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異世界最強は大家さんでした  作者: つよぐち2号
25/59

元勇者のお引越し③

「ここでございます! 当商会自慢の物件でございます!」


 ゼプツィール中央部、中等区は大通り沿い。

 背の低い中世の街並みにおいて一際高いアパートの一室。

 俺は今、俺達の生活水準からはかけ離れた物件を案内されていた。


「……素敵」


 5LDKの寝室で、ほうっとため息をつく魔王様。

 魔王様の反対側を見ると、体感20畳以上の部屋のど真ん中に配置された天蓋付きのベッドを指して、はしゃぐ我らが残念娘。


「み、見てイサオ! ベッド! 凄いベッド! お姫様みたいだよっ!」


 「だよ」ってあんたキャラ変わっとるやんけ

 孤高の女戦士が、短期間でここまで出来ない子になってしまうこの世界の厳しさに、やるせない気持ちでいっぱいだ。


「あのね、夢だったの! お姫様みたいなベッドで寝てみたかったの!」

「ちょっと二人とも落ち着け、俺にこんな立派な部屋に住めるほど余裕ないよ」


 そもそも俺が探していたのは2DKくらいのこじんまりと身の丈に合った部屋だ。

 ノリちゃんのプライベートな部屋も想定しつつ、手を伸ばせばお互いが触れ合える。そんな慎ましくも暖かさを確保出来る部屋を探していたのだ。

 年頃の娘の妄念に付き合う気など更々有りはしない。

 すると、わざとらしく口角の皺を寄せ続けていた不動産屋が、さらにその皺を深めて俺の耳に口を寄せた。


「何を言っているのです……! この部屋で軽く囁けばお二方は思うが儘ですぞ……!」


 思うが儘も何もお金が無いと言っているのがわからんのか。

 俺だってドラマの中、高層マンション最上階でグラスを傾けるイケメンに憧れたりしたことはある。

 ワインを燻らせ、君の瞳に乾杯してしまったりするのだ。男の感覚からすると信じられないくらい滑稽な姿なのだが、悲しいかな、夢見る乙女の心臓を鷲掴みするシチュエーションであることは揺るがない事実でもある。

 二人の内でも、特に乙女な方の女の子に目をやると、彼女は無表情の瞳に隕石群を召喚しながら、胸の前で手を組んでいた。


「宝石よりも君のほうが綺麗さとか言われるの…… そんでね、君の瞳に乾杯って言われたりするの……っ キャ~っ!」


 あんた誰だよ。

 ブツブツ呟きながら自分の世界に浸りきるお姫様を軽く流しつつ不動産屋と向き合う。


「俺にそんな財力はないですよ。身の丈に合った物件を紹介して欲しいです」

「ご冗談を。闇姫様とドロちゃん様を侍らせる謎のDランカー。街では話題でございますよ? 高嶺の花を手に入れるためにはそれなりの根拠が要る。それも2輪ときたら尚更です」


 イヤらしく目を細める不動産屋に、隠すことも無くうんざりと顔をしかめた。

 確かにこの世界で、力を持つ者は女を囲う権利がある。

 その「力」は金であってもいいし、権力であってもいい。イイ女を囲う事は有力者の嗜みでもありステータスでもある。逆に言うと、イイ女を傍に置くというのは、コストがかかるものなのだ。

 そうして自己顕示欲を満たす俗物をこの世界は容認するし、この世界の住民も当然の如く首肯する。

 だが俺は認めない。俺にはノリちゃんがいるし、彼女を失望させるような生き方など出来る筈も無いではないか。そもそも俺は恋愛遭難者なのだ。

 

 俺は父ちゃんに「男なら一人の女を愛し抜け」と言われて育ったし、そんな父の傍に佇む幸せそうな母ちゃんを見て育った。

 シチュエーションに任せて女をどうこうするなど、俺の人生においてこれっぽっちの価値も見出さないだろうし、元々がそういう性格なのかも知れない。

 色よい反応を示さない俺に不動産屋がそっと何かを手渡して耳元で囁く。


「腐海魚の肝ですよ……! これでピンコのほうもピンピンコ……!」


 アホか。

 まがりなりにもウチの子は至って正常だ。相手がいないことが問題なのだ。

 だから俺は軽く遠い眼をしながら答えた。

 

「それでも俺は、月7万ギルのアパートで十分ですよ……」


 なんか凄いとはしゃぐオルテナ

 うっとりとため息をつくドロテア

 そんな二人を見て苦笑するだけの俺に業を煮やしたのか、不動産屋はお二方に猛烈なアピールを始めた。


「どうです!? ゼプツィールで指折りの高層住宅の最上階、魔導式昇降機付きで、高位証明魔導設備付き! 万全のセキュリティー体制を誇るこのアパートは女性も安心! かの魔王ですら承認無しでこのゲートをくぐる事はできないでしょうっ!!」


 その魔王が今こうして堂々と承認されている事実を知ったらどうするんだろう。

 軽く俯いて笑いを堪えていると、当の二人がキョトンとしながら口を開く


「……別に賊は怖くない。撃滅すればいいだけの話」

「私も同意見だ。だけど変態は無理」


 物騒だな。ていうか本当に一緒に住む気なんですね。

 女性の部屋選びにとって重要であるはずの安全面に、全く興味を示さないお二人に不動産屋が軽く焦っていた。


「な、ならばその子は!? あなたはどうです可愛い竜のお嬢ちゃん!?」


 見るモノ全てが楽しく、ずっとむいむいしていたノリちゃんが元気よく答える。


「あんなー ノリなー あるじがいるからなー おーぶねにのりました!」

「惜しい! ノリちゃん惜しいよっ! 意味は合ってるから今度勉強しようね!?」

「はっ ノリはまちがえました! ノリおべんきょうします!」


 我が天使があまりに可愛いので頬っぺたすりすり。


「ノリちゃーん! ノリちゃーん!」

「あるじー! あるじー!」


 むいーむいー


 ノリちゃんと二人の世界で戯れていると、ドロテアが俺の腕を指でツンツンしながら言った。

 

「……いっくん、ドロちゃんはここでいい」


 目だけを起用にキラキラさせる魔王様を横目に、この小柄な体のどこにあれだけの力が眠っているのかと不思議に思う。

 人類相手に堂々と絶滅宣言をしたドロテアに手を引かれるまま不動産屋に行き、今こうして物件の下見に来ているのだが、つくづくそう思った。


 普段はただぼんやりするだけのその眠たげな垂れ目に一体何が映っていたのだろうか。

 180年もこの世界を見つめ続け、時代の潮目を踏み越えてきた彼女は一体どれだけの想いを裡に秘めているのだろうか。

 高々22年生きて大人になったつもりなだけの青二才にわかるはずも無かった。

 彼女だけではない。俺の周りにいる人たちの魂は総じて、強く、気高く、そして綺麗だ。


「ドロテア、俺は2部屋もあったら十分なんだよ。5部屋も何に使うのさ」

「……だって、ドロちゃん子供は5人は欲しい。いっくんがもっと欲しいならもっとたくさん産む。ぽっ」

「い、いや…… 結構シャレにならんからそれ…… ていうかあんた女王様でしょうよ。出先で勝手に何するつもりなんだよ……」

「……大丈夫。誰が何と言おうともドロちゃんはいっくんと結婚して引退する。でも怒られたくないから内緒にして下さい」


 内緒で引退とか、残された人たちどーすんだよ。

 聞けば聞くほどため息しか出ない。話しについて行けない不動産屋が目を白黒させているが当然だろう。 


「わ、私はどこでもいいけど で、でも! ここは素敵だなぁ…… うん、すごい素敵…… はっ! でも私はキッチン! 部屋は5つもいらないし私はキッチンさえ……」


 そんなことを呟きながらフラフラ~っと水場に行くオルテナ。

 そして帰ってくると背後にキラキラ輝くお花畑を展開させて叫んだ。


「キッチン凄い!! あのね、イサオ聞いて! ねえ凄いよ! 本当に凄いの!」


 オルテナさんが大げさなジェスチャーで手をバタつかせながら、どれだけ凄いキッチンかを思いつくまま語りはじめるが、いかんせんブツ切りの単語を捲し立てるだけなのでイマイチよくわからなかった。

 すると、ここに来てから一時も欠かさず揉み手を続ける不動産屋がここぞとばかりに女性陣に攻勢をかける

 

「ささっ、ご婦人! こちらに来てください、そしてみて下さい! 地上6階の眺めですよ!」


 案内されたのは観音扉の様に開く半円凸型のガラス窓、板ガラスを作る技術がまだないこの世界において最高級の窓だ。

 俺は頭にノリちゃんを乗せると不動産屋に連れられて外を見る。眼下にはゼプツィールの街並みが広がっており、すぐ近くにある中等区大通りは、昼間から通りを行きかう人々で賑わう様子が手に取るようにわかる。

 6階建てなんかは日本では決して高層の部類ではないが、この世界のスタンダードは鉄筋も使わない石造りの建物。6階の住宅などそうそう無い。そして元々1階1階の天井が高いので、日本の10階建くらいの高さがあるのだ。


「夜になると眼下に広がる家々の灯りがそれはもう綺麗なのですっ!」  

「……夜景を見ながらいっくんとごはん…… そしてその後いっくんを食べる……」


 聞きようによっては、なかなか猟奇的な事を仰るドロテアを尻目に、イマイチよくわかっていない様子のオルテナが首を傾げた。


「??? 街の灯りがどう綺麗なんだ? 灯りを見てどうするんだ?」


 不動産屋が、ここだ! とばかりにニヤリと笑う。


「オルテナ様、是非想像してください。暗い闇夜にぼんやりと浮かぶ家々の光。ゼプツィール100万の光りが夜空に煌めく幻想的な光景を! それを眺めながら杯を交わして築かれる男女の絆を!」


 軽く視線を上に上げ、素直に何かを想像しているオルテナさん。

 段々と紅い眼がキラキラ輝き出して、彼女の背後に虹の橋が架かった。


「き、綺麗かもしれないな……!」 

「綺麗ですとも! それだけではありませんぞ!」


 ちらりとオルテナを流し見てトドメの一撃を放つ不動産屋


「それを眺めながら殿方と甘い言葉を囁き合う。さぞかしロマンチックでしょうなあ…… 盛り上がりますでしょうなあ…… ピンピンコ間違い無しでしょうなあ……」

「い、イサオ聞いて! ここすごいよ! だ、だってね、ピンピンコなんだよ!? よくわからないけど響きがいいと思うの!」

「わかったからちょっと落ち着こうオルテナさん。」

 

 この世で最も勇気ある生き物は勇者ではない。商人だ。

 彼らは儲けになるのであれば、どんな相手だろうとどんな鉄火場であろうと飛び込んでいく。命よりも金の方が重いと信じて疑わぬ彼等はいつだって勇敢にあらゆる戦地へと赴いてゆく。

 嗅覚を研ぎ澄ませ、金の匂いを嗅ぎ取り全てを賭ける。それが商人という生き物だ。


 巷で恐れられている闇姫だろうが関係ない。怒らせれば一瞬で捻り殺されることも知っていながら、Sランカーの稼ぎを知っているからこそ彼等の踏み込みに躊躇などないのだ。


「ま、これほどの部屋は他にありませんな。いいのですよ別に。他の部屋ではそうそう上手くわけないのですから」


 わざとらしくフンっと鼻を鳴らしチラリとオルテナを流し見る不動産屋。

 言葉だけを聞けば、お客様に向かって上から目線で何言ってんの? と言いたいところだ。気性の荒い冒険者ならば殴りかかってもおかしくないだろう。

 だがこの場面、このタイミング、そして他でもないオルテナ(迷える乙女)に言う事によって、その言葉には最大級の魔法が宿る。完全に狙いすました一撃だった。


「あ、あのねイサオ…… ここにしようよ……? あのね、私ね、実はお金持ちでね、家賃払えるから。ね、ね? そうしようよ……?」


 捨てられた子犬のように上目使いで俺を見るオルテナ。

 最近、「やっぱりそうなのかな~?」と薄々感じてはいたが、これで俺は確信した。

 目の前の残念な超戦士は、どうやら貢ぎ属性持ちらしかった。

 しかも貢いで貢いで貢いで歳をとった晩年にオレオレ詐欺に引っかかるという、最高に可哀想なタイプだ。 

 

 憐れみを込めた目を彼女に向けると、彼女は某CMのチワワみたいにウルウルしていて、どうしようも無いと思った。

 たとえオルテナが家賃を支払うのだとしても、俺がここに住むつもりなどこれっぽっちも無い。

 小さいころから「身の丈に合った生活を」と叩き込まれてきた俺にとって、この部屋に住むことは苦痛なのだ。


「あー まあ一応聞きますけど、費用の方は?」

「保証金が600万ギル、家賃が74万ギルでございます」

「イサオ! 私、全然払えるよっ!」

「君は黙っていなさい」


 無表情なのに本当にわかりやすく、しゅんと項垂れるオルテナ

 すると外を眺め続けていたドロテアが唐突に口を開いた。


「……ドロちゃんも払える」


 無一文、無銭飲食が特技な世界の魔王の妄言に、俺は一瞬戦慄いた。


「ドロテアさん…… お金持ってたの……?」

「……シンクレア銅貨しか持ってない」


 大陸では全く通用しない通貨の上に銅貨だった。


「だったら払えないでしょ? 払ってもらうつもりはないけど、それでも紛らわしい事言っちゃだめですよ」

「……簡単な話。家賃と命、天秤にかけてもらえばいい」


 家賃を払わせるのなら、その対価として命を支払っていただきますよという、無拍子で繰り出されたまさかの恫喝。

 あまりにフリーダムな邪悪過ぎる発想にさすが魔王を名乗るだけはあると俺は少しだけ感心した。

 とはいっても本気でそうされたら本当に困るのも俺なので、生まれついてのジャイアニズム継承者に念のため釘を差すことにする。


「ドロテアさん、俺の世界ではそういうのは瀬戸際外交って言われてですね、食い物無くてハラペコなのに武器ばっかり作ってるアホの得意技なんですよ」

「……信じられない。お腹空いたら全てを優先して食べるべき。そういえばドロちゃんお腹すいたのでごはんに行きたい」


 そう言って俺の手を引き玄関に向かうドロテアさん。俺は半ば呆然としつつも、ようやく無駄なセールスから逃れられると思い苦笑した。不動産屋は超展開に次ぐ超展開についていくことが出来ずに目を白黒させている。

 オルテナが名残惜しそうにチラチラ部屋に視線をやりながらも素直に従うあたり、この二人の上下関係は既に固まっていることが伺えた。


「ノリなー しちゅーがいーかもしれん!」


 頭の上から俺を覗き込むノリちゃんをよしよしと撫でると、俺達は立ちすくむ不動産屋を置いていつもの大衆食堂へと向かった。




◇ ◇ ◇ ◇






「はぁ~ 中々見つからないもんだな~」


 東に影が伸び始める時間帯、二人と別れた俺とノリちゃんは手を繋いで家に向かって歩いていた。


「引越しかぁ……」


 あの立派な物件を見た後、いつもの食堂でご飯を食べてから4件くらいの物件を見て回った。

 きちんと地に足をつけた物件選びとなったのだが、やはりどれも保証金が高い上に、狭かったり、オルテナさんがキッチンを気に入らなかったり、ギルドから遠かったりと、ピンとくるものが無かった。

 

 最後の物件などは、比較的保証金も低く、かなり良い部屋だった。

 ここにしようと半ば決心しかけた時、隣接する連れ込み宿からまっ昼間にも関わらず嬌声が聞こえてきて断念したのだ。

 ドロテアは「……子供が寝ている隙に行ける距離は重要」とかワケわからんことを言い出したり、オルテナが「ノリちゃんがお昼寝中に……」とか指ツンしてみたりと、思いの外、女性陣はそれほど抵抗が無いようだったが、「ノリちゃんの教育によろしくありません」の一言で切って捨てた。



「ノリなー いまのおうちでもいいとおもいます」

「ん~ そうなんだけどね、ノリちゃんもきっとこれから大きくなるし、環境はきちんと整えていきたいんだ」 


 イマイチよくわからなそうに俺を見上げるノリちゃん。実際にどういう目的で引っ越すのか理解できないのだと思う。

 一つとして同じものが無い毎日を過ごしているノリちゃん。

 彼女の仕事は目の前の刺激的な日常を元気に過ごすことであって、彼女が先に目を向けるにはまだ少し早すぎる。それはきっと俺達大人のやるべき事なのだ。

 

 何の気無しに俺を見上げる彼女に向かって変顔をしてみる。彼女が嬉しそうにキャッキャと声を上げた。

 中通りから外れ、並木通りに差し掛かる。俺達の家までもうすぐだ。

 

「イーサオちゃん!」

 

 唐突にすぐ背後から掛けられる声。ブワっと嫌な汗が噴き出る。

 冒険者稼業をやっていると、気付かずに背後をとられて良い思いをする事なんて何一つ無い。即席のパーティーならば、目の前の魔獣より背後の味方に気をつけろと言われるくらい、俺達は荒んだ常識の中で生きている。

 たとえその声の主が知っている相手だとしても、体が反応しないようでは冒険者として生きてはいけない。


「誰だっ!」


 俺は反射的に振り向く、そして言葉を失った。


「なっ! どういうことだ!」


 誰もいなかったのだ。

 間違いなく声の方向を向いたにも関わらず、そこには夕時の並木道が伸びているだけだった。


「こっちこっち」


 立ちすくんでいるとまた背後から、からかう様な声がする。

 焦って元の方向を見るがやはり誰もいない。

 眉根を寄せ、指先に魔力を集め始めた時、誰も居ないハズの空間から声が聞こえた。


「オレっす。マジオレっす。イサオちゃんのビビリ顔マジウケるんスけどww」

「え、チャラ男だよな? 何? 何の魔法使ってんの!? これどういうこと!?」


 若干混乱しつつも問いかけてみる。何もない所から聞こえる声と、頭の悪そうなセリフが間違いなくチャラ男のものだったからだが、現状がよくわからない。

 またも何もない空間から得意気な声が投げかけられた。


「っつーかマジすごくね? イサオちゃんにもマジ通じたってことは オレ的にこれマジパネェ系! ノリさんはマジ騙せなかった系スけど」

「え? え? 何が起きてるの!? ノリちゃんどういうこと!?」


 するとノリちゃんが声の出どころらしき場所を指差し、俺の顔を見上げながら言った。


「あんなー ちゃらおのにおいがしたー」


 その言葉に色んな意味で衝撃を受ける俺。

 

「の、ノリちゃん!! 男の匂いを覚えているってどういうこと!? な、何かあったの!? チャラ男と何かあったの!? もしそうなんだったらあるじは今すぐチャラ男を金精様に加工しなくちゃなら―――」

「うんとなー ノリなー みんなのにおいがわかるからなー はながよいこかもしれん!」


 エッヘンと胸をはるノリちゃん。褒めてーと目を瞑って頭を寄せてくるあたりも最高に可愛い。

 

「そ、そうだよね! 逆だよね! 君の匂いを覚えているクソがいたらぬっころせばいいだけだもんねっ! あるじ勘違いしちゃったよー」


 危うくせっかく出来た友達を加工してしまうところだった俺はホッと胸を撫で下ろして、ノリちゃんにいい子いい子した。 


 だがそこで湧き上がる一抹の不安。それは肉体労働をしている者全てが持つ共通の不安だった。

 姿が見えずとも、その人がそこにいると認識できるほど鼻が良いというノリちゃん

 彼女の答えによっては奈落の底に叩き落されるのだとしても俺は聞かずにはいられない。

 だから俺はおずおずと尋ねたのだ。


「あ、あのねノリちゃん…… 仕事終わりのあるじの匂いとか…… ホラ、ちょっとだけこう…… アレだったりするのかなー?」


 俺にとっては切実な問題だった。

 ちょっとよそ見をする間にもすくすくと成長する彼女。何度も語っている通り、いずれ来るであろう修羅の刻。

 それには日本もファンタジーも関係など無い。年頃の娘は、別に臭くも無い父親を臭いと言い、謂れ無き理由により父親と距離を置こうとする。

 

 だがウチのノリちゃんが思春期を迎えたらリアルスメルの指摘を兼ねるという事実を知り、早めに準備をしておかないときっと俺は死んでしまうと思う。

 そんな恐怖を胸に抱いて戦々恐々とする俺に対し、ノリちゃんは夏に咲くヒマワリのような笑顔で言ってのけたのだ。


「あるじはなー いつもいーにおいがします!」 

「ノリちゃ~~~~んっ!!!!!」


 すりすりすりすりすりー


 大好き。ノリちゃん大好きだよ。

 ノリちゃんではないからだ。ノリちゃんが娘じゃないから、世のお父様方は絶望するのだ。俺は体を突き抜ける優越感に浸らずにはいられない。

 ノリちゃんだったら、こんなに素直で可愛い子なら、将来、加齢に伴うオジサマ臭だってきっと容認してくれるに違いない。俺だけのノリちゃんは俺の全てを受け入れてくれるに違いない。

 だって彼女は、うんざりするほど広いこの世界で、神が俺に与えたもうた天使なのだから。


「でもなー おふろまえのなー 足はつーんてするかもしれんー」

「カハッ……!!」


 何かにブン殴られた俺は一発で崩れ落ちる。肺から全ての空気が逃げ出した。

 地面に着いた膝がガクガクと痙攣を始めた時、いつの間にか姿を現したチャラ男が俺の肩に手を置いて口を開く。


「イサオちゃん、マジ仕事上がりの足はマジどうしようもねーって。オレだってさー たまに自分で嗅いじゃって『あれっ これマジ人殺せるんじゃね?』っつー時あっからさー」


 俺は肩越しに優しく微笑むチャラ男に縋りつくような目を向ける。


「だ、だって…… 俺ノリちゃんに…… 俺の天使に俺の汚らしい足が粗相を、俺は……」

「まあまあ、マジイサオちゃんに限んねーってガチで。どんな美人だろうが蒸れたらマジ香ばしいーってマジで。たとえノリさんクラスでもマジ将来人化してマジブーツとか履いたら程よくパンチの利いた系の匂いがす―――」

「俺のノリちゃんが匂うわけねーだろ!! 蒸れたってきっと南国の果物みたいに甘くて蕩けるような芳醇な香りがするに違いないんだ! はっ倒すぞ!おお!?」


 思わず胸倉をつかんだ俺の手を優しく解くと、チャラ男はゆっくりと首を横に振った。


「ノリさんはともかく、マジしゃーない事だっつーことよ。そういうモンなんだからマジ気にすんなって。仕事後の靴なんかマジシャレになってねーし、そんなん嗅いでアゲてる奴なんざマジ掛け値なしの変態だから。フツーフツー」

「だ、だよな、普通だよな? そんな変態いるわけないよな」


 何か論点がズレたような気がしたが、チャラ男に慰められて何とか俺は立ち直る。

 言われてみればその通りだ。誰でも蒸れた足はやっぱり臭いし、それを喜ぶ奴なんかいない。

 風呂前の俺の足がちょっとつーんとしても普通だし、それをノリちゃんがちょっと嫌がるのも当然。すぐにお風呂に入れば何ら問題ではない。むしろノリちゃんがその匂いを喜んで嗅ぐような変態さんじゃなくて安心するところなのだ

 事の成り行きがよくわからず、キョトンとしているノリちゃんを一撫ですると俺は本題に戻った。


「ていうかチャラ男、さっきの何? 魔法? だったら見たこと無いけど、どんな魔法なんだ?」


 そうなのだ。さっきチャラ男は完全に姿を消していた。少なくとも俺には見えなかった。

 匂いがあったということは存在をどうこうしたものではないはずだ。そして0距離接近を許しても気配を感じなかったのは、俺が実はそっち方面で鈍感なのと、チャラ男が斥候職として優秀なのと両方だろう。


 ならば幻術か? それとも作用系の魔法か?

 この世界において、意外に思うかもしれないが、直接脳に作用するタイプの魔法は本当に少ない。あったとしてもそのほとんどが大魔法であり、禁呪指定されているのだ。

 それっぽいものとしては辛うじて魅了(チャーム)なんかがあるが、これはフェロモンのような分泌物質の異常生成・放出であったりするので、対象の脳に直接作用しているわけではない。

 作用系の魔法は技術的に難しく、その用途からもかなり危険なものが多いため、目にすることは滅多に無い。俺が得意とする眠りの魔法だって禁呪指定はされていないものの、実はかなり高位の魔法なのだ。


「お、それそれ。イサオちゃんだからマジ教えちゃうけど、これマジ内緒な!」


 そう言ってチャラ男が、ビッと俺を指差すと、まわりの風景に溶けるように消えた。


「チョリーッス!」

「ちょりーす!」

「すっげえっ! 何だよそれ! 透明人間じゃん!」


 どんな魔法を使っているのか見当もつかない。あまりの衝撃に膝が笑う。

 この世界に限らず、生きとし生ける男達の夢がそこにはあった。

 それは誰もが一度は夢見たことのある透明人間。

 キャンプ、修学旅行、合宿。気になるあの子のおっぱいが見たいと、壁ごしに聞こえる女子の声を聞いて悶々とした入浴時間。消灯時間を過ぎてもなお、頭突き合わせて語った健全な青春時代。

 そんな青少年の妄想を解決せしめる超魔法を、俺は今目の当たりにしていた。


「っつーかオレマジすごくね? マジこれでガールの風呂覗き放題なんスけどww」

「おい、ホントお前最低だな! 俺にもその魔法教えろよ!」


 すると、何も無い空間から「YO!」的なポーズでスゥーっと現れるチャラ男。興味より先に軽くイラっとした。

 ノリちゃんがキラキラしながら言う。


「かくれんぼしたらつよそうだなー!」


 眩しいよノリちゃん。君の瞳は邪な俺には眩しすぎるんだ。

 よくない事だとわかってはいても興奮を抑えることが出来ない。

 これほど魔法文化が浸透し、十二分にその恩恵を受けているこの世界で、長い年月を重ねて体系化され具現化してきた様々な魔法たち。 

 新しい魔法といっても、構成部分を効率化したり、組合せによって威力を上げたりしたものがほとんどだというのに、チャラ男が今やって見せた魔法は見たことも聞いたことも無いものだった。

 

「でもホントにどうやってんの? これって歴史的な発明だろ。聞いたことも無いって」

「オレマジ光属性の使い手じゃん? なんつーかこう、マジオレの周りの光を捻じ曲げるっつーか、マジそんな感じ。オレに光がマジ当たらないようにすんのがポイント。これガチな」

 

 女神が光を創造しているとされたこの世界で、紫外線を選り分けて肌を焼き、光を捻じ曲げて姿を消す。

 科学を真っ向から否定する異世界ファンタジーにおいて

 この天然異端者はどうやら光学迷彩を開発してしまったらしかった。 


「お前何気に頭おかしいよな」

「ショーック! 俺的マジショック! どんくらいショックかっつったら俺マジ超ショ~ック!!」


 額を手のひらで押さえるジョジョ立ちのポーズで大げさに苦しんだフリをして見せるチャラ男。

 わりとイラっとした俺とチャラ男の間をノリちゃんが心配そうにワタワタと行き交っていた。


「まあとにかく、マジこれでオレの目的が果たせそうっつーかー マジ果たしちゃう系?」

「何だよ目的って」

「復讐よ、フ・ク・シュー! カッコいくね? 復讐に燃えちゃうオレマジカッコよくね? オレ的マジイケてるんスけど!」


 書くと穏やかではない血生臭いその単語も、チャラい男の口から軽く飛び出してみると、どうでもいい事のようにしか聞こえない。

 俺はこの時、この世界で出来た気の置けない、二人目の友達のこの言葉を、冗談としか捕えていなかったんだ。


「あっそ。まあ頑張ってくれ。それよりなんか遠征行ってたらしいじゃん。こっちは大変だったんだよ、何してたんだよ?」

「うおっ イサオちゃんマジ冷てーんスけど。オレがマジオレ語りしてんのにマジつれねーんすけど」

「わかったわかった。それはいいから教えろよー」


 はいはいと手を振る俺に、わざとらしく肩を竦めたチャラ男が「実はさー」と語り出した。


「マジ一応機密なんだけどまあイサオちゃん関係無くないからマジ言っちゃうけど、マジレガリアからの特使がゼプツィールにマジ向かってんのよー 護衛団としてマジ結構有名どころの武官がうじゃうじゃ入ってるらしいっつーことで隠密調査だった的なー?」

「なっ レガリアがこの国に!?」


 軽い感じで聞いていた俺の血が一瞬で引く。

 チャラ男の話が本当だとすると、奴らの目的は考えるまでも無い。とうとうこの国に圧力をかけに来たのだ。

 


「マジ心あたりはあんでしょイサオちゃん。まあとにかく行ってきたんだけどさー。マジいた。マジアレ来てたアレ。金獅子騎士団マジ来ちゃってた」

「お、おい…… 金獅子騎士団って……っ」


 目の前がぐるぐる回っているような気がした。

 チャラ男が、俺が元勇者だという事を知っている事が確定したのは別にいい。うすうす感じてはいたし、別にもう隠そうとも思ってはいない。今、俺の頭を駆け巡るモノはそんな事ではなかった。


 アイツは今どうしているんだろう。

 思い浮かぶのは、この世界に来て初めて俺を支えてくれた仲間の顔。

 悪魔の烙印を押された俺と、レガリアという大国の意思の狭間で厳しい決断を強いられ続けた男。

 耐え切れず逃げ出してしまった裏切者の俺が住む国に、アイツは今、どんな思いで向かっているのだろうか。

 今こうして、笑って暮らしていても消えてはいない後ろめたい思いに襲われ、俺は呆然とチャラ男を見上げる。

 そしてそんな俺の心境を知ってか知らずか、チャラ男はニヤリと笑ってその男の存在を告げた。



「そう、金の勇者がいたよ。マジで」 



◇ ◇ ◇ ◇





 チャラ男はニヤリと笑ってその男の存在を告げた。


「そう、金の勇者がいたよ。マジで」 


 俺は何度も言葉を選んでは破棄し、喉元までせり上がってくる泣き言を何度も飲み下し、言葉にならない言葉を呻くように呟く。

 頭にあの戦争での惨状がチカチカと瞬いた。


「チャラ男、俺は…… 違うんだ、俺は、違うんだよ」


 チャラ男が不敵に笑った顔をフッと緩ませ、優しく俺の肩を叩く。


「イサオちゃ~ん。マジオレ責めてる訳でも何でもねーからマジで。っつーかさー 言いたくない事を言えっつーつもりもねーし、まあなんつーか、聞くくらいはマジ出来っから気が向いたらシクヨロ~

「もうお前に隠すつもりはないんだ。でもやっぱり迷惑をかけ―――」

「はいストーップ! マジストーップ! この話はマジダリィからまた今度な! アレだ、酒飲みながら聞いてやんよ」


 日本にいたらチャラくて見た目だけで敬遠しそうな目の前の男が見せる気遣いが、涙が出そうなほど嬉しかった。

 いつのまにか鼻につかなくなった頭が悪そうな喋り方に落ち着くようになったのはいつからだろうか。

 何故か片眉を吊り上げたドヤ顔に軽く吹き出しながら、聞こえないよう「ありがとな」と呟いた。


「っつーか、俺居ない間にマジ大変だったってさ、どうしたよ? 何があった系?」

「それなんだけどさ、聞いてくれよ。引越しすることにしたんだけどさ、保証金が鬼高くてさー……」


 俺は引越しに至る経緯、大家にバックドロップを決められついさっきまで物件を見回っていた事。魔王が来てなぜかオルテナと3人で部屋探しをする事になったこと等、事細かに語った。


「え? マジ? 魔王来てんの? マジ魔王来ちゃってんの? イサオちゃんマジパネエ っつーかそんなイサオちゃんにバックドロップキメるとか、どこの世界の大家なワケ? 盛り過ぎじゃね?」

「いや、ホントなんだって! すんげーんだぜ? この前なんか俺の開発した「縮地」を初見でブッチ切りやがって俺の……」


 ああでもないこうでもないと、野郎同士の気を使わないやり取りをしていると、やっぱりいいなあと思ってしまう。

 日本からは遠い世界に来たところで、染みついた習性がそう簡単に抜ける筈も無く、汗だくになって走り回っていたあの頃をどうしても思い出す。

 おそらく話の内容をイマイチ理解していないであろうノリちゃんも、俺達の和やかなやり取りを聞きながら嬉しそうに体を振っていた。

 俺達の影が馬鹿みたいに東に延び始めた時、チャラ男が何でも無い事のように言った。


「っつーかさー マジ家探してんなら何でオレにマジ言ってくれないのよ? オレマジ知ってんのよ? オレマジ掘り出し物件超知っちゃってる系なんスけど?」 

「マジか! 教えろよー 頼むから教えてください! あとさっきの魔法も超知りたいです」


 するとチャラ男は、思いの外素直な俺に若干驚き、数テンポ遅れてドヤ顔を披露した。


「ま、他でもないイサオちゃんの頼みだから? アリアさんの事ももあっし? オレ教えちゃうよみーたーいーなー?」(↑↑↑)


 最後の語尾上がりに超絶イラっとしたが、何とか堪える。

 俺が家を見に行きたいと言うと、その家はここから15分ほどで鍵も開いてるというので、早速見に行く事にした。

 チャラ男と野郎トークの続きをしながら夕日に向かって歩く。ノリちゃんも嬉しそうに体を振っていた。

 本当に15分もしないくらい歩いて「ここがその家よ」と案内されたのが、限りなく中等区に近い通常区は大通りの傍、古ぼけた地味な2階建てアパート。

 あと20年も経てば今俺達が暮らすアパートみたいになるのではないかと想像がつく程度に年季が入っていた。


 普通なら敬遠しがちな外観なのかもしれないが、身の丈を知っている俺としては、さすがチャラ男わかってんなー と思う。何事も「良いモノ」がベストとは限らない、希望に見合うモノこそがベストなのだ。


「なんか俺が探し求めてた系の匂いがプンプンするんだけど、中見れるの?」

「ラクショー マジラクショーで見れっから」


 チャラ男がまたしても軽くドヤ顔をしながら、着いて来いと俺を促した。

 今のアパートよりマシという程度の危うい階段を上り、寄っかかったら危険そうな手すりが張られている踊り場を歩く。

 そして奥から2番目の修理が必要そうなドアを無造作に開けて中に入った。


「おお…… イメージ通り! こんな感じ、こんな感じのを求めてた!」

「だろ~?」


 軽く西日に照らされた室内は思いの外綺麗で、2部屋あるうちの片方には最低限の家具も配置されており、こまめに掃除されているのか、埃が積もっているようなことも無い。管理している大家はキチンとした人物っぽかった。

 間取りは2DK。家具が置かれているほうの部屋はおそらく12,3畳程度、もう一部屋は今俺が住んでいる部屋と同じく8畳くらい。

 贅沢なことにテラスもあり、物干しに困ることもなさそうな上、オルテナの希望通りキッチンもしっかりとしており、水場があることを考えると上水道も通っているようだ。

 ここまで完璧に俺の理想通りだと逆に怖くなる。後はコストが折り合うかどうか、それだけだ。


「んで、家賃はマジ78,000ギル。保証金はマジ50万。どうよ?」

「えぇっ! ウソだろ!? それ一般価格でしょ!? 冒険者価格じゃないでしょ!?」


 先日、業界で起きた事件により保証金が跳ね上がって、冒険者が入居する場合は200万を要求されるのが普通だった。そもそもの相場としても100万が普通だったのだ。

 それを考えると50万という数字は疑いたくもなる程の額だ。


「ところがマジどっこい! なんかマジ大家が元冒険者だか何だか知んねーケド、その辺マジ理解ある系のマジBBAなワケ」


 何気に不穏な単語が出てきたような気がしたが、探し求めていたモノを見つけた喜びが不安を隅に追いやった。

 身の丈に合った部屋、立地条件も良く、家賃も安い。壁が薄そうなのが気になるが、迷うほどの要素では無い。

 

「ノリちゃん、ノリちゃんはどう思うかな? この家に引っ越そうと思うんだけど、どうかな!?」

「うんとなー ノリのものはノリのものでなー あるじのものもノリのものー!」


 唐突なジャイアニズム宣言に軽く眩暈がしたが、我が家ではこういう場合、アリアを塩水に漬ければ

大抵何とかなるので今は置いておく。そして言葉が間違っていたのだとしても、ノリちゃんが何を言いたかったのか読み取れないほど俺は愚かでもない。


 あと残る問題といえば、これほどの物件がいつまで空き部屋になっているか。

 底辺から1ランクアップし、部屋を借りようかなと思い始める下位冒険者にとって、この部屋は非常に魅力的だ。

 アパート外観で敬遠され認知されていないだけであって、知られたら多くの冒険者が飛びつくに違いない。


「チャラ男、俺明日は恒例の解体作業が入ってて動けないんだけどお前空いてたりする?」

「空いてる空いてるマジ空いてる。遠征帰りだからマジ2,3日フツーに休んじゃう系」

「あのさ、申し訳ないんだけど……」

「わーってるって! っつーかマジ水臭くね? んなシンミョーにならなくても大家知ってっしマジ話つけとくっての」 


 なんていい奴だ。最近、加速度的にチャラ男への恩が積み重なっていく気がする。

 受けた恩は絶対に忘れるなと育てられた俺にとって「恩知らず」というのは、この世で最も恥ずべき行為の一つだ。

 いつか目の前でヘラヘラ笑うこの男にキッチリ返そうと心に決めた。


「チャラ男、俺は受けた恩は忘れない派だ」

「え? マジ奇遇じゃね? オレは貸した借りはマジ忘れちゃう派なんだけど、チョーウケルw」

「大丈夫だよ。俺は覚えてる」

「わーたっって」


 手をヒラヒラさせながら照れ笑いをするチャラ男が「じゃー今日はマジ帰ろうぜ」と背を向ける。俺はその無防備な背中に「ありがとな」と声をかけた。

 物騒なこの世界で、安心して背中を見せられる奴なんて本当に数えるほどしかいない。チャラ男にとってその一人に俺が入ってることが地味に嬉しかったんだ。

 

 相変わらず頭の悪そうな口調で今回の遠征での小話を語るチャラ男に相槌を打ちながら、途中まで一緒に帰る。チャラ男と別れてからは、ウトウトしているノリちゃんを抱っこしながらのんびり歩いた。

 「何だかんだ人に恵まれてるよなー」何気ない呟きに「ふぃ~……?」とノリちゃんが目を擦る。

 何でもないんだよと頭を撫でると、彼女はまた安心したようで寝息を立て始めた。


 考えなきゃいけないことはたくさんある。いつだって問題は山積みだ。

 俺達の存在がとうとう公に知られ、キナ臭い連中がキナ臭い動きを始めている。きっと容易にはいかない交渉の場に俺達が乗せられるか引っ張り出されるかすることはもう間違いない。

 だがそれは今考える事だろうか。

 この街に住むことを容認され、この街に住むことを決めた俺達にとってそれは避けては通れない問題であって、いつか来る厄介事が来てしまっただけに過ぎない。ならば俺はこの安っぽくも暖かい居場所を守るためにやるべきことをやるしかないではないか。

 俺は大層な人間でもなければ大層な事が出来る人間でもない。考える頭だって持ち合わせてはいない。

 だったらきっと目の前の事を一つ一つこなす事の方がいいハズだし、それしか俺に出来る事もない。地面にだって大事なものはたくさん落ちているのだ。

 だからとりあえずは、引越しの事と、新たな大家、そして新たな隣人たちとの事を心配しよう。それだって俺にとってはレガリアと同じくらい重要な問題だ。

 夜の帳が落ち始めた見慣れたゼプツィールの空を見上げながら、俺はそう思ったんだ。

  






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