金色のブレイブ・ハート・ストーリー金色の⑨
「ふう、マジやり過ごしたかぁ……」
オレは思わず呟いた。
夜明け間近の高等区、建物の陰に身を潜めて警邏の兵の背中を視線で追う。
この国は誰もが認める軍事大国である。魔境の脅威にさらされ、常に戦火の危険を孕みながら成長した国家であるため、みな当たり前のようにその事実を受け入れていた。
そうして必然的に高められた個々の兵の実力は他国と比べるまでも無い。地力が高いというのは一市民としては頼もしい一方で、オレのような職種にとっては悩みの種だ。
「はぁ…… マジ高等区の衛兵のレベル、マジ高ぇっつーの……」
冷や汗を拭いながらため息を一つ。
中等区、一般区ともなると話は別だが、ここは国にとって重要人物たちが居を構える高等区。他国の公館も立ち並び、安全に対する担保は過剰なほど設定されている。
偵察や諜報に適する時間帯が夜であることに異論はないだろう。真昼間から不審者が闊歩していたら一瞬で取り囲まれて拘束されるのは当然の話で、人の目の開いている数が多ければ多いほど、諜報という活動は困難になっていく。
ならば夜に、と安易に考えられないところが、この国の武力の高さを証明してるといえるだろう。斥候職が務まるのではないかと思うくらい、夜番の兵士達の技術は高く、そして鋭い。先程も、Aランクの斥候職であるオレの気配が察知されかけて肝を冷やしたばかりだ。
「まぁ、マジ安全に活動するならマジこの時間帯しかねーっつーか」
夜明け前、それは3交代制の兵たちの交代の時間帯だ。今やりすごした兵の他にも、多くの兵達が内壁近くの屯所に向かっている事だろう。
この警戒の切れ目しか思い通りに活動できる時間帯は無いのだ。
「マジ今の内にチャッチャとやっちゃおうっと」
俺は通りに飛び出すと、目当ての建物に向かって走る。目的はこのヤバイ高等区の中でも一等ヤバイ場所
、正直この依頼を受けなければ良かったと後悔しているが、最初からこんな事になるとわかっていれば苦労はしない。国からの指名依頼ということで疑ってかかるべきだったが、今となってはもう遅いのだろうし、受けた依頼は最後まで果たすのがオレの矜持だ。
「っつかさぁ、国だったらマジ便宜ぐらいマジ図って欲しいんスけど……っ」
口に出しておきながら、それが無理だということは解っている。
自国で収まる範囲の話ならば、それこそ赤絨毯すら敷いてくれたかもしれないが、今回はそんな生易しい話ではないのだ。
「マジ他国の公館にマジ潜入…… はあ、マジだりぃ……」
そもそもの依頼の内容であったのは『不審な失踪をした冒険者の調査』だった。
それがこじれにこじれて、いつのまにか神器がうんぬんの話にまでなってしまったのだ。
そして、それらしいブツが他国の公館に持ち込まれたらしいという情報を掴んだのだから、行かないという選択肢はあり得ない。現場たたき上げの斥候職であるオレ以上の適任がいないということも解っているが、それでも貧乏くじを引いてしまったとの思いは拭えなかった。
そうして悶々としているうちに、あと一つ通りを抜ければというところまで来る。
建物の陰から通りの様子を伺っていると、向こうの方で一瞬影がよぎった。一瞬体を強張らせるも、こちらに気付いた動きではなさそうで胸を撫で下ろす。
素通りしたいのも山々だったが、素通りできないルートにその影が居座った事を確認して、俺は再びため息をついた。よく見てみると、その影に見覚えがあったからだ。
オレは周囲の警戒をしながら、完全に気配を殺して影の背後に近づく。そして影の肩に手を置いた。
「いぇい ニック。マジ元気~?」
「うわぁっ!! チャラオさんじゃないっすか! びっくりさせ―――モガっ」
「し~~! マジ声デケェし!」
とっさに手で口を塞いだので、まだモガモガ言っているが、落ち着いた様なので手を離す。そして極限まで声を落として話しかけた。
「っつーかさー、マジお前こんな所でマジ何してんの?」
この街で冒険者をやっていたら、高等区に忍び込む事の危険性を知らないはずは無い。
もちろん、問答無用でどうこうという話ではないし、子供が誤ってとかいう話なら別だが、無許可で夜間で隠れてともなると、何をされるかわからないし、されても文句など言えるはずが無い。間者や不埒者だと判断されれば尋問と称した拷問で、死ぬより酷い目に遭わされる事を、いい歳した冒険者が知らなかったでは済まされない話なのだ。
隠居してしまったと噂の魔獣使いのオヤっさんを筆頭とした高ランクパーティー 【ハンターズ】 で斥候職として成らしたこの男の実力を以てしても、この区域は絶対安全には程遠い。
だからオレは訝しげに眉を潜め、ニックに問いかけたのだ。
「高等区はマジヤベェって。マジなんかあったの?」
「え? チャラオさんは違うんですか? 夕べ、オルテナ様…… オルテナさん個人の緊急依頼が発布されて、あの白い幼竜をみんなで探してんスよ」
「え、マジで!」
「いや、マジッスよ。オルテナさんからの依頼だし、幼竜は街の恩人だし、みんな必死で探してますよ。さっき、三興国の関与無しって報告がされて、後は高等区しか無いってことで先遣隊の俺達が区域内を潰して回ってたんスよ」
色々話を聞いてみると要するにこういう事だった。
昨日の朝からノリちゃんが行方不明になり、半狂乱になったイサオちゃんがオルテナさんを連れだってギルドを訪れ、オルテナさんが身銭を切ってノリさん捜索の緊急依頼を発布した。
そして、金目当ての冒険者や、恩義を感じている冒険者達が鼻息荒くする一方、コイツらオルテナ親衛隊が全く別の理屈から組織だって動いている。と。
「どうしたんスかチャラオさん? そんな難しい顔しちゃって」
「ん? ああ、マジなんつーか? マジ繋がっちゃったっつーか? それもマジイヤな方向で。ああ~ マジそういう事か~……」
ああ読めた。マジ読めたよマジ面倒臭ぇ……。
オレは思わず頭を抱えた。
神器かどうか確定は出来ないとしても、考えてみればそれに準ずるような大層なシロモノがそう簡単にホイホイ持ち込まれるハズがなかったのだ。
「あ~ マジアレだわ。マジ貧乏クジだわ。マジ心当たりあるけどマジお前も来ちゃう系?」
「え、本当ですかっ! 是非っ! 俺も行きたいです! 連れてってください!」
持ち込まれたブツ。持ち込まれた場所。いなくなったノリさん。
これを繋げれば馬鹿でもわかるあからさまな思惑達。たかだか行方不明の冒険者の調査から始まった任務の終点がソコだったら、頭も抱えたくなって当然だ。
正直、ここまできたら依頼の範疇を越えているにも程がある。
例え俺の矜持に反したとしても、今この場で逃げ帰っても誰も責めやしないし、戻って報告の一つでもすれば「よくやってくれた」と上々の評価を得る事が出来るだろう。
向かう先も、待ち受ける背景も、とてもじゃないが報酬には釣り合わないし、オレには手に負えなさ過ぎる。
「はあ…… マジどうすっかなぁ~~……」
選択肢はいくつかあった。それらをざっと広げて見てみると、たった一つを除けば苦も無く上々の結果を残せる道ばかり。
帰って報告も良いだろう。ニックに情報を与えて丸投げするのが一番効率がいいだろう。
考えてみれば斥候職なんてこんなことばかりだ。そもそも本隊が寝ている間に働くのがオレたち斥候職なのだ。なのに本隊が起きている間に寝ていたらサボっていると誹りを受ける。報酬分配が納得できないと抗議を受ける。
目立たない。面倒臭い。報われない。それがオレたちだ。不平等にも程がある。
真っ当になんかやってられるワケがない。馬鹿正直にやってたら命がいくつあっても足りやしない。こんな危険な貧乏くじを引かされるのは、いつだってオレ達斥候職だ。
そう考えたら答えなんて最初から決まっているではないか。
だからオレは同じ斥候職であるニックに言ってやったのだ。
「ダチがマジ泣きしてるっぽいからさー、マジしゃーねーっつーか?」
依頼なんざ知ったことか。
オレはオレのやりたいように動いてやる。
その気になればこの国を更地にできる力を持ち、そしてそれ以上の力を有した存在と一緒に暮らしているオレの友人。アイツが力でなんとかしようと思えば、多大な犠牲の上に、今よりよっぽど贅沢な暮らしが出来る筈だった。
しかし、それを良しとせず、良しと教えず、一生懸命必死に前を向いて歯を食いしばるアイツが困っているというのに、何もしないで何が友人か。
オレはそこまで落ちぶれちゃいない。
「それにオレマジ最近、新魔法マジ編み出しちゃったからさ~ 潜入とかマジラクショーだから。行っとく?」
「行きますよ。ちなみに場所はどこですか?」
それが問題だったりする。
こうして高等区で危険な橋を渡っているといっても、所詮はゼプツェン皇国内での話だ。だが今から向かう先は違う。そこではこの国の法も権力も武力も、正当な理由無くして通用しない。
自国に在って自国ではない場所。そう……
「はっは~ レガリア帝国公使館地下層、マジ戦争♪ ニック、マジ絶句ぅ~♪」
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「……門限は八時って言ってあるのに」
少しだけ悲しい事があったので、オリピーが帰ってきたら『おっぱい吸ってやる光線』で弄ってやろうと思っていたら、何故か全然帰ってくる気配が無い。
娘に、魔王城ゼプツィール支所は門限八時だと厳しく言い聞かせてあるにも関わらずだ。
ちなみに、未だに娘は「ここは魔王城じゃなくて私のおうちだもん!」と涙目で抗議してくるが、いつになったら諦めるのだろうか。次期魔王がそんな甘っちょろいことを言ってても困る。あとメリアナに知られたら怒られるので内緒にしておいてほしい。
とにかく、娘は娘で強いので全然心配はしていないが、いっくんのところに遊びに行ってるのではないか心配だったので『バー新世界』で一杯ひっかけた後に探しに行ったのだ。しかし……
「……いっくんもノリもいない」
もちろん探しに行った先はいっくんのアパートだった。
オリピーが来てなかったら来てなかったで、いっくんと子作りの隙を窺えばいいので万事問題無いはずだった。むしろ見つからないほうが良かったりする。
しかし、開けっ放しになっていたドアを開けて彼の名を呼ぶも、一向に返事は無かったし、誰かがいる気配も無かったのだ。
お隣さんなら知っているかもしれないと、隣の扉をノックしたら「今大事なところなので待って下さーい」という返事。
少し待っても中々出てこないので、とりあえずドアを吹っ飛ばして入室してみると、全裸で四つん這いになり、軟膏らしきものを塗った指でお尻の穴に蓋をしている男がいた。
「待ってくださいって言ったでしょう~~~っっっ!!! 何考えてるんですかぁ~~っっ!!」
私は十分待ったし、お尻に指を突っ込むのを待たされていたと思うと、何考えてるのか問いたいのは私の方だった。
だが、彼は愛するいっくんのお隣さんだという事は違いないし無茶は出来ない。
そして、彼にとっては私を待たしてまでもその行為が重要だったと考えると、よっぽどお尻に蓋をしたいに違いないと私は思った。だから私は少しだけ親切心を見せる事にした。
「……荊杭」
鋭い棘だらけの極太の杭を、彼のお尻に打ち込んであげる。
「ひぃあああああああぁぁぁあぁああ~~~~~っっっ!!!!!」
すると彼は悲鳴にも似た歓声を上げ、バタッと倒れて動かなくなった。
目的を達して寝てしまったのだろう。
あの杭は棘が引っかかって中々抜けないように出来ているので、彼も喜ぶに違いない。
「……あ、情報収集」
寝てしまったのを起こすのもかわいそうなので、反対隣のドアをノックする。
「こんな夜中に誰だっ! 常識というものをわきまえたまえっ!!」
勢いよく開けられたドアから、いつかの筋肉ダルマが大胸筋を見せつける様なポーズで出てきた。
私はため息をついてドアを閉めようとしたのだが、筋肉ダルマが被っているパンツに目が留まる。男が呼吸するたびにフゴフゴと盛り上がるソレは、間違いなくオリピーのパンツだった。
「……ぷっ」
「何が可笑し…… あ、あなたは可愛らしいお嬢さんっ! 今日こそパンツを見せて下さいっ!! この前は暗くて見えなかったのですっ!!」
「……えい」
私は浮気はしないし、浮気要素を見せる事すら嫌なので、とりあえず拘束して放置しようと思ったのだが。
「ふっ! 同じ手は食らいませんよっ! さあっ! 私にパンツを見―――」
「……えい」
「同じ手は食らわないと何度言ったらわがぶふぅっ!」
とりあえず固いやつで頭を叩いておいた。死にはしないだろう。多分。
とにかくお隣さんは何も知らなかった。
他を当たろうと、倒れた男の横を通り過ぎた時、男の頭から流血しているのが目に入る。一応将来のお隣さんになるかもしれないので、治癒魔法だけはかけておいた。
ちなみに、オリピーのパンツが赤く染まっていて、ちょっと重めの月の日みたいになっていた。
「……ぷっ」
そんなこんなで私はギルドに向かう。
この街の知り合いなど数えるほどしかいない。敵対勢力かも知れないが、いっそのことギルドに行って聞いてみたほうが手っ取り早いと思ったからだ。
すると、ガクガク体を震わせ、命乞いと共に職員が教えてくれた情報。
「……ノリがいなくなった?」
有り得ない。
一時は力を注ぎこんだあの子だからわかる。ノリといっくんはもはや精神的には一心同体だ。
それはどちらかが無くなれば、どちらかが壊れてしまうほど相互に依存し合う歪な関係。
それが健全か不健全かの議論は置いておくとして、自発的に彼女がいっくんの傍を離れるなど有り得ない。そんなことは彼女と会って間もない私にだってわかる事だ。
他ならぬいっくんもそう思ったに違いない。だから探しに行ったのだ。
「……でもノリほどの存在が身動きがとれない状況とは」
この街で何かが起きている。
聖12騎士とも無関係ではあるまい。
マイノリアとレガリアの最高戦力が一同に集結し、この世界の根幹たる存在【神竜】が姿を消した。
これを無関係と考えるほどおめでたい頭はしていないつもりだ。
何か大きな流れが今この街を襲っているのだ。
「……とにかく私も探す」
そうして、拠点が置かれているという西の広場に私は向かった。誰が絵を書き、どこに着地点を見出しているのか解らないが、とにかく情報を集めなければ話にもならない。
「……敵は、誰?」
歩きながら少しだけ俯いてそう呟く。
チクリと胸が痛んだ。
友情すら育みかけていた彼女の口から浴びせられたあの言葉が頭を過ぎる。
―――私達は、敵だ。
「……そんなことはない。私達はきっと……」
人間も魔族も、異世界人も古代種も神竜も剣も、みんな笑い合った食卓を私は知っている。
誰もが笑い合うなんて夢物語だと思う。「全ての人が幸せに」なんて肥溜めの臭いのする安い台詞を信じたいとも思わない。
だが描くべき未来はすぐそばにあった。
天高く在る理想郷を信ずるよりも、目の前の荒野で一歩踏み出す勇気こそが尊く難しい事だと、そしてそれこそが未来につながる唯一の道だと、私は確信を持って言える。そしてそれを体現する者がこの街にはいるのだ。
だからこそ私は思う。
「……守ってみせる」
私は守る。絶対にだ。
彼等は希望だ。自分たちの道を照らす道しるべだ。
我らの祖先が渇望した「新たな時代」がそこには在った。
倒れ、踠き、迫害の海を泳ぎ、「生きた証」がそこには在った。
800年もの時を経て、夥しい程の犠牲を重ね、そうして木霊する絶叫の果てに、我々一族は、私はようやくたどり着いたのだ。
私は先祖の誇りを賭けて、彼らを守ると決めた。
迷いは捨てなければ。たとえ相手が酒臭い場末の聖女だとしても、我らの希望を奪おうとするのならば―――
「……私はっ」
「なァ~にを守ってみせるってぇ~~?? オィ」
ハッと顔を上げる。
目の前は西の広場。少し下りた先には赤々と焚かれる篝火たち。
その灯りを背に、小首を傾げ、嘲笑うような声を上げる女がいた。
「よォ 魔族ちゃぁ~ん」
考え事をしていたとはいえ、ここまで接近に気付かないとは、相当な手練れだ。
いや、手練れで当たり前だった。
私はわかっていたはずだ。このタイミング、この状況で出てくる相手など、安い茶番劇の様に最初から決まっていたのだから。
瞬時に視線を動かさずに魔力の波を起こして周りを確認する。完全に囲まれていた。
SSランカー2人、Sランカー3人、それに負けじと劣らない精強な戦士が6人を擁する大陸最高戦闘集団が今ここに集結。
そして気配は感じないが、人類最高戦力の一人、SSSランカー【聖女】もきっとここにいる。
だから私は、いつもは動かない頬を少しだけ釣り上げたのだ。
「……よかった。探す手間が省けた」
◇ ◇ ◇ ◇
「あ~ヤベェ こりゃマジやべぇわ。どれくらいヤバいかっつったらマジ超ヤベェ……」
外に残してきたニックが大人しくしていることを切に願う。
この建物の地下、詰所らしき部屋の陰に身を潜めながら必死に気配を殺す。気付かれたら終わりのこの状況で言葉を発するなど自殺行為にも等しい。
それでも思わず毒づかずにはいられないほどオレは今追い詰められていた。
「マジ報酬と釣り合わないにもマジ程があるっしょ……」
姿を消した俺達が向かったのはレガリア公使館、の横だった。
ゼプツェンほどの大国にもなると、各国も公使館の敷地内若しくは隣接地にその国の商会施設を設置していたりする。そうした施設は公館とは別の出入り口を設置しているのが通常だ。
他国の文化や商材を分析し、その情報を自国に持ち帰ったり、自国の特産品を売り込む戦略を練ったりするのはどこの国でもやっている事だし、何より公館公認の経済拠点を置くことで、領事国にいながら他国の商人や重要な商談を行える利点があり、レガリアも例に漏れず公館の敷地内に取引所を設けていた。
これ自体は違法性も無ければ、非難される様な事でも何でも無い。
だが、名も無い冒険者の失踪事件に端を発したオレの調査任務の終着点はその取引所だったのだ。
潜入は順調だった。順調すぎるほど順調に進んだ。
公使施設と言ってもメインである公使館とは違い、規模も小さく複雑な構造は無いシンプルな建屋だ。
上階を数分で調査し終えたオレ達は、軽い失望感と共に裏の窓から外に出る。そしてそこで目についた不自然な小屋。出入り商会の宿泊施設だと言われれば頷いてしまいそうになるが、それならば取引所の中にいくつかあった寝室が説明できない。
何よりもオレの勘がここが正解だと告げていた。幾度もダンジョンに潜り、多くの敵性施設への潜入で培われ研ぎ澄まされてきた根拠のない「勘」というのは、いざという時最も頼りになる相棒であることを、オレは経験則上でよくよく知っている。
だから俺は迷うことなく小屋に近づき、中の様子を伺うと勝ち誇るような笑みを浮かべた。
ここから先は細心の注意が必要だ。どう動くか読めない他人の擬態化を維持するのは困難だと判断し、外で待機するようニックに告げる。と同時に、小屋から男が一人出てきた。
暗闇の中、きちんと視認することは出来ないが、それでもその男が武を嗜む者だと雰囲気でわかる。
アタリだ。
オレは姿を消したまま、小用を済ませ小屋に戻っていく男の背後に張り付いて中に入った。そのまま男が行った先は、探してくれと言わんばかりの怪しい地下空間。
階段を下りてすぐ詰所のような部屋が有り、男が3人屯していた。
そしてそこを通り過ぎると、気軽に作ったにしては広すぎる地下施設があった。奥へと伸びる一本道の廊下は50mを優に超え、一番奥正面の扉が小さく見えるほどだ。
オレは確信に至ると同時に行き詰った。
長い廊下は一直線、遮蔽物は無く、詰所から丸見えだ。
姿を消したと言っても存在が消えるわけではない。廊下の両側、無数にある扉を開けなければ部屋の中は確認出来ないし、扉を開けたら気付かれてしまう。
制圧するか……?
詰所にいる3人の男、そのうち2人はかなりの手練れだとは思うが、この状況で制圧するのは難しくなさそうだった。姿と気配を消しただけのオレに気付かなかった時点で斥候技術はそれほど高くないに違いない。
それにもう一人はどこか冴えない疲れた中年で、どう見たって強そうには思えない。
殲滅戦や魔獣戦は苦手だが、特定状況下での対人戦において斥候職は最凶だ。
気付かれていない所から始まる小規模戦闘で、相手がSランカーでもない限り、格上だろうが何だろうが斥候職が負けたとすれば、オレは腹を抱えて大笑いするだろう。
こういう状況下でのオレ達はそれほどまでに凶悪なのだ。
だがダメだ。
今ここでオレが手を出すことは許されない。
ただでさえ高等区だというのに、よりによってここは『他国』なのだ。最悪のシナリオとして「戦争」がチラつく危険な綱渡りをしていることを忘れてはいけない。
だからここは退くしかないと思った。
とにかく情報を持ち帰り報告することが何より重要だ。
そして政府が圧力をかけるか、何らかの名目を作るか、賊を装う段取りをするか。そこから先に伸びる道は無数にある。
青臭い正義感で突っ走る一直線が最短だとは限らない。もちろん最良であるはずもない。
イサオちゃんには悪いが、この国で生活していくオレ達の今後を考えるとそうすべきだ。
そうと決まったら気付かれないうちに退散するに限る。斥候の神様は清々しいほど単純で、欲を掻いた奴から先に死ぬという、馬鹿でもわかる簡単な法則をこの世に設定なされた。
だから俺はその法則に反しないよう、気配を殺したまま、外に出ようと腰を浮かせた時だった。
「おい、来たってよ。こんな時間にご苦労なこった」
地上からそんな声が届く。
違いねえ、と笑いながら立ち上がる二人の男。もう一人の冴えない男は、どこか緊張した面持ちで座っていたがどうでもいい。問題は誰かがここに来たということだ。
俺は詰所の裏に隠れて息を潜めた。誰が来たかを確認するのも有用だったし、今このタイミングで出ていくのも危険だと思ったのだ。
それに多少の余裕もあった。俺は今姿を消しているし、この術式の効果はニブチンとはいえ、勇者であるイサオちゃんのお済み付きだ。よほどの事が無い限り問題などないはずだ。
そうして鼻歌すら歌いながら待っていた俺は、目の前を通り過ぎていった人物を見て心底後悔した。
「あ~ヤベェ こりゃマジやべぇわ。どれくらいヤバいかっつったらマジ超ヤベェ……」
サーっと血の気が引いて行くのを感じた。やって来たのは4人の男達だ。
先頭を歩くのは中肉中背で、小奇麗な仕立服を着て、嘘くさい笑みを顔に張り付かせた男。
全員の首から下げられた十字のネックレスと、マイノリア特産であるミント系の香水の香りに、面倒事の気配を感じたからではない。その程度の厄介事ならばどうにでもなるのだ。
「マジ青星まで出張って来るなんて、マジ聞いてねーんスけど……」
青星。
それは大陸で7人しかいないSSランカー、『星持ち』の一人。
今は亡き大魔道士ヨアキムの弟子で、大陸最高の水魔道士とされる若き天才。
だがそれだけではない。
「マジ聖12騎士が何でマジこんなところに……」
苛烈極まる神意執行、これを担う十字教の力の象徴、大陸最高戦闘集団、聖12騎士。神の為に生き、神の為に死ぬ狂気の使徒だ。
見つかっても逃げ果せるとか、そんな甘い目算は一瞬で塵と消える。
発見された瞬間、終わりだ。詰んでしまうのだ。
Aランカーになり、多少は腕に自信がある今となっても向き合わなければならない現実というものはある。
それは知識や経験則から導き出された答えなどではない。生物としての本能だ。それほどまでにSランクという称号が持つ意味は重い。
どいつもこいつも何の冗談かと笑いたくなるくらい正真正銘の化け物揃いだ。嫉妬するのも愚かしい。
そんな化け物に巨大な権力というオマケまで付いてくるという。愚痴の一つや二つで済ませた自身を褒めてやりたいくらいだった。
もう証拠も何もない。確定だ。大当たりだ。
永遠とも思われる数秒間を何とかやり過ごし、緊張で強張った関節を伸ばそうとした時
「それで? 例の神器の欠片はどこに?」
そんな台詞が聞こえた。聞こえてしまった。
今だ。ここが引き時だ。分水嶺だ。本能的な恐怖が頭の中で叫ぶ。
欲を掻いた者から死ぬのだ。これ以上は進むべきではない。そんな事は解り切っていたのだ。だが足を出口に向けようとするたびに頭を過ぎるのは、幼竜に弛緩しきった笑顔を向ける青年の顔……
「イサオちゃん…… マジ恨むかんな……」
折り合いだ。折り合いさえつければ何とかなる。
今アイツらが入って行った部屋までついて行くことは無い。何を持って出てきたか、何を話しているか、それだけでいい。ここで息を潜めて、遠くから後をつけるだけでいい。それならば出来る。
そう決めて微動だにせず呼吸すら忘れてアイツらが部屋から出てくるのを待つ。
そうして待つこと10数分、部屋を出てきた一行が手にしているモノを遠目で見た俺は思わず声を漏らしそうになった。
―――ノリさんっっ!!
それは三角錐型の結界装置。
超高位種を封じる事が出来る様な大層なシロモノには見えなかった。
4つの角だけが何らかの金属でできており、その角から伸びる辺と面を構成するのはおそらく、可視化するほど強力な魔導波だ。
その中で不安そうに周りの様子を伺うのは、不幸にも汚れた大人達の思惑に絡め取られた純白の天使。
見間違えるはずが無かった。そしてあの結界装置こそ、オレのそもそもの調査対象であるに違いない。
さらに一向は、何故かカエルの入った小さな檻と、ガーゴイルらしき魔獣が入った檻を担いで出てきた。
それらが何かは解らないし今は関係無い。今にも泣きそうな顔で男達を見上げるノリさんを見ていると今すぐ助け出したい衝動に駆られるが、この状況に置いて、それは幼稚な自己満足でしかない。
青星がいる以上、この場でノリさんを奪い返すことも不可能だ。予定通り距離をとって後をつけよう。
そう思っていると一行が近づいてくる。
オレは壁だ。モノだ。ここにオレはいない。乱すな、狼狽えるな。今は雑念が死を招く。
24年間培ってきた技術の全てを、たった数秒間に全力でつぎ込む。背中を伝う冷や汗が、下着までをもぐっしょり濡らして気持ち悪い。
荒れ狂う鼓動を意識から切り離す。ゆっくりと目を開ける。そして俺は紙切れよりも薄く息を吐き出した。
―――乗り切った、か……
一行は緩みきった空気を纏ったまま、談笑しながら、オレの目の前を素通りして外に出てゆく。
俺はまるで、魂まで零れてしまいそうなほど深く長く息を吐いた。
だが、まだ終わりじゃない。
安堵から崩れ落ちそうになる自身の体を叱咤して、俺はヤツラの後ろを行く。
ここまでこればもう大丈夫だ。後は男達の跡を続いて外に出て、ニックと合流した後、安全圏からヤツラの動向を探ればいい。
それだけで十分義理は果たせるはずだ。任務達成と言って問題無いはずだ。
それにニックもいる。彼は彼で優秀な魔走士であることをオレは知っている。二人ならば安全マージンを確保しながら尾行が出来る。
余裕だ。
ここから先はオレ達斥候職の領分だ。大丈夫。オレ達ならば出来る。
そう、思っていた。
だから俺は足早にニックがいる場所、小屋の側面に行くと、擬態化を施していた彼の肩に手を置いたのだ。
「ニック、分散してマジ尾行カマそうぜ。オレがマジ先行すっからお前はフォロー頼―――」
「……っざけんな……っ」
問題など起こらないはずだった。うまくやれるはずだったんだ。
油断していていたわけではない。慢心していたわけでもない。ただ……
「お、おいどしたよ? ニック、ちゃん……?」
ただ、俺は知らなかったんだ。
「クソったれがぁっ!!!」
「おいニック! やめろっ! クソ、駄目だっ 逃げるぞニッ―――」
「テメェらかっ!! テメェらが俺達のチームをっ! おやっさんをぉぉぉぉ~~~~っっ!!」
それは瞬きする間の出来事。
ギラリと闇夜に白刃がキラめく。
激昂したニックが、獣の様に地を蹴った。
「ヒィっ!」
気付いた商人が本能的に体を縮め込ませ、両手で頭を抱え込む。
その時にはもう、ニックは獲物に向かって刃を振り下ろし始めていた。
―――ギンッ
護衛の一人が商人の鼻先寸前で刃を受け止める。と同時にもう一人が牽制気味に剣を薙いだ。
ニックはそれをバックステップで躱すと、目にも止まらぬスピードでホルスターからナイフ抜き、その動作の延長線で投擲する。
「ガふゥッ―――」
ドカリと音を立てて深々と胸に突き刺さったナイフを、呆然と見つめながら護衛の一人が崩れ落ちた。
この間、初動から数秒の出来事。
もう擬態化がどうのという状況ではない。知りませんでしたでは済まない。さっきまで安全地帯だったここはもう戦場。
「ガーゴっ! 今助けてやるぞっ!!」
「ニック! だめだヨっ!」
盛大に舌打ちを一つ。人情劇に付き合うつもりは無い。
俺は視線だけを目まぐるしく動かして逃走経路を探す。もちろんヤツを視界から外すような愚は冒さない。その瞬間待ち構えているものはまごう事無き『死』だ。
あった! あそこだ! まだ間に合う!
ニックの襟首を引っ掴み小屋の裏手を抜けるのだ! 突っ切って塀を越えたら屯所が近い!
そう瞬時に判断し手を伸ばし掛けた時だった。
「はあ…… やれやれ……」
その台詞に時が止まる。
男は、芝居じみた溜息をつくと、舞台役者のように、優雅に右手を上げた。
怖気がするほど冷たく、カミソリのように鋭い魔力がブワリと吹き抜ける。数瞬だけ目を閉じ、次に目を開けた時
壁が在った。
音なんて無い。気配すら感じなかった。
ただただ当たり前のように、そして罪人を逃さぬ檻のように、天を突く氷壁だけがそこにあった。
頬がヒクヒクと痙攣する。ニックが、夢から醒めたように呆然と高すぎる壁を見上げている。
オレは瞬間理解した。理解させられた。
「私だけ作戦から外されてウンザリしていたというのに、全く以て……」
右手で自身の首筋を撫でる。張り付いていた氷が指の隙間からポロポロと地面に落ちた。
オレ達はもう助からない。
ならばせめてアイツに、気の良いあの男に。優しく、頼りない、最強の勇者に……
いい。いいんだ。俺は斥候職。
地獄も地獄、鉄火場も鉄火場の最前線で、倒すことが勝ちではない。生き残る事が勝ちではない。
俺達の「勝ち」は、罵られようが、後ろ指刺されようが、肥溜めに潜ってでも、「情報を届けること」だ。
だからせめて笑ってやってくれよ。とんだ貧乏くじだろ?
―――アリアリ、マジ頼んます……
俺は苦笑すると、魔力体を空に放つ。
そしてその男は、困ったような笑顔でそれを見送りながら
こう言い放った。
「美しくない、ですねえ……」
「マジ吠え面かきやがれ……っ」
【星】の名を冠する魔人が
闇夜を蒼く染め上げる。
◇ ◇ ◇ ◇
「はあっ……」
力を隠せと具申する理性を蹴飛ばして、息が上がるのも構わず、俺は必死に大通りを駆けていた。
向かう先は今更語るまでも無いだろう。高等区だ。
大都市ゼプツィールの主幹通りは一直線に高等区壁門まで続いており、そこまでたどり着くことに難しい事など何一つない。10数キロもの距離も、本気の俺にとっては大した問題ではない。
そう、問題はその先にある。いや、あった。
「はあっ ノリちゃん、今行くから……っ!」
今まで街中を全力で走った事など無かったので、尋常じゃないスピードで後ろに流れ行く景色が酷く非現実的だ。
もう俺はこうするしかない。これしか道は残されていない。誰が何を言おうと知ったことか。
―――あるじー ノリさむいー……
―――こっちにおいでノリちゃん。あるじと抱っこして寝よう。
何度そうして一緒に寝ただろうか。
ボロアパートの隙間風に吹かれて、潰れきった綿の布団の中、何度俺たちはそうやって夜を明かしてきただろうか。
―――あるじー おふろはきもちいーなー!
―――よ~しノリちゃん! あるじと一緒に百数えよう!
何度そうして一緒に笑い合っただろうか。
物置部屋を強引に改造した風呂場。一緒でないと百を数えられなかった彼女が、一人で数えられるようになるほどに、何度二人で声を重ねただろうか。
猛烈なスピードで左右に割れる街の風景の向こうに、屈託なく笑う彼女の笑顔が浮かんでいる。
何度も何度も何度も
いつでも、どこでも、何度でも引っ張り出せる輝く記憶は、常に彼女と共にあった。
今思い返さないまでも、大した稼ぎも無い赤貧冒険者の生活だ。甘いものはお祝い事の日にしか手が出なかったし、白星の日のシチューに入れる肉を増やすために、端数のような費用を切り詰めた。
働く、食べる、寝る。そしてまた働いて食べて寝た。
彼女のために胸躍る様なイベントは用意しなかったし、何よりそんな余裕は無かった。
色んなものを見たかったし、いろんなものを見せたかった。
前を見ても後ろを見ても、見渡す限りの平淡な道を、彼女の手を引き、ただひたすら必死に歩いてきたと思う。それくらいの事しか俺には出来なかったのだ。
―――あるじー あしたのよていはなんですか!?
―――明日はねー 薬草を取りに行くよ!
そんな毎日だった。
ありふれた日々の繰り返しだった。イレギュラーなんて無かった。
だが、それでも…… それでも……っ
―――あるじはノリがしあわせにするけんについてっ!
「俺は、幸せだったんだ……っ!!!!」
例え様も無く、代えようも無く、負け惜しみでも無く、偽る訳でも無く。
心の底から、魂の奥底から
俺は幸せだったんだ。
「……サオ! ……って! 待っ…… 止……て! イサ……!」
一つとして同じ日常は無かったんだ。掛け替えのない、唯一無二の、たった一つの日々だったんだ。
だというのに、それを……
それを、失えというのか。
またあの暗闇に戻れというのか。次元の壁に向かって泣き叫んだあの頃のように、もう一度、この身を絞られる様なあの恐怖を、あの絶望に身を浸せと、そう言っているのか。ならば……
―――殺して…… やる……っ!!
殺してやる。
何があっても、何度でも、
殺してやる。
何が? 何を? そんなものは知るか。
壁が在るなら壊せ、立ち塞がるなら潰せ。邪魔する奴は敵だ。敵は皆殺しだ。
切り刻んでやる。すり潰してやる。踏み躙ってやる。死ねばいい。泣き叫べばいい。
「聞い……! イサオ! お願……からっ!」
視線の先に映るのは、街灯がまばらに照らす石畳。それらがドス黒い何かで浸蝕され、視界が墨を塗りたくったように黒く染まっていく。
それは呪いに似た「何か」だった。闇夜よりも昏く、吐き気を催すほど黒く、体が震えるほどに濁り切った、穢らわしい「何か」だった。
その「何か」が俺に囁くのだ。『壊せ』と。
「落ち……いて! 話を……いて!」
ああ、わかってるさ。
容赦なんかしない。見逃しもしない。
残酷に、残忍に、無残に、無慈悲に、徹底的に、非人道的に、あらゆる力と手段で以て
思い知らせてやるんだ。刻み付けてやるんだ。
気付けば壁門だった。俺は直前で立ち止まり、10mは下らない壁を見上げた。
馬車が2台すれ違えるほど大きく分厚い金属製の大扉は、普段から厳重な警備が敷かれており。壁の上には通路が魔導警報器と共に敷設され、武装した兵士達が歩き回って周囲を警戒をしている。
そしてこの大扉は、大きな行事や有事の際でない限り夜半は閉まっているのが通常で、兵士の交代やちょっとした出入りについては大扉の両脇に設置された詰所、その中にある出入口で行われる。
初めて見た時は要塞みたいだなと思ったものだが、その成り立ちを聞き、素人の思いつきが正解だった事を知った俺は、さすが最果ての街だと感心したものだ。
だが今は、魔獣大侵攻を想定し人々の命を守るための壁が、俺の前に立ちふさがっている。
こんな夜中に俺みたいな木っ端が頼み込んだところで、出入口を使わせてくれるわけが無いし、詰所に入れてもらえる可能性すら無い。大扉を開けてくれと言おうものなら狂人扱いされるか連行されるかの2択だ。
こんな夜中でも律儀に守衛をする兵士達が頼もしいし、指揮の高さに感心する場面なのだろうが、今の俺にとっては忌々しいだけでしかなかった。
飛行魔法は使えないとはいえ、10数m程度の壁ならば簡単に登れる。だが魔導警報器の配置や性能、警備体制を知らない俺が網に引っ掛かるのは確実で、穏便に済ませられるわけが無い。
門は開かない。出入口も使えない。飛び越えるのも上手くない。
無い無い尽くしの八方塞がり。万策尽きた。普通ならばそう思うだろう。普通ならば。
俺はスウっと目を細めると、何の躊躇いも無く左手を壁門に翳した。
申し訳ないが、俺はもう決めている。
後ろ指刺されようと、唾を吐きかけられようと、犯罪者になろうと。
たとえ、敬愛する父ちゃんと母ちゃんが涙を流すくらい、人としての道を踏み外すことになろうとも
俺は止まらない。もう俺は決めたのだ。
壁があるなら壊す。立ち塞がるなら捻り潰す。例外は…… 無い。
呼吸と同じくらい自然に、簡単に、分厚い石壁をブチ抜くのに十分な魔力を集める。
円形に渦を巻く魔力を、リンダール魔道公式に当てはめて術式を構築。イメージは槌だ。
具現力場俯瞰法則を無視して照準を固定。意識下に制御されたトリガーに指をかける。
これから大罪人になるかもしれないというのに、何の感慨も湧かない事に俺は一人苦笑した。結局のところ、俺は本当にどうしようもない人間だった。
軽く息を吐く。ぼんやりと座標に目をやった。そして俺はトリガーを引――――
「イサオ駄目ぇっ!!」
暗闇を舞う黒髪に視界を奪われる。
ソイツは、突然視界に現れ、翳した俺の左腕をギュッと抱え込んだ。
驚いた俺は発動をキャンセルさせ、闖入者に視線をやる。闇夜に燃えるような紅い瞳が二つ、真っ直ぐ俺を見つめていた。
「オル……テナ……」
「イサオっ! 今っ! 今何をしようとしたのっ!? 何をしようとしたかわかってる!? 自分が何をしようとしたか! 一体どうしたのっ!?」
焦った様子のオルテナが、彼女から聞いた事が無いほどの大声で捲し立てる。
「おか、おかしいよイサオ! そんなのイサオじゃないよっ! そんなことして、ノリちゃんを取り戻した後はどうするの!? この街に居れなくなるんだよ!? そんなこと…… そんなこと本当に望んでいるのっ!? ノリちゃんだってせっかくこの街で―――」
「うるさいオルテナ……」
「うるさくたって、私は止めるよそんな事! だってイサオ、人を殺したこと…… あんなに悔やんでいたじゃない!」
「黙れ……」
「お願い、お願いだから話を聞いてイサ―――」
「黙れって言ってるだろっ!!!!!!」
体に火がついたのだと思った。
頭が破裂するのだと思った。
突然だった。
それは、溜まりに溜まったありとあらゆる感情の全てだった。
魂の奥底から掻き集めてきたような生々しく原始的な憎しみが
胸の奥底で鎌首を擡げる明確な殺意が
失う事への恐怖が
暗い裏道で罵声と唾を浴びせられたあの屈辱が
帰れないと知った時の絶望が
断ち切れぬ家族への愛情が
未だに夢見る故郷への郷愁の念が
グラウンドに置き忘れてきた夢が
そして
満面の笑みを浮かべる俺の世界が
ぐちゃぐちゃに絡まり、溶け合って。
整理がつかないまま、この4年で積み上がってしまった混沌が。
枷が無くなった煮え滾るマグマが、天高く噴き上がる様に
出口を見つけて殺到する感情の嵐が、俺を呑込んだ。
唸るような奇声が喉から漏れた。
左腕を思いっきり振った。
腕にしがみ付いていたオルテナが小さく悲鳴を上げて尻もちをついた。
まるで何かに操られているかのように、自身の意思とは関係無く、右手がスラリとアリアを抜き放つ。そしてその先をオルテナに向けた。
アリアが考える得る限りの汚い言葉で俺を罵った。
やめろ! 仲間だぞ! 女の子だぞ! 俺は何をしているんだ!
「俺は、俺はっ! ノリちゃんと一緒にいたいだけなんだ! それ以上何も望んじゃいない! 何が悪い! 俺が何をしたのか!? そんなに無理な事を俺は言ってるかっ!? 何でみんな俺達の邪魔をするんだっ!!!」
オルテナが顔をくしゃくしゃにして、真紅の瞳に大粒の涙を浮かべて、縋る様に俺を見ていた。
心臓を鷲掴みにされたような衝撃を受ける。
俺は一体何を言ってるのだろうか。何をしようとしているのだろうか
嗚咽すら上げ始めているか弱い女の子に、俺は一体何をブチ撒けているのだろうか。
「お、オルテナ…… お前は、俺の邪魔をするのか!? 俺の敵なのかっ!? 俺から、俺からまだ奪おうとするのかっ!! だったら、殺してやる…… 俺は、俺はお前をぉぉッッ!!!」
そして彼女は、こう、言ったんだ。
「いいよ……」
彼女は鼻を啜りながらゆっくり立ち上がると、愛おしそうに震える剣先と掴んで、自身の喉元に当てた。
プツリと、軽く皮膚を破る感触が剣越しに伝わる。
スウっと彼女の白い喉元を伝い落ちる一筋の血。彼女はその血を拭いもせず、さらに深く突き立てようとするかのように、一歩前に足を踏みだした。
何が起きているのか解らない。自分が何をしたいのか、彼女が何を言いたいのか。何もわからなかった。
頭の中がミキサーにかけられたみたいにグチャグチャだった。足元がぐにゃりと歪み、ある筈も無い落下感を感じていた。
アリアを取り落とす。乾いた残響を他人事のように聞いた。
突然膝が笑い出す。
次第にそれは大きくなって、立っている事すら出来ないほど、生まれたての小鹿のように情けなく俺は崩れ落ちた。
俺を見下ろすオルテナの顔は涙に濡れてぐしゃぐしゃだった。
「いいよ、あなたになら。あなたになら、私は、殺されても、いいの。だから……」
そして彼女は、オルテナは
ぐしゃぐしゃの顔をくしゃくしゃにしたまま
ぎこちなく、微笑んだのだ。
「だから…… 泣かないで、イサオ……」
泣いてなんかいない。そう言おうとした時
オルテナが、みっともなく尻もちをついている俺を、覆いかぶさるようにして抱きしめた。
彼女が聞き分けの無い子供をあやすように、俺の頭を優しく撫でる。
信じられないくらいの安堵感を覚えて無性に怖くなった。酷く暖かい彼女の体温だけが、こんな俺を肯定してくれるように感じて、食いしばった歯の隙間から、堰を切ったように感情があふれ出る。
そして俺は、もう今年で22になるというのに、恥もプライドも何も投げ捨てて、年下の女の子にしがみ付いて、声を上げて泣いたんだ。
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『甘酸っぱいお取込み中のところ悪いがの~ 緊急じゃ!』
そんな棘に満ち満ちた台詞をアリアが吐いたのは、オルテナが甲斐甲斐しく俺の顔を拭き、我を取り戻した俺がオルテナの顔を直視できず、距離感を探っている最中だった。
「な、なんだよアリア…… わ、悪かったよ……。何でも一つ言う事聞くから俺が泣いたのはくれぐれもノリちゃんには内緒に―――」
『ほほう。何でも一つか。忘れるなよ汝れよ。それよりも今はノリの事じゃ。たった今さっき、チャラオさんから魔力体が届いたのじゃ!』
「お前…… チャラオとアンカー打ったのかよ……」
種族以前に生物形態すら超えたアンカーの打ち合いに、軽い眩暈を覚えたが今はいい。
そもそもそんな事が出来るのか疑問だが、出来てしまったものは仕方がない。スルーするのが一番だ。深入りすると面倒臭い事になる。
どうせろくでもない事を言い出すのだろうと、ジト目をアリアに向けた時、聖剣アリアは神託を受けた本物の聖女のように告げた。
『チャラオさんが助けを求めておる! ノリの居場所がわかったぞ!』




