魔王降臨
白星の日、ドットの稽古終わり。曇天の空を見上げながら、俺は家路についていた。
時が経つのは早いもので、あの戦争からもう一月経過しようとしている。
ひと月と言う時間は長いようで短く、短いようで長い。ドットの稽古をしている時、何となくそう思った。
彼の剣技はひと月前とは雲泥の差だし、そのさらにひと月前と比べるともう別人だろう。
子どもの成長の速さに驚きながら、もっと小さいノリちゃんはさらに速いスピードで成長しているのだと考えると、何とも言えない気分になる。
ノリちゃんはもう前の様に一人で霊泉に行けるようになり、今日だって一人で霊泉に行っていた。ここ数週間はずっと一緒だったこともあって、今度は情けない事に俺の方が不安になってしまっている。
いつか俺はみんなに取り残されて行ってしまうのではないかという被害妄想的な感情が頭を過って中に消えた。
考えたところで結局答えなど変わらない。そうならないように頑張るだけだ。
一人で街を歩くのは何となく暇で、今日、稽古の休憩時間を思い出してニヤついてみる。
最近では当たり前になってしまった若夫婦のイチャコラタイムが今日も繰り広げられたのだが、何を思ったかクルルちゃんはサンドイッチを諦め、別の料理を持ってきた。
おそらく、ドットが一向に美味しいと言ってくれないので、サンドイッチという料理そのものが悪いという結論に達したものと思われる。
満面の笑顔で彼女がバスケットから取り出した黒々と粘つくソレを見た時、ドットは絶句し、俺は静かに目を逸らした。
およそ「料理」と呼ばれるものから瘴気が立ち上るのを始めて見たので、ちょっと背筋が寒くなった。
ぬちゃっと音を立てながらソレをスプーンですくって「はい、あーん」をするクルルちゃんの眩い笑顔と、顔面神経痛を発症したドットが実に対照的で、俺は巻き込まれまいと視線を逸らし続けた。
サンドイッチという簡単な料理を諦め、あえて難易度を上げてくるそのチャレンジャー精神は、娘のパンツで出汁をとろうとしたベルトに通じるものがある。
クルルちゃんが丹精込めて作った物体Xを視界の隅に捉えながら、やはり親子なんだなと感心した。
とにかく、そんなこんなでてくてく歩きながら、何気なく空を見上げると、ふよふよっと上空を舞う白い影。
見間違えるはずも無い。我が天使ノリちゃんだ。
「ノリちゃ~~ん!!」
彼女が俺に気付き、俺に向かって一直線に降りてくる。
「あるじー!」
ちょっと離れただけなのに、ずいぶん会っていないような気がするのは、きっと俺が彼女に依存してしまっているからだ。情けないと思いつつも、それだけ大事な存在が傍にいる幸せを噛み締めずにはいられない。
面積が広く人口も120万を超えるこのゼプツィールで、家に向かう俺と彼女が遭遇したのは偶然だった。
俺は思う。偶然というものは素晴らしい。
例えば、元の世界で石鹸王国国籍をもつ女性陣などがそうだ。
お風呂で男性の背中を流すことを生業としている彼女たちは、毎回毎回、偶然お客さんと恋に落ちてしまう。
そして背中を流してもらった男性客も偶然女性に恋慕し、偶然おこづかいをあげたくなってしまうのだ。
偶然という言葉のなんと素晴らしきことか。とにかく偶然は素晴らしい。
おれの胸に飛び込み、「あるじー」と頬ずりをしてくるノリちゃん。
最近、こういう感じで甘えてくるのが増えたような気がする。天から降ってきたご褒美に俺のニヤつきだって収まるはずがない。
「ノリなー ぐーぜんあるじがいたのでノリはびっくりしました!」
ノリちゃんが可愛過ぎて俺がびっくりした件について。
俺は彼女をひょいと指定席である頭の上に乗せる。
「ふふふ、あるじはノリちゃんが来ることわかってたぞー あるじのノリちゃんレーダーがビビビっていってたもんね!」
「あるじはすごいなー!」
キャッキャッキャッ
「あんなー ノリなー きょうはシチューの日だからなー まじたのしみです!」
「オルテナが美味しいシチューを食べさせてやるって言ってたから楽しみだね! あとチャラ男の真似しちゃ駄目だよノリちゃん」
「おるねーシチューだー!」
俺達は二人、シチューの歌を歌いながら家路についた。
□□□□□□□□□□
先日、ちょっと拘留され『オルテナを名乗るヘンテコな格好をした女』として取り調べを受けて、バキバキに心を折られた。
衛士は私が何を言っても「オルテナ様はそんな恰好はしない」の一辺倒で、最後には「似合わない」と吐き捨てて私を牢屋にぶち込んだ。
私は膝を抱えて泣いた。もしノリコちゃんがいたら鼻水を擦り付けて愚痴をこぼしてると思う。
だけど
イサオが褒めてくれた。
またどこかの病院の先生が来て、「気持ちが落ち着く薬を出すね」なんて事を言われるかと覚悟していたら、イサオが私を引き取り、「似合ってるね」と言った。「生まれる世界を間違えたね」と言った。
最後の一言にはちょっと引っかかったが、褒めてくれているらしいことはわかった。
嬉しかった。
否定され否定され否定され、牢屋にまで入れられた私にとって、それは何よりも嬉しい言葉だった。
そして、私を否定しなかった彼が、亡者の大空洞で言った言葉。それは鋭利な刃物となって私の胸に突き刺さる。
人を殺すなんてとんでもない、彼はそんな平和な世界から来たのだと言う。2度も故郷を焼かれた私には想像もつかないほど優しい世界で育った彼の目に、一体この世界はどう映ったのだろう。
私には解らない。
寂しそうに笑う彼を見て、私は胸が締め付けられるようだった。
私に何かできないかと考えるも、きっとなにも出来はしないと唇を噛む。
彼の価値観で考えると、私は人殺しだ。
彼の言う事はきっと正しいのだろうと思う。そんな優しい世界であってほしいとも思う。
だが、彼の目を見て言うことは出来ないが、彼の言う事は傲慢だと思った。
なぜなら、それでも私は悪いことをしたとは思っていない。殺すのに躊躇して殺されるのは私だからだ。
殺したくないと考え、そして実際に殺さないというのは言うほど簡単な事ではない。
殺すこと以上の技量とリスクがなければ、殺さないという選択肢を選ぶことなど出来ない。
それは超越者である【勇者】の力を持った、殺さない事を選択できる力を持った彼だからこそ口に出来る、持つ者の論理だった。
彼の言葉に理解は出来ても共感は出来ない。それが、絶望的なほど深い溝となって私たちの間に横たわっている気がして、その気持ちを悟られたくなくて私は彼の髪に顔を埋めたのだ。
「俺は、人を殺した」との言葉に凝縮された暗澹たる想い。
私は彼の優しさの源泉を垣間見たと同時に、彼にそんな私を否定されたと思った。
「お前を絶対に否定しない」彼は言った。
彼の世界と、この世界の狭間で踠き苦しみながら、それでもこの世界で生きていくのだという強い決意を感じた。
だから私も頑張ろうと思ったのだ。
今日は白星の日、シチューの日。イサオとノリちゃんの週に一度の特別な日
私は思い切ってお気に入りのワンピースを着て街に繰り出した。おばちゃんからはイマイチの評価だったが、大好きなツインテールもやってみた。
また衛兵に捕まってしまうのではないかと凄く怖かったが、おばちゃんに促され、イサオの決意に背中を押され、私も私らしく頑張ろうと思ったからだ。
今日は、最高のシチューを作って、彼等の最高の笑顔を見るのだ。私はそう決めたのだ。
そう開き直って街を歩いていると、段々気持ちだって晴れてくる。お買い物はやっぱり楽しい。
カイル精肉店では随分とオマケしてもらったし、デル青果店の若大将はりんごをサービスしてくれた。
必要なものを買ったので帰ろうと踵を返した時、ちょっと気になっていた雑貨屋さんが目に入る。
「ああっ! あの香油置き凄い可愛い……!」
相変わらず可愛い小物を店頭に並べて私を誘惑する雑貨屋さん
フラフラっと足がそちらに向いてしまうが、いや駄目だ!と首をブンブン振る。
実用主義者なイサオは、必要のない小物とか飾りとかを置きたがらない。香油置きならば実用的だとは思うが、彼はお香や香水といった匂いの強い物をあまり好まない。
女の子の髪に残ったシャンプーの香りが至高だとも言っていた。シャンプーとは何だ?と聞くと、髪用の香り石鹸みたいなものだと言っていた。仄かに香るのがポイントなのだという。
それ以来、私のテーマは「仄かな香り」だ。
とにかく
彼は家に小物を置きたがらない。家が狭いというのも理由になっていると思う。
近々引越しをすると言っていたし、もう物件を探し始めているとも言っていた。
「キッチンが広い家がいいな…… 私も一緒にお部屋を探したいな……」
そして、今みたいに毎日ご飯を作ってお掃除をするのだ。
こ、今度は、お、おおお起こしてあげるんだ。
おは、おはようっ あさ、あささささ朝ごはん出来てるよって言うんだ。うん、それがいい!
私は顔が熱くなるのを感じ、両手で顔を覆って小走りに駆けた。
おはようって! おはようって!!! それじゃまるでお嫁さんみたいじゃないか!! は、はしたない! そんなんじゃない! ダメだ! 私たちはまだそんな関係じゃ―――
「お嬢ちゃん、こんなところでどうしたの?」
声が聞こえた。
ハッと我に返った私は周りを見渡してみるが、人影は無い。
朽ちかけた樽、散らばって腐った食べ物。日が差し込まないせいか、積まれた木箱にはびっしりとカビが生え、暗くじめっとした空気が肌にまとわりつくようで不快だ。
錯覚だとわかってはいるが、どこか息が詰まるような圧迫感と、どんよりと漂う異臭が、ここがこの華やかな街の裏側であることを主張していた。
どうやら顔を押えて走るうちに変な裏道に入ってしまったらしい。大勢の人で賑わう中通りから一本踏み込むと、どこもこういう街の死角は存在するのだ。
「もしかして迷っちゃった? おじさんたち人生迷っちゃってるからきっと力になれると思うんだ」
目の前は突き当り。その突き当りを左に曲がった先のほうからその声は聞こえてくる。その男の声に反応して数人の下卑た嗤い声が上がった
私は恐る恐る曲がった先を覗いてみる。
そこには、浮浪者ちっくな男4人に囲まれている女性がいた。
ボロボロの灰色のローブを身に着けたその女性は、カビの生えた木箱に腰かけ、無言で俯いている。
フードをかぶっているため顔は見えないが、零れ落ちた眩い銀髪が年頃の女であることを物語っていた。
聞かなくてもどういう状況かわかる。
人通りのない路地裏で、男達が女を囲んで施しをしていると思うほど私は楽天家でもなければ無知でもない。
この世界で女は、奪われる側として生まれてくる。
どんな高貴な生まれでも、その身は政略の道具として会ったことも無い男に捧げられるのが常だし、それ以前に基盤が揺らげば容赦なく獣欲を満たす道具と成り果てる。
いくら強くなったところで、敗北し動けなくなればその身を汚される事は覚悟以前の問題で、Sランカーの私だっていつも貞操を穢される恐怖と戦っているのだ。
目の前の女性も、放っておいたらどこぞへと引きずり込まれて尊厳を踏み躙られるに違いない。
「おい! 無視すんじゃねえよ! 罰だ! 罰として気持ちいいことしてやる!」
ゲヘヘヘ と黄ばんだ歯を剥き出しにする男共
今日は帯剣していないし防具も何もつけていない。半袖の水玉ワンピースと踵の高いサンダル、これが全てだ。
だが剣が無くても、こんな場面で竦むほどぬるい戦場を生きて来てはいない。
理不尽に奪われないため、理不尽に奪われる人を助けるため私は力を手に入れたのだ。私は迷いなく足を踏みだした、その時
―――ぐぎゅるるるる~~~
盛大な音が鳴った。女性のお腹の方から聞こえた様な気がした。
「おいおい! どんだけハラ減ってんだよ!?」
男達が囃し立てる。野卑な笑い声が裏道に響いた。
「なんだ? ハラ減ってんのか!? ちょっと違うトコロだけど俺達が満たしてやっからよ、オラこっちこい!」
男の一人が女性の腕を掴んで引っ張る。
その時、他の男の一人がこちらに気付き、クシャっと顔を歪めた。肌は乾き、頬はこけ、それでも眼だけが獣の様にギラギラ光っている。
「おーい! 別嬪さんがきたぜ! 俺達は運がいい!」
一斉にこちらに向けられる視線。8つの目が舐めるように何度も私の体を往復してゾワッとした。いくら強くなりSランカーになったところで、こういう状況になるとやはり委縮してしまう。
女としての危機を感じて、本能的に体が恐怖を感じてしまうのだ。
だが私はオルテナ・レーヴァンテインだ。下種に譲る道などありはしない。
一歩で男の一人に肉薄し踵を腿に捩じり込む。尖った踵が布を突き抜け、皮を破り、肉を抉った。
悲鳴が上がる前に、そのまますぐ横にいた男の頬を手刀で切り裂く。
そして、一人目の大腿骨を踏み台に、三人目に向かって飛ぶ。勢いを利用して鳩尾に拳をめり込ませた。
すぐさま反転し回し蹴りを4人目の顎に叩き込む。脳を揺らされた男は、危険な体勢で地面に激突した。もしかしたら4人目は死んだかも知れない。
飛び出してからここまで5秒かかっていないと思う。10秒を数える頃には、男達3人が悲鳴を上げながら走り去っていた。残りの一人は痙攣しながら泡を吹いている。
「こんなところに一人でいたら危ないぞ。さあ表通りに行こう」
私はそう言ってローブの女性に手を差し伸べる。だがなんとなく、なんとなくだが不吉な予感がした。
少しだけ眉を潜めていると、ローブの女性がゆっくりと顔をあげた。
「なっ!!!」
私は絶句する。
薄暗い路地でもなお輝く、波打つ銀髪。大きくクリクリっとした目、低めで尖った鼻、小さくプリッとしたおちょぼ口。
尋常ではなく整った顔であるにも関わらず、若干丸みを帯びた輪郭と眠たげに垂れた目尻が、彼女を美人ではなく「可愛い」と表現させるだろう。造りは間違いなく「美人」なのに、「可愛い」と思わせるこのバランスは異常と言ってもいい。
そして何より特異なのが、全く感情の揺れを感じさせない無表情で、じっと私を見つめるその表情から、何を考えているかは全くわからなかった。
私も表情に乏しい方だが、ここまで完全なる無表情ではない。
だが私はそんな事に驚いたわけではない。
私は知っていた。私より10倍近く歳をとっている筈なのに私より年下に見えるこの少女、いやこの女性のことを。
「……あの人たちご飯をご馳走してくれるって言ってたのにヒドイ」
何ら抑揚のない声。
彼女は無表情ながらも涙目で言った。
「……ごはん食べたい」
だから私は思わず呟いてしまったのだ。
「は、母上……」と
◇ ◇ ◇ ◇
私たちは大衆レストランでご飯を食べていた。
テーブルに積み上がった皿を見てゲンナリする。そういう人だと知ってはいたが、1年半ぶりに目にすると何と言うか、引く。
目の前に置かれた山盛りのパスタ。これがちょっと目を放すと一瞬で綺麗に消える。一瞬でだ。
そして必ず彼女の顔がベチャベチャに汚れる。
今だって、私が店の奥に数瞬だけ視線を向けて、テーブルに戻すとトマトソースのパスタ、が消えていた。
顔全体をトマトソースだらけにしながらリスみたいに頬をふくらませモグモグする姿は、食いしん坊のハラペコ少女以外の何物でもなく、とてもじゃないが人類にとって最大最凶の宿敵【魔王】とは思えない。
透き通るような薄紫色の肌と、ボリュームのある銀髪から覗くヤギのような二本の角が、かろうじて彼女が魔族であることを主張するが、こうして見るとやはり小動物か何かにしか見えなかった。
「……オリピー、お肉が食べたい」
私はため息をつきながら店員さんを呼んで、鳥の丸焼きを注文した。うぅ……結構高いのに……
当初、まず私を見て驚き、母上を見て顔に怯えを浮かべた店員も、今は呆れたような表情しかうかべていない。
脅えるのは当然だった。私は赤目だけが特異だが、母上はどう見ても魔族なのだ。
この国は他種族に寛容な風土が定着しており、問答無用で襲われることもないし、こうやって怖がられたとしても店に入れる。いきなり毒を盛られるなんてことも無いだろう
人類にとって『魔族』とは、宿敵魔王が支配する国の国民であり、魔獣を操って人類側に攻撃を仕掛ける、凶悪で凶暴な血も涙も無い残酷、残虐な種族だ。
それは完全に間違いなのだが、少なくとも人類側はそう教育しているし、みんなそう思っている。
少し考えれば人類側にだって角が生えているとか、肌が一部ウロコだったり、羽が生えている種族が存在するのだから、肌が薄紫色な種族がいたっておかしくない。
そもそも聖魔戦争が勃発するまで、魔族だって人類の一種族でしかなかったのだ。思考パターンが人類と異なるわけが無いではないか。
人類側に今は無き特殊能力を持つビーストテイマー、それが人類が恐怖する魔族の正体だ。
私たちが店に入った時は張りつめていた店内も、綺麗な顔に油とソースをブチ撒けながらもきゅもきゅする母上の姿に安心したのか、今では興味の視線しか飛んでこない。
何か変な魔族だなくらいに思っているのだろうが、今目の前で齧歯目と化している少女が魔王その人だとは誰も思うまい。
「おまたせしました~」
ででんとテーブルに置かれるナントカ鳥の丸焼き。注文してから出てくるまで早すぎると思ったが、きっと魔法を使ったのだろう。
母上の頭より明らかに大きい肉の表面は上質の脂でテカテカ光り、下味に使われたであろうハーブが、何とも言えない良い香りを周囲に撒き散らす。
焼き立てでパチパチと音を立てて弾ける皮が食欲を大いに刺激した。
周囲のテーブルからゴクリと喉を鳴らす音が聞こえる。大衆食堂ではあまり出ないであろう高級料理だから当然だ。
そして周囲の人たちは丸焼きの味を想像し、ひとしきり唾を呑込んだ後、次の興味は母上がこれをどうやって食べるかということに移ってきているようであった。
内臓は抜かれているといっても骨はある。徹底的にオーブンで焼いたり煮たりしたわけではないので骨ごと食べることは出来ない。
ならば今まで一瞬で皿を空にしてきたこの少女はどうやってこれを食べるのだろう、こう思っているに違いなかった。
正直、母上を甘く見ているとしか思えない。
この人は、もし真っ直ぐ進むと口にしたならば、目の前の壁を壊して真っ直ぐ進むタイプだ。今や私たちは注目の的だった。
さすがに、そろそろ勘弁してほしいと思った私は無言で母上を見つめる。
「……あげないよ?」
「いりません……」
一瞬、なんて母親だと思ったが、元々こういう人だということを思い出し口を噤む。
はあぁぁ~っと俯いてため息をついた時、おおお! と歓声が上がる。
顔を上げると、ナントカ鳥の丸焼きは綺麗サッパリ無くなっていた。
そして、母上の顔が脂でテカテカ光っていた。
「相変わらず豪快ですね、顔がピカピカです……」
「……ふぉりふぃーふぁっふぇふぉうふぉうふぁふぉふふぉ―――」
「食べながらしゃべらないで下さい」
ベキッボキッと骨を噛み砕く音が鳴り響くが聞こえないフリをする。
どうやったらそんな一瞬で食べれるのか不明だし、どうやったらそんなに器用に顔だけ汚せるのか不思議だ。
しばらくモキュモキュした後、ゴックンと音を立てて鳥を呑込む。
すると懐からハンカチを取り出し、美味しゅうございましたとばかりに楚々と口元を拭う魔王様。
口元は綺麗になったが、他のところは相変わらずベタベタのままだ。
「……お腹すいて死ぬかと思った」
生活力が皆無なのは知っていたが、魔王ともあろうものが行き倒れるとか終わってる。
「母上、一人で一体何をしに来―――」
「……ママ」
ちょ、それだけはやめて……!
周りの人も聞き耳立ててるんだって!
「は、母上、私も19歳になりますしその呼び方はど―――」
「……ママ」
優しく垂れた目が笑っていない。この人は腐っても魔王だ。
170年以上も人類の戦力を跳ね飛ばし、眼力だけで並み居る強者たちを屈服させ、超越者として君臨してきた正真正銘の猛者なのだ。
「うぅ…… ま、ママ…… どうしてこちらに……?」
「……いっくんが手紙をくれないから来ちゃった」
「来ちゃった」じゃないのです母よ。
周りのお客さんのヒソヒソ話で私は泣きそうです。
「どうやってここまで来たんですか?」
私より頭一つ分も小さい体に秘められた巨大な力。戦闘という分野において母に勝てる者などいないだろう。
魔王の名に相応しい、あまりにも凄まじい戦闘力。だがそれに反比例するかのように母の生活力は絶望的だ。
ご飯もつくれなければ掃除も出来ない。冒険者の必須スキルであるサバイバル能力何かは皆無に等しいだろう。まさか一人で魔境を越えてくるとは思わなかったのだ。
そんな強いだけのダメ母が、どうだ!と言わんばかりに口を開く
「……カトブレパスのカトちゃんに乗ってきた。ママも一人で出来るもの」
「食べ物とかはどうしたんです?」
「……親切な人にもらった。お金持ってないからカトちゃんと一緒にお願いしたらくれた。ここ奢って下さい」
その親切な人とやらはさぞかし恐怖に震えたことだろう。S級魔獣に乗った魔族に食べ物をねだられて、それ断れる人類など数えるくらいしかいない。
義理とはいえ我が母ながら、行き当たりばったりな自由すぎる旅の話に頭が痛くなる。
私が思わず額を押えていると母は何事も無かったように話を続けた。
「……それにこの街には黄星もいるし他に知り合いもいるから」
母は「そんなことより……」と言葉を区切ったと思うと、とてつもないプレッシャーを放ち始める、私は思わず身を竦めた。
「……なぜオリピーからいっくんの匂いがするの?」
血の気が引いた。
顔に張り付いたトマトソースが酷く残念だが、目が本気だ。
「……ママは言った。黒の勇者に手を出すなって」
「だ、出してないよ! 何もしてないよ!」
「……そういう意味じゃない。女として手をだすなって言った」
「そ、そうですが…… なぜイサオのことを教えてくれなかったんです!? 母う……ま、ママは私が彼を探すために旅立ったことは知っていたでしょう! 私にとって本当に大事なことだったのに!」
私はイサオにお礼を言うため、そして本当のお母さんがなぜあの瞬間笑ったのかを知りたくてシンクレアを旅立った。
その時、目の前の母にイサオの事を聞いても、彼は黒の勇者だとしか教えてくれなかった。居場所も名前も知っていたにも関わらず、母は私にそれを教えてくれなかったのだ。
「……乙女なオリピーが王子様を見つけたら猛アタックすると思ったから」
自分の行動を振り返って真っ赤になる。
猛アタックどころの騒ぎではない。毎日お弁当を作って部屋を掃除してご飯を作って待っている。それは半同棲の通い妻状態で、ただ最後の一線を越えていないだけだ。
俯いて黙り込んだ私に向かって母は言い放つ。
「……ママの旦那様をNTRとか許さない」
「そ、そんなこと…… 私は、彼は……っ!」
「……恋は戦争。娘だからって容赦はしない。これおかわりしてもいいですか」
宣戦布告と同時におかわりを要求する養母(魔王)
私は涙目になりながら店員さんにおかわりを注文した。
「今からどうするんですか?」
「……オリピーの家に行く。お風呂に入りたい」
私は焦る。
「い、いや…… きょ、今日は今から……」
「……今から何? その食材はどうするの? まさか……」
「ち、違う! 違うの!」
言えない。
イサオの家でシチューを作るなんて言えない。毎日通ってるなんてことバレようものなら、鍛練と称した容赦ない折檻が待っている。
母には一度も勝てたことが無いし強くなった今でも勝つイメージが出来ない。どうしようもない言動が目立ったとしても魔王なのだ。
「きょ、今日は宿屋に泊まったらいいよ! 私だって急に来られても困―――」
「……お金が無い」
「わ、私が出すから! ていうか母う…… ママならギルドですぐ稼げるでしょ!? 討伐出来ない魔獣なんていないじゃない!」
私は約束した。今日は頬っぺたが落ちるくらい美味しいシチューを作ってあげるとノリちゃんと約束をしたのだ。
何としてもこの場は切り抜けなくてはならない。そして母のためにも自分のためにも、何とか喰っちゃ寝ママンに自活を促さなくてはならない。
そんな必死に訴える私に向かって、母は轟然と言い放った。
「……働いたら負けかなと思ってる」
国民が泣くぞ母よ
間違っても国のトップが言っていいセリフではなかった。
この人が魔境の奥深くに栄えるシンクレアの女王だ。そして人類の仇敵である魔王だ。
私は顔を手で覆うと、机の上に突っ伏した。
◇ ◇ ◇ ◇
「あるじー あるじー」
「ん? どうしたんだいノリちゃん?」
どことなくシュンとしているノリちゃん。彼女は、悲しいと俯いて翼を畳んで縮める癖があるので一目でわかる。
するとノリちゃんはボソっと言った。
「おるねーがこないけんについて……」
「ノリちゃんノリちゃん、それはね、あるじの世界ではダメな人が言うセリフなんだ。だからそんな言い回しをしちゃいけないよ」
まったく、どこのどいつだ、我が女神にヒキオタニート用語を教えたアホンダラは。
見つけ次第回線ぶった切ってHD燃やした上でハローワークにブチ込んだんぞボケ。
頭が沸騰しそうになるが、ノリちゃんの前で取り乱すわけにもいかないので俺は矛を収めた。
「ノリなー きょうはシチュー食べれんかも……?」
確かに遅い。ノリちゃんの1歳の誕生日以来、毎週白星は彼女のために時間をかけ、丹精込めたホワイトシチューを作るのが異世界における井川家の決まりなのだ。
そしてノリちゃんが俺の膝に座り、俺がふーふーしてあげて、二人でキャッキャッするのが俺のためのスーパー俺タイムなのだ。
だから、はっきり言ってシチューを食べないという選択肢は俺には無い。
「シチューは食べます。何があっても今日はシチューです」
オルテナは、今度のシチューの日はびっくりするくらい美味しいシチューを作るから楽しみにしていろ、と言った。俺はその言葉を前提に、今日は何の準備もしていないし、それ以前に食材だって無い。
だが、最近オルテナに晩飯を作ってもらえて当然のようになっていたが、これは完全なる彼女の善意であって、本来は俺が作らなきゃいけないものだ。
彼女を責めるのはお門違いであって、それにアリアじゃあるまいし、彼女は約束を破ってケラケラ笑うような頭の緩い女の子ではない。きっと何か理由があるに違いないのだ。
「もう少し待って来なかったら斜向かいのシエルさんのお店で食べよう。オルテナが来てから全然行ってないしさ、子供が生まれるからって娘さんが休んでて、黒白の日は旦那さんが出てるらしいよ。丁度いいタイミグかもしれないね」
「とりのおばちゃんのシチューもおいしーなー!」
一瞬でぱああっと顔を輝かせるノリちゃん。
我が家でふーふー出来ないのがちょっとだけ悔しいが、第一目的はノリちゃんを喜ばせることなのだ。手段を選ぶつもりなど無い。
そう思って油断していると、純粋な彼女から思いもよらぬ質問が飛んできた。
「でもなー うまれるってどうしてー? ノリはたまごからうまれたー?」
俺は何て言えばいいのかわからなくて、思いっきり答えに詰まった。
「あのねノリちゃん、子供はお母さんから生まれてくるんだ。ノリちゃんが生まれた卵だってきっと……」
そこまで言って俺は絶句する。
ノリちゃんの母親って誰だ? 父親って誰だ?
今は2歳で、俺とずっと一緒にいる彼女だって、そのうち、俺と彼女自身が根本的に違う生物である事に気付く。
いや、もうすでに気付いてはいるのだろう。だが、それを『意識』するようになる。
そうなればきっと彼女は俺に問うだろう。
「なんでノリはあるじと同じにんげんじゃないの?」と。
そして賢いノリちゃんならばすぐに答えに辿り着くはずだ。俺が血のつながった家族ではないということに。
俺ならば笑い飛ばせる。一体血が何だと言うのだ。彼女と共に過ごしてきた無謬の時はホンモノで、その価値は他に比ぶるものすら思いつかない。
わかってくれるだろうか。
それでも俺達は家族なんだということを、彼女は理解してくれるだろうか。
「ノリなー あるじがいるからべつにいーんだけどなー」
その一言に信じられないほど救われた俺がいた。
先のことなどわからない。
だが、今彼女がそう言ってくれる事実にしばらくは縋ろうと、俺は情けなくもそう思う。
「あるじもノリちゃんがいれば幸せだなー」
「あるじはノリがしあわせにするけんについて!」
こんな用語を教えたヤツは肛門をブッこ抜いて改造するとして、とりあえず今はオルテナを待つことにした。
そして数十分。
待ってみたものの、オルテナが来る気配は無いのでシエルさんのお店に行く事にする。
シチュー音頭を踊るノリちゃんに手拍子を送りながら、俺達は斜向かいの店に入った。
□□□□□□□□■
木の床、木のカウンター、木の机、木の椅子。
店全体が飴色を基調に作られており、淡いオレンジ色の光源魔法が良く映える。
何かを焼く音、ぷんっと漂う食欲を刺激する香り、決してそれぞれの品は良くないが、みんなが和気藹々と楽しんでいるからこそ醸し出される心地よい喧騒。
以前、俺達も毎週黒星の日に通っていたが、それが出来るほどの価格帯の店で、何より旨い。
ただ一言、いい店なのだ
「いらっしゃいませ~ あらま! ノリちゃん久しぶりだねえ!」
店の女将、鳥の獣人のシエルさんだ。以前、ノリちゃんに服を譲ってくれた美人さんである。
娘さんがもう20歳だというのに、大胆に開けた胸元が色っぽい、いわゆる「綺麗なお母さん」というやつだ。
礼儀正しいノリちゃんがすかさず返事をする
「こんばんわ! ノリはシチューを食べに来ました!」
挨拶をすると、再びシチュー音頭を始めた彼女に、シエルさんもにこやかに手拍子を送った。
すると、ほぼ満席のお店のお客さんたちが、何だ何だ?とばかりに注目し出す。そしてノリちゃんに近いお客さんから手拍子が店全体に広がった。
「しっちゅう、しっちゅう、きょうはしちゅー♪」
「「「よいしょー」」」
「っみんなだいすっき! っノリっもだいすっき! ミルクたっぷりおいしいしっちゅう♪」
「「「あそーれ」」」
いきなりまさかのノリちゃんonステージ状態
合いの手まで入り始めて、酔っ払いたちもノッてきた。
ノリちゃんが短い右腕を一生懸命伸ばして、耳にあてる。歌手がライブとかで観客の返事を要求するあの仕草だ。
「にーんじーんさん?」
「「「人参さーん!」」」
「じゃーがいーもさん?」
「「「じゃが芋さーん!」」」
野太い復唱が腹に響いて若干引く。
生後2歳の幼竜が酔っ払い共を先導している事実に、可愛いは正義という名言の根幹を見た様な気がして俺は慄いた。
「おーにくがいっぱい?」
「「「うれしいなー!!」」」
なんなんだお前らは。
何で初見で声を合せられるんだ。
俺が呆然と見守る中、ノリちゃんは両手両足を大の字に広げ、高らかに宣言した。
「みんなでシチューをたべよー!!!」
「「「応っ!!」」」
可愛い教主の一声にむさ苦しい男共が勢いづく。
まさかのシチュー追加注文の嵐が瞬時に吹き荒れ、15人程がシチューを受け取った時、厨房の親父さんが「シチュー品切れだぞー!」とおっしゃった。
「あるじー しなぎれってなーにー?」
「え? あ、あのね、シチューがね、もう無いんだって……」
「ノリのはー?」
「ノリちゃん、落ち着いて聞いて欲しいんだけれども…… 多分、無い……」
しばらくの間、きょとんとしながら俺を見上げていたノリちゃんだが、どういう状況か理解したのかクリクリお眼目に驚くほど急激に涙が浮かぶ。
そして「M」みたいになった口元から嗚咽が漏れ始めた。
「ノリ、ふえぇぇっ ノリ、ふぐっ ノリシチューたべたいもん!」
「の、ノリちゃん…… そう言ってもね、無い物は無いんだ…… ごめんね、いい子だから我慢しよう! ノリちゃん我慢できるね? 出来るよね?」
「ひぐっ うぅっ ノリのしちゅう~~~!!」
さっきまでテンションMAXで踊っていたノリちゃんが、お店の真ん中で、びえ~~んと泣き出してしまった。
俺はすぐさま彼女を抱っこして、よしよしと体を揺さぶる。
とりあえず空いているテーブルに座って泣きじゃくる彼女をあやしていると、バツが悪いといった様子の男共が次々とテーブルにやってきて、「ごめんな」とか「食べさせてやってくれ」とか言ってシチューを置いて行く。俺はひたすら頭を下げてお礼を言った。
ノリちゃんをくるっと回転させてテーブルに向ける。
「ほら、ノリちゃん見てごらん。おじちゃん達がノリちゃんにシチューをくれたよ?」
鼻をスンスンしながらテーブルを眺めるノリちゃん。
次第に状況を理解し始めたのか、今度は嬉し涙を流しながら叫んだ。
「シチューだ~~~っ!!」
だが俺はノリちゃんの家族として、幼い彼女にきちんと言わなければならない。
泣いたら何とかなると思わせてしまって、結果わがままに育ってしまった場合、将来苦労するのは誰でもない彼女なのだ。
「ノリちゃん、まず良い子ならこういう時は何て言うんだっけ?」
「うんとねー ありがとーってゆう」
「だったら皆にありがとうしなきゃいけないんじゃないかな? それともノリちゃんは悪い子かな?」
「はっ ノリはうれしくてわすれていました! ノリはよいこです! ノリありがとうします!」
ノリちゃんがスッと中に浮かぶと男共を見渡す。
そしてペコリと頭を下げて、「ありがとーございましたっ!」とお礼を言った。
うおー! という、男共の汗臭い歓声。足を踏み鳴らす音が地鳴りの様に店に響いた。
「なんだよアレ、反則だろ!」
「可愛い過ぎんだろ! どこの竜だよ!」
「なんだおめー知らねえのかよ、あの子はこの街の恩人だよ! 救いの女神さ! あの戦争であの子がいなかったら…………」
酒が入った人たちには丁度いい話題だったらしい。
そこら中で、いかにあの戦争が酷いものだったか、ノリちゃんがいなかったらどうなっていたかを熱く語る話し声が聞こえた。冒険者達も集まる酒場なのだから当然と言ったら当然なのかもしれない。
俺は俺で上機嫌、ウチの自慢の子が褒められているのだから当然だろう
ウーリ牛の串焼きとエールを注文し、ノリちゃんのシチューに関して迷惑料を払おうとした時、ススっとエプロンをつけた青年が寄ってきた。
先ほどのシチューラッシュの時に店内を走り回ってた青年だった。おそらく、産休に入っている娘さんの旦那さんだろう。
彼は俺達のテーブルまで来ると、俺とノリちゃんを交互に見遣って、おもむろに床に片膝をつき頭を垂れる。そして静かに口を開いた。
「先の戦争で、あなたのおかげで生き残れました……っ! 父とも仲直り出来たし、子供の名前もつけてもらえることになりました。 ノエルと…… 愛する妻と再び会うことができたんだっ!」
片膝を突いて頭を垂れる。
それはこの国において、最大限の謝意や敬意や感謝の気持ちを顕す動作であり、相手に全ての決定を委ねるという自発的従属を表す所作でもあった。
青年は肩を震わせて嗚咽交じりに語る
「ずっとお礼を言いたかったんです…… 本当に感謝しているんだ……っ! せめて店に来てください、せめて僕に支払をさせてください。単なる軍人なので大層なことは出来ないけど、せめてそのくらいはさせてください!」
さっきとは打って変わって、しん と静まりかえる店内。
一人残らず全員の客が俺達に注目していた。仮にも、男がその動作をとったからには、相当な想いを胸に秘めていることは確実で、そんな告白は酒が入ったからといって茶化してよい話ではないのだ。
ノリちゃんが一人きょとんとしている。
俺は普通ならば、注目されるような事は避けたいから人違いですとか、勘弁してくれとか言っている場面なのだが、今回ばかりはそういう気分にならなかった。
決して、ノリちゃんが褒められているからではない。失う事の恐怖を、会えなくなる事の絶望を俺は知っているからだ。
彼が現実としてどんな地獄を見たのか俺にはわからない。だがそれでもわかる事はあった。
おそらく彼はあの地獄で更なる地獄を垣間見たのだ。死にそうな目にあって、死んだら具体的に何が起こるかを想像する時間があって、不幸にもその先に想いを馳せてしまったのだ。
死ぬことが怖かったわけではない。失う事が怖いと思ったからこそ失わなかった喜びに、その原因となったノリちゃんに対しこんなにも崇敬を示しているのだろう。
店内誰もが事の成り行きを固唾を飲んで見守っている状況。
そんな中、ノリちゃんは満面の笑みを浮かべて言った。
「あえないのはかなしいので、ノリはあえてよかったとおもいますっ!」
ふぐっ と涙を滴らせる青年の肩を、シエルさんが苦笑しながら叩いて彼を立たせる。
顔をくしゃくしゃにして、不様にも鼻水と涎を垂らして涙を流すその姿は、傍から見たら情けなくみっともない姿に見えるのかもしれない。
しかし争いが絶えず、横暴がまかり通るこの世界だって人は捨てたものじゃない。誰一人として彼の醜態を馬鹿にする者がいないのがその証拠だ。
「ちょっと休んどきな」と背中をさするシエルさんは本当の母親のようで、なぜか俺はギュッと胸が締め付けられた。
ノリちゃんに目を向けると、単純にシチューを目の前にしてキュイキュイ鳴いている。
俺は失いたくない目の前の家族の頭を撫でると、二人で『いただきます』をした。
◇ ◇ ◇ ◇
さーて、今日も元気に稼ぐか。
昨日は結局、オルテナは来なかった。
オルテナも女の子だ。いつも来る子が突然来なかったりすると心配になったりするものだが、不思議と胸騒ぎといった類のものは感じない。
元々、彼女が恐ろしく強くて、そんな心配が必要無いということもあるが、直感的に心配無いような気がしていた。
朝、普通に起きてギルドに行く準備をする。ノリちゃんも朝ごはんを食べて元気に飛び回っていた。毎朝の光景だ。
「ノリちゃん行くよー」
「はーい!」
パタパタ飛んできた彼女を頭に乗せてドアを開けようとした時、唐突に外からカギが開けられた。
大家か!! と一瞬身構えるのは悲しい習性だった。
だが、恐怖で瞑ってしまった目を薄く開いた先に立っていたのは、この世の終わりみたいな顔をしたオルテナだった。
「昨日は…… ごめんなさい……」
ぎゅっと引き結んだ厚めの唇から押し出された謝罪の言葉。
体をプルプル震わせ、前髪に隠れて見えない目はきっと潤んでいるに違いなかった。
俺は言われなくても知っている。彼女は理由も無く約束を破るような子ではないことを。
しかも、そもそも井川家の日常生活を善意で支えてくれている彼女を、たった一度のミスで責めるとか、俺はそこまで偉くなった覚えはない。
「何か理由があったんだろ? 謝る必要なんてないさ。そうだよねノリちゃん?」
俺がノリちゃんに話を振ると、オルテナはビクッと震えてノリちゃんに縋るような目を向けた。
「ざんねんだったけどなー そんな日もあるってあるじがゆったー」
「……ふぇ……っ」
やっべ、オルテナさん泣きそう。
俺は焦ってオルテナの肩をバンバン叩いた。
こういう場合、俺の拙い経験則から導き出すと「気にすんな」とか「大丈夫だよ」とか、純度100%の気遣いをすると逆効果だ。彼女は不甲斐無いと自分を責め、さらに感情を高ぶらせてしまうだろう。
彼女の涙腺は明らかに手抜き工事なダムで出来ているので、これ以上刺激すると簡単に決壊してしまうに違いないのだ。
「オルテナ、俺達は結局シチューを食べれた。ノリちゃんはお前がいなくて寂しそうだったけど、そういう日もあるんだってことを知るいい機会だったよ」
「だったよー」
すると、オルテナはさらに唇を固く引き結び、高速瞬きを始めた。おそらく涙腺に土嚢を積み上げている真っ最中だ。
あらホントに可愛い生き物ね。
俺は不謹慎にも若干和みながら彼女の言葉を待った。
「すまない。理由はまだ言えないんだが、しばらくご飯を作りに来れないかも知れない。本当にすまない!」
頭を下げて再度謝罪をするオルテナさん。
すまないって言われても、元々彼女の義務でもなければ俺が要求する権利だって無い。理由とやらが少し気になるが詮索はすまい。誰だって言いたくない事の一つや二つあるのが人間だ。
もし、オルテナに良くない事が起こっているのだとしても、彼女は仮にもSランカーだ。自分で何とかするだろうし、本当に助けて欲しい時は自分から言ってくるだろう。
俺だって彼女とそのくらいの信頼関係は築けているつもりだ。
「オルテナ、気にすんなよ。そういう事もあるさ」
都合の悪い時なんていくらでもあるし、そのことに物言う筋合いだってない。
だがノリちゃんにとってはそうじゃなかったようだ。
これだけ一緒にお話したりお風呂に入ったり遊んでもらったりしたのだ。寂しくないわけが無い。
ノリちゃんはオルテナの事を優しいお姉ちゃんだと思ってる節があるので、それはしょうがない事なのかも知れなかった。
「ノリなー ノリおるねーとあえないの……?」
俯いて今にも泣き出しそうなノリちゃん。
「そ、そんなこと無いぞノリちゃん! 少しの間家に来れなくなるだけだ。いつでも会えるぞ!」
「ノリちゃん、オル姉ちゃんにはオル姉ちゃんの事情があるんだ。オル姉ちゃんも我慢してるんだからノリちゃんも我慢できるかな? あるじは良い子なら我慢出来ると思うなあ」
するとノリちゃんはハッと顔を上げて断言した。
「ノリがまんします! ノリはよいこなので!」
そんなノリちゃんをオルテナがギュッと抱きしめる。頬ずりをしながらごめんねと呟く姿は、まるで子供を置いて家を出ていく妻のようで、何だか俺がダメ亭主のような気がした。根拠なき罪悪感が俺を苛んで微妙な気分になる。
「オルテナ、本当に困った時は言えよ。それを躊躇するような間柄でもないんだしさ」
「わかってる。本当に全然深刻な話ではないんだ。ちょっと時間がたてば自然に解決する種類の話だ」
すると、いつも誰よりも輝いているノリちゃんが元気に言った。
「はい! はいはいはーい! かほーはねてまてってあるじがゆった! なのでノリはねてまちます! おやすみなさい!」
日本のことわざをストレートに解釈してしまったノリちゃん。
当然の如くオルテナの頭上には???マークが浮かんでいる。
俺はだらしない苦笑を浮かべながらノリちゃん言った
「ノリちゃん寝るの? あるじは今からギルドに行くけどノリちゃんはどうするー?」
ノリちゃんは頭を押えながら、ふんいーふんいーと悩みつつも彼女らしい欲張りな宣言をした
「ノリなー ノリはあるじのうえでねます!」
思わずオルテナと顔を見合わせてふふふと二人笑う。
「それじゃ行こうか、オルテナはどうするんだ?」
「私もギルドに行く。たまには依頼を受けないとな」
俺達は3人でノリちゃんを真ん中に手を繋いでギルドに向かう。
親子みたいでこっ恥ずかしくもあるが、ノリちゃんが俺達を交互に見上げては嬉しそうに鳴いていたので、まあいいかと呟いてのんびりと歩いた。
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ゼプツィール北部に位置する王城、そしてその城門より南門まで縦断する大通りは、時間帯によっては人の波を掻き分けながら進まなければならないほどの賑わいを見せる。今はまだ午前中ということもあって、人の姿はまばらだ。
そんな大通りをドロテアが歩いていた。
あからさまに魔族な彼女が歩いているので、すれ違う人達がギョッとして振り返り、進行方向の人たちが足を止める。ドロテア本人も奇抜な格好をしているのだが誰もそこに気付きはしない。それほど魔族が人類の街を大手を振って歩くということが異常な事なのだ。
ドロテアはそんな人々の視線もどこ吹く風、悠然ととある建物を目指していた。
「……懐かしい街並み。何十年かぶり」
独り言を呟やくドロテア、彼女が足を止めたのは大通りの中でも一際大きい建物、冒険者ギルドだった。
ドロテアは数瞬だけ剣と天秤の旗を見上げ、無造作に足を踏みだす。
そして少しの躊躇も無く、ギルドの扉を開けた。
中に入ったドロテアは、背中に日を浴びながら入口で佇み周りを見渡した。
ギルド内から彼女を見ると、軽い逆光になっていて容姿の詳細は掴めない。小柄な女が入ってきて様子を伺っているので場違いな印象を持ったに違いなかった。
するとドロテアは2,3度頷いて、扉を後ろ手に閉めてからゆっくりとカウンターに向かう。
そこで初めてギルド内にどよめきが起こった。
当初は、小柄で見慣れぬ肉感的な女が入ってきたと獣欲剥き出しにニヤつきながら視線を向けていた冒険者達であったが、次第にその顔が驚愕に染められていった。
そこらじゅうで声が上がる。
「おい、魔族だ……」
「魔族がなんでこんなところに……」
「魔族? 俺は初めて見るけど物凄え可愛いなオイ」
「何だあのロリ巨乳は! 反則だろう! 何だよあの格好!」
ギルド内は混乱の坩堝だった。
ギルドを扇情的な服装で堂々と歩く銀髪の少女。
可愛い、オッパイでかい、声をかけたい、だけど魔族だ、敵意はないのか、討伐対象ではないのか。
ギルドに魔族が一人で乗り込んでくるなど前代未聞だ。だから冒険者達もどう反応すべきなのかがわからない。とてつもなく可愛いのは間違いない。だがいきなり戦闘が始まるかも知れないのだ。
困惑していたのは冒険者達だけではなかった。ギルド職員ですらどう対応すればいいのかわからずに右往左往している。
騒ぎを聞きつけたマイラが奥の事務室出てきて毅然と対応した。
「本日はどういったご用件でしょうか?」
平等に人を救うという信念を掲げる冒険者ギルド。
その信念を体現するかのようなマイラの対応に、冒険者たちは「おおっ」と感嘆の声を上げる。
するとドロテアは事も無げに言ってのけた。
「……娘の職場見学に来た」
「え?」
初めてマイラが困惑を見せるも、それは当然だろう。
目の前の少女はどう見たって15,6歳の少女だ。その娘が冒険者ギルドで仕事をしているのだと言う。
長寿の種族にはよくあることとはいえ、それでも彼女は幼い。ギルドで働けるような歳の娘がいるとは思えなかった。
「ここのギルドで娘さんらしき職員はいないと思いますが……」
「……職員じゃない。娘は冒険者」
それで首肯しかけたマイラだったが踏み止まった。
確かに魔族がギルドの職員になれるわけが無い。高度の機密情報を扱う事もあるギルドで働くには素性もしっかりしていなければならない。そうそう簡単に敵性勢力が入り込めるような組織ではないのだ。
かと言って、知っている限りでは、ここを利用する冒険者に魔族など見たことが無い。そもそもそんな目立つ存在がいたら気付かないハズがないではないか。
マイラは目の前の魔族に対し警戒を高める。何かよからぬ目的で訪れたのかも知れないのだ。
「差し支えなければ教えていただきたいのですが、娘さんとはどなたのことです?」
「……オルテナ、娘の名はオルテナ・レーヴァンテイン」
そこでマイラは衝撃を受ける。
あの忌々しい女が初めてこのギルドに来て名乗る時、何と言っていた? 荒唐無稽な妄言を吐いていなかっただろうか。
何を言っているんだと鼻で笑ったその台詞を、記憶の隅から引っ張り出して背筋に悪寒が走る。
そうだ、あの女はこう言ったはずだ。
―――私はオルテナ・レーヴァンテイン。夜魔族の生き残り、魔王の娘だ
驚愕に目を見開いて目の前の魔族を見つめるマイラ。
「ならばあなたは……」
するとまたしても彼女は何て事も無いといった風に言ってのけた。
「……私はドロテア・レーヴァンテイン。魔王をやってる」
瞬間、恐ろしいほど静まり返るギルド内。
今日、今、この瞬間。
魔境と接する国ゼプツェン皇国、魔獣と相対する最前線拠点たる、ここ冒険者ギルド・ゼプツェン支部ゼプツィール本部に
遥か古より人類の仇敵であり続けた、最強、最悪の存在。
【魔王】が降臨した。




