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異世界最強は大家さんでした  作者: つよぐち2号
34/59

金色のブレイブ・ハート・ストーリー  もう一つの異世界召喚

大好きだった。

誰よりも、何よりも。

心の底から、大好きだったよ。



□□□□□□□



「あれ、シオリちゃん、もう上がりだっけ?」

「はい、今日はこの後用事がありまして……」

「おーおー、デートかぁ? いいね若いってのは! オッサンもう何年もデートなんてしてないよ!?」


 そう言ってバイト先の店長が人懐っこい笑みを浮かべた。思わず私もつられて笑みを反した。

 自身を「オッサン」と呼ぶこの36歳は、どうみてもオッサンには見えないイケメンさんだ。

 スタッフ9割が女の子の店で、どんな子にも分け隔てなく接する店長は、そのチャラい印象とは裏腹に、皆から頼りにされ、尊敬され、好かれている。そして実は奥さん一筋の超愛妻家だった。


「ふふふ、デートしようと思えばすぐ出来るスペックを持ってるじゃないですか」

「いやいやオッサンもう36よ? 無理無理。最近、加齢臭ヤバいんだよね、枕が超ヤバイ!」  


 いつもこんな調子で、色々と面倒くさい女の職場の良き潤滑油になっている店長を素直に凄いと思う。


「ま、とにかく頑張ってね! おつかれ~」

「お疲れ様です。それではまた明日」


 店を出ると、ムッとした熱気が一気に襲い掛かってきた。

 十分に熱された交差点からは陽炎が立ち上り、道行く人たちの額には例外なく汗が浮かんでいる。

 目を細めながら空を見上げてみると、まだ初夏だというのに翳した手の隙間からあの日と同じようにギラつく太陽が覗いていた。


「もう、4年…… かぁ……」


 忘れもしない。忘れるわけが無い。

 4年前の今日。

 私の中で何かが終わった日。そして始まった日。


「私は、諦めないよ」


 5年振りにそこに行くと決めたのは、ほんの3か月前。自分なりのケジメだった。

 でもその前にあの場所に向かわなくてはならない。

 誰もが忘れ、今や手向けられるのが酔っ払いの小便だけとなり果てた場所、私の運命を変えた忌まわしき場所に。


 私は吹き出る汗にも構わずあの場所に向かって歩き続ける。15分ほどで見えてきたその場所は、何の変哲も無いただの歩道だった。

 毎日毎日、いつも、どんな日も、雨が降っても雪が降っても、ここに来ない日など無かった。

 4年前の今日、ここで何があったのかを覚えている人など誰もいまい。あの時、悲哀の表情で花を手向けていた人々の、記憶の片隅にだって残ってはいないだろう。


「きっと私だって立場が違ったら変わらない」


 そう呟いて私は苦笑した。

 他人の悲劇なんて、本当は関係無いと思っている。

 『共感』なんて言葉はまやかしだ。流す涙は偽善の滴だ。

 対岸の悲劇に『善』の側として参加することによって自分を満足させたいだけ。

 こんな優しい自分を演じる事で自身の人間性を確認して安心したいだけ。

 それが人だ。そしてそれが私だ。


 だが残念ながらそんな悲劇に私は観客としてではなく、登場人物の一人として舞台に上がった。

 だから私は忘れない。

 観客が一時の満足を得て帰る背中を舞台上から見続けるしかなかった私には、忘れる事が出来なかった。

 無造作に転がった自転車。

 カゴから放り出されたスポーツバッグ。 

 眩暈を覚えながら開けたバッグから出てきたのは、つま先が擦り切れたスパイク、お母さんが気合を入れて洗濯したユニフォーム、お父さんが誕生日にプレゼントした財布。

 そして、私が買ってあげた必勝祈願のお守り。

 何もかも全てが残っていた。

 残っていなかったのは、無くてはならない肝心の存在だけだった。

 私は、今でも鮮明に蘇るあの日の光景とあの日から変わらぬ喪失感を胸に、あの日と変わらぬ台詞を呟いた。 



「どこに行ったの、お兄ちゃん……」



 




   □□□□□□□□□




「はい、はい…… でも、そんなはずは…… ええ、でもあの子はとっくに家を出て…… はい、わかりました。ご迷惑おかけして申し訳ありません」


 地区大会の決勝戦が行われる球場。

 青い顔をしてTIターミナル・オブ・インディビジュアルを閉じたお母さんに、ただならぬ雰囲気を感じた私は問いかけた。


「お母さんどうしたの!? 何かあったの!?」

「イサオが……まだ球場に来てないんだって……」


 私は絶句した。


「そんな……! お兄ちゃんあんなに早く家を出ていったじゃない! 着いてないハズ無いでしょ!」

「でも、先生が来てないって…… 何か…… 何かあったのかしら……」


 頭が真っ白になった。すぐさま私は駆けだした。

 背後で私を呼ぶお母さんの声が聞こえるが構ってなどいられない。

 「何かあったのかしら」ではない。何かあったのだ。

 今日この日の為にお兄ちゃんがどれだけの努力をしてきたのか、私は知っている。

 部屋もロクに片付けられない面倒臭がり屋のお兄ちゃんが、毎晩毎晩。

 毎晩毎晩毎晩、庭の雑草を根絶させるほど飽きもせず素振りをしていたことを、私は知っている。

 あと一勝で甲子園。

 あれほどまでに夢見て目指してきたこの舞台から、何の連絡も無く降りるなんて、天地がひっくり返ったって有り得ない。

 耳にタコが出来るほど聞かされた仲間自慢。

 あんなドヤ顔でチームメイトを褒め称えたお兄ちゃんが、彼等を放り出してどこかに行くはずが無い。

 言い知れない不安が何度も頭をよぎる。

 大丈夫、絶対大丈夫。

 何度も自身にそう言い聞かせ、私はお兄ちゃんが通るであろう球場までの道筋を逆走した。


 初夏にしては熱すぎる太陽、煩過ぎるセミの合唱、それらを振り切って走った先、何の変哲も無い一本道、なんら異変も見当たらない、住宅街の単なる歩道にソレはあった。


「うそ…… お兄ちゃんの自転車……だよね……」


 無造作に転がったママチャリ、カゴに収まっていたはずの古ぼけたスポーツバッグは路上に投げ出され、時折通り過ぎる通行人が怪訝な視線を向けている。

 私はその投げ出されたスポーツバッグに飛びつくと、ファスナーに手を伸ばして一気に引く。途中ファスナーに服が絡んで開かなくなると、バッグを両手で引き裂くようにしてこじ開けた。ファスナーが壊れてしまったがそんなこと知ったことか。


 無我夢中でバッグを漁った私は、呆然と路上に尻もちをついた。


「ま、待って……ちょっと待って……っ!」


 全部が有った。そして何も無かった。

 後輪の泥除けに密かに書き込まれたハートマーク

 バッグの中から出てきた背番号『5』 

 いつも机の上に置いてあった折り畳み財布

 私が県外まで行って買ってきた必勝祈願のお守り

 全部有った。全部お兄ちゃんのモノだった。

 だけど……


「お兄ちゃんはどこ……っ!?」


 肝心の本人がどこにもいなかった。

 背骨をひっぺ替えされる様な悪寒に襲われる。日差しでフライパンの様に熱されたアスファルトが、私の体温をどんどん奪っていく気がした。

 全身の毛が一瞬で逆立つ。あまりの焦燥に膀胱が痒くなった。


 事故だろうか?

 いや、それなら何らかの形跡が残っているはずだ。血痕も無ければ自転車が歪んでいるわけでも無い。そもそもこの歩道はガードレールが設置されているし、そのガードレールには少しの傷もついていない。


 自発的にこの場を離れたのだろうか?

 それも違う。それならバッグは持っていくし、無理でも財布は持っていくはずだ。


 ならば誘拐か?

 私は首を振る。有り触れた一般家庭の男子を誘拐して何か楽しい事でもあるとでも言うのか。


 そこには何も無かった。何かが起きた形跡が何一つ残っていなかった。

 おかしい、絶対におかしい。

 何かあったのだ。ここで何かがあったのだ。

 私はフラフラと立ち上がる。聞き込みをするため、民家のインターフォンに手を伸ばした時


「シオリっ!」

「あ……お母さん……」


 私が来た方角から息を切らせながら走ってきたお母さん。


「あんたっ! なんて顔してるのっ!? 何があったのシオリ!?」

「お兄ちゃんが…… いない……」

「いないって…… どういうこ―――」


 お母さんが、転がる自転車を見つけて言葉を呑込む。

 そしてすぐさまTIを取り出して誰かに電話を掛けるが、「電波の届かないところにいるか、電源が―――」というアナウンスが漏れ聞こえた。おそらくお兄ちゃんにかけたのだろう。

 それを聞いた私はとてつもない恐怖に襲われ、迷わずインターフォンを押した。4.5世代の移動通信網が整備されたこの時代に、電波が届かないなど有り得ない。

 「ちょっと、何してるのシオリ」という声が聞こえたが、もう頭には入ってこなかった。

 何度もボタンを押すと、インターフォン越しに苛立ちを隠さない女性の声が届く。私はそんなことお構いなしに捲し立てた。


『はい、なんでしょう、どなた?』

「すみません! 井川シオリっていいます! お兄ちゃんを見ませんでしたか!?」

『はあ? お兄ちゃん? 誰それ』

「ちょっとシオリ! やめなさい! すみませんすぐ止めさせますので! シオリっ! 止めなさ―――」

「私のお兄ちゃんです! 今日、県大会決勝で、そこに自転車が転がってて、まだ来てなくて……! お兄ちゃんの自転車なんです! 全部残ってるんです! ここで何かあったはずなんです!」

『……一体なんなのよ、知らないわよ』


 一瞬で頭に血が上った。 


「知らない……って、聞いてるんですかっ!? 思い出してください! 本当に何か起きた――― ちょっとやめて、お母さん放して! 放してって言ってるでしょうっ!!!」

「シオリっ! 止めなさいって言ってるでしょ!!」

「うるさいっ! 放せっ!!! 絶対何かあった! ここで何かあったんだ!! この人知ってるに決まってる…… お兄ちゃんが…… お兄ちゃ――――っ」

「いい加減に…… しなさい!!!」


―――バシィッッ


 あり得なかった。

 焼け付くような左頬の痛みも、どこか他人事のように感じた。

 昨日は、迷信やゲン担ぎなどに全く興味の無い理科教師のお父さんが「今日の晩メシはカツ丼にしよう」と言った。

 はいはいわかりましたよと興味無さ気に答えたお母さんだって、かなり気合の入ったおかずを作っていた。

 私は望まなかった。一生懸命なお兄ちゃんが好きだった。お兄ちゃんが一生懸命頑張っている、ただそれだけで私は嬉しかった。勝っても負けても、そんな事はどうでもよかった。

 勝ったら思いっきりお祝いしてあげよう。

 負けたら思いっきり慰めてあげよう。


「落ち着きなさいシオリっ! 騒いだって何にもならないのよっ!!」


 今朝は早く起きてお兄ちゃんにお弁当を作った。

 お弁当を食べる頃にはもう結果が出ているはずで、試合に何ら関係なんて無いけど、お兄ちゃんの好きな2層の海苔弁を作った。

 朝ごはんもちゃんと作ってあげようと思ったけど、いつも通り起きていつも通り食べたいというお兄ちゃんの言葉を尊重して、豆腐とワカメの味噌汁を作った。

 それをねこまんまにしてがっつくお兄ちゃんを、美味しい美味しいと嬉しそうに笑うお兄ちゃんを、私は頬杖ついてずっと眺め続けた。

 「頑張ってね」 私は言った。

 「頑張るよ」 お兄ちゃんが言った。

 こんなにも暑い日だというのに、体を冷やさないためと、お兄ちゃんはいつも通りお気に入りのパーカーを羽織って自転車に足をかけた。

 ―――お兄ちゃん、別に負けたって私は……

 うつむく私の頭を、お兄ちゃんは苦笑しながらぐしゃぐしゃと撫でる。

 ―――大丈夫、俺達は終わらない。


「うぅ…… だって…… だっで、おに゛いぢゃんがぁぁ……」


 いつも一緒だった。

 転んで泣きじゃくる私をおんぶしてくれた。

 迷子になって泣く私の手を、私以上に震える手で握って離さなかった。

 初めて作った真っ黒いハンバーグを、美味しいと食べてくれた。

 大きくなっても、一方的に付き纏う私を邪険にするでもなく、苦笑と共に受け入れる優しいお兄ちゃんだった。

 ブラコンだと馬鹿にされても構わない。大好きだった。誰よりも好きだった。

 


「とにかく、警察に連絡するから落ち着きなさい。きっと大丈夫だから! わかったわね!?」

「う゛ん…… うぅ…… う゛えぇぇ……」


 何故だかはわからない。

 ただお兄ちゃんがこの場に居ないという、ただそれだけの事なのに、とてつもない悪寒が私を捕えて放すことは無かった。

 大丈夫だと自身に言い聞かせた。

 信じてもいない神様に祈った。

 だけど、そんな私たちを嘲笑うかのように


 お兄ちゃんが帰ってくることは無かった。







--------◇ ◇ ◇ ◇







ハッと身を起こす。

 反射的に周りを見渡すが、こちらに注目している人は誰もいない。

 

「夢……か……」

 

 

 5年ぶりに向かうソコは、電車で3駅先にある。

 私はソコに行く途中、電車で揺られて転寝をしてしまったようだった。

 思わず目元に手をやると、生暖かい滴が指に付く。今年で19歳になるというのに、夢如きで泣いてしまうとは我ながら情けない。

 最近、やっと見なくなったと思っていたのにやはり緊張しているのだろうか。

 なんせあそこに行くのは5年ぶりなのだ。意識せずにはいられなくて当然なのかもしれない。 

 ふうっと息を吐いて俯くと、降りる予定だった駅名がアナウンスされて、私は少しだけ慌てながら降りる準備をした。


 電車から降りて改札へ。南口を出て周囲を見渡す。

 5年ぶりに見た景色、開発特区であるこのあたりの景色に、5年という歳月が何をもたらしたのか、正直よくわからなかった。

 年が経つごとに背を伸ばし続ける特区だとしても、目線を上げなければ気付きはしない。

 近代史で語られる、「戦前はこのあたりも田園地帯だった」という定型的な文字情報だけが頭に踊り、私は、遠くを眺める必要など無かったことを思い出す。いつも横を向けば、高層ビル群などよりよっぽど早く大きくなっていくお兄ちゃんがいたからだ。

 立ち並ぶ景色に特段の感慨も無しに20分ほど歩くと、目的地に着いた。

 

「5年たってもこれは変わらないんだなあ。まあ当たり前かぁ」


 ウンザリするほど斜面に長く伸びる階段に目をやり、ため息をつきながら私は呟く。

 今日訪れるべき目的地は、この嫌がらせとも思える長い階段を上った先にある。

 私は「よしっ」と気合を入れると階段を上り始めた。




□□□□□□□□




 お兄ちゃんがいなくなってから一月が過ぎようとしていた。

 私はあの日以来、涙は流さなかった。

 明確な理由は無い。何となく泣いてしまったら何かが終わってしまう気がしたからだ。

 そして最悪の状況を認めてしまった事になるような気がしたからだ。

 そう、まだ最悪の状況ではない。お兄ちゃんはどこかに行っているだけだ。


 お兄ちゃんの失踪は現代の神隠しとして、皮肉にも、とある公立校が甲子園に初出場したことなどよりも大々的に連日報道された。

 何の痕跡も手がかりも残さず、まるでこの世界から消滅したかのように消え失せた高校生。

 いつだってセンセーショナルな表題に一喜一憂するこの国の国民性は健在で、警察の懸命な捜索にも一つとして情報が上がってこなかった事がそれに拍車をかけた。

 其々が勝手気ままに好き勝手ホザくコメンテーター共。思い出すだけでハラワタが煮えくり返る。

 

 曰く、思春期にありがちな自己実現的逃避行

 曰く、甲子園初出場を賭けたプレッシャーに耐えきれず。

 

 御笑い種だ。そんなことがある筈がない。

 お兄ちゃんを知っている人なら一笑に付すであろう頭の沸いた自称知識人たちによる分析。

 好き勝手喋るだけでお金もらえるとは、なんて楽な商売だと冷笑した。

 だがそれでは済まない事をのたまう人たちもいたのだ。


―――いや、悪い事ではないんですけどね? 厳格な父親の教育に耐えきれなかったんでしょうかねえ~


 テメェに私たち家族の何がわかるんだと絶叫した。

 TV越しにその暴言を聞き、悔しそうに俯いたお父さんの横顔を、私は一生忘れないと思う。

 私達がどんな想いで、どんな気持ちで過ごしているかなんて考えもしない上から目線の言葉に、いつもTVの前、「へぇ~そうなんだ~」と他人様の事件を知った気でいた自分を恥ずかしく思った。

 学校の休み時間、面白おかしく話題に上がるどこかの事件も、その陰で震える当事者達がいるのだ。

 知りたい事を知りたい方向からしか知ろうとしない観衆の心無い一言が、どれだけ当事者を傷付けるのか、私は自身が当事者になって初めて知った。

 夏休み明けたら、きっと私も言葉の刃に晒されることになる。悪気無い言葉に心を抉られる日々が待っている。

 強くならねば。

 絶対に負けない。  


 とにかく、そうして私達の生活は望まずともガラリと変わった。

 お母さんは、どんな些細な情報にも縋りつき、血眼になって全国を飛び回っていた。

 ちょっとふっくらして、いつもニコニコしていた人とは思えないほど頬はげっそりと扱け、ふさぎ込むようになってしまった。 

 お父さんは、世間から奇異と非難の目で見られ、生徒の親御さんたちはPTAを通してお父さんの教育に対する懸念を訴えた。

 言い訳を善しとしないお父さんは、ただ黙って屈辱に耐え、みるみる間に憔悴していった。

 私はそんなギリギリのところで踏ん張る二人の狭間で、私達が家族であることを維持しようと必死だった。

 せめて私が明るく振る舞わないと、お兄ちゃんが帰って来た時きっと悲しむ。

 お兄ちゃんが大好きだったこの場所を、その時の為に私が守らなければならない。

 

 だから私は提案した。

 たまには外でご飯が食べたいな、と。私はカレーが食べたいな、と。

 少しでも気が晴れればいい。少しだけでも余裕が生まれればきっと今は凌げる。

 家に籠ってばかりでは淀んだ空気が溜まる一方だ。

 ・

 奇しくも、何の衒いも思惑も無いお盆の日。そうして渋る両親の手を引いて外に踏み出した時だった。


―――井川さん! お墓詣りですか!? 息子さんにどんな言葉をかけてあげるんですか!?


 そう言って、そのリポーターはお父さんにマイクを突き出した。

 私は知らなかった。

 私はこんなにも人を憎む事が出来るという事を。

 私はこんなにもドス黒い感情を抱けるという事を。

 視界がチカチカと点滅していた。心臓が破裂しそうだった。獣の様に喉が鳴った。世界から音が消えた。

 押さえきれなかった衝動が呪言となって喉から漏れ出す


「……コロしてやる…………」


 殺してやる。

 ブチ殺してやる。

 グチャグチャにしてやる。


 私はゆっくりと振り返って家の中に戻る。

 無言でリビングを横切り、キッチンの戸棚から出刃包丁を抜き放った。

 震えは無い。動悸も無い。感慨も無い。焦りも無い。

 あのクズが突き出したマイクは凶器だ。

 放った言葉は何より凶悪な刃だ。

 あのクズは私たちの心を殺そうとしている、私達家族を壊そうとしている。

 許すわけにはいかない。排除しなくてはならない。私はこの場所を守らなくてはならない。

 この切っ先をクズの顔に埋め込んでやるだけでいい。ただそれだけでいい。実に簡単ではないか。


 ――――何度も……

 

 何度も何度も何度も何度も何度も何度も


「切り刻んでやる……っ!」


 私はうつむきながらゆっくりとキッチンから出て、ゆっくりとリビングを横切る。

 玄関に出る直前、顔を上げるとリビングの入り口に、立ち塞がる様にお母さんが立っていた。


「……どいて」

「やめなさいシオリ」

「……いいからどいて」


 お母さんが泣きそうな顔で私に向かって一歩踏み出す。

 思わず私は一歩下がった。


「来ないで……」


 違う。

 そんな顔しないで。

 そんな顔をさせたかったわけじゃない。私は、私は……


―――お母さんに笑って欲しくて……っ


「シオリ……」

「来ないでって言ってるでしょっ!!!!」


 知らぬ間に包丁の切っ先をお母さんに向けていた。

 突然手がガクガクと震えだす。冗談みたく膝が笑った。噴き上がった嘔吐感に口を押えた。

 するとお母さんは、向けられた包丁など気にもせず、さらに私に近づいてきた。

 頭が真っ白になる。何がしたいのか、何をすべきなのか。

 過去、家族との日々の思い出が頭の中をうねり、取り戻すべき日常を模索する。

 有るべき姿は明確なのに、今この状況とのあまりの乖離に気が狂いそうになった。


「私は……私は……っ!!!」


 この場所を守りたいだけ。

 そう叫ぼうとした時

 その声は聞こえた。


「皆様にはご心配とご迷惑をおかけしております」


 呆然と手から包丁を取り落とした。

 思わず駈け出す。

 お母さんの横を通り過ぎ、リビングの入り口から顔を出して玄関に目を向ける。

 そこには……


「お騒がせして申し訳ありません」


 小刻みに震える手を、爪が食い込みそうなほど強く握りしめ、深々と頭を下げるお父さんの姿があった。

 

「あ、あぁ……」


 私の中で何かが切れた。

 何かが終わった。

 どこか夢の中の出来事の様に曖昧にとらえていた現実。

 認めたくなくて、認めたら壊れてしまいそうで。

 向き合う事から逃げていた残酷な事実。

 それを否応なく目の前に突き付けられ、私は糸が切れた人形の様に崩れ落ちた。

 

「あぁ……あああぁぁ……」


 守った気になっていただけだった。無力な私に出来る事は逃げる事だけだった。二人に守られていたのは私だった。

 その拳を今すぐ叩き付けたいであろう相手に向かって頭を下げるお父さんの姿を見て、私は初めて理解したのだ。そして初めて現実として認識したのだ。

 お兄ちゃんは本当に居なくなってしまったのだと。


「あ゛あ゛ああああぁぁぁあ゛あぁ~~~~~~~~~~~っっ!!!!」 

 

 あの日以来。

 そうして私は初めて涙を流したんだ。






□□□□□□□□□□□□



「あー 運動不足かなあ……」

 

 たっぷり数分もかけて階段を上りきると、膝に手をつき呼吸を整える。噴き出す汗がシャツに張り付き少しだけ気持ち悪い。

 正面には瓦葺の御堂。周りには無数に立ち並ぶ墓石。

 そう、そこは井川家のお墓があるお寺だった。

 

「やっぱりあんまり人はいないね……」


 お盆はまだひと月も先だ。

 こんな時期にお参りに来る人間などそう多くはなくて当然だ。

 私は花も水も、何も用意せず、記憶を辿って井川家のお墓を探す。

 

「うぅ…… どこだっけ…… これって物凄く不謹慎だよね……」


 いつもの私は、親の後ろを歩くお兄ちゃんのさらに後ろを付いて行くという寸法でお墓に到着していた。

 まさか過去の横着のせいで、この肝心な時に迷う事になってしまうとは……

 何とか方向だけは覚えている私は、そちらに向かって歩きながら軽く唸る。

 そして見覚えがないかと周りをキョロキョロ見渡した時、とあるお墓の前に立つ一人の男が視界に入った。

 私は驚きのあまりに声を失う。

 別にその男がお墓詣りに似つかわしくないジャージ姿だったことに驚いたわけでもない。

 花も水も持たないのは私も同じだし、ましてやその男が知り合いだったことでも、その手にバットを握りしめていた事でも無い。


「こんなところで何やってるの……」


 彼が「ヒュッ」と鋭い呼気を発するたび「ブンッ」と切り裂かれる空気。

 その滝のように汗れる汗がジャージの染みを容赦なく広げていく。

 あろうことか、彼は先祖たちの魂が静かに眠るこの地で、素振りをしていた。

 

「大野……さん」


 お兄ちゃんの同級生。

 お兄ちゃんと一緒に御前崎高校を甲子園へと導いた立役者。

 そして、お兄ちゃんの無二の親友。

 真剣に、ただひたすら真剣に。

 あろうことか、先祖たちの魂の寄り辺である墓地で、とあるお墓の前で。

 一心不乱に素振りをする大野さんがそこに居た。

 私は声をかけようと手を上げかけて止めた。声を掛けられるような雰囲気ではなかったからだ。

 近くにいる私に気付かないほど鬼気迫る表情で、彼は汗を飛び散らせる。

 お墓の前で素振りをする、そんな窘められるべき非常識な場面だというのに、それはまるで侵しがたい神聖な儀式のようで私は気圧された。


 1回、2回、3回、10回、30回、50回と

 私が何となく数えているだけでも100回以上バットを振り続けた大野さんは、唐突にバットをおろし息をつく。

 そしてとあるお墓、彼の目の前に立つ墓標に向かって呟いた。


「井川、補欠だけど一軍に上がったぞ。必ずチャンスをものにしてやる」


 お兄ちゃんの失踪に心を病んだのは私達家族だけではなかったことを思い出した。

 あの時、お兄ちゃんのチームメイトだという人たちがよく家に押しかけてきていた。

 ある者は飄々と嗤って、ある者は泣きそうな顔で、ある者は真剣な顔で。

 みんなお兄ちゃんを心から心配し、憔悴する私たち家族を心配していることが伝わってきた。

 

「だから早く帰ってこい」


 噴き出そうとする涙を必死に堪えた。

 口元を押さえてこみ上げる激情を必死に抑え込む。

 4年だった。

 4年もの月日が経ったのだ。

 今や誰もが忘れ、気にもしないであろう存在。

 それが私達家族にとっては掛け替えのない存在なのだとしても、世間にとってはそこらに溢れるどうでもいい大衆の一人。

 その差異がもたらす温度差に苛立ちと行き場の無い憤りを抱えながら俯くだけだった私の前には、ただ一人、物分りの悪い武骨な男。

 帰還を信じる事は、真夏の蜃気楼を掴み取ろうとするような愚かな行為なのかもしれない。夢を見ているだけでは済まない歳になってしまったからこそ信じ続ける事の難しさを知っている。

 だからこそ私は感じた。


「いつかもう一度、一緒に野球をしよう……」

 

 言葉に詰まる不器用な男のセリフから、揺るぎ無き信念を。そして残酷なほど固く結ばれた友情を。

 今零れ落ちそうになるこの涙は、嬉しいからなのか、それとも悲しかったのか、その根拠が私には解らなかった。

 静かに滾る愚直なまでに熱い想いの前に、ただただ口元を押さえて立ちすくすしか出来ない私。

 すると大野さんが帰ろうと私の方を向いて、少し驚いたような顔を見せた。

 一瞬の躊躇の後、私に軽く目礼し、こちらに向かって歩いてくる。

 すれ違い様に呟いた「ありがとう」は彼に届いただろうか、振り返ると歩を緩めることなく立ち去る大野さん。

 その背中に向かって再度呟く。


「待っててね」


 私は迷うことなく彼が素振りをしていた場所まで歩いてお墓に向き合った。

 墓標に刻み込まれた「井川家」の文字を睨み付けるように強く見据える。

 そうしなければ決壊してしまいそうな涙腺を、袖で乱暴に擦って鼻をすする。


「手は、合わせないよ」


 お兄ちゃんが死んでしまったとは思っていない。

 そもそも収められた骨壺の中にはその証左など一欠けらすらも入っていないのだから。

 ここに立つのは5年振りだった。

 そうすることがお兄ちゃんの死を認めているようでどうしても出来なかったからだ。

 だが、私はこの春一つのステージを終え、踏み出した私の決意を伝えたくて、ここという場所と向き合う決心をした。

  

「報告に来たの。私、大学に入ったよ」


 私の声は届くだろうか。

 どこにいるかもわからないお兄ちゃんと、どこで繋がれるだろうと考えた時、私はここしかないと思った。

 人の魂が還ってくるとされるこの場所で、甲子園の土が入った骨壺が安置されるこの場所で。

 お兄ちゃんが夢見た舞台の、少年たちの涙と汗が染み込んだ土を通して。

 

「美術系には行かなかったんだ」


 あんなに好きだったデザインの勉強が急に色褪せて見えるようになった。

 もうその時から私の答えは出ていたのだと思う。


「私は決めたんだ。私は公安に行く」

 

 戦後より力を付け続け、今や、対テロ・対工作活動等に関する国内治安維持の全権を有する『公安警察』

 国内の公知非公知含めた情報の集約地点。

 そこで私は、必ずやり遂げる。だから……


「だから…… 待っててね……」


 私はいつだってお兄ちゃんに助けられてきた。

 野良犬に襲われそうになった時も、上級生に苛められた時も

 飛んできたのはいつだってお兄ちゃんだった。 


「必ず…… 必ず助けてあげる……」


 私はいつだって守られてきた。

 目に見えるところで、見えないところで

 いつだってお兄ちゃんの背中を見てきた。


「今度は、私が守ってあげる」


 何も返せていない。

 一緒に過ごした15年間、受け続けた恩を、親愛の情を。

 私は何も返せていない。

 だから私は私の全てを賭けてお兄ちゃんを取り戻すと決めた。

 

「だから待ってて」


 ねえお兄ちゃん

 知ってるかな

 私はね、大好きだったよ。


「……お゛にいぢゃん……」

 

 誰よりも、何よりも。

 心の底から大好きだったよ


「お゛にいぢゃん……っ!!」


 負けない。絶対に。

 今は泣いたとしても、掻き毟られるこの喪失感に苛まれたとしても

 絶対に立ち止まらない。

 

 ドン・キホーテは勇者か愚者か

 荒唐無稽な夢想に取りつかれた騎士の信念が、世間から嘲笑の的になるのだとしたら

 果たして私はどちらに分類されるだろうか。

 だが待っていただけでは帰ってこなかった大事な人との追憶を手に。

 それでも待つと立ち止まる事こそ愚ではないのか。

 

 ならば私は勇者になろう。

 

 笑いたければ笑え。罵りたければ罵れ。 

 そんなことで私の心は揺るぎはしない。

 

 だから私は私の勇気を以て

 私の物語を始めよう



 これは

 そんな愚かなる勇者の物語。

 妄念とも言い得る信念を手に、大事な人との大事な思い出を胸に。

 待つことを止めた無力な私が、巨大な風車に挑みかかる様な。

 そんなどうしようもない私の、どうしようもないブレイブハートストーリー

 

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