オフィーリアの憂鬱④
ちょっとした晩餐会的な立食パーティーの会場。
あの後、俺達は「強制はしない」という言葉の強制により、自称「ちょっとしたお食事会」に参加を余儀なくされた。
周りを見渡すと、豪華な食事がならんだホールに着飾った偉い人たちがグラスを片手に歓談している。
その会話の合間にチラチラとこちらを伺う視線を痛いほどに感じるし、被害妄想なのかもしれないが、隙あらば懐に引き入れようとギラギラする貴族様達の目が怖い。
ガチンコバトルならば、この場にいるドロテアとノリちゃん以外の誰にだって負けるつもりは無いが、残念ながら世の中は腕力だけが力ではないのだ。
そもそもそっち系の人らしいチャラ男さんはその筋の方らしく実に堂々とチャラく振る舞っているし、名実共に魔王なドロテアさんはそんな事など歯牙にもかけず堂々と料理を吸い込む事に夢中だ。
こういう状況では俺と同類らしいオルテナさんが俺の服の裾を掴んで俯いているのが印象的だが、もう少しSランカーらしく堂々と振る舞えないのだろうか。
小市民な俺はまさしく、猛獣の折に放り込まれた生餌の心境だった。
そんな中、いつもと変わらず、嬉しそうに会場を飛び回っていたノリちゃんがお眼目をキラキラさせながら俺を見上げ、両手をバタバタさせながら言った。
「あるじー あるじー あまいのたべていいですか!?」
俺は屈んで出来るだけノリちゃんの視線に高さを合せる。俺の服の裾を掴んでいたオルテナも何故か一緒に屈んで軽くどうしようもない感じになるが、俺は構わずノリちゃんの目を見つめた。
「ノリちゃん、今日は甘いの何個食べたのかな?」
彼女は気まずそうに眼を反らし、チラチラと上目使いで俺の様子を伺いながら呟く。
「あ、あんなー に、2こ……? 2こかもしれん……?」
「ノリちゃん、あるじの顔をちゃんと見て言ってごらん」
俺がちょっとだけ「めっ」する体制に入っている事を敏感に察知し、耳と尻尾をしゅーんと小さくするノリちゃん。自分が何をしたのかキチンと理解し、後悔しているのだ。
俺は別に「めっ」をしたいわけじゃない。叱る事だけが唯一の方策などと思った事も無い。
彼女の保護者として、彼女が自発的に自身の行いを反省するのならば、それを手助けするのが一番いい方法なのだと俺は思う。
「ノリちゃん、本当に2つなのかな? 本当は3つ食べたんじゃないのかな?」
「う、うんとなー ノリなー ノリ…… ノリほんとは3つたべました…… うそついてごめんなさい……」
俺は彼女の頭に手を乗せる。そしてションボリと項垂れる彼女を撫でながら言った。
「そうだねノリちゃん。ウソついたのはいけないね。でもちゃんと反省してごめんなさい出来たのはとても良い事だとあるじは思うな。ノリちゃんはまだお菓子を食べたいの?」
俯いたままコクリと頷くノリちゃん。
俺は別に教育ママでも何でもない。
「甘いものは一日3つまで」というルールを彼女に守らせる事が大事だとも思っていないし、絶対に必要なことだとも思っていない。方法論と目的論は別であるべきで、目的が達成出来るのならば方法などどうでもいいと思う。
小刻みに震えはじめた彼女によしよしをして、俺は語りかけた。
「ノリちゃん、一日3個以上お菓子を食べる事が悪い事なんかじゃないんだよ。だからそんな顔をすることは無いんだ」
「でもなー あるじは『だめだよ』ってゆった……」
俺は突然、言い知れぬ焦燥感に襲われた。
これではいけない、そう強く思った。
それだけはわかっているのに、それをどう伝えたらいいのかがわからない。背中が痒いのに手が届かない、そんなとてつもないもどかしさだけが俺を捕まえて離さなかった。
彼女にとって、俺の言動は道徳の指針だ。
もし俺が白と言ったらたとえ黒だったとしても彼女にとっては白になる。
「ノリちゃん、もしあるじが悪い事をしたらノリちゃんはどうするのかな?」
「でもなー あるじはわるいことしないもん……」
確かに幼い彼女にとって、親代わりの俺の言葉は絶対的な啓示となってもおかしい事など無い。かく云う俺の背骨に通る揺るぎ無き価値観も、俺の親から少しずつ刷り込まれてきたものなのだから。
だが彼女は神の竜。
気まぐれ一つで国を滅ぼし、その気になれば世界だって壊せる。そんな常軌を逸した存在そのものであるノリちゃんがそれではいけないと思う。
四六時中俺が一緒にいるわけではない。いつまでも永遠に一緒にいられるわけでもない。彼女自身が意思決定をしなければならない場面はこれからどんどん増えていくのは間違いないのだ。
それに、俺が血迷ったり人の道に外れる事が絶対無いとは言い切れない。その時、腐っても超越者である俺を止めるのは他の誰でもない、誰よりも愛しいノリちゃんであってほしいと強く思う。
「違うよノリちゃん。あるじだって悪い事をするかもしれない。あるじが言ったからってそれが正しいとは限らないんだ」
たかがお菓子の話だ。だが、されどお菓子の話なのだ。
「ノリちゃん、今はわからないかもしれないけど、あるじが間違った時は、君があるじに『めっ』しなくちゃならない。たとえあるじが「悪い事だ」と言ったとしても、君が良い事だと思う事を君は選ばなくちゃならない。もしかしたら、「お菓子は一日3つまで」と言うあるじが間違っているかもしれないんだ」
もう俺が彼女を抱っこして道徳の岐路を歩く時期は終わりなのだと思う。
俺の優しい天使はどこまでも真っ直ぐに素直に育ってくれた。
間違う事もあるのかもしれない。やっぱりまだ俺が『めっ』する場面だっていっぱいあるのだろう。
だがきっと、彼女が本当に人として許されない道を選ぶことはもう無い。
それに自分の意思で家を飛出し、戦場に降り立ち、自分の価値観に従い涙を流した彼女を、俺が信じなくて誰が信じるというのだ。
「うんとなー ノリなー よくわからんかもしれん……」
「いいんだ、わからなくてもいいんだよノリちゃん。でも今あるじが言った事を忘れないで欲しいんだ。いつかきっと君にもわかる時がくる」
今はまだそれでいい。
少し前までは二人だけの小さな世界で生きていた俺達。
俺がそうであるように、彼女にとっても俺の存在は全てだったに違いない。
だが今ではそれにチャラ男が加わり、オルテナが加わり、そしてドロテアも加わった。そうやって俺達の世界は少しずつ大きくなっていくのだろうし、彼女の成長と共に世界は加速度的に変化をしていくだろう。
「俺だけの天使」は、きっと「俺達の天使」になり、そしていつか「みんなの天使」になってしまうのだ。
「ノリちゃん、甘いものはね、食べすぎるとご飯が食べられなくなるし、お腹を壊すこともあるんだ。歯を磨くのを忘れたら虫歯になっちゃうし、栄養だって偏ってしまうし、ぽっちゃりさんになってしまうかもしれない」
他人には、たかが間食するかしないかのどうでもいいような事に聞こえるのかも知れない。
文字に起こして見てみると、お前異世界に来てまで何言ってんのよw と笑われるかも知れない。
だがいたって俺は真剣だし、俺を真っ直ぐ見上げるノリちゃんも真剣そのものだ。
「ノリちゃんは、ご飯を食べられなくなったり虫歯になったりしないって約束できるかな?」
彼女は迷わない。
その真剣な眼差しに、ここで頷いておけばお菓子を食べられるかもという計算は一切ない。
ノリちゃんは俺の言葉をただただ真剣に咀嚼してコクリと頷くと言った。
「ノリやくそくできます!」
「わかった。約束だよ? じゃあ行っといでノリちゃん。あるじとの約束を守れるならお菓子は何個食べてもいいよ」
「わかりました! ノリはおかしをたべてやくそくもまもります!」
俺は立ち上がりながら、ぴゅーっとお菓子の置かれるテーブルに向かって行くノリちゃんの背中を見つめ軽く目を細める。
今日、また一つ彼女の世界は広がってしまったのだと思う。その度にちょっとした寂しさに襲われる俺だが、きっとそれは喜ぶべき事なのだ。
苦笑しながら横を向くとオルテナと視線が合って軽く気恥ずかしい感じになる。
「イサオ。私達も何か食べようよ。何がいい? 私とってきてあげるよ?」
こっちはこっちで俺の苦笑を誘う、大事な残念娘。
「オルテナさんホントにキャラ変わったよね……」
「そ、そんなことない! い、いいから早く言って! ははう…… ドロテアさんに全部食べられちゃうよ!」
「じゃあ…… 肉、肉かな。普段あんま食べれない肉々しいやつを頼むよ」
「うんわかった! とってくるね!」
頭から生えた2本の尻尾をたなびかせた女の子が料理の置かれたテーブルへと飛び込んでいく。
そして、取ろうとした料理をドロテアに食われていつも通りギャーギャーやり始めた。
言い争いをする二人を囲う人たちの顔には驚くほどの怯えが浮かんでいるが、それは本当の彼女たちを知らないからだ。暗闇の巫女【闇姫】、暗黒の極星【魔王】。そんな仰々しい二つ名があったとしても、彼女たちはどこまで行っても単なる女の子なのだ。
軽く息を吐いて独り俯いていると、突然、俺は声を掛けられた。
「勇者イガワ、いや、イサオ・イガワ。貴様と少し話したいんだ」
顔を上げたその先に佇むのは薄い化粧を施し、光り輝く濃緑の髪を上品に結い上げた美しい女性。
「お、皇女様……」
敵意に近い光を瞳に灯したオフィーリア・グングニルがそこにいた。
□□□□□□□□
「少しだけ、いいかね」
ひとしきり料理を平らげたドロテアが興味無さ気に顎を上げる。
皇王ジュラス・グングニルは少し俯き加減で口を開いた。
「貴殿は【魔王】だと言ったな、少し話でもどうかね」
「……王様とお話。記念すべき外交デビュー。メリアナ……お姉ちゃん仕事するよ」
神妙な面持ちの皇王とは対照的に、ソースやら脂で顔面をベチャベチャにし、肉がてんこ盛りの大皿を抱えたドロテアが酷く対照的なコントラストを描く。
残念ながら、胸を張って「仕事をしている」とは言い難い光景だ。
皇王が苦悶の表情を浮かべながら周囲を見回し、近くに人がいない事を確認して視線を戻す。そして目を剥いた。
「……ふぉふぉふぁふふふぉひふぉひひい」
「お、おお…… よ、喜んでいただけたようで何よりだ……」
「……ふぉふぇふぇ、ふぁふぃふぁほふぉ?」
空になった大皿を抱え、齧歯目が涙目になるほど膨らんだ頬をもしゃもしゃさせるドロテア。
若干気まずい感じで律儀にも魔王の咀嚼を待つ皇王。
咀嚼音をBGMに、大柄な中年と小柄な少女が見つめ合い永遠とも思える十数秒が過ぎる。そして、少女が唐突に「ゴックン」と盛大な音を鳴らして首を傾げた。
「……用が無いなら私は次の料理に行――」
「ちょ、ちょっと待って! 仕事する言うたやんっ!」
極めて軽やかに職務放棄しようとした魔王様
皇王は彼女を引き留めると、仕切り直しとばかりに真剣な表情を浮かべた。
「ワシは…… 知っている。グングニルから聞いたのだ。一族を代表して貴殿らに謝罪したい」
予備動作無しでなされた謝罪。その光景はあってはならない光景だった。
人類の王が人類の敵、魔族の総帥たる魔王に頭を下げる。謝罪の言葉を述べる。それが如何に異常なことなのか。
ここがホール壁際の、他に人がいない場所でなかったらとんでもない大騒動になっていたことだろう。血みどろの歴史と、汚泥の様に溜まった人々の感情を鑑みるに、それは決して許されないことであった。
だが皇王は迷うことなく言葉を紡ぎだす。そんな事に価値など無いのだと言わんばかりに。
「ワシの祖先は同胞である貴殿らを裏切った。我らが生き残るために貴殿らを犠牲にした。心より謝罪申し上げる」
ドロテアは少しだけ眉を潜めると、そんな謝罪は必要ないといったように、別の文言に食いつく。
「……彼はまだ装甲も現存しているって聞いたけど、彼は…… グングニルは生きて、いえ、まだ起動しているの?」
「20年ほど前にその活動を完全に停止した。動力系と制御系のラインが繋がらないと最後までぼやいていたのだが、随分と心配していたぞ。神の名を冠する者を滅ぼすために生まれた彼等だからな」
「……そう、レーヴァンテインも同じ心配をしていた。だけど大丈夫。彼が彼女の傍にいる限り、何も心配する事など無い。それに……」
そう言ってドロテアは、お菓子のテーブルで「うんとなー うんとなー」と頭を捻る幼き神の方に視線を向ける。鉄塊にも等しい強固な無表情が少しだけ崩れて小さなえくぼが出来た。
皇王もそちらに目を向けて緩やかに目を細める。そしてドロテアの言葉を引き継ぐように語り出した。
「それに……、我々人類の恩人なのだからな、神竜は……」
「……そう、唯一人類との共存を望んだ神の一柱、そして彼女はその子孫。そして、育ての親であるいっくんは、分かたれた種族の共存を望んだただ一人の人間」
「再度言わせてもらう。ワシは一族を代表して貴女達に謝罪をしたい。聖魔戦争の折、生き残るために我らは同胞である貴殿らを―――」
「……いい。今となっては昔の話。そんなことはいい。恨んでいないし責めるつもりも無い。みんな生き残るために必死だった、選んだ道が違っただけの話。気にすることは無い。私たちは結構楽しくやってる。でも現実は本当に皮肉……」
悪戯っぽく口端を釣り上げるドロテアを認めて皇王が軽く噴き出す。
「はははっ そうだな! なんという皮肉か!」
あれだけ求め、戦いに戦いを積み重ね、傷つけ合い殺し合い、いがみ合い奪い合った結果、その中心たる神竜と共に歩むのはこの世界とは何も関係がない、肩書きだけが独り歩きする凡庸な青年。
これを皮肉と言わずして何と言うのだ。
「……二人は…… 希望。 どうしようもないほど隔てられてしまった私達の希望の架け橋」
今から食べるお菓子を主に嬉しそうに報告しに行く神竜を見て、二人は目を細めた。
生き残るために必死で戦い、そして散って行った互いの先達の前では決して言えない言葉が、二人の頭を過っては消える。
今目の前にその先霊たちはいない。だからドロテアはこの世界の歴史全てを否定する様な一言を口にしたのだ。
「……なぜ私たちは無駄に殺し合ったんだろう」
今や双方の間に広がるのは絶望的なほどに深い亀裂。
それを無視して過去も未来も語れはしない。
それでも、と二人は思う。
絶望、呪怨、慟哭。怨嗟。
それら全てを呑込み蹴散らしてしまいそうな、当たり前の二人の姿は、何にも勝る正しき証左として、歴史や感情を踏みつぶす。
この光景を直視出来る者が果たしてどれくらいいるのだろうか、これからの世界はそんな残酷な要素で左右される様な気がして、皇王とドロテアは含み笑う。
「ワシは…… 貴殿らの味方をすると決めた」
ドロテアが魔王らしく、邪悪にくつくつと喉を鳴らした。
「……それは私達が神竜と勇者と魔王だから? それとも―――」
すると皇王はどこか晴れ晴れとした顔で断言した。
「両方だよ魔王殿。力を持つ貴殿らだからこそ出来る事だってある。それに我らが目指すべき未来は既に貴殿らが体現しているではないか」
二人は数瞬だけ視線を交わし、そして軽く頷く。
「我々にもあんな未来が……」
「……ええ、きっと出来る筈」
もう言葉を交わさずとも互いの想いを確認したとばかりに、くるりと背を向け料理のテーブルへと歩き出す魔王。皇王がその背中に声をかける。
「聖12騎士が来る。おそらくは貴殿の首を取りに…… 貴殿らの日常を奪いに…… 最大限の協力はするが気を付けて欲しい」
ピタリと足を止め、首だけで振り返るドロテア。
そして彼女はいつもと変わらぬ平淡な声で朗々と宣言した。
「……私は超越者【魔王】。神竜の加護を身に宿す最強の存在。大丈夫、あの二人は私が守るから」
◇ ◇ ◇ ◇
「勇者イガワ、いや、イサオ・イガワ。貴様と少し話したいんだ」
顔を上げたその先に佇むのは薄い化粧を施し、光り輝く濃緑の髪を上品に結い上げた美しい女性。
「お、皇女様……」
敵意に近い光を瞳に灯したオフィーリア・グングニルがそこにいた。
俺は焦って周りを見渡す。
ノリちゃんはお菓子のテーブルで首を捻っているし、オルテナは料理を取りに行ってしまっている。
ドロテアは誰と話しているのか見えないが壁際で大皿片手に会話をしている。チャラ男に至っては壁に片手を付き女の子をナンパしていた。
ほぼ初対面の女の子に睨まれて堂々としてられるほど俺の肝は太くない。しかも相手は皇族で、皇国軍事のトップ【緑星】ときたら尚更だ。
すぐさまキョロキョロと援軍を探してしまうあたり、自分でも情けないとは思っているが、女の子と付き合った事も無い部活漬けだった俺にとって女の子は得意ではないのだ。
「は、はい! 皇女様! な、何かご用で……?」
へぇ! あっしに御用でございやしょうか! 的な体制で返事をする俺。
理解はしていたが、生まれ持った自身の器の小ささを再認識して泣きそうになった。
「オフィーリアでよい。貴様は妾の部下ではないし客人だ。畏まる必要は無い」
「え、ええ。そうは言いましても……」
チャラ男ならばここで「オフィりんマジイケてるね~」とかグイグイ行くのだろうが、如何せん俺は異世界出身、その中でも特別内気な農耕民族の出でございますので。
「まあ貴様にとって楽なほうでよい。そんなことより貴様の仲間は層々たる顔ぶれだな。勇者、魔王、
聖魔法師、神竜、そして……」
ちょっとだけ微妙な顔で後ろを振り返る皇女様。その視線は、取り皿に色んな料理を少しずつ盛っていく御上りさんを捕えていた。
「オルテナ・レーヴァンテイン…… 彼女は本当にSランカーなのか……? 特徴的には間違いなく夜魔族の成体だが、普通の女の子にしか見えぬ……。あれが音に聞こえる迫撃最強【闇姫】だとは……」
「あ、はい。俺も正直疑いたくなるんですが間違いなく闇姫ですよ。彼女はほぼ魔法は使えないんですが、迫撃限定だと多分俺も勝てないです」
皇女は俺の言葉を聞いてもまだ首を傾げているが気持ちはよくわかる。
一応、皇国主催の社交的要素の強いお食事会だというのに、まるでバイキングに来た女子高生みたいなテンションで料理を物色する彼女を見ていると俺だって首を傾げたくなる。
お花畑の光背を展開させている黒の使徒様は俺達の視線に気付くことなく、せっせと料理を選んでいた。
「そうか…… 一度手合わせを願いたいものだ。本来は魔導系種族である古代種夜魔族の迫撃など聞いたこともないのでな。しかし成体になっても魔法が使えないとはまた珍しい」
ドレスアップした皇女はオルテナに負けず劣らず綺麗で、その華奢な体躯に忘れそうになるが、目の前に立つこの美人さんも大陸に7人しかいないSSランカー【緑星】なのだ。
魔王然り、闇姫然り、緑星然り。女性が強いのはどの世界も同じようだった。
俺は何の気無しに呟く。
「緑で強い人かぁ~ あれ……最近どっかでそんな痛強い人を見たような……」
「――っ! と、とにかく! ボク…… 妾は少し話したい事があるんだっ!」
なぜかワタワタしだした皇女様
俺は何となく、この人どっかで会ったこと無かったっけ? と思ったが、先程の会話で少しだけ気になった点があったので聞いてみる。
「ええと、手合わせとかホントやめて下さいよ……? ウチの子すぐ泣くんで。それより『成体』って何の事です?」
「ん? ああ、知らないのか? これは古代種全般に言えるのだが夜魔族も15、6歳になると急激に成長して一気に大人の体格になるのだ」
「え? マジっすか!?」
「マジだ。逆にそれまでは『幼体』と呼ばれ、『成体』になるまでは人間でいう10歳くらいの見た目のまま時を過ごすのだ。どうしてそういう生態なのか色々説があって、通説は『種族として戦い生き残るのに合理的だから』だそうだ。その説の帰結では、彼女達は生まれつきの戦闘種族ということになるな」
少なくない衝撃を受ける。
確かにこの世界にはネコ耳や尻尾や翼が溢れている。どの段階でその要素が人の血に入って来たのか想像も出来ないが、魔法やら幽霊やらが当たり前の様に存在する世界だ。そして歴史を鑑みるに、今も昔も「力」を極点とした情け容赦無いシンプルな世界だ。
どうせ遥か昔、合成獣的な要素として非人道的に発生し、今に至るのだろうと思う。
だが今の皇女の話を聞く限り、古代種は違う。
生物としての根本が違う。
この厳しい世界を生き抜くため、そういった生態を選択した種があってもおかしくは無いと思うが、本当に自然に発生する要素なのだろうか。
そして人としての進化の樹の中で、本当にそんな枝分かれがあるのだろうか。獣人を含め、この世界では多くの種族が存在するが、なぜそれは古代種限定なのだろうか。
何かおかしい。そんな強烈な違和感だけは明確なのに、何がおかしいのかが説明できず妙に背中がが痒くなる。
「それはともかく、話を続けていいか?」
思考の迷路の出口にもうすぐ手が届きそうな時、皇女のその言葉で現実へと引き戻される。
今見えかけた答えが何だったのか、もう思い出せなくなってしまった。
とても重要な事だったような気がするが、今となってはもう遅い。俺は少しだけ息を吐くと皇女に向き直った。
「ええ、大丈夫です。聞きたい事ってなんですか?」
「先日の、魔獣大侵攻について……」
胃がキュウっと縮むのを感じた。
正直、要件など聞かなくてもわかっていた。
謁見の時の不自然な沈黙も、敵意が混じった視線の理由も、本当はわかっていたんだ。
話しかけられた瞬間に、ツケを支払う時が来たと頭のどこかで思っていても、傷つきたくない一心で卑怯にもソレから目を背けていた。
いつも何からも逃げ続けたニョーラの俺だが、きっともう逃げられないのだ。
「多くの部下が死んだ。生まれた時から一緒だった愛馬も……。あれは、あの悪夢は、無い……。受け入れ難い。どうしても、ボクは許せないんだ……」
「俺が…… 俺がこの国で生活していたから…… でも俺もっ! 俺だって!」
「わかってるんだ。君は悪くない。何一つ悪くなんてないよ。でも……っ」
俯いていた俺は顎を上げる。
そして皇女の顔を見て息を呑んだ。
真っ赤に充血させた大きな目に薄く広がる水膜、引き絞った頬とハの字形になった眉が、彼女の深い悲しみと絶望をこの上なく物語っていた。
「でもっ! じゃあボクはどうしたらいいっ!? この怒りを、屈辱を、絶望をっ! 一体何に、誰にぶつけたらいい!?」
涙を流さないのは彼女の意地なのだと思う。
散った仲間たちのためにも、その原因かもしれない俺の前で情けない姿を晒せないという、彼女の守るべき一線なのかもしれないと思う。
「わからない、わからないんだ。その矛先にするにはキミは善人過ぎる…… 逆恨みしたって死んだ部下が喜ぶはずが無い……」
ただひたすら形式的に考えれば、矛先にすべき相手はわかりきっている。俺に敵意を向ける事すら本来ならお門違い甚だしい。
だが悲しいかな、理屈で世界は回ってはいないのだ。
マイノリアが悪いと目の前に彼女に告げたところで一体何がどうなるというのか。
マイノリアと戦争するか? 報いを受けさせるために、目には目をと虐殺の一つでもしてみるか?
出来はしない。
死んだ部下達のため、ここまで絶望し、敵に回すわけにいかない相手に食って掛かる、残酷なまでに優しい目の前の皇女様に、そんな事は出来はしないのだ。
答えが目の前に聳え立っているというのに、それ以外の答えを見つけるしかない彼女は、そこらに散らばる小石を拾っては捨て拾っては捨て、そして今「勇者イガワ」という名の小石を手に取り震えている。
俺がいなければ起きなかった厄災だという事に気付いてしまった彼女に、安易に俺のせいだと言ったところで、きっと傷つくのは俺ではなく彼女のほうだ。
「キミを一発でも殴ればこの気持ちが、この汚らしい気持ちが晴れてくれるのかな……? 答えてくれ……」
擦れ、途切れ、最早聞き取れないほど弱弱しい皇女のセリフ
俺が用意できる答えなどある筈がなかった。
時間が経てば経つほどドロドロと煮詰まり続ける黒い感情を抱え、心の中で泣き叫んでいる彼女に、俺如きが放っていい言葉など何一つ残ってはいなかった。
少しでも気が晴れるなら殴ればいいと思う、いや、殴って欲しいと思う。家族の為に死ぬわけにはいかないが、剣で切り付けてくれたっていい。むしろそうしてくれればどれだけ俺が救われることか。
だがそれでは俺の軽くなった分と同量の想いが彼女に降りかかることだろう。
だから俺は何とか問いに答えようと、見つけた言葉を握りしめては口を開くが、その全てがいつの間にか手の隙間から零れ落ちてどこかに消えてしまう。
「お願い…… ごだえで……イガワ……」
彼女が俺の胸倉を左手で掴んで、俺の胸におでこを当てた。
だが手は震え力など入っていない。持て余した感情で頭がぐちゃぐちゃになった彼女は、そうすることで何かに縋っているのだ。
「ごめん……」
俺がそう呟くと、彼女は驚くほどの憎しみを目に宿して、キッと俺を睨みつけた。
「き、貴様ぁ……っ!」
またしても俺は間違える。今最も口にしてはいけない一言を思わず口から溢してしまった。
殴られると思った。甘んじて受けようと障壁を解いた。
胸倉を掴む手に力がこもり、振りかぶられた右手に緑色の魔力が宿る。
障壁を解いた今、とてつもない密度で練り上げられた魔拳を受けたらどうなってしまうだろうか、完全に瞳孔が開き切っている皇女は今、力の加減など出来ていないに違いない。俺はどこか他人事のようにそんな事を考えながら迫りくる拳をただ見ていた。
そして、それはその拳が俺に届く寸前の事だった。
「あるじー あるじー!」
「オフィ姉さま~~~っ!」
俺の天使がまたしても俺を救う。
「あんなー ノリなー ノリこれたべることにしました!」
嬉しそうに選んだお菓子を掲げて俺に報告してくるノリちゃん。
天使はいつの間にか解かれていた俺の胸に飛び込んでくると、「あるじもひとくちどーぞ」と嬉しそうに言った。
わけのわからない感情に襲われた俺は、一口お菓子を齧りながら唐突に目頭が熱くなる。
この想いを、この喜びを、この幸せを。
失った人達がいるのだ。奪われた人たちがいるのだ。
そしてそれはきっとオフィーリアも同じなのだろうと思った。
ふとオフィーリアに目を向けると、先程ノリちゃんと一緒のタイミングで「オフィ姉さま」と飛び込んできた少女に抱き着かれて焦っている。ドス黒い感情をとりあえず片付けることも間に合わず、純粋な愛情を向けられて混乱しているのだろう。
抱き着いている少女をちょっとだけ観察してみる。
黒に近い緑の髪。
大人達が着ている上品なドレスとは違って、フワフワとゴスっぽいドレスに身を包む少女はおそらくクルルちゃんと同い年か少し下くらいだろう。
「お、皇女様…… その子は……?」
「あ、ああ…… 妾の妹のリタ・グングニルだ」
するとリタはオフィーリアの胸に押し付けていた顔を上げて姉を見上げる。そしてその表情を強張らせた。
「オフィ姉さまどうしたの!? 誰がやったの!?」
目元を真っ赤にしたオフィーリアが困ったように俺に視線を向ける。リタがその視線を辿って俺に辿り着いた。
そしてリタは、どうしようもないほどわかりやすく、その顔を憤怒色一色に染め上げて俺を指差した。
「あいつがやったのねっ!」
◇ ◇ ◇ ◇
そしてリタは、どうしようもないほどわかりやすく、その顔を憤怒色一色に染め上げて俺を指差した。
「あいつがやったのねっ!」
俺より背の低いオフィーリアに抱き着いて胸に顔を埋める程度の身長。
そんな小さな少女は、この世に怖い物などないのだという風な強い眼差しで俺を見上げながらズカズカと近づいてくる。
そしてノリちゃんを抱っこしている俺の正面、1歩程の至近距離で立ち止まると、腰に手を当てふんぞりかえって、諸悪の根源は俺なのだとばかりに俺を睨みつけた。
一瞬たりとも逸らされない視線から先に逃げたのはヘタレの俺だった。
別に後ろめたいことは無くても、正面から睨まれ続けて視線を逸らさない日本人などいない。
文化だ。文化の違いなのだ! と自分に対する言い訳を続ける俺。
方向的にリタを見れないノリちゃんが、嬉しそうに頬っぺたすりすり尻尾フリフリしてくる至福を感じながら、俺は歳も背も小さい少女に若干びびっていた。
すると少女は羅刹のような憤怒の顔で俺を見上げながら言った。
「そなた! 何お姉様泣かしてるのじゃ!」
「い、いや…… ち、違っ……! 」
しどろもどろになる俺。
俺どんだけヘタレなんだよと自己嫌悪に陥りながら、逃げ道を探して視線を彷徨わせる情けなさを噛み締めて、今度は俺が泣きそうになる。
「ち、違うって! 皇女様が勝手に……!」
「なんじゃ! お姉様が悪いって言うのかっ!」
さらに柳眉を釣り上げるリタ皇女様。
男は女に勝てないように出来ている。
それは、土曜日の晩酌中に珍しく深酒をした父ちゃんがため息と共に吐き出した一言だった。
当時小学生だった俺ですら経緯など聞きもしなかった。その言葉の真意を瞬時に理解し、「だよね父ちゃん……」と同調したのを今でも覚えている。
力が強かろうが、権限が強かろうが関係など無い。
最終的に女は強いのだとこの世の真理を語った父の赤ら顔が唐突に頭に浮かんだ。その横で含み笑いをする母のしたり顔もセットで浮かんだ。
だが感傷はいい。今は目の前の小さな怪獣からどうやって逃げるのかが重要だった。
「り、リタ…… 姉は別にその男に泣かされたワケでは―――」
「お姉様は黙っててっ!」
唯一俺を救い得るオフィーリア閣下の援護を切って捨てるリタ様。
すると少女は一歩踏み出し、拳を握りしめると後ろに振りかぶる。
俺は安心した。
黙って殴られればこの場は治められる。
せいぜい俺のお腹くらいの背の女の子に全力で叩かれたからといって何がどうなるわけでも無い。
例え今、32層にも及ぶ障壁を解いた状態でも、相手の血統がどれだけ優れていようとも、さすがにちんまいチビガキに叩かれてどうにかなるほど、世の中は甘くない。
「や~ら~れ~た~」みたいな一言と共に痛がるフリをすれば気も収まることだろう。
俺はほくそ笑みながら軽く腰を落として少女の攻撃を待った。
はんっ 腐っても勇者として活動して鍛えられた肉体に、ガキンチョがダメージを通せるとでも思っているのですか。魔力も纏わないおチビちゃんの攻撃が通用するほどこの世界は甘くないのです。さあ思い知るのです! 勇者として活躍した私に一太刀浴びせる事の難―――
―――どすっ
俺は崩れ落ちた。
リアルに悶絶した。
「はっ! 此方の必殺技の前では勇者とて立ってられまい!」
反論したくても肺の空気は全て一瞬で空になっていた。
息を吸い込むことも儘ならないまま、俺は酸欠状態で床を転げ回る。
どんな過酷な修業をした人間でも、人類には鍛えられぬ弱点というものが2つ存在するのだと言う。
一つは目
いかな筋骨隆々のプロレスラーとて、幼子の目突きに耐え得るものなどいない。
一つは喉
どんな百戦錬磨の武道家とて、素人の喉付きで膝を崩さぬ者などいない。
それは神が平等に与え給うた人という種に対する枷であった。
「お、おい! イガワ! 大丈夫かっ!?」
「あ、あるじー! どーしたのー!」
だが神は同時に不平等でもあった。
「どうじゃ! 此方がじいやと一緒に編み出した『真・魔神拳(改)』の威力はっ!」
神は人を創ったその瞬間から、か弱き女とバランスを取るため、あらゆる男に対し、何人たりとも踏破不能の不可侵領域を設定なされたのだ。
「ぐっ 金的って……! あんた、あんた皇女でしょうよ……っ! 何やってんのよっ!」
やっと呼吸を取り戻した涙目の俺が軽くオネエ系な感じで叫ぶ。
軽く何かに当たっただけでも脂汗必至な我らがデリケートゾーン。
そんな神域に、なんと神をも畏れぬ目の前の少女は、魔力も通わぬ非力な体で体重の乗った渾身のコークスクリューを放ってきたのだ。
さっきまで見下ろしていたはずの皇女様にドヤ顔で見下ろされた俺は涙目で毒づく。魔神拳もクソもない。当たり所さえよければ、幼女の猫パンチで男は死ねるのだ。
「ふふんっ! どうじゃ見たかじいや!?」
「お見事でございました姫様」
リタ皇女の横、ぬうっと現れた燕尾服に身を包んだ初老の男性が、虫を見る様な目で俺を見下ろしていた。
皇女付きの執事らしい初老の男性は、片眉を上げ俺に侮蔑の視線を寄越しながら口を開く。
「しかしながら姫様、じいやにはもう少し腰の捻りが足りなかったように思われますじゃ!」
「な、何!? それはまことか!?」
「いかがですかな? 今後の為にももう少々練習などしてみては?」
床で悶える俺を無視して話を進めるお二方。
すると、じいやと呼ばれた初老の男は驚くべきことを口にした。
「そうですじゃ! このわたくし、じいやが練習台になりましょう! ささっ 姫様! その可憐な御手で下賤なじいやのじいや自信を打ち抜いて下さいませっ!」
「そ、そうか! 行くぞ! はぁっっっ!」
―――ドスッ
「い、いひいいいぃぃぃぃ~~~~~っっっ!!!」
圧倒的恍惚の表情を浮かべ、絶叫とも嬌声ともつかない声を上げて崩れ落ちるじいや。
唐突に登場したじいさんは唐突に床に沈み、ビクンビクンと体を痙攣させ涎を垂らしている。
そしてしばらくすると、爺さんはおもむろにネックブリッジの体勢に移行した。
堂々と腕を組み、ピシリと整えられた頭髪が床で擦れるのもいとわずに地に頭を付け、顎を反らし肉体を反らす、もちろんギリギリまで接地面を削いだ爪先立ちだ。
そうして執事が織り成す美しい逆Uの字に感動すら覚えていると、爺さんは、カッと目を見開き叫んだのだ。
「ひ、姫様ぁ……あっ…… ま、まだですじゃぁぁぁぁ~~~!!」
何がまだなんだよ。
御無沙汰過ぎて加減を忘れてしまったのだろうか。年齢イコールな俺ですら種の危機を感じた一撃だったと言うのに、人は歳をとるとそんな事も忘れてしまうのだろうか。
俺が諸行無常を痛感していると、じいさんは更に蛮勇を振るった。
「こ、こんな事では完成には程遠い……っ さあもう一度! もう一度このじいやめに御慈悲をぉぉぉぉ~~~~っっ!!!」
「せいやっっ!!」
「ふおおぉぉぉぉおおおおぉぉ~~~~っ!!!!」
だめだこの国終わってる。
法悦の表情で泡を吹き、小刻みに痙攣を繰り返すじいさん。やがてピクリとも動かなくなったのできっと絶命したのだと思う。
俺は、何が起きたか理解が出来ず心配そうに飛び回るノリちゃんに「大丈夫だよ」と声をかけて、未だ激痛の走る下腹部を押さえながら上半身を起こすと周囲に視線を巡らせる。皆が皆、大いに焦っていた。
なんてことをしてくれたんだとばかりに悲壮な想いを顔に浮かべている周りの面々。
ちなみに、微動だにしないじいさんの方向から「しゅ、しゅごいのぉぉ~」とかいう声が聞こえたが、俺は断固として無視した。
周囲が焦るのは当たり前だ。
普通に考えたら俺と敵対するなどあってはならない事。俺だけでも単騎で国を相手取れると言うのに、その仲間には神竜がいて闇姫がいて、そして魔王がいる。
100回この国を滅ぼしてお釣りがくるほどの武力にケンカを売って得する事など、常識的に考えて何一つありはしない。まして今この国の現状はボロボロで、さらに右から左から槍を突き付けられている状況、何としても俺達の協力を取り付けなければならない場面なのだ。
それなのに、最も言動に注意すべき王族が、最も注意すべき相手の、最もセンシティブな部分に、最も凶悪な攻撃を加えたとなればそりゃ焦る。
そんな超越者の超越者自身を無邪気に打ち抜いた豪の者は、不敵に笑って宣言した。
「どうじゃ見たか! たった今、此方の『真・魔神拳(極)』は完成したっ! かくなる上はオフィ姉様をいじめたその罪、その体で贖ってもらうべぇっ―――」
ごっつんこ
「い、痛いオフィ姉様! なんでゲンコツするの!?」
「貴様は何てことをするのだ!」
「だ、だって! あいつが! あいつがっ!!」
床に転がる俺を指差し、涙目になって姉を見上げる妹。
微笑ましい光景にも見えるが、人様の人生を狂わせかねない一撃をこの身に受けた俺としてはとてもそんな気分になれはしない。二人が俺から視線を外し、周囲の目が二人に向いているのをいい事に、俺は地味にマイサンの状態を触診して安堵した。
未だ涙目で姉に抗議するクソガキを、これまた涙目で睨み続けていると、この広いホールを何の前触れも無く、黒い風が両断した。
「い、イサオ! どうした!? 敵? 敵がいるのか!?」
深く澄んだ紅い瞳をギラつかせ、見たことが無いくらい真剣な表情を浮かべたオルテナさんが俺のすぐそばで声を荒げる。
俺は目を瞬かせながら、ピンチの時に躊躇なく現場に飛び込んでくる頼もしい仲間を見上げるが、多くの料理が少しずつ盛られた取り皿を左手に、フォークとスプーンを右手に周囲を警戒する様は、申し訳ないが非常に残念だった。
「イサオ程の者を沈める手練れがいるのか!? 敵はどこだイサオっ!?」
オルテナが大きな目に危険な光を灯しながら周囲を見回す。
そして、困ったように俺に目を向けるオフィーリアに視線を固定した。
「あなたが、やったのか……?」
びっくりするほど低い声で驚くほどの敵意をむき出しにしたオルテナ。
展開されていた黒い光背がブワッと膨らむ。解放された魔力圧が一瞬でホールを制圧し、共鳴したグラスがビリビリと音を立てた。
オルテナの背中から放たれた黒光が巨大な翼の形を取り、その翼がゆっくりと彼女を包み込む。
突然広間に現れた常闇に、ボウっと紅い光が二つ。【闇姫】という二つ名の由来となったオルテナ本気の戦闘形態だ。
当然の如く俺は焦った。
「お、おい違うってオルテナ! その人じゃないしそんな警戒しなくても大丈夫だって!!」
闇に浮かんだ紅い光がギョロリとこっちを向く。
正直すんごい怖かった。
「ではなぜ倒れてるんだ。悶絶していたじゃないか。ウソをつくなイサオ。私はあなたほど敵に優しくない……」
「ひいぃっっ!」とリタ皇女が脅えてオフィーリアの腰にしがみつく。
最近、どうしようもないほど乙女になってしまった口調もすっかり元通りになっていて、ちょっとだけカッコ良かった。
周囲の人たちが彼女の変貌ぶりに口をパクパクさせて驚いている。まさか生活サポート宣言をしてしまった可哀想な子がここまでのプレッシャーを放つなんて想像も出来なかったのだろう。
ともあれ、武士な彼女が戻ってきてくれたとしても、それは今この場で必要な事ではない。たとえ仲良くなくとも、今後付き合っていかなければならない相手に、ちびるほどの敵意など無用でしかない。だから俺はこの場を収めなければならなかった。
「違うんだオルテナ。不注意でちょっと金的ガシっとされちゃってさー」
暗闇の中、首を傾げる気配。
「金的ってなに?」
お、おう…… そこからか……
「い、いや、人類共通の男の弱点でさ、最悪の場合どんな屈強な男も乙女になってしまう大事な部分なんだ……」
「大事な部分ってなに?」
もし今、彼女がオルテナさん(乙女ver.)だったら俺だって躊躇ったに違いない。だが今の彼女はオルテナさん(武士型)だった。だから俺も正直答えたのだ。
「股間です」
「股間? 股間ってイサオの股間?」
きょとんとする気配を感じて何となく不安になったが、言ってしまったものは仕方がないので最後まで責任を取る事にする。
「そうですよ。私の股間です」
「こ、股間って、イサオの、あの、その……っ おちっ おちん……っ…………っ!!」
ガチャンと床で陶器が割れる音。
そしてボウンっというアホみたいな音と共に霧散する黒光。
そこから現れたのは、両手を頬にやって、その瞳と同じくらい顔を真っ赤にしているオルテナさんだった。
するとオルテナさんは小刻みに体を震わせて、驚異的なスピードで涙目になると目をバッテンにして叫んだ。
「誰っ! そ、そんなのヒドイよっ! 私だってまだイサオの金的してないのにっ!」
いやアンタにやられたらイサオちゃん(♀)になってまうやんけ。
どうしようもないほど残念な勘違いしているオルテナさんがブンブンと胸の前で腕を振る。
「ばかっ! イサオのばかぁぁ~~~~っっ!!!」
しまいには「え~んえ~ん」と泣き出す始末。
何がどうなったらそういうリアクションに辿り着くのか。
二人の皇女含め、誰しもがポカーンと呆けている中、どうすればこの可哀想な子に言葉が届くのだろうかと独り途方に暮れる。
全く別の意味でこの場を収めなければならなくなった俺が頭を抱えていると、突然背後に見知った気配を感じた。
俺は振り向きもしない。現状でもいっぱいいっぱいだというのに、更にやらかしてくれる事間違いない自由人の登場をヒシヒシと感じながら俺は素直に項垂れた。
すると背後に立った、いつだってブレないその人は、俺の微かな希望を打ち砕くように自由な台詞を吐いた。
「……夫の貞操の危機と聞いて」
◇ ◇ ◇ ◇
「……夫の貞操の危機と聞いて」
魔王様降臨。
俺は盛大なため息と共に後ろを振り返る。
そこに立っていたのは言うまでもない、まだ食べたりないのか、料理を盛りに盛った大皿を抱えた我らが魔王様。
それだけならば、食いしん坊な魔王様という話で終わるのだが、残念ながらウチの魔王様はそんな中途半端な事はしない。
「……いっくん大丈夫? 特に股間が大丈夫?」
やたら股間を心配する言動が目立つ魔王様だが、俺はむしろ彼女の顔が気になって仕方がない。
様々な料理のソースが塗りたくられた顔面は、こってりと油絵具が塗られたキャンバスを彷彿とさせ、「あれ? 今からどっかの部族と戦争?」と聞きたくなるほど、未開地の現住民族の戦化粧を連想させた。
「ドロテアさん……。ソースで顔がドエライことになってますよ……?」
するとドロテアさんは空いている手でどこからかハンカチを取り出すと、楚々とした仕草で口元を拭う。
そしてそのハンカチを見惚れるような美しい動作で綺麗に畳むと、またそれをどこかに収納した。
「……ん、ごめんなさい。公式の場で夫に恥をかかせるなんて」
これで問題は解決した感が半端無いですが、まだ何も解決してませんよね。
口元だけが綺麗になったものの、相変わらず戦化粧はそのままのドロテアさん。
リタは更に脅え、オフィーリアは口を半開きにさせていた。
「……それで? いっくんの貞操を穢したのは誰? 狼藉を働いた者にあらゆる禁呪をお見舞いする用意がある」
「ドロテア、君は勘違いしている。別に俺の貞操は健全なままだよ。ていうか不健全なことしてみたいよ……」
「……そう。ならいい。いっくんと不健全なことをするのは私。ちなみに子供は5人欲しい。頑張ろうねパパ」
「それはそれでどうかと思う……」
勇者の子供を産みたいと宣言する魔王にドン引きする周囲の皆様。
俺は少しだけ冷静になって周囲を見渡してみる。
すぐそこではオルテナが「ぐすっ ぐすっ」と鼻を鳴らして泣いているし、そんな彼女が心配になったのかノリちゃんは、よしよしとオルテナの頭に手を置いている。
リタはリタで涙目でオフィーリアの腰にしがみつき、オフィーリアは超展開について行けずオロオロと視線で助けを求めている。
そしてそんな俺達を遠巻きに見つめる権力者たち。総じて彼らの目には隠し様も無い脅えや恐怖、困惑が浮かび、時折その中に敵意が滲んでいる者すらいた。
「潮時…… かな……」
ため息と共に俺が呟いた。
するとオフィーリアが焦ったように口を開く。
「ま、待て! すまない。謝罪する。リタ、貴様も謝るんだ」
「此方は悪くない! 此方の魔神拳の威力が強過ぎ―――」
「リタっ!!」
ふぐぅ……っ と目いっぱいに涙を溜めるリタに苦笑しながら、違うんだよと俺は言った。
「ホントに怒っているわけじゃないんですよ」
「……もしいっくんのリトルいっくんがダメになっていたら、あなたたちは絶滅してた」
「ドロテアさん、ややこしくなるからやめてください…… そしてリトルとか言うのやめて……」
「……もしいっくんのビッグいっくんをしんなりさせていたら、あなたたちは絶―――」
「見栄っ張りみたいだからホントやめて下さい……」
ぷぅ~~ と頬を膨らませる魔王様をスルーして、さりげなく自身の股間に視線を落とす。
本心だった。いつの時代、どこの世界だって「カンチョー」「金的」「スカートめくり」は腕白小僧だけが行使を許される3種の神器だ。俺だって小学校時代の自分を思い出すとこめかみが痛くなる。
それにもう可愛らしい敵意に目くじら立てる歳でもなくなってしまった。
「ではどうして『潮時』などと…… この国から出ていくつもりか!?」
「違うんです。俺達は特殊過ぎる。あまり関わり過ぎないようにするのがお互いの為だと思うんです」
「協力はしない……と?」
「いえ、相場の報酬を頂けるならば是非お仕事いただきたいですよ。討伐は断りますけど。俺は自分達がどんな存在なのか、頭が悪いなりにわかっているつもりなんです」
「そ、そんなこと……」
そんな事無いと最後まで言えなかった皇女が悪いわけではない、だがそれが現実なのだと思う。
今は解ってもらえるはずがない。
常軌を逸した力を見せつけた闇姫。人類の仇敵魔王。そしてそんな二人を仲間と呼ぶ元勇者。更にはそんな不確定要素と共に生きる伝説の存在神竜。
そんな連中が好き勝手自由に生きていたら疑心暗鬼にだってなる。気まぐれ一つで国の存亡を左右できる脅威が大手を振って歩いていたら忌避されて当然だ。理性的に管理されない力など、単なる暴力でしかないのだから
「一国を相手に出来る超戦力【勇者】、800年も昔より人類の宿敵であり続けた【魔王】。血みどろの闘争の契機となった生ける伝説【神竜】。さっきやらかした【闇姫】に、敵国のスパイかもしれない聖魔法師。不安になるなって方が無理な話です」
「ならばむしろ積極的に関わって理解を得る努力をしたほうが―――」
「右を向いたら左が不安になる。左を向いたら右が裏切られたと思う。だったら俺は静かにしてます。どれだけ声高に叫んだって、目も口も耳も閉ざした人たちにはきっと届かない」
ここにいる誰しもが表面上取り繕ったとしても、心のどこかで俺達を恐怖し、疎んでいる事だろう。
彼等が一方的に悪いなどとは思わない。俺だって逆の立場になったらきっと彼らと同じような反応を示していただろうと思うし、誰だって守るべきものを守るために必死だ。
俺達は力と引き換えに、誰しもが求める「平穏」を失った。それはもしかすると力の代価とも言い得るのかもしれない。
だけど俺達は、少なくとも俺はそんなもの望んじゃいないんだ。
持つ者の傲慢と揶揄されるかも知れないが、それでも俺は平穏に穏やかに暮らしたいと素直に思う。社会保険があれば加入したいし、この国に年金制度があるのならば迷わず支払う。公務員の親から生まれた俺はどこまで行っても安定志向の小市民なのだ。
でもそれはきっと理解してもらえないのだと思う。
どこまで行っても交わる事の出来ない平行棒のような俺達の間には、絶望的なほど深い溝が横たわっている。それを再確認しただけでも良しとしよう。だから俺は潮時だと言ったのだ。
疫病神のような俺に居住許可を与えたこの国には感謝しているし、力になりたいとも思う。だからといって安易に近づいたら、それはそれでどこかに歪みが出来てしまうし、離れたら離れたであらぬ誤解と懸念を植え付けてしまう。
程よい距離が重要だ。近づいても離れても壊れてしまう俺達の関係は距離感が重要なのだ。
「ノリちゃんおいで。オルテナもドロテアも、そろそろ帰るよ。これ以上は迷惑をかける」
ぐすぐすと鼻を啜りながらコクリと頷くオルテナと、大皿を持ったまま空いた手で俺の腕をとるドロテア。
本当にどうしようもない仲間達だが、どうしようもないほど俺達は仲間なのだと唐突に理解した俺はただ独り苦笑した。
近づけば火傷し、離れれば凍える様な歪な関係とはまるで違う。
こんな俺にも共に歩もうとしてくれる人たちがいる、ただそれだけでこんなにも幸せな気分になるのかと少しだけ怖くなった。
俺は苦笑したままホールを見渡すと声を上げる。
「あのー 俺達そろそろ帰ります。今日は本当にありがとうございました!」
しーんと静まり返るホール内。
大した音量でなかったにも関わらず、俺に背を向け別の会話をしていた人たちすらも一斉にこちらを向いた。
敵意、恐怖、憧憬、安堵、疑念、困惑、様々な感情を灯した瞳の集中砲火を浴びせられ、俺は思わず息を呑む。
全然別の誰かと全然別の話題で盛り上がり、誰も気にしていないようで誰もが俺達の一挙手一投足を伺っていたのだ。
自嘲気味に頬を歪めてため息をついた。心のどこかで少しだけ期待していたんだと思う。俺達は異物では無いのだと、会って話せば認めてくれるはずなのだと、根拠のない希望に少しだけ縋っていたのだと思う。
だが現実はやはり優しくは無かった。希望的観測は禁物だなんて、そんなことはとっくに解っていたはずなのに。
勝手に打ちのめされた俺は思わず下を向く。
するとそこには満面の笑みで両手を上げる俺のお姫様がいた。
「あるじー ノリなー まじたのしかったです!」
不覚にも涙が出そうになった。
なんだ、と思った。
俺は迷わず彼女を抱っこすると指定席である頭にのせる。
いちいち凹む様な事でも無かった。何度思い知れば気が済むのだろうか。
俺にはノリちゃんがいるじゃないか。
「ノリちゃん、何が一番楽しかったのかな?」
「うんとなー あまいのたべたのー! あるじはどーですか!?」
俺の頭の上で嬉しそうにゆっさゆっさ体を振るノリちゃん。
俺は軽く目を細めて彼女の頭に手を伸ばした。
誰が認めなくたって関係無い。誰に拒絶されたって関係無い。
俺達さえ認めたならば、そこは俺達の世界だ。
「あるじはね、君がいれば何だって楽しいさ!」
「がおー」
皇王様や皇女たちは考えるほどの思惑は無いのかもしれない。
それでもここにいるその他大多数は俺達の事が疎ましい。
だがそれが何だと言うのか。
「え、っつーかイサオちゃん、マジもう帰る系!? オレのアンカーまだマジ有り余っちゃってる感じなんスけど!」
「じゃあさっさとアンカー撃ち尽くしてこいって、帰んぞ」
俺には、どうしようもないほど馬鹿な友人がいる。
透明人間魔法を教えてもらって、いつか一緒におっぱい狩りに行くのだ。
「……いっくんが帰るならドロちゃんも帰る。料理包んでもらっていいですか」
「代金請求されない程度にお願いしますよ……」
俺には、どうしようもないほどダメな理解者がいる。
4年前から俺の全てを受け入れ続けた彼女に、いつか受けた恩を返さなければ。
「ぐすっ…… イサオ…… 何で他の娘と金的したの……?」
「もうわかったから、ホラっ 帰るよ」
「うん…… 一緒に帰る……」
俺には、どうしようもないほど出来ない女の子がいる
どこに出しても恥ずかしい彼女と、いつか一緒に和食の店をできたらいいな。
そして……
「おうちにかえったらなー ノリえほんをよんでほしいです!」
「今日こそ最後まで読んであげるよ! 『勇者の大冒険』! ノリちゃんいつも途中で寝ちゃうもんね?」
「ノリなー ノリきょうこそさいごまでおきてるよかん!」
俺の…… 俺の全て
ノリちゃん、君は俺の全てだ。
君がいなかったら、君と出会ってなかったら
俺の存在意義なんて無かった。生きる意味なんて無かった。
君の為に、君だけの為に俺は生きているんだ。
「じゃあ帰ろう! 俺達の家に!」
お世辞にも立派な家なんかじゃない。
手すりはボロボロ、ドアは外れそうだし階段は崩れ落ちそうだ。
薄すぎる壁の向こうからは炉利コンの嬌声が聞こえるし、筋トレする変態の掛け声が四六時中響く。
極め付きには暦も適当なこの世界で、きっかり毎月1日に家賃を請求しに来る強欲ババア付きという、どうしようもない家だ。
だがそれが、それこそが、俺達の家だ。煌びやかな皇城にも負けない、小さな小さな俺達の城。
「なんかすみません。せっかくお招きいただいたのに。何かあったらお声かけください。俺は俺のお姫様の目を見て言えないような仕事じゃなかったら何でもやりますんで。特に植木狩りとか得意なんですよ」
泣きそうな顔をしているオフィーリアに軽い調子で告げてみる。
オフィーリアの腰にしがみついているリタ皇女が俺を睨みつけるものの、未だに涙目のオルテナと目を合わせて軽く悲鳴を上げた。
「なんで私ばっかり怖がられるの…… 私そんなに怖くないもん……」
「わかったからホラ行くぞ」
俺達はホールの出口に向かって静かに歩き始めた。
今や完全に歩を止めた人々の邪魔にならないように進もうと考えていたが、そんな心配は杞憂に終わる。別に大した存在でも何でもないのに、俺達の進む先に居た人垣が綺麗に割れたのだ。
苦笑するしかない。俺を先頭に、右後ろを歩くチャラ男は女の子に向かって頭が悪そうなウインクを飛ばすのに夢中だし、料理を皿ごと持って帰ることに決めたらしいドロテアは大皿を片手に悠然と俺の横を歩く。オルテナに至っては未だ鼻をぐずつかせながら俺の外套の裾を摘まんで後ろからついてくる。
何でこんな生粋の残念パーティーが本職の方々みたいな扱いをされなきゃいけないのだ
思わず首を捻ってしまった俺の感覚は間違ってないと思う。
ホールのドアに近づくと、焦ったように衛兵がドアを開ける。
何かもう一言挨拶して出ていこうかと思ったが、やっぱり止めておいた。今はきっと何をやったって裏目に出るに違いないからだ。
少しだけ寂しくなって無言で一歩踏み出すと、頭上のノリちゃんが何やら騒ぎ出した。
「めぇ~~~~!! かえるときはごあいさつするんだよってあるじはゆった~! ごあいさつしなきゃめぇ~~~っ!」
俺は思わずニヤついてしまう。
心に吹く隙間風をものともしない、彼女の暴力的なまでな純粋さに。
「そうだね。ちゃんとご挨拶しなきゃダメだね。ノリちゃんは何てご挨拶するのかな?」
「うんとなー ノリなー ごちそうさま!ってゆう! おコメはなー しちにんのかみさまがいらっしゃるので!」
小麦全開の世界でお米の尊さを説く神の一柱ノリちゃん。
俺が教えた事とはいえ、中々哲学的だなぁとちょっとだけ感心する。
「じゃあご挨拶しようか」
「ノリなー 『せーの』したいです! ノリは『せーの』ってしたいです!」
「よし! じゃあみんなで言おう!」
「せーのっ―――」
こうして
言ってしまえば世界の片隅
それにしては多すぎる瞳に様々な思惑が宿る、そんな感情の坩堝の中『オフィーリアの憂鬱』は幕を閉じる。
オフィーリアがどれだけの闇を抱え、どれだけの苦痛に悶えているか、俺にはわからない。
失う事が当たり前のこの世界で、失う事に慣れていない彼女と俺は、矛の収め方すら知らないまま、ただ不器用に言葉を交わす事しか出来なかった。
だが苦痛の大元の原因が俺にあるのだとしても、互いに割り切れる事など無い鬱屈とした想いをぶつけたところで、何の解決にもならない事だけは彼女自身が一番痛感しているに違いない。
泣き叫んで光差す出口に向かったところで、その先に待ちうけるのがまた出口の見えない袋小路だ。何とかしたいと躍起になったところで、俺如きが出来る事など何一つ無いのだと思う。
だから人生は儘ならないのだとつくづく俺は思った。
いつも通り過ぎて最早当たり前になってきたが、今回も例に漏れず、目に見える前進は無かった。
オルテナのバイキングは失敗したし、きっとドロテアさんの外交も失敗したし、チャラ男のナンパは絶対失敗してる。
唯一の前進といえば、ノリちゃんの天使力が身分に関係無く通用する事がわかったくらいだ。
俺達が、どれだけ普通の暮らしを欲しているのだと叫んだところで、それを信じる者などほとんどいない。俺達が未だ畏怖の対象であることがわかっただけでも良しとしなければならないのだ。
不幸になりたい人間なんて誰一人いない。
誰もが幸せを願い、誰もが笑いたいと願い、そして数少ない牌を巡って争いを起こす。
800年前の大戦だって大元を紐解けば、つまるところそういう事だ。
だから持つ者はその基盤を揺るがされる事を極度に恐れるし、そしてそれを排除しようとする。其々が守りたいものを守るために、守るべきものを守るために、時として人は獣となる。
それは生物の本能なのだと俺は思う。
それ自体が悪だと断定するには歳をとり過ぎ、達観するには若すぎる俺はただただ俯くしか方策は無かった。
だがそれでも俺は止まってはいられない。そんなことをしている暇なんて無いのだ。
引越しをし、つながりも増え、失う事ができない大事なものが増える度に、甲斐性無しの背中に負う荷物が増えていくのだとしても、俺はこの歩みを止めるわけにはいかない。そう思う。
なぜならいつだって俺のすぐ傍には、人の業などものともせずにすくすく育つ俺のお姫様がいるからだ。彼女が無邪気に広げるこの両手を、その温もりを、それを真っ直ぐ受け止める資格を失うわけにはいかないからだ。
そんな俺の、俺達の歩みはどうしようもないほど遅く、隣を歩く仲間達自体も本当にどうしようもない。
でもそんなどうしようもない仲間たちと綴ったこのどうしようもない物語を、いつか読み返して楽しく酒でも飲めたら、それだけで価値はあると俺は思うんだ。
そんなガラにも無い事を頭に浮かべながら俺は苦笑する。
右を向いて声をかけた。「おいチャラ男」
何故かDJっぽく左手で耳を押さえ、右手でビッと俺を指差しながらドヤ顔をキめる焦げ茶色。
ちょっとだけイラっとしながら俺は左を見る。「ドロテアさん」
眠たげな眼を少しだけ細めた魔王様の頬に出来た浅いえくぼを見て、彼女だってそれを望んでいるに違いないと思った。
俺は言う。「ほらオルテナ、顔上げろって」
裾を摘まむ手にギュッと力がこもる。わずかだが背後で頷く気配を感じた。
―――せ~のっ
決して良い事ばかりではない。世の中そんなに甘くは無い。
右に左に走り回り、息を切らせ汗水垂らして失敗、失敗、また失敗。毎日がその連続だ。
それでも俺はこんな苦労の絶えない日常が続いて行けばいい、心からそう思っている。
そして、頭も要領も悪い俺を支える仲間達もまた、そんな物語に共感してくれていると信じたい。
良い事ばかりではない。だけど決して悪い事ばかりでもない。
山も谷も無い俺達の物語は、ここでまた一歩進んでいくに違いないのだから。
だから俺達は声高らかに言ったんだ。
「「「ごちそうさまでした!」」」
ポカーンと口を開ける食事会の参加者たち。
俺は迷うことなく踵を反すとホールの外へと踏み出した。
頭上で嬉しそうに鳴くノリちゃんを一撫で。
自然と吊り上る左頬に手をやり前だけを見る。
「……いっくん、なんだか嬉しそう」ドロテアが言った。
「ああ、嬉しいよ。俺は嬉しい」俺は言った。
何一つ進んでいない。何一つ解決していない。
だが牛歩の如く遅々として進まないちっぽけなこの歩みは、誰にだって止められはしない。
だって俺達が記すのは英雄譚でも無ければ冒険譚でもない。儘ならない俺達の、どうしようもなくキラキラ輝く日常の物語なのだから。・
これは
無力で小さくちっぽけな勇者の物語。
勇気もへったくれも無いが、それでも大事なものを守るために、大事な日常を守るために。
転んでは起き、膝を着いては立ち上がる。そんなみっともない勇者と家族、仲間達織り成す、勇ましくない残念な勇者たちのどうしようもない物語




