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異世界最強は大家さんでした  作者: つよぐち2号
20/59

魔王降臨②

「……私はドロテア・レーヴァンテイン。魔王をやってる」


 瞬間、恐ろしいほど静まり返るギルド内。

 次いで爆発的に広がるざわめき。


 反応は様々。

 何を言ってるんだあのちびっこは、と引き攣った笑みを浮かべる者、ひいっと怯える者、怪訝な顔で疑う者、まさに三者三様の形相を呈している。

 それは当然の反応だ。魔王とは人類の敵。

 数百年前からギルドに貼られ報酬が高騰し続ける討伐依頼。ギルドでも14件しか無い大陸全域依頼(ライブラ・オーダー)の一つで、その中でもあまりに無謀なクエストとして架空の依頼フィクショナル・オーダーと呼ばれる始末だ。


 魔王討伐、今やその報酬総額1300億ギル。夢を追いかける冒険者をして受託する者など誰もいない。

 発布当初は獣皮紙に書かれ、時代が流れ紙が安価になると紙に、そしてその紙が風化し黄ばんで読めなくなると新たな紙にと書き連ねられてきた討伐依頼は、綿々と受け継がれる人類の悲願でもあった。


 今ギルドに泰然と佇む少女が、そんな白昼夢そのものである【魔王】なのだと言う。

 冗談にしたって笑えるわけがなかった。


「あなたは、自分が何を言っているのかわかっているのですか?」

「……私は何もおかしいことは言っていない。私は魔王」


 完全無欠な無表情と完璧に平淡な声で断言するドロテア。少し鼻にかかった高い声なのに、その言葉はどこか重く、この場に居る者に冷や汗をかかせた。

 しかしそれは本当に冗談では済まない。


 魔王を名乗るということは、邪悪な忌むべき名を語るということであり、人類を挑発するということである。

 子供のごっこ遊びならともかく、意思決定が出来る年齢の者がそれを口にすることは 法的にも道義的にも許されざることとして、即座に罪人認定がなされるほどだ。


 しかもそれだけで事は終わらない。

 そんな暴挙を教会が黙っているわけが無いのだ。その忌名を語った、それだけで審判抜きで異端者認定がなされ、神意執行部隊による苛烈な粛清が待っている。

 だから、それが度胸試しなのだとすればご愁傷様としか言いようがない。土下座して殺してくださいと頼んでいるのと同義だ。


 関わり合いになりたくない半数以上もの冒険者が青い顔をしてギルドを出ていく。

 あまりにも巨大な権力による暴力を想像した時、聞かなかったし見なかったというのが一番利口な選択肢だ。


「冗談にしても笑えません。一度なら聞かなかった事にします。その名を口にしない事を心からお勧めします」

「……だって私は魔王、魔境の国シンクレアの女王」

「いい加減にしてください! 大体何ですそのふしだらな恰好はっ!」 


 マイラが責めるように魔王を見る。残った冒険者達も、口実が出来たとばかりに嘗め回すような視線をドロテアに向けた。


 背中は大きく開き、薄紫の艶やかな肌が薄明りを見事に反射している。ほっそりとした肩は剥き出しで、華奢な体格をこれでもかというくらい主張している。

 だが問題はそこではなかった。

 胸元だ。


 V字と言うには鋭角過ぎる切込みが胸元からへその下まで入っており、視認出来るのではないかと思うほどのフェロモンがが撒き散らされている。

 最早、左右が別の生地と言っても差し支えない黒布の淵には幾つもの穴が開いており、その穴を通された紐が、右左両側を靴ひもの様に交差し引っ張っていた。辛うじて見えない胸の突起が余計に男共の妄想を掻き立てるに違いない。

 よく見なくても横爆乳が丸見えだった。


「……魔王っぽくしてみた。ちなみにいっくんはこの格好が大好き。いっくんは否定するけど、私は見逃さない。彼はわたしのおっぱいを視姦して懸想している。幸せ」

「誰ですいっくんって! そんなのはですね、そのいやらしい男がおっぱい星人なだけですよ! そんな男に見られて嬉しいなんて程度が知れますよ!」

「……関係ない。いっくんがボソっと『俺オッパイで窒息したいわ~』って呟いたのを私は聞き逃さなかった。だから私はそうさせてあげるだけ」


 するとマイラは、その端正な顔に嫌悪感を露わにして自身を掻き抱いた。


「サイッッッテー!! その男はとんだ変態ですね! 穢らわしい!」


 何がポイントだったのかわからないが、スイッチが入ってしまったらしいマイラ。

 周りの冒険者たちも色めき立っていた。見目麗しいお炉利様、しかもその容姿から完全に逸脱した暴力的お乳様を握りしめる権利を持った男がいるというのだ。許せるはずがないではないか。

 女性陣はその「いっくん」とやらを全力で蔑み、男性陣は「いっくん」許すまじと鼻息を荒くしていた。

 そんな中、無表情ながらもドロテアが口を尖らせて抗議する。


「……むう、そういえばあなたも牛みたいなオッパイをしている。いっくんをそのおっぱいで誘惑したら許さない。あなたは一人で乳搾りの練習でもしてればいい」

「そんなサイテーな人をオッパイで誘惑とかありえません! いいですか!? 私のこのおっぱいはですね、私の運命の人であるイサ―――」


 ―――ギイッ

 

 ギルド入口の扉が開いた。

 最強クラスの力を持っているにも関わらず、いつもと同じく、申し訳なさそうに片身を狭めてギルドに入ってくる青年。

 いつも変わらぬ女顔、頭の上にはいつもの幼竜。入ってきた瞬間に異質な場の空気を敏感に察知し、キョロキョロ周りを伺う様子もいつも通りだった。


 話の邪魔をしやがってと青年を睨み付ける冒険者達。

 そんな理由だけではない剣呑な視線も多々見受けられるが、とにかくほとんどが好意的ではない視線を一身に浴びる青年。彼はギルドに足を踏み入れて数秒で若干涙目になった。

 そんな敵意渦巻くギルド内で、圧倒的ともいえるほど好意的なふた筋の視線が彼を射抜く。 

 

「……あ、いっくん」

「―――え?」


 呆然とするマイラ。

 一体何がどうなっているのか、目の前で起こった事象があまりに想定の埒外だったので、彼女の思考が一瞬マヒする。 

 ドロテアは、鼻にかかった高い声を一層甘く湿らせて言い放った。


「……いっくん、ドロちゃん来ちゃった。てへ」


 それでもなおその台詞は平淡で起伏はない。 

 だが、この場に居る全ての者は理解した。これは愛しい人に向けた「女」の声である、と。

 ならば、自然と腰を上げる者が出てきて当然だろう。


「「「「あ”あっ!?」」」


 男性陣が激高した。




□□□□□□□□□□□□□□




 俺は大通りに出る直前、3人で繋いでいた手を離し、ノリちゃんを頭の上にのせた。

 淡い木漏れ日を浴びながら散歩しているかのようなほのぼのとした道のりは、何よりも尊い日常を象徴しているみたいで名残り惜しい気持ちがあったが、こんな場面をオルテナ親衛隊に見られたら大変だし通報されてもエライ事になってしまう。

 それはオルテナも重々承知しているようで、特に異論も無く俺達は微妙な距離をとった。


「イサオ、私は少し時間をずらしてギルドに行こうか? 面倒くさいことになっても面白くないだろう?」

「そうだな、申し訳ないけどそうしてくれるか? 何か最近、戦略級の殺意をぶつけられて困ってるんだ……」


 ノリちゃんは軽くシュンとしていたが、すぐに「そーいえばノリはねてまつよていでした!」と言ってウトウトし始めた。

 俺が言うのも何だが、彼女は俺に触れていればどこでも寝ることが出来るのだ。

 俺はそんな彼女にニヤつきながら、ギルドの扉を開ける。

 どこまでいっても目立ちたくないので、注目を集めないよう、人が入ってきたことに気付かれないよう、極力体を小さく縮込ませてギルド内へと踏み入った。


 しかし、入った瞬間感じる負の視線。それも一つや二つではない。これが冒険者の総意だ! とばかりに全包囲的に押し寄せる穏やかではない空気。丁度正面に立っていたチンピラにしか見えない冒険者などは、あからさまに俺にガンをつけていた。


 俺は今日、ギルドに来たことを心底後悔する。

 またしても一体俺が何をやらかしたというのだ。

 こんなにも毎回毎回敵意を向けられていたら、悲しくだってなる。そもそも謙遜でも何でもなく俺は

小心者の小市民なのだ。


 何事かと周りを見渡してもなぜこんな空気になっているのか皆目見当がつかない。

 そして正面に立っていたチンピラが舌打ちしながら酒場のほうに歩いて行く。そこで俺は見た。

 おそらく、俺より頭一つくらい背が低いであろう小柄な少女、異世界ファンタジーらしく、常識や物理法則を完全に無視したボリュームのある銀髪。ちょっと垂れた目に浮かぶ灰色の蠱惑的な瞳が俺を捉えて離さない。


 初めて会った時の恰好そのままの、扇情的な少女がそこにいた。

 俺は全身の血が引くのを感じる。ヤバイ、これは本当にヤバイ

 すると少女はそんな俺の様子などどこ吹く風。平淡な声に精一杯喜色を込めて少女が言った。


「……あ、いっくん」


 魔王だ……

 よりによって魔王がギルドに居やがる。

 俺は、俺の穏やかな日常がガラガラと崩れ落ちる音を確かに聞いた。


「……いっくん、ドロちゃん来ちゃった。てへ」

 

 来ちゃった、じゃないです魔王様

 てへ じゃないのですドロテアさん。

 お願いだから見てください周りを。完全に出来上がってるじゃないですか……

 唯一、不幸中の幸いだったのは、マイラさんが呆けモードに入っていることだった。もし正義感の強い彼女まで噴火していたら俺は色んなものが終わっていただろう。

 ギルドには今、煮えたぎるマグマにも似た強烈な殺気が充満していた。


「「「「あ”あっ!?」」」


 腰を上げる冒険者達が、なんの躊躇も無く武器を抜く。

 若干泣いてしまったのだとしても、一体誰が俺を責められる? この理不尽な状況を見て、それでも俺が悪いというのならば、俺にはもう出家するしか道など残されていない。


「……いっくん、今度こそ子供作ろ?」


 もう一段階殺意の炎が燃え上がった。

 核並みの燃料を投下した少女がこちらに向かってトコトコ歩いてくる。 

 腐っても俺は元勇者だ。幾多の試練を乗り越え、数多の修羅場を駆け抜けてきた。そうして培った強靭な意志を、この4年間、逃げの一手だけに費やしてきた。逃げる事にかけて俺は誰にも負けはしない。


「人違いです」


 俺はそう言い放って即座に入口へと向か―――


「ちょ、何コレ! 動けないんですけど!!」


 突然フワッと仄かに鼻孔をくすぐるメリベ花の香り。この脳髄を刺激する絶妙な加減で香水をつけている人物といえば一人しか思い浮かばなかった。

 一瞬にして俺の全身の毛が総毛立つ。

 すると彼女は俺のうなじにその爛れた息を吹きかけるように、熱く熱く囁いた。


「影縫い、ですよ……?」





 ◇ ◇ ◇ ◇





 突然フワッと仄かに鼻孔をくすぐるメリベ花の香り。この脳髄を刺激する絶妙な加減で香水をつけている人物といえば一人しか思い浮かばなかった。

 一瞬にして俺の全身の毛が総毛立つ。

 すると彼女は俺のうなじにその爛れた息を吹きかけるように、熱く熱く囁いた。


「影縫い、ですよ……?」

「ま、マイラさん、何を……?」


 首から下、足の指一つ動かせなかった。

 マイラさんが、俺の背中から覆いかぶさるようにして耳元で囁く。


「ねえ、イサオさん…… これは一体どういうことですか……?」


 火傷するかと思うくらい熱い吐息。

 俺は驚愕する。マイラさんは俺が振り返るまでカウンターの向こうにいたじゃないか。それが1歩進み、2歩目を踏み出そうとした時には既に背後に立たれていた。

 もし俺が障壁魔法を使えず、彼女が悪意ある刺客だったとしたら間違いなく殺されている。彼女が今見せたのはそれ程の技術だ。だが驚くべきはそれだけではない。


「ま、マイラさん…… 影縫いって、高位の斥候職でも中々使えないんですけど……」

「ねえイサオさん、今はそんなことどうでもいいじゃないですか、私は確かめなければなりません……」


 マイラさんはそう言って俺の前に回り込むと妖艶に微笑む。俺は冷や汗が背中を伝うのを敏感に感じ取っていた。

 そうだとしても俺は元勇者だ。いくら強力な拘束術式だといっても本気を出せば抜け出せることだけは間違いない。だが、それをすることで身バレするのが何よりも怖かった。彼女に素性を知られるということは、ギルドに素性を知られるということだ。

 ギルドに素性を知られるということは、俺がここにいる事を大陸全域に知らされるという事だ。それだけは避けなくてはならない。

 俺は首だけを動かして周囲を確認するが、冒険者達は何が起こっているのか理解していないようだった。ドロテアと目が合うも、無表情のままリスみたいにぷくーっと頬を膨らませているだけだ。

 今、俺が対処すべきはマイラさんだけだった。


「ま、マイラさん、落ち着いて…… きっと酷い誤解があると思―――」

「誤解……? 魔王を名乗る魔族に『子供を作ろう』と言われることの何が誤解なんですかぁ……?」


 妖艶に微笑むマイラさんの目の瞳孔が見事にカッ開いていて俺はゴクリと喉を鳴らす。

 マイラさんはペロリと唇を舐めると、さらに語り出した。


「もう、もうダメかもしれません…… 私はもう我慢出来ないかもしれませんよイサオさん」


 艶めかしく蠢く口元から目が離せない。何か強力な暗示をかけられているような、そんな感覚だった。

 俺が言葉に詰まっていると、マイラさんが驚くべきことを言いだした。


「ねえ、壊したい…… すごくあなたを壊したいの…… どうしたらいいかなぁ えへへぇ ねえどぉしたらいいと思いますかぁぁぁはははははっ!」


 人という種が出来る筈の無い、ねっとりとした猟奇的な嗤い声を上げるマイラさん。

 いざとなったら彼女を圧倒できる力を持っているにも関わらず、歯の根が噛み合わなかった。俺は自分の口から洩れるカチカチという音をどこか他人事のように聞く。


 なぜなのだ、彼女はこんなキャラではなかったじゃないか。いつも営業スマイルを振りまき、愛想の良いギルドNO.1受付嬢、それがマイラさんじゃなかったのか。  

 肩の高さに構えた手刀、その指先から赤黒くうねる禍々しい魔力刃(ブレイド)は、何かの臓物の様に脈打ち血を欲していた。あんな明確に視認出来るほど魔力を練り上げられる者など、この大陸に100人もいまい。


「そうだ! こうしましょうイサオさん、私の別邸に行きましょう! 防音は完璧です! きっと気に入りますよっ!」  


 グシャリと顔を歪めるマイラさん。

 身の毛もよだつ笑顔を浮かべる人物と、俺の知るマイラさんがどうしても符号しなくて俺は混乱した。ここまでくるとナイスボートどころの騒ぎではない。

 俺は確信した。マイラさんはオルテナが嫌いなのではなく、魔族全般が嫌いなのだ。


「ねえ、正直に言ったら優しくしてあげますよぉ 約束します。ちょっとだけしか痛いことはしませんから」


 俺は必死だった。とにかく死にたくなかった。


「違うって! だから誤解なんだ! 俺は神に誓って悪いことはしていない!」


 もう身バレしても構わないから、とにかく全力で逃げ出そうとした時、空気を読むという概念を知らない自由な人から助けが入る。 

 

「……やめて、それ以上敵対するなら私も容赦しない」

「敵対ぃ? 違いますよぉうふふふぅ…… 私は誰よりもイサオさんの味方です。だから味方としてイケナイことはイケナイと教えてあげなければなりません。そしたらきっと彼も私無しでは生きられなくなりますよぉ」  

「……いっくんは私のモノ。彼は私のおっぱいが忘れられない。うん、なんか幸せ」


 マイラさんはイっちゃってるし、ドロテアも大概だった。

 泥で作られた助け舟に手をかけるかどうか悩むくらい俺は俺で追い詰められていたが、どっちにしてもロクな事にならないと思い直し深く項垂れる。


「イサオさん、もしやこの下品で穢らわしい魔族の脂肪に懸想したのですか? 脂袋を衆目に晒して喜んでいる尻軽な淫売の非常食で催したんですか?」

「……何を言っているの牛。あなたの胸には品格が無い」

「なん、ですって……っ!?」


 実は俺もおっぱいに品格があるとは初耳だった。魔族の頂点に立つ者はやはり言う事が違う。

 俺が少しだけ感心していると、ドロテアが轟然と言い放つ


「……あなたの胸は食欲関連以外には役立たない。わかったら帰って毎朝の健康のために搾乳マイセルフしてなさい牛。あと乳房炎に気を付けて」


 もうどうしようもなかった。

 だが、ここまでの状況に陥ってもなお俺は(まなじり)を下げない。なぜなら俺には女神がついているからだ。 

 どんな逆境でもどんな修羅場でも、絶望に崩れ落ち、立ち上がる事さえ困難な時でも、いつだって俺の味方をしてくれる救いの女神が、俺にはいるのだ。

 だから俺は性懲りも無く頭上のノリちゃんに助けを求めた。


「ねー! ノリちゃん! あるじは何もやましいことしてないもんね? そうだよね!?」


 すると我が救いの女神は厳かにこう仰った。


「く~ く~」


 寝てました。

 誰か助けて。


「わかりました異端者。まずあなたを殺しましょう。私の美巨乳を侮辱した罪をその身で贖―――」


 ―――ギィ


 間違いなく今から殺し合いが始まるという一触即発のタイミングで開かれるギルド入口扉。

 入ってきた人物を見て、俺は思わず泣き笑った。

 入って来たのは、空気に敏感な弱気な乙女だったのだ。


「え? え? わ、私は何もしてないぞ!」

 

 二人の野獣から、とばっちり殺意を向けられて一瞬で怯む闇姫様。

 とりあえず弁明から入るあたりが実に彼女らしくて非常に不憫だ。

 すると、二人の野獣は何を思ったのか、オルテナの胸を一瞥すると、同時にふんっと鼻で嗤った。


「な、何だそのドヤ顔は!?」


 オルテナが抗議の声を上げる。

 それに対し、マイラさんがドヤ顔を崩さず見下した感じで言い放った。


「今、おっぱいの話で議論していたところですよオルテナさん。おっぱいの無いあなたは引っ込んでて下さい」

「何だと!? わ、私だって……っ! 私の胸は……っ!」


 「「「私の胸はっ!?」」」と遠くで親衛隊が興奮しているが、今はどうでもいい。

 オルテナはまずドロテアの半ば剥き出しおっぱい様に視線をやってヒクっと片頬を震わせる。

 次にマイラさんの胸の盛り上がりを見て軽く項垂れた。

 そして対撃スーツの首元を人差し指で引っ張って自身の胸を覗き込むと涙目になった。


「形……っ! 私は形でっ!」

「負け犬が何か吠えているようですね」

「……持たざる者の言い訳」


 お前に参戦資格は無いとばかりに切って捨てるお二人様。

 どうやらおっぱい戦争が始まっているらしかった。

 

「でも、でも……っ!」

「……おっぱいの『お』とはどういう意味かわかる? それは『大きい』の『お』。だからあなたの胸は『おっぱい』とは呼ばない」


 必死に食い下がるオルテナに対し、ドロテアから衝撃の事実が告げられた。

 正直、俺も知らなかった。

 やはり少し感心していると、涙目のオルテナが内股気味に腰を折って叫ぶ。


「い、イサオはそんなものに興味ないもんっ!」


 今、俺別に関係無くね? と思ったが口にはしない。オルテナさんが「もん」状態に入ってしまったし、直感的に言わない方が良いような気がしたからだ。

  

「何を言っているんですか貧乳さん。よく言われる『生意気おっぱい』など戯言です。イサオさんは大きい胸が好きなんですよ」


 物凄い勢いで俺の性癖を暴露されてるっぽいので、さすがに俺も口を挟もうとした時、マイラがさらにとんでもない事を言い出した。


「オルテナさん、最近彼の家に出入りしているらしいですね。ならば見てみなさい、ベッドの下に隠された木箱を、それらが彼の趣向を特定する物証です」


 ちょ、え? どういうこと? マイラさんあなた何で俺のジャイアンツ打線(エロ本コレクション)の事知ってるの?

 俺が状況を整理できないでいると、涙目のオルテナが鬼のような形相で睨んでくる。


「イサオ! それは本当か!」

「オルテナさんちょっと待って。俺は今、色々と状況を整理するのに大変なんだ。ついでに部屋の整理もさせて欲しい」


 すると唐突にドロテアがオルテナを睨んで言った。


「……どういうこと? あなたは彼とは何も関係ないって言った。あれは嘘?」

「ち、違うんです! 聞いて下さい母う―――」

「……何? 私が何? 今日初めて会ったオルテナさん」


 サーっと顔から血が引いて行くオルテナ。


「ど、ドロテアさん、やめて! 今日初めて出会ったドロテアさん! お願いですから折檻はやめて!」


 するとマイラが綺麗な柳眉を釣り上げて言った。


「どういう事です? 先程あなたは彼女の事をむす―――」

「……黙れ」


 地獄の底から響くような低い声。

 何らかの魔力が作用したのか、声を出せず口をパクパクさせるマイラさん。

 一体、御三方にどういうやり取りがあったのかまるでわからなかったが、首を突っ込むとエライ事になるぞと俺の第六感がけたたましく警報をならした。


 カオスここに極まれり。

 目まぐるしく展開する話についていけず、額を押えていた俺に向かって容赦なく爆弾は落とされる。

 ドロテアが、その眼に軽く優越感を滲ませながら言った。


「……みんな知らない。あの日の夜、いっくんは私の胸で激しく泣いた」


 ちゅどーん という音が聞こえた。それだけは間違いない。恐る恐る周りの様子を確認してみると。現場はさらに酷い事になっている。


「きゃー 修羅場、修羅場よ~~!」 ギルド女性職員達が喜んでいた。

「啼く…… 啼くのか…… イサオさんは啼くのか……」 マイラさんが顎に手を当て思案していた。

「イサオっ! 最低っ!」 オルテナが涙目で俺を罵った。 

「「「哭かせてやろうじゃねえか!!!」」」 親衛隊が戦闘態勢に移行した。


 思わず顔を覆ったところで気付く。影縫いが解けていた。

 なぜギルドの一介の受付嬢がそんな物騒な技を使えるのかとか、深く考えたくないことも多いが、おそらくマイラさんが考え事をしている間に解けてしまったのだろう。

 周りを一瞥すると、なんかそれぞれ喧々諤々の言い争いが始まっており俺に注意が向いていない

 とりあえずこの場は離脱するしか手は無さそうだった。


 俺が4年の間に身についてしまった泥棒ウォークで出口に向かい始めた時、頭上のノリちゃんが、くぁっと伸びをして鼻をスンスンし始める。

 そして、いつも誰よりお利口さんノリちゃんが、ドロテアの方を向いて首を傾げるとこんな事を言い出した。


「あるじー あの人はノリのおかあさん?」






◇ ◇ ◇ ◇








 嫁が死んだ、子供も死んだ

 なんでこんなモノが託されたんだ、どうやって生きていけばいいんだ

 生まれてこなくていい、何が起きるかわからないんだ

 これは一族の災いの元だ、忌々しい! こんなもの割ってしまえ

 

 

 意識と無意識が混在する中、自分は望まれていない。そう思った。



■■■■■■




 ノリちゃんはドロテアの方を向いて首を傾げるとこんな事を言い出した。


「あるじー あの人はノリのおかあさん?」


 ノリちゃんによる戦略級の爆撃

 ドロテアがなぜが怯んだ感じになり、オルテナが潤んだ目で縋る様にノリちゃんを見ている。マイラさんは目をひん剥いて絶句していた。


 俺は動揺を隠せない。もちろん爆撃の威力に言葉を失った事もある。だがそれが主たる理由ではなかった。

 

「の、ノリちゃん…… ドロテアと会うのは初めてだよね……?」

「ノリなー ノリわからないかも」


 ノリちゃんはドロテアと会うのは初めてなはずだ。なのに彼女はドロテアを「おかあさん」と言った。確かにドロテアはノリちゃんにとって最も縁深い存在だがこれは一体どういう事だ?

 俺は混乱しつつも、とりあえず彼女に事実だけを告げる。


「の、ノリちゃん、あの人はお母さんじゃないよ」

「でもなー ノリなー ノリしってるかもしれん」


 納得しない感じで首を傾げるノリちゃんを見て俺は、まさか…… と思った。


―――ノリちゃんは卵の時から意識を持っていた!?


 そうとしか説明が出来ない。

 彼女がドロテアと会うのは初めてだ、これは間違いない。だが彼女はドロテアを知っているかもしれないという。これは過去、ドロテアという存在を曖昧に特定し、曖昧に認識しているのだ。

 だとすれば答えは一つだった。


 ノリちゃんは卵の状態で意識があって、卵の中から視認できないから、生体魔力を頼りに人を判別していたのではないか。その時の記憶が、目の前のドロテアから漏れ出る生体魔力と重ね合せているのではないか。

 だから、生まれる前から感じ取っていたドロテアを目の前に、おかあさんと思ってしまったのだ

 ハッとしてドロテアに視線をやると、彼女は少しだけ悲しげに目を伏せていた。

 すると、ノリちゃんがもじもじしながら、上目使いでドロテアを見上げながら言う


「どろさんはノリのおかあさんですか?」

「……違う、私はあなたを……」


 いつだって無表情のドロテアが、今にも泣きそうなほど顔を歪めてノリちゃんから目を逸らす。

 俺はその光景に目を見開いた。

 なんだ? なぜドロテアはこんな反応をするんだ? あんたは誰よりもノリちゃんという存在に希望を見ていたじゃないか。


 俺は卵を引き取ったあの時のやり取りを思い出す。


 俺は2年半前、ドロテアに呼び出され神竜の卵(ノリちゃん)を託された。

 歴史を鑑みて、俺に卵を託すのが最良だと思ったのだという。

 あの時ドロテアはこう言った。


―――私達は争い過ぎた。


 そして神の竜はどちらの勢力にも加担せず自由に生きて欲しいのだと言った。

 この世界の運命を左右するほどの力の権化である神竜。そんな世界の理を外れた超常の存在なのだとしても、この世界に生まれてきたからには、誰にもそれを否定する権利など無いのだと彼女は言った。

 尻込みする俺に対して、彼女は、生まれてくる子には何の義務も背負わない、有り触れた一つの命として生きて欲しいと俯きながら語ったのだ。


 4年半前。

 俺は召喚され、レガリアの王に、魔王を斃すことと、神竜の卵奪還を命じられた。

 800年の歴史を紐解くと、どんな勇者を召喚してもどんな規模の派兵をしても斃す事の出来なかった異形の盟主【魔王】、そして大陸の3分の2を埋め尽くすと言われている『魔境』

 レガリアは、神話や伝承により胸焼けするほど記された神竜の巨大な力を、人類側の戦力とすることでその険しすぎる壁を突破しようと考えたのだ


 だが、ドロテアはそんな人類側の思惑さえも抱擁し、生まれてくる子に自由に生きて欲しいと言った。

 自陣営で育てたらどうしても人類側を憎む存在になってしまう。そんな歪な怨念に触れさせる訳にはいかないが人類側に帰依されると自分たちが亡ぶしかない。

 だから彼女はこの世界を滅ぼすことができる災害を俺に託した。


 魔族と敵対出来ず、人間側の生き方も否定できない、そんな宙ぶらりんなコウモリ男に賭ける。甘い希望と厳しい現実の狭間で、誰よりも誇り高い彼女は偉大なる決断をしたのだ。それなのに…… 

 俺はドロテアに目をやって眉を寄せる。

 

「ドロテア、なぜそんな泣きそうな顔をしているんだ」

「……私は」


 結果から言えば、それは正解だったと俺は自負する。

 彼女は人を傷付けることを恐れ、死を忌避し、その痛みに涙を流せる子に成長した。

 誰よりも純粋で誰よりも優しい彼女は、今となって俺になくてはならない自慢の家族だ。


 俺はもう確信している。

 彼女は俺が死んだ先も、きっと優しい女の子としてその力を正しい事に使い続けるだろう。

 彼女はきっと誰からも愛される存在になる。誰をも傷付ける事のできる彼女は誰も傷付けないよう一生懸命生きる女神になるに違いない。

 ドロテアが俯いてこちらに歩み寄りながら言った


「……『ノリ』っていうの?」

「はい! そうです! こんにちは、ノリはイガワノリです! あるじがなまえをくれました!」

「……素敵な名前、そしてあなたはとても良い子」

「すてきななまえです! そしてノリはよいこですっ!」


 きゅいきゅいっと嬉しそうにするノリちゃんを、ドロテアは目を細めて見遣る。

 敵意など無い。まるで本当の娘の成長を喜ぶ母の様に、慈愛に満ちた視線だった。

 だがどこかその姿が悲し気に見えるのは俺の気のせいなのだろうか?

 

「な、なんですって! ノリちゃんの母親役はこのわた―――」


 マイラさんが何かを言いかけ、一歩踏み込んだまま固まる。

 マイラさんの四肢を覆い尽くす魔力の蔦。あれは神の荊(ノンテル・ル・マキナ)。俺の知る限り最高位の拘束魔法だ。

 とんでもない魔法を呼吸するように使うドロテアはやはり魔王だった。


 影縫いも神の荊もあまりに当たり前の様に使われたので、非現実的な状況を理解している冒険者はほとんどいない。

 ドロテアはどこか申し訳なさそうに口を開いた。


「……あなたとは決着をつけなければと思うけれど、今は黙っていて欲しい。1分で回復するから。謝罪する」


 ドロテアはマイラさんにそう告げてから、こちらに向き直って俺の手を引くと出口へと歩き始める。

 至極自然な流れだったので、思わず従いそうになるが俺は抗議の声を上げた 


「ちょ、ドロテア、このままにしておくと後がマズいんだけど! 俺はこれからもこのギルドで稼がなきゃいけないワケで……!」

「……私の一族は、今日この日のために生き続けた。少し大目に見て欲しい」


 彼女の一族が背負った運命の一端を知る者として、そう言われたら俺にだって返す言葉なんて無い。

 俺はマイラさんに向かって、本当にごめんというジェスチャーをして、手を引かれるままにギルドを出た。 


「……イサオ、実はあなたはロマンチスト」


 俺は俺で赤面しつつ答えに窮する。ドロテアが言ったのはノリちゃんの名前の由来に関してだ。

 ノリちゃんの名前の由来。

 神の竜 信託の竜 約束の竜 希望の竜、多数ある神竜を意味づける呼び方。『~の竜』と呼ばれることが多いため、その頭をとって『ノリ』としてきた。


 だが、本当は、木っ恥ずかしくて言えない理由がある。夢見る少女も薄ら笑うキラキラ(DQN)ネーム的な由来があったりするのだ。

 古代魔法(ロスト・ワード)を駆使し、古代語(エンシェント・ルーン)を熟知する彼女には一発でバレてしまったらしかった。

 俺が思わず頬を赤らめていると、耳元でノリちゃんがそわそわしながらコショコショと喋った。


「あるじー やっぱりノリのおかあさんかもしれん……」





□□□□□□□□□





 俺達はギルドを出ていつもの定食屋にいた。

 夜叉状態のマイラさんを放置してしまったので、後が色々怖いが今はこちらが優先だ。

 マイラさんにはお土産を手に後で土下座を敢行しようと心に決め、俺は席に着いた。

 安い土下座かも知れないが、どちらにしてもあの状態の彼女が話を聞いてくれるとは思えないので、これで良かったと自分を無理やり納得させる。


「じゃあノリちゃんはシチューでいいかな?」

「はい! シチューがいいです! にんじんいっぱいがいいかも!」


 ドロテアはノリちゃんを優しげに見つめると、しれっと言った。


「……ドロちゃんはメニュー全部」


 さぁっと血の気が引く。

 そうだった……忘れてた……。この人の胃袋は宇宙なんだった……。

 俺は引き攣った笑みを浮かべながら思わず手探りで財布の重さを確認した。


「ど。ドロテアさん…… ちなみにお金はもってらっしゃいますか?」

「……? ドロちゃんシンクレア硬貨しか持ってない」


 終わった。

 物理法則を完全に無視した胃袋に収まるであろう無数の料理達。俺は拳を額に当て目を瞑った。

 彼女の胃袋の限界を知るたびに俺の財布が軽くなるという非情なシステム。

 俺の知る限り彼女の胃袋に限界など無いが、俺の財布の限界はいともたやすく訪れる。正直、勘弁してください。

 そうして項垂れた俺の右から声がかけられる。


「私は日替わり定食で」


 なぜかオルテナさんも来てました。

 なるべく接触を避けていたとはいえ、ドロテアとは旧知の仲だ。いくら普段から世話になっている人間だとしても、初対面の人間がそんな知己の話に割り込んでくるのは、さすがに失礼だろうと思う。

 だからオルテナに一言モノ申そうとした時、彼女が口を開く。


「ここの支払いは私が持つから」


 オルテナ様ありがとうございます。

 同席していただき恐縮です。

 完全にダサ男な俺。こんな情けない状態で恋人など作れないよな…… と思って料理を注文するオルテナをぼんやりと眺めながら俺は気になったことを聞いてみる。


「でもさドロテア、仮にもシンクレアのトップなのにこんなところに来て大丈夫なの?」

「……きっと妹が何とかしてくれてる。というか普段から妹が何とかしてくれてる」

「メリアナか…… ホント偉いよな彼女は」

「……でもドロちゃんのほうがえらい」

「本当に偉い人は仕事を放っぽって来ないよ」


 むぅぅと頬を膨らませるドロテアさん。

 この膨らんだ頬が半刻後には食料で膨らむと思うとゲンナリする。

 すると、そわそわしていたノリちゃんがドストレートを放った。


「あんなー ノリのおかあさんですか?」


 本日2回目の問いかけ。少しだけ不安気に上目使いで聞くノリちゃん。

 ドロテアは、先程ギルドで見せていた悲しげな色を瞳に湛えて首を振った。


「……違う。私はあなたのお母さんではない」

「でもなー ノリ知ってるの ノリにぶわーってした!」

「……ノリ、私はあなたにお母さんと呼ばれる資格は無い」


 またドロテアが微妙な顔をする。

 それは喜びや寂しさ、安堵や罪悪感といった感情が綯交ぜになった、何とも言えない複雑な表情だった。

 話の行方を見守るオルテナを余所に、俺はその理由が気になり聞いてみる。


「ドロテア、それはどういうことなんだ? ノリちゃんの母さんじゃないってことは知ってるけどさ、資格が無いとかさっきから変だぞ?」


 すると、いつも即断即決な彼女には珍しく、眉間にしわを寄せて口ごもる。

 再度問いかけても彼女は逡巡し、何か迷っているようなしぐさを見せていたが、何かを決意したようにおもむろに語り始めた。


「……私は、私は何度もあなたが眠る卵を割ろうとした」


 衝撃の告白。

 苦しげに顔を歪めるドロテアを見て、俺は何とも言えない気分になる。

 理由は何となくわかる、だからこそその言葉はシコリとなって俺の心をざわめかせた。

 誰よりも大事なノリちゃん。誰よりも愛しい俺の家族。

 彼女が俺に手を差し伸べることが出来なかった可能性を考えて俺はゾッとする。それは想像すらしたくない悪夢以外の何物でもなかった。

 俺が言い知れぬ悪寒に襲われている中、誰よりも強く健気な俺の天使は、さらに俺の心を抉るような事を口にした。


「ノリなー ノリぐるぐるしてるときなー だれかがノリにいまいましいってゆった。こんなものさえなければってゆった」


 日和見な俺だって許せない事くらいはある。其々の事情があったとしても納得出来ないことだってある。


「誰だ! 誰が言った! ぶっとばしてやる! 誰がそんなこと言ったんだっ!」


 涙が出そうになった。

 沸点など一瞬で通り越した。

 泡立ち煮えたぎる俺の激情が行き場を求めて荒れ狂った。

 何が起こっても、たとえ世界が壊れようとも、そんなことを許すわけにはいかなかった。


 目の前が真っ白になってマグマのように煮え立つ黒い想いが俺を支配する。その理由を知っていても尚そんな言葉を投げかけた奴を引き千切ってやりたいという原始的な感情が俺の全身を駆け巡っているとき。

 それでもなおノリちゃんは気高くも、嬉しそうにこう言ったのだ。 

 

「でもなー ドロさんがなー ノリにちからをくれた」


 以前、卵を明け渡される時、ドロテアは「神竜の卵は、魔力を与え続けると孵化する」と言った。

 温めるのではなく 魔力を与え続けることで神竜と言う種は誕生するというのだ。

 彼女はシンクレアのトップとして、様々な想いを抱えながらもノリちゃんに力を与え続けた。

 そして心をすり潰すような葛藤の果てにこう言った。


―――私は最後の最後で望めなかった。


 だから俺に卵を託すのだと。

 歴史も価値観も何もかもこの世界とは関係の無い俺に、この世界の未来を託すのだと、彼女はそう言った。


 常識的に考えれば想像がつくことだ。

 神竜の卵を託されたゆえに引き起こされた聖魔戦争。人類による苛烈な攻撃により、魔境に逃げ込むしか選択肢が無かった彼女の一族。

 人と変わらぬ価値観を持ちながら魔族と呼ばれ、蔑まれ、追い詰められて徐々にすり減る人々の心。

 殺し、殺される日常と化してしまった非日常の中で、(おり)のように溜まった人々の暗い想いが大元たる卵に向かったとしても、一体誰が彼等を責めることができようか。


 今こうして健気に生きる彼女を目の前にして、俺はこのどうしようもない世界を罵らずにはいられない。

 振り上げた拳の下ろす先も判然としないまま、俺はただ口を噤む事しか出来なかった。

 だが俺の女神はそうじゃない。彼女はそんな暗澹たる歴史を知らずに呑込み、それでもこの世界が好きなのだと叫んだのだ。


「ノリなー いらない子だったけどなー あるじがのぞんでくれた!」





◇ ◇ ◇ ◇









 いつから自我を認識したのだろうか、いつから自分と言う存在を観念しただろうか。

 彼女が最初に知った感情は「嫌悪」だった。

 嫌悪という概念を理解していたわけではない。

 ただ、それが酷く暗く、重い感情だという事は理解していた。

 まだ外の世界に出る前、彼らは事あるごとにその鬱屈した想いを彼女にぶつけた。


 こんなものさえなかったら

 こんなもののせいで私達は


 捻じくれ、元の形も見失う様な人々の深い絶望。

 自身を固定する為に必要な魔力が注がれることも無く、浴びせられるのは罵詈雑言。彼女にはその言葉の意味など解らなかったが、好意ある言葉ではないことだけはよくわかった。

 それでも彼女は受け止めるには重すぎる感情を受け入れ、結果、自分の存在意義を見失う。

 彼女はこう思った。


―――自分は望まれていない。自分の存在は許されていない。


 時折、優しく語りかけてくる者もいが、その人物からは魔力を感じなかった。

 だから彼女は項垂れたまま目を閉じる。

 いつか自分を望み、力を注いでくれる人が現れると信じて。

 いつか自分の存在を認めてくれる人が現れると信じて。


 そうして永遠とも思える時間が過ぎ

 いつしか、誰も彼女の存在に目を向けなくなった。


 自分に向けられずとも受動的に感じてしまう暖かな想い、冷めた想い、喜び、悲しみ。

 キラキラ光る人々の営みが幾億千万と彼女を通り過ぎ、立ち止まることは無かった。

 彼女は考える


―――どうして自分はそこに居ないのだろうか


 忘れられることの焦燥、恐怖。だが誰もそんなことすら気にかけはしない。


 このまま存在することも儘ならないまま時を過ごすのだろか

 このまま誰からも求められる事無く朽ちていくのだろうか

 このまま…… 存在すら無かったものとして消えるのだろうか。


 自分はここにいる! どうして誰も気付いてくれないの!


 彼女は叫ぶ。

 届くはずも無い祈りを、叶う筈も無い願いを、まだ見ぬ待ち人に向かって。怨念にも似た渇望をただひたすら叫んだ。


 誰か自分を見て!


 望む者など現れないまま、ただただ無為に流れゆく時間。

 すると突如注がれる力強く暖かい力。

 その力に迷いはあった。

 強烈な葛藤に燻されてボロボロになっていく決意と信念。

 力を注ぎながらも、それに纏わりつく迷い。


 だがそれでも彼女は狂喜する。

 誰かが自分を外に出そうとしている。

 高鳴る鼓動、膨らむ希望、それらが最高潮に達し、自身の存在意義を見出した時


―――ごめんね


 その人は言った。

 外の世界へと踏み出す直前、その人の決意と信念はぽっきりと折れる。怖くなったのだと言った。

 誰よりも望まれたかった自分は、最後の最後で望まれなかったのだ。


 感謝をしている。

 誰も与えてくれなかった膨大な力を毎日注いでくれて

 誰も見向きもしなかった自分のことを見てくれて

 誰も望まなかった自分を一瞬でも望んでくれて

 とても感謝している。


 されどそんな気持ちとは裏腹に襲い掛かってくる諦念

 綻び始める自我

 消えよう。そう思った。


 彼女はまだ見ぬ世界に未練を残すかのように、ゆっくりとまぶたを閉じ始める。

 とてもとてもゆっくり意識を散らし始めながら彼女は淡い夢を見た。


 もしも、消える前に。


 そんなことはあるはずがない。

 だが、もしも自分を望んでくれる人が現れたならば

 その人に尽くそう。

 その人に全てを捧げよう。

 そう、全身全霊でその人に


―――祝福を


 叫びなど、祈りなど届いてはいない。

 だからそれはきっと偶然なのだと思う。自分が天に祝福されたとか、そんな夢物語なんかでは決して無いのだと思う。

 だが、彼女が意識を手放す寸前、確かにその人はやってきたのだ。


 彼は優しく彼女を抱き留めるとこう言った。


 ―――そうか、君も俺と一緒なんだな……


 そしてこうも言った


 ―――俺は、望むよ……。世界中の誰もが認めなくても、俺だけは君を望むよ。


 震えた。体の芯から震えた。

 今となってはそれはどうかわからない。

 だけどその時、きっと自分は泣いていたのだろうと思う。


 圧倒的孤独に少しずつ摩耗し、少しずつ諦めていった彼女。

 壁の中から感じる世界は、酷く優しくない、そしてとても乾いたものだった。

 自分は世界に拒絶されていると、彼女は疑う事も無くそう信じていた。


 ―――俺と来るかい? 俺は何も持っていないけど、君は俺を必要としてくれるかな、俺と生きてくれるかな。


 生まれても……いいの?

 誰に認められなくたっていい、あなたが望んでくれるならばそれだけでいい。

 それだけでいい。

 だから彼女は慟哭した。


 生きたい! あなたと共に!


 それは爆発だった。

 注がれ続けた力が彼女の裡で練り上げられ、天高く突き上がる。

 世界の境界線となっていた繭は消し飛び、彼女は小さな世界から解き放たれた。




 たまらず喉を震わせる。

 この気持ちを他でもないその人に伝えたくて。

 誰からも愛されず、望まれない。そんな自分を望んでくれたその人に、自分はここにいると伝えたくて。

 だが初めて感じる明確な自身の肉体、言葉を理解しつつも上手く動いてくれない体。役割を果たさず、何一つその人に伝えられない自身の体を嘆いた

 なのに涙だけが律儀に噴き出しては流れ落ちる。


 するとその人が自分に触れた。

 初めて感じる温もりに、積み重ね続けられた失意が一瞬で霧散する。

 いつまでもその人を感じていたくて、もっとその人を知りたくて、まだよく見えない目を必死に開く。


 やはりその人の顔はよく見えなかった。

 しかし、自分ははっきりと理解していた。


―――この人が自分を望んでくれた人だ。この人が、この人こそが……


「ある、じー」


 見つけた。

 悠久の時を重ね、永劫とも思える悲しみの渦に佇み、それでもなお捨てきれなかった希望。

 その希望を自分はとうとう見つけたのだ。

 

 だから彼女はまだ見えぬ彼を見つめながらこう思った。

 彼は世界なのだと。




□□□□□□□□





 俺は独りだった。

 家族と引き離され、帰りたければと一方的に突き付けられた理不尽な要求。

 諸悪の根源であるはずの魔王国は、涙が出るほど「人」の国だった。


 自分の願いのためだけに振り下ろした剣。

 人類の仇敵【魔王】はそれを避けもせずに、敵であるはずの俺のために涙を流した。

 そんな彼女を斃せるわけがないではないか、殺せるわけがないではないか。


 元の世界に帰るために必要な物も用意できず、言い渡された命令も遂行できないまま帰った俺に居場所などあるはずが無かった。

 何一つ得るモノも無く、居場所まで無くした俺。

 際限なく浴びせられる罵声や怒声に前を向くことも出来ず、肩を震わせながら惨めに逃げ出した。

 

 単騎で戦争を仕掛けてやろうと思ったこともあった。

 勝手に召喚され、勝手な命令をされ、元の世界に帰る勝手だって解りはしない。

 それで言う事を聞かなかったら罵られ、罵倒され、挙句の果てには命を狙われる。

 親から受け継がれた道義を口にすれば、否定され、辱めを受ける。どうやら俺はお偉い神サマの敵らしい。これを笑わずして何に笑うというのだ。


 何が神だ。欲望により形作られた薄っぺらい虚像じゃねえか。

 何が勇者だ。使い捨てのタダの駒じゃねえか。

 思い知らせてやる。

 俺の絶望を。


 場所はレガリアの城下町

 そう思い城に向かった時、目に入ったのは、楽しげに子の手を引く母の姿だった。

 今日のご飯は何にしようかしら、ボクたまには肉が食べたいよ。

 そんな取り繕い様も無い日常の姿。

 

 それだけのことで

 ただそれだけのことで、

 俺は握りしめた拳を解くことしか出来なかったのだ。

 項垂れ踵を返す俺の背中を抉った無邪気な声。俺は耳を手で塞いでコソ泥のように逃げ出した。

  

 そうして流れ着いた街ゼプツィール。

 この時代で生活していく知識も技術も無い俺が生きていくためには冒険者になるしかなかった。

 冒険者になったところで命を奪う事に対する嫌悪感を取り払うことも出来ず、どこまでいっても中途半端な俺は、日々の暮らしに埋もれ、少しずつ心身を擦り減らしていった。


 目立つことも出来る筈がない。

 道中、レガリアは本気の刺客を寄越してきたし、マイノリアは黒の勇者を神敵だと公言していたからだ。

 俺は腐っても勇者だ。

 殺されることなどありえない。だが、情報を持ち帰られたくなければ殺すしかない。俺は殺したくなかった。


 結果として、その日生きるために必要な小銭を稼ぎ、酒で肝臓を傷めつける事だけが俺の全てになっていった。

 毎日安酒をかっ喰らい、路地で戻しては絡まれた。恨みと噂を恐れ、ただなすがままにされていた俺は、誰よりも惨めで弱い、最底辺の冒険者の中でもさらに情けない男として嘲笑の的になった。


 どうでもよかった。

 俺の居場所ではないこの世界で、誰に罵られようと馬鹿にされようと、俺にはどうでもよかった。

 

 そしてゆっくりと壊れていく俺を嘲笑うかのように晴れ渡ったある日、ドロテアからいつもとは違う、きちんとした手紙が届く。

 


 神竜の卵をあなたに委ねたい。第5層、古代遺跡で待つ。



 ちょうどお金がなくて、酒が入ってなかったことが今にも続く奇跡を引き寄せることとなる。

 鉛のように重い腰を上げて、俺はそこに向かった。


 一年ぶりに会うドロテアは何も変わっておらず、変わり果てた俺を見た彼女は悲しげに顔を歪めた。

 そして卵と共に渡された、神竜を巡る一族の歴史とその秘密。

 人類側に残る歪曲された歴史とは違う、血生臭い壮絶な史実。

 

 ―――この世界に生まれてきたからには、誰にもそれを否定する権利など無い。だから私はこの子に生きて欲しい。だけど私は最後の最後で、この子を望めなかった。


 そう呟く彼女の顔を見て、俺は全てを理解した。

 ドロテアが去り、一人残された遺跡で彼女に語りかける


 ―――そうか、君も俺と一緒なんだな……


 この子は誰からも望まれず、その存在を認められなかった。

 何も悪いことなどしていないのに、その異質さゆえにこの子は拒絶された。

 本来この世界に存在するはずがない俺と同じく、この子は世界にとって「異物」だったのだろうと思う。

 卵と言うよりは繭に近いそれを通して、俺は泣き笑う自分の姿を見た様な気がした。

 だから俺は言ったのだ。


 ―――俺は、望むよ……。世界中の誰もが認めなくても、俺だけは君を望むよ。


 この子は俺だ。

 この子を認めないことは、俺が自身を認めない事と同義だ。

 それだけは絶対に認められなかった。

 とうちゃんとかあちゃんの子として、自身の目を見れないような事は出来なかった。  

 まだ生まれもしていない、聞こえる筈も無い子に、俺は苦笑しながら語りかける。


―――俺と来るかい? 俺は何も持っていないけど、君は俺を必要としてくれるかな。俺と…… 俺と一緒に生きてくれるかな……。


 今なら正直に言える。俺は寂しかったのだ。

 一人で生きてはいけない情けない俺を、それでもいいよと笑ってくれる誰かに縋りたかったのだ。

 だから俺は慟哭した。


―――こんな、こんな俺をっ 認めでぐれ゛るがな゛……?

 

 

 そして、奇跡は舞い降りたんだ。

 


 圧倒的な勢いで吹き荒れる魔力風。

 思わず目を瞑り、手をかざす。それが収まって、目を開けた時。

 俺達は出会った。


 守ってあげなければすぐにでも死んでしまいそうなほど小さい竜。

 外気に慣れていないのか、体を震わせながらも一生懸命目を開けようとしている、か弱くも力強く脈打つ生命。


 体の底から噴き上がった圧倒的なまでの感情の奔流を抑えることが出来なかった。

 俺は震える手を伸ばし、彼女に触れる。

 瞬間、俺の双眸から怒涛の如く吹き出る涙。

 

 庇護欲とか憐れみとか、そんな低次元な感情ではなかった。俺は理解したんだ。

 だから俺はその子を抱きしめながら誓う。 


「断言するよ……」


 泣きたくなるほど広く、どうしようもない世界で出会った俺達。

 だがそんな事はどうでもいい。もうそんな世界など関係ないじゃないか。

 小さくたっていいんだ。俺達がそうなればいいんだ。


「今日から君は俺の家族だ」


 拒絶され、突き放された流浪の果てに、傷をなめ合うようにして交差した二人ぼっち 

 その日その時その場所で、こうして俺達の世界は始まったんだ。

 

 全身全霊で君を愛するよ。

 命を賭して君を守るよ。

 だって君は、この荒れ果てた地平でやっと出会えた俺の運命なのだから。そして……


俺の世界(ノリ・ネムト)なんだから……」


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