程度か、ここまで来たら言葉はいらない。全力で叩き潰すのみだ。
「お前がフレイヤをぉぉぉぉ……っっ!!!」
巨人の後部スラスターが爆発的に火を噴く。風が唸り声を上げた。
地を這うような突進で、光剣と化したアーミンガムを地面を削り剥がしながら切り上げる。
俺は受けることをせず、一旦仕切りなおすよう空に飛びあがった。
障壁に自信はあるものの、黙って斬られるほどの勇気は無いし、受け流すほどの技量もない。そもそも大質量の体当たりとセットの斬撃など、止まっていたら命がいくつあっても足りはしない。
おそらくパワー、スピードともに、生身の時の数倍は出力が上がっているだろう。
だというのに、俺はまるでスローモーション再生のようにライオットの動きを正確に補足していた。
ライオットは俺が空に逃げたのを認識するや否や、超スピードのまま、生身では不可能な態勢で上半身を反転、再びスラスターに点火すると追尾ミサイルのように空に舞った。
「ちぃっ!」
即座にデコイとフレア巻き散らす。
パパパッ と無数の閃光が夜空に弾け、人々が顔を顰めて手をかざした。そして、ネタで作ったへのへのもへじの人形が次々と破壊される中、俺はしれっと地面に降り立つ。
いくらスピードが速くなろうとも、直線的な動きに恐ろしさは無い。なぜなら単純出力では最終的に俺が上回るからだ。
半ば視界を閉ざされているであろう空中で、やみくもにデコイを借り続けるライオットを眺めて、俺は苦虫を噛み潰したような顔でぼそりと呟いた。
「お前が、俺に勝てるわけ、無いだろう……っ」
この世界の人間が積み重ねた努力を、異世界から召喚されたという、ただそれだけの理不尽が容易に踏み躙る、ここはそんなどうしようもない世界だ。悲しいくらい過程など関係ない。強い者が勝ち、弱い者が負けるのだ。
俺は奥歯を噛みしめながら、右手を空に掲げた。
「神縛る鎖」
それは元概念魔法。
概念魔法として誕生し、演繹的に理論を解き明かすことで魔道として確立した古の技術。
時間という概念をすっ飛ばしたチートな鎖が、文字通り、瞬時にライオットに巻きついた。この魔法の前では大きさとか実態の有無とかは関係ない。「縛る」という概念が発動し、それを実現するのみだ。
無残に縛り上げられたライオットがようやく地上の俺に気付き、驚愕している。
「障壁崩し」
パリンッ と何かが壊れる澄んだ音が、宵闇にやけに大きく響き渡った。今、何が起こったのかを正確に悟ったライオットの目が見開かれる。
戦いはこれだから嫌いだった。正義と悪とか、子供じみた二択で俺は割り切れない。
持てる者の傲慢だと自覚していても、相手の自負やプライド、様々な想いを踏み躙る側だって、同じく心を摩耗していると言ったら誰か信じてくれるだろうか。
だからこそ俺はこの戦いを一撃で終わらせる。このクラス相手に容赦なんてできない。徐々に本気を出すなんていう厨二行動は妄想だけで十分だ。
俺は軽く目をつぶると、思い切り右手を振り落ろした。
―――ズゥンッッッ
それはさながら爆撃のよう。
今代の英雄は飛翔音すら発生させながら地面に着弾した。
響き渡るのは爆音。吹き上がるのは粉塵。
人々が爆風に耐えるよう、地面に足を踏ん張りながら事の結末を見定めようとしている。
俺は胸に宿るやり切れなさを抱えながら、出来たばかりのクレーターに向かって歩を進めた。
爆心地には、何も出来ずに地面に叩きつけられた金の勇者。障壁を破壊されたといっても【換装】していたのだ。ダメージが深くても死ぬことは無いだろう。
ライオットは立ち上がろうととして踠き、そして崩れ落ちるを繰り返していた。その姿を無様ととらえるか、尊ぶべき執念と捉えるか、それは立場によって変わるはずだった。少なくとも努力もせずチートを授かっただけの俺が決めていい事では無い事だけは確かだ。
浮かべているのは苦悶の表情、体が言う事を聞かないというのに、その瞳だけが爛々と燃え盛っている。俺はその瞳を直視できず、それこそ無様に視線を逸らした。
「ライオット、俺は行くよ……」
なんとかその言葉だけを絞り出して、俺は踵を返す。
気付けは周囲は静まり返っていた。何となしに見回すと、人々が怯えたように後退った。
レガリア側としては、レガリア最強の戦士がこうもあっさり無力化された事に衝撃を受けているだろうし、ゼプツィール側としては、大して見たこともない小汚い冒険者が大陸の英雄を倒したことに絶句しているのだと思う。
俺は化け物だ。言い訳はもう諦めた。畏怖、恐怖、嫌悪、憎悪、驚愕、興味。様々な感情が交錯する戦場を、せめて俯かないよう前を向いて足を踏み出す。その時だった。
「殺、した…… お、まえが……っ!」
それは単なる呻き声。
敗北した英雄がみっともなくも、やっとのことでひり出した力無い捨て台詞。
だが、しんっと静まり返った広場に、やけにその呻き声は高く響き渡った。誰しもがその台詞の意味も分からないまま、ゴクリと唾を飲みこむ。
俺は無意識的に足を止めていた。
無視しても良かったのだと思う。また言いがかりかと、聞く耳持たなくても良かったと思う。
だが、俺の背中に叩きつけられた言葉は、聞き流すにはあまりにも重く、そして、鋭かった。
「俺が、殺した……? 何をだ……」
ライオットが苦悶に表情をゆがめながら、地面の土を毟り取る。ゴフっと吐血し、歯ぎしりしながらゆっくりと顔を上げ、そして言い放った。
「フレイヤは…… 死ん、だ……っ! お前、が、殺したんだ……」
――――この旅が終わって、奴隷から解放されたら自由に旅がしたいです。その時は……
「は、ははは、お、お前は何を言って―――」
何を言っているのかわからなかった。
いま地面で這い蹲っているこの男が誰なのかもわからなかった。
金の瞳から決壊したように流れ落ちる涙が、俺の視界に張り付いて剥がれなかった。
「お前がっ! フレイヤを……っ! み、見捨てられて…… そ、それでもお前を、追って……っ!」
―――その時は一緒に、世界を見て回りませんか……? イガワ様もきっと……
「嘘だ……」
「殺されたよ……っ! 何者かにっ! 無残にっ! あいつは…… 死んだんだっ!!!」
―――イガワ様もきっとこの世界を、好きに……
「嘘ついてんじゃねえクソがぁぁぁぁぁっ!!」
殴った。馬乗りになって。
障壁も張れず動けない相手を。何度も。何度も。何度も。何度も。何度も。
何度も殴った。
嘘だ。この男はウソをついている。そうに違いない。
恐ろしかった。ただただ恐ろしかったんだ
これ以上口を開かせてはならないと思った。そうしないと、この男が言っている事が本当になりそうで。だから黙らせようと、俺は拳を振り上げ続けたんだ。
「イガワ! やめろ! これ以上は死んじまうぞ! おいイガワ聞けぇ!!」
「放せ! ティナ皇女様、放せっ! こ、こいつはう、ウソをっ! あいつが死んだなんてウソをっ!!」
「落ち着けイガワぁっ!」
放せ、放せよ。
放せ放せ放せ放せ放せ放せ放せ放せ放せ放せ放せ放せ放せ放せ
俺を放せ! 今すぐ放せ!
こいつを、こいつを黙らせないと俺は―――っ!
「お、前も、わかって、いたはずだ…… 亜人排斥主義の、国、で…… 英雄の、ぐふっ パ、パーティに、獣人の、奴隷がっ いることの意味をっ ガぶぅッ おま、えが、敵対して、消えたら、彼女が、どうなって、しまう、かを……っ!」
「て、てぇめえぇぇぇぇぇぇぇぇぇ~っっ!!!」
「がはっ」
蹴った。
羽交い絞めにされて拳が届かないから、届きそうな足で蹴った。
「あるじー!! めぇぇぇぇぇぇぇぇぇ~~~~~!!!」
「の、ノリちゃん! そこをどくんだっ! こ、こいつは、ウソをっ ウソをついているんだ! 酷いウソをっ! 悪いやつなんだっ!!」
「あるじがまちがったら ノリがとめるって…… あるじゆったもん!!」
「ノリちゃんっ!」
「いい加減に―――しろ―――っ!!」
――――パァンッ
フッと、
力が抜けた。
カクンっと力が入らなくなった膝を折って膝立ちになる。
火傷したように熱い左頬を、ただ茫然と押さえて視線を上げる。
俺を見下ろすティナ皇女様が、痛そうな、苦しそうな顔で右手を押さえている。
顔中血まみれライオットが子供のように顔をくしゃくしゃにして涙を流している。そして、
「あるじ! ひぐっ めぇ~って ふぐっ ゆったもん!」
ノリちゃんが大粒の涙をこぼしながら、俺の前に両手を広げて立ちふさがっていた。
彼女は、他でもない俺から、ライオットを守っていたのだ。
世界が崩れ落ちる音を聞いた。世界が色を失った。
2年間、彼女の前で積み上げてきた道徳とか建前とか、取ってつけたような薄っぺらい価値観が盛大に砕け散った気がした。
俺は今まで何をやっていたんだ。
何だ俺は。
2歳の女の子に、誰とも知らない男を守らせるような
そんな最低の事をやらかしたのか。
「の、ノリちゃん、ち、違うんだ……俺は、コイツを―――っ」
「イガワっ!」
愛しい家族に、浅ましい言い訳をしようとする俺に向かて、鬼の形相のティナ皇女が左手を振り下ろした。
バシンッ と盛大な音を響かせて、呆けたように皇女の顔を見上げた。
尖った鼻、常に出来ているえくぼ、怒ったときにハの字形になる眉毛、そして、決して折れない強靭な信念を宿した瞳。
そこに、決して消えることのない、大切な追憶の彼方、俺たちを眩しく照らす、俺たちの大将の面影を見る。
「せ、せん、せい……」
「イガワ、センセイだか何かは知んない。だけどね、あんたは今、過去に囚われてるヒマはあんの!? あっちを見ろっ!」
記憶と現実の境界線も曖昧なまま、俺は皇女様の指差す方へ、緩慢な動作で首を向けた。
火柱が上がっている。光が明滅するたび、数秒遅れて爆発音が届く。俺の世界に急激に色が戻ってくる。
そうだ、あそこではドロテアが―――
「あんたが目を向けるべきは前か!? それとも後ろかっ!? あんたが過去に耐えられなかったら頭ァ撫でてやる! 泣きたくなったらあたしが抱きしめてやるよっ! だけど、前向く時に俯いてたら、あんたは「今」を失うぞっ!? 今と向き合わない奴に未来なんて無い!」
「せ、せんせい……お、俺は……」
ふわりと場違いに鼻孔を擽った甘い香りに、一瞬何が起きたのかがわからなくなる。
ギュッと抱きしめられたのだと気付いたのは、耳元で噛みしめるような囁き声が聞こえたからだ。
「帰ってきたらキンキンに冷やしたエールで乾杯しよう。あたしの奢りさ。この世界を憎んでいたってかまわないんだ。過去に何が起きたのかだって、ちゃんと聞いてやる。お姉さんの胸に吐き出しな。だからお前は行ってこい。大事な人が闘ってんだろ? 安心しろって。あたしはお前の見方だ。この場は何とかしといてやる。倒れてる冒険者の処遇も任せとけ。だから……」
皇女様は、優しく俺の肩を押して、慈母のような微笑みを浮かべ、そして、強い口調で言い放った。
「だから、『今』を失うな」
不思議とその言葉がストンと胸に落ちた。
なんてことはない。有体に言えば、過去の話はとりあえず今は棚上げにしておけと、そう言われているのだ。
ただの言い訳のようにも聞こえる。詭弁の類だと俺は思う。この国と一蓮托生の皇女様の口から出た言葉となれば、全てを素直に聞けるほど綺麗な人間ではなくなった。
だけど、過去と今、どちらか選ばなくてはならないのだとしたら、必死で頑張るノリちゃんのためにも、何より俺自身のためにも、歯を食いしばって『今』を取らなきゃいけない。過去を美化したところで、今は何も変わらないのだ。
フレイヤの事は……
チラリと気を失ったライオットに目を向ける。このままではいられない。彼女の優しい心を穢した者がいるというのならば、俺は絶対に赦しはしない。
でも、全ては今、この街に降り注ぎそうになっている、あの戦略級魔法を止めてからだ。
「先生ありがとう、今は……行ってくるよ…… チャラ男を頼みます」
「任せておけって! あ、そうだ! ノリちゃん! ノリちゃんこっち来て!」
ノリちゃんがふよふよとティナ皇女様に近づいていく。
未だ涙目のノリちゃんを見て、心が張り裂けそうになるも、黙って二人のやり取りを見守ることにした。
「ノリちゃん、いいかな? 君のあるじは今から戦いに行く。ノリちゃんはどうしたいかな?」
「ノリはあるじをやくだつたい!!」
「そうか、じゃあノリちゃん、行っといで!」
「ちょ、待ってくださいよ皇女様! 危ないところに行くんだ、勝手に決めな―――」
「イガワ、今あたしはアンタに聞いていない。今後の事を考えたって、ノリちゃんもこのままではいられない。あたしはノリちゃんの覚悟を聞いているんだ」
「だ、だからって……」
黙ってろ! と一括されて、条件反射的に身を縮こませる。俺は一生、この皇女様には逆らえないのだと、本能的に理解した。
皇女様は優し気に微笑むと、ノリちゃんの頭をよしよしと撫で始めた。
「ノリちゃん、君の主はね、今までいっぱい大変な思いをしてきた。これからもきっと大変だ。だから君は主を支えいかなきゃならない。いいかい? 主が君を守るんじゃない。君が主を守るんだ。わかるかな?」
「まも、る?」
「そう、君が泣きそうな時、きっと主がいっぱい助けてくれただろう? 君が怖い思いをした時、きっとあるじがギューってしてくれただろう? 守るってのはそういうことだよ」
途中までふいーふいーと難しい顔をしていたノリちゃんだったが、最後の皇女様の台詞に納得がいったのか、少しも悩むそぶりを見せないまま、右手をピーンと元気に上げた。
「はいはいはーい! わかった! ノリそれわかりました! それはノリがずっとしたかったやつでした!」
俺が唖然とそのやり取りを眺めていると、皇女は、おもむろに俺のケツをバシンと叩いて、白い歯をむき出しにニカっと笑った。
「オラ、守るだけが愛じゃねーぞイガワ。甘やかすだけじゃ本人だって納得しない。さ、行ってこい! ノリちゃんと一緒によ!」
「わ、わかりましたって…… ノリちゃん、ほんといいの? 危ないんだよ……?」
不安も不安だ。言いくるめられたような気がするし、今からでも前言撤回してノリちゃんを預けていきたい。だって、今から足を踏み入れる場所にはシャレにならない超戦力が勢ぞろいしているんだ。いかに彼女が神竜で、異世界最強の覇者なのだとしても、彼女はたった2歳の女の子で、保護者として多少過保護になってもしょうがないじゃないか。
そうして、未だに葛藤を続ける俺に向かって、守るべき愛しき天使は、強く気高く言い放ったのだ。
「ノリがあるじをまもるんだからっ!」




