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異世界最強は大家さんでした  作者: つよぐち2号
13/59

拳鬼襲来④


 オレは城壁西門を抜けイサオちゃんの背中を捉えた。

 暗部の人間はいつの間にか消えており、外まで尾行するつもりは無いようだ。

 イサオちゃんとオルテナさんの向かう方向からグリーデルの丘に行くのだとアタリをつけ、丘の南側へと先回りする。この辺は遺跡が多く、目につかないように移動するにはうってつけだ。


「さーて、マジ何が起こっちゃう感じ?」


 馬鹿でかい円柱に隠れて頂上の様子を伺うと、前衛的にパンツ着こなし、パンツを被って胸当て下着を装着している変態がいた。


「ちょ、マジ! アレが【拳鬼】! ヤッベ拳鬼マジパネェ! 超ウケルんすケド!」


 あまりのフリーダムっぷりに尊敬の念すら覚える。

 オレは思わずプフーッ! と噴き出してしまうが、何とか気付かれずにやり過ごした。

 しばらくするとイサオちゃん達がやってくる。数度のやり取りを経て、オルテナさんがこっち側に移動してきた。何気に近くてバレないかドキドキする。

 すると、突然イサオちゃんの足元が爆発したかと思ったら、拳鬼に切りかかっていた。

 

「す、スゲェ…… ガチヤベェよこれ……」


 オレは絶句する。

 目で追えたのは奇跡だ。いや、正確には追えていない。

 ある程度離れた距離から俯瞰しているから結果を見ることが出来ただけだ。


 初撃、矢などより数倍も速く接敵したイサオちゃんの大上段

 拳鬼が拳を振って剣筋を逸らす。あの斬撃の剣の横っ腹を殴ったのだ。イカれてる。

 逸らされ地面に刺さる剣、するとイサオちゃんは刺さった剣を軸に体を捻り回し蹴りの要領で、右足踵で拳鬼の側頭部を狙う。

 それを仰け反って躱した拳鬼に向かって、今度は回転そのままに地面から抜き放った剣を横に薙いだ。拳鬼が後ろに飛ぶ。

 躱し切れなかったのか、ピッと拳鬼の右胸に傷が出来て血が流れ始めた。

 

「マジ人間の戦いじゃねーってマジで……」


 あのスピードで連続攻撃を仕掛けるイサオちゃんも尋常じゃないし、それをちょっとした切り傷一つで凌いだ拳鬼も化け物だ。

 オレは常識の埒外で戦う二人に軽い恐怖を感じながら、もし最後の斬撃で、肩にかけたパンツが切断されていたらどうなっていたのかを想像し、さらに恐怖した。


 オルテナさんなどはもうこちらに気付く気配すら感じられない。完全に魅入っているのだ。

 剣士としてはまた感じ方が違うのだろう。初撃のやり取りだけで、それだけのものはオレにも十分感じられた。


 次に仕掛けたのは拳鬼、イサオちゃんと同様に足元を爆散させ接近して右拳を突き出す。何やら「パンッ」と乾いた破裂音がした。イサオちゃんはこれを辛うじて回避するも、右耳を押えて一瞬フラついた。衝撃波にやられたのだろうか。

 拳鬼はこれを見逃さず左フックでイサオちゃんのボディを狙うもバックステップでこれを躱した。

 

 両者ニヤリと笑うと再度激突、もうそこから先は何が起こっているのか、オレには視認出来なかった。

 両者が互いの距離で撃ち合い、躱し合っているのはわかるが残像しか見えないのだ。

 二人の射程範囲内には暴風が吹き荒れ、羽虫一匹も逃れられない。それは完全なる死の領域だ。

 

 そして時々「パンッ」と乾いた音が鳴り響く。

 オレは知っている。ムチ使いが高速でムチを振るうと鳴ったりする空気の音だが、剣や拳で鳴らすなど聞いたことも見たことも無い。

 

 会話など一つも無い。相手を殺すため、ただそれだけの為に淡々と剣と拳を振るう。

 そんな常人では決して手の届かぬ領域で闘う二人を見て、オレの中に湧き上がった感情は、嫉妬でも羨望でもなく、「感動」だった。 


「マジでカッケーよ…… マジ今夜だったらマジ抱かれちゃう系……」


 美しかったのだ。美など介在する余地のない殺し合いのはずなのに、一点の曇りも無い研ぎ澄まされた攻防が、涙が出るほど美しかったのだ。

 俺はあまりに美しい闘いに、魂が引き寄せられるかの様な感覚を覚えて、まるで闘う恋人の勝利を祈る少女の様に魅入っていた。


 だからなのだろう、オレともあろう者が有り得ないミスを犯す。目の前の光景をただ陶然と眺めているだけで、本来の目的を忘れて不穏な気配に気付かなかったのだ。

 

 西側の斜面上空に突如として浮かび上がる非対称立体変形八芒星。それに気付いた時にはもう全てが遅かった。


「オイオイオイ…… マジシャレになってねーっての……!」


 オレはその魔法陣を見て血の気が引くのを感じた。

 焦ってチラッと二人を確認するも気付いている様子はない。俯瞰できるオルテナさんすら気づいていない。


 マジふざけんな、あれは……っ! 

 やりやがった、あいつらマジでやりやがった!

 最初からマジこれが狙いか! 最初からイサオちゃんをマジ殺しの方向でっ!

 

 

 そりゃ主要戦力が東に張り付いていたらこんな超広域殲滅魔法をぶっ放しても安全に離脱出来るはずだ。合同会議で指定された禁呪を堂々とカマせるわけだ。

 教会の連中は、権威を盾にして知らぬ存ぜぬで押し通してくるだろう。絶対にだ。


 我に返って西側の気配を探ると、5人10人では利かない戦力が集まっている。50人はいるだろう。それでもこの魔法を使うには足りないはずだ。詠唱者が死ぬだけで発動など出来ないハズだ。

 ならば一体どうやって発動させたのだ。

 いや、それはどうでもいい、現実にもう発動されてしまっているのだ。 

 

―――ヤバイヤバイヤバイヤバイ……っ! これはマジでヤバイ!

 

 すると予想通り、前触れなく魔法陣が霧散した。 


―――来るっ!


 気付いたら叫んでいた。

 


「イサオちゃん! 上だっ!!」






□□□□□□□□□







「イサオちゃん! 上だっ!!」



 その声が耳に届き、俺はとっさに後ろに飛び退った。なぜここにチャラ男がいるかは知らないが、俺は素直に上を向いた。そして絶句する。


 それは夜空を埋め尽くす光の壁。

 正確には壁と見紛うほど膨大な数の光の槍。

 弩級超広域殲滅魔法サギタ・マキナ(神々の怒り)


 ―――禁呪じゃねえか! 


 それもその中でも超がつくほど凶悪な代物だ。

 ひと度発動されれば、数kmの範囲に亘って際限なく光の槍が降り注ぐ。それはもう空から光の壁が落ちてくるのと同義だ。回避など考えるだけ時間の無駄だ。

 拳鬼も呆然と上を見ていた。


「くそっ! ふざけんなっ!」

 

 そもそも凶悪な魔法なのに聖魔法であることがそれに拍車をかけている

 聖魔法の攻性魔法は、光属性防御魔法以外だと、よほど強力な結界や障壁を張らない限り、それらをすり抜けて(・ ・ ・ ・ ・)対象に襲い掛かる。

 俺は聖魔法は使えない。だからこれだけの規模になると俺の常時展開障壁でももつかどうかは解らないのだ。


 それに何よりも効果範囲が広すぎる。間違いない、回避不能攻撃という言葉はこの魔法のためにある。

 俺一人ならいい。全力でさらに障壁を張れば何とかなる。だけど今はそうじゃない。なぜなら……


「クソったれ! 街も効果範囲に入ってやがる!」


 城壁外と言っても1kmと離れていない。

 迷っている暇は無かった。誰が攻撃してきたか、誰を攻撃してきたか、今はそんなことどうだっていい。俺は多分なんとかなる。拳鬼は勝手にしたらいい。

 だけどこのままでは大勢の市民が死んでしまう。

 だから俺は即座に大規模結界の詠唱に入った。無詠唱で出来る範囲は完全に超えていたのだ。

 見る見る間に落ちてくる光の天井。焦りで舌を噛みそうになる。 

 

―――間に合え! 間に合ってくれ!


 普段慣れていない詠唱が、着弾まであと数秒という所でなんとか発動に成功し、ゼプツィール西側数kmに渡って緑の紋様が浮かんだ。

 

 間に合った、これで街は多分大丈夫だ、大丈夫であってくれ。

 後は運を天に任せて俺が耐えるだけだ。

 俺は街の結界発動をこの目で確認して振り返―――


「オル……」


 その事実に俺は言葉を失った。

 振り返った際に視界を掠めた俺の仲間、黒の巫女

 彼女は阻害結界以外の魔法が使えなかったんじゃないか?

 魔力筋はあくまで身体能力向上の切り札であって、障壁にはならないんじゃなかったのか?

 例え様も無い怖気が俺の背中を這いずり回る。

 着弾まではもうわずかだ。 


 その時、呆然と上を見上げていたオルテナがこちらを見た。

 彼女が困ったように何かを呟く。「イ・サ・オ」と唇が動いたような気がした。

 そして轟音と共に、光に包まれる世界。



「オルテナァァァァァァッッ!!!!」


 俺の叫び声は光の波に掻き消され、誰にも届かない。

 天より飛来する幾千幾万幾億の神の槍が

 無情にも抗う手段を持たぬ少女の頭上に、容赦無く降り注いだ。

 



 


□□□□□□□□□□


◇ ◇ ◇ ◇







「ぐえぇぇぇっ」



 最終的に完全には防ぎ切れなかった。

 俺は体の芯から来る痺れに耐えられず、膝を突き胃の内容物をビチャビチャとぶちまけた。

 

「どうなった……っ」


 口元を拭って周りを見渡してみる。

 あたりは土煙がもうもうと立ち込め、数m先を見通すことすら出来なかった。

 俺はフラつきながら立ち上がると、足がもつれて地面にズシャっと倒れ込む。

 うつ伏せのまま土煙が消えるを待った。


 しばらくすると、東側から風が吹き込み、徐々に視界がはれてくる

 乱立する遺跡群は跡形も無く消え、地形が完全に変わってしまっているようで、乾いた笑いしか出てこない。


 何とか立ち上がり声を上げる。


「オルテナっ! どこだっ! 無事かっ!?」


 返事は無い。

 押し寄せる絶望感を振り払いながら、彼女がいた場所へと歩を進める。

 一際強い東風が吹き、あたりの全様がようやく確認できるようになって、俺は堪えきれずに涙を流した。


「オルテナ……」

「ゲホッ ゲホッ」


 生きていた。


「よ、よかった……、い、生きて……っ!」

「ゲホッ 煙が、ゲホっ 凄くて、返事が」


 多少ダメージを受けているようなので、すぐに回復魔法をかける。

 光の結界で光属性の攻性魔力を防げたとしても、飛び散る土砂や石礫は防げない。物理障壁が無いためダメージを受けてしまったのだろう。だがそんなものはどうでもいい。

 そう、直撃弾を防いだのだ。防ぐことが出来たのだ。なぜならば


「チャラ男ぉぉ…… ありがとう! ホント…… ありがとうぅぅぅぇ……」

「おおっとぉ! マジイサオちゃんマジ泣きモード突入しちゃった系!?」

 

 泣いちゃう? マジ泣いちゃうのねえマジ泣いちゃう系? とかはしゃぐチャラ男。

 いつもはイラっとする言動も、今は感謝の念しか浮かばない。


「いやーガチンコ決闘だと思ってマジ黙ってるつもりだったんだけどさー、マジシャレになんねーわコレ っつーか拳鬼っちはどうなった感じなのマジ?」

「ええ? 知らんよ」


 ざっと周りを見渡した感じ、拳鬼はいなかった。魔法が使えないとしたら生き残れるだろうか。おそらくはどこかで気絶してるだけだろうと思った。

 なんせ強化無しに俺とやり合うあのデタラメな肉体の持ち主だ。

 もう拳鬼に対する怒りは無くなっていた。

 ヤツは完全に利用されてしまっただけということに気付いたのだ。

 俺は、西側から現れた集団を見て、そう確信した。悪いことをしたなとは思うが、変態だから別にいい。変態じゃなかったとしても、今は置いておこう。それよりも重大な事がある。

 俺はそいつらを睨み付けた。


「おや、今ので生きていましたか、さすが悪魔はしぶといですね、忌々しい」


 口を開いたのは白いローブの優男。無駄にイケメンで少しムカついた。

 男の隣には、どこかで見たことのある派手な身なりの男が下卑た笑いを浮かべており、整っているであろうその顔を台無しにしていた。

 少し離れたところに50人ほどの集団、ほとんどが灰色のローブを羽織っているが、中には二人ほど真っ白のローブを着ている者がいる。そこで俺は違和感に気付いた。


 ―――あの魔法をこの程度の集団でどうやって……


「腑に落ちない顔をしてますね? 答えはこれですよ」


 そう言って白ローブが取り出したのはルビーよりも赤くそして暗い歪な石。俺は舌打ちする。

 離れたところにいる集団がもしそれを持っていたら迂闊に動けない。


「おお、やはり知っているみたいですね。そうです聖魔石ですよ。まだまだ数がありますので、先程の規模は無理でも、まあ何度でも撃てますよ?」


 吐き気がした。

 何が聖魔石だクソったれ。

 教会に立てついた人たちのなれの果てだろうが。

 腹の底からふつふつと湧き上がってくる怒り。


 人の命を固めた物を嬉々として語る腐った神経がムカつくし、

 自分達の勝利を確信して聞いてもいない事をペラペラしゃべる余裕がムカつく。

 何よりも、俺の大事な仲間や大勢の市民まで巻き込んで範囲攻撃を仕掛けてきたことに耐えがたい怒りを覚える。


 こいつらは解っていない。世界最強クラス、元【勇者】の戦闘力が解っていない。

 ここまで近づいてきてくれたら紙より薄い優位性など簡単にひっくり返せるということをわかっていないのだ。

 

 それなのに偉そうに上からしゃべるこいつは間違いなく教会の人間だ。

 こいつらは自分たちの正義を絶対視して、今から殺す相手にも自分たちの正義を説き、知らしめてから殺そうとする。自分を神だと勘違いしてるとしか思えない傲慢な態度。それで得られた単なる自己満足を信仰と勘違いしている救いようも無い外道だ。

 

「っつーかマジ外道じゃねおめーら」

「チャラウォード・カラドボルグ、黙りなさい。あなたは神を裏切るのですか?」

「いやマジオメーらに関係なくね? オメーらの正義マジダセーんすけど」

「まあいいでしょう、あなたもここで死ぬのだから」


 チャラ男が聖魔法を使えるのはなぜか少し気になっていたが、そういうことだったか。

 お前も大変だなと苦笑を送ってやる。この期に及んでもヘンテコポーズをしてくるチャラ男に俺は心から和んだ。


 さて、チャラ男のことは置いておこう。お仕置きの時間だ。


 圧倒的スピードで一気に制圧しなければならない。手間取るとさっきのがまた飛んでくる。

 正直俺はもう一発喰らって立っていられる自身はない。

 だから速攻で目の前の男と、少し離れた集団を蹴散らさなければならない。オルテナの協力が必要だった。

 俺は目で合図をするためにオルテナに視線をやる。そして立ち上る不穏な気配に首を傾げた。

 

 すると彼女は俯いたまま、まるで獰猛な獣が唸る様に低くザラついた声音で語り出す。

   

「貴様ら、罪の無い人々を巻き込むとわかってあの魔法を使ったのか……?」


 突然、濃厚な暴力の気配を漂わせ始めたオルテナに、空気が読めないのか上から目線を変えない白ローブ。


「そうですよ? 何か問題でも?」

「確認させてくれ。貴様らは、無辜の民から奪う者か……?」

 

 押し殺したような声が静かに響く。

 俺はオルテナから感じたことの無い種類の殺気が立ち上るのを察し、胸の中に表現し様のない不安がじわじわと広がっていく。

 

「お、オルテナ、どうしたんだ? お前らしく―――」

「無辜の民? はて? この国にそんな者はいませんよ?」

「どういうことだ……?」

「いえ、この国は王にも魔族の血が入っているではないですか、そんな下劣な輩が統べる国の民など下等種です。家畜にも劣るのですよ?」 


 オルテナがワナワナと震えだした。

 

「たとえそうだとしても一般人から奪うのか、殺すのか……っ!」

「人ではありません。家畜や魔獣と一緒ですよ。殺しても奪ってもかまわないでしょう?」


 いっそ清々しいほどの極端な異種族排他主義論を余裕の笑みで言い切った白ローブ。

 バキッと、オルテナが奥歯を噛み割る音が聞こえる。俯いた彼女の頬が裂けるのが見えた。

 俺はそんな彼女にある種の恐怖を感じて、眉を潜めながらも今の言葉にはカチンと来たから吐き捨てる。


「じゃあその家畜や魔族より劣るテメーの神は何なんだ?」

「貴様っ! 唯一神アラウネ様を侮辱したなっ!」

 

 白ローブがわかりやすく激高する。

 ローブ集団全員が何やらお怒りなさっていた。

 だから俺は、ははっと冷笑して誤解を解いて差し上げる。 

 

「アラウネじゃねーよ、テメーの神が腐ってんなって言ってんだよ」

「貴様、後悔するがいい、神聖なる神を侮辱―――」

「後悔するのは貴様らだ……」


 それは突然だった。

 放たれた文言はまるで怨念そのもの。

 怨嗟と呪詛と呪怨を煮詰め、練り固め、剥き出しのそれを吐き出したかのような禍々しい声音

 そして彼女は暗い声で、魂が引き込まれそうなほど黒い声でボソっと呟いた。「虫め……」と。


 サーッ と、全身の鳥肌が逆立つのがわかった。

 背中にいきなり氷をぶち込まれたみたいに寒気が止まらない。

 一体彼女は誰だ? あの乙女な女の子はどこに行った?

 俺は隣に佇む彼女の顔から視線を剥すことができない。根源的な恐怖が彼女から目を離すなと警鐘をならすのだ。


「何を後悔するというのです」


 周りが見えなくなるほど盲目的な信仰。それはもう滑稽と言って差し支えない。

 頼む、頼むから喋ってくれるな。

 今目の前で何が起きてるのか本当にわかっていないのか。

 

「虫が、囀るなよ……」


 すると常闇の姫君は、裂けていた口をカパっと淫猥に開き、黒衣を纏った。そして


 ―――消えた。


 瞬間、少し離れたローブ集団の所から爆音が上がる。

 何事かと敵味方全員がそちらに視線をやる。


 オルテナが着弾していた。

 

 チャラ男がゴクリと唾を飲み込む音が聞こえる。白ローブとその横の派手な男が、これでもかというくらい目を剥いている。

 俺含め誰しもが呆然として動くことが出来ない中、

 狂気の狩りは始まった。

 

 縛る、切る、縛る、切る、縛る、切る、縛る、切る

 延々と延々と延々と、それだけを機械的に繰り返すオルテナ

 絶叫、絶叫、絶叫。それ以外の音は無かった。

 思いの外血は飛び散らない。脹脛(ふくらはぎ)をギッチリ縛っているからだ。

 俺はあまりの事に言葉も出ない。あまりの恐怖に指一つ動かせない。


「悪魔……っ」

 

 白ローブの男も絶句している。あまりの衝撃に本来の目的を忘れ先程の魔法を使うという思考には到れないようだった。


 最初は応戦していたローブ集団だが、

 犠牲者が30人を超えたあたりで蜘蛛の子を散らす様に逃げ出した。

 するとオルテナから放たれる移動阻害結界。


 追われる羊が結界に張り付き、叫び声をあげながら見えない壁をドンドンと叩く。

 攻性魔法をぶち当てて壊そうとする者がいるが、魔法は見事にすり抜けてしまった。

 絶望色に顔を染め上げた生贄に、彼女は背後から接近し、その脹脛に緊縛(バインド)をかける。そしてまるで枝でも掃うかのように足首を切断した。


 するとオルテナはその男のフードごと髪の毛を掴むと、おもむろに放り投げる。

 上部には作用しないタイプの結界なのか、ソレは放物線を描きながら俺たちがいる場所にグシャリと落下した。

 もうピクリとも動かない人であったソレから視線を放せない俺たちを余所に、彼女は倒れて呻いている男たちを次々と放り投げ、次々と俺たちの目の前に積み重ねていった。

  

 断続的に上がる絶叫、そして目の前から響く衝突音。鈍い呻き声。

 彼女が獲物を全て狩り終わった時には、俺たちの目の前にローブの男たちがピラミッドのように堆く積み上げられていた。

 

「お、オルテナ…… お前、何を……」


 ゆっくりとこちらにやってくるオルテナを呆然と見る。

 

「あ、悪魔……」


 白ローブが呻く。

 語彙に乏しいなとは思わない。俺もそう思うからだ。なぜならば


「なんて顔してやがる……」

 

 いびつに歪んだ頬、肉感的な唇は獣の様にめくれあがり、限界を超えて吊り上った口角とだらしなく垂れ下がった目尻がくっつきそうだ。

 真紅の瞳は瞳孔がかっ開き、もう何をその視界に収めているかもわからない。

 夜叉女がそこにいた。


「く、来るなっ! 悪魔め、来るんじゃないっ!」


 白ローブはもう後退ることしか出来ない。

 横にいた派手な男は尻もちをつき失禁していた。


「お、オルテナ! やめろっ!」


 無意識だった。反射的に俺は叫んで飛び出して間に入っていた。

 

「イサオ、火を貸してくれないか? 虫を燃やさなくてはならないんだ……」

「やめろ! 目を覚ませ! 一体どうしたんだよっ!」

「害虫駆除をしているだけだ。イサオ、そこをどけ、虫が逃げる」

「やめろって言ってるんだ!」


 俺だって必死だ。

 背中からは滝のように冷や汗が流れ落ちる。

 するとそれを嘲笑うかのようにオルテナの歪んだ目がスウッと細まった。


「邪魔、するのか……? あなたも虫の仲間なのか……?」


 違う。そうじゃないんだとの言葉が、乾きすぎた喉に詰まって出てこなかった。

 だらりと下げた血まみれの黒剣を手に近づいてくるオルテナ

 今の彼女は正気ではない。

 

 俺は彼女が発する本気の殺気に中てられ後退しそうになるが、歯を食いしばって踏み止まった。

 頭の中、「逃げろ、退けろ」と最大級の警戒音がけたたましく鳴り響く、底知れぬ恐怖で足は震え、頬が引きつり、喉は完全に水分を手放した。

 だが、俺は引くわけにはいかない。彼女は俺の大事な仲間だ。

 綺麗ごとを言うつもりはなかった。この世界の価値観に従う彼女を否定するつもりもサラサラなかった。だけど……


「殺すのはいい、俺は止めない! 俺は否定しない!」


 誰もが幸せになれる方程式なんて存在しない。

 この世界には勝つか負けるか、生きるか死ぬか、笑うか泣くか。そんなシンプルな要素しか落ちてはいない。

 ならば限りある選択肢の中で今、この状況で俺は何を選ぶべきだろうか。

 俺は言わなくちゃならない。そう思った。


「俺を見ろオルテナ! 俺の目を見ろ!」


 求めるモノ全てを掴むには、あまりにこの手は小さすぎる事を俺は知っている。

 ならば譲れるものは全て譲るさ、所詮俺は力だけの小さい人間なのだから。

 だけどそうやって残ったものだけは、みっともなくても滑稽でも守り抜く。

 勝ち目など無いとわかっていたとしても、無い知恵搾って立ち回ってみせる。

 なぜなら、そうしなければ、きっと俺は俺でなくなってしまうのだ。

 だから足を止め訝しげに俺を見るオルテナに向かって言い放つ。

 

「見えるだろう、今お前がどんな顔をしているかが……っ!」


 殺すのはいいんだ。

 ここは日本じゃない。殺さなければ殺される。そんな理屈が当たり前に通る世界だ。 

 ここはゲームの世界でもない。リセットも出来なければ生き返ることだって出来やしない。

 だから俺は否定しない。殺すお前を否定しない。だけど……


「そんな顔するなよ……」

「~~っ!」


 オルテナの瞳が揺らめき、悲しそうにくしゃりと顔を歪ませる。

 こんなあまりにも単純な一言だけで、だ。

 彼女に過去何があったかなんて俺は知らない。

 だけど俺は知っている。

 元々、彼女はこんな大それたことなど出来ない、不器用で優しい女の子なのだ。


「オルテナ、殺すのはいい。だけどそんな顔をするな。お前は変態に腰抜かしたり、嬉しそうに掃除をしたり、そんな女の子だろう」

「で、でも! 私はっ! 違う、だってこいつらは、私のっ!」

「いいから剣を下ろせ、もういいんだオルテナ」

「でもっ でもっ!」


 今目の前にいるのは、今にも泣き出しそうな顔をした女の子

 よかった。本当に良かった。それがお前じゃないか。

 俺は無性に気恥ずかしくなって、軽く俯きポリポリと頭を掻いた。

 そしてオルテナの肩を叩こうと一歩踏み出した時、


「あ、悪魔共めっ! 許さない! 貴様らのせいで俺はっ!!!」

 

 今の今まで尻もちをついて脅えていた派手な男が罵声を上げる。

 そして背中を見せる俺に向かってファイア・ランスを放ってきた。


「――っ!」


 唐突な攻撃に直撃を許してしまう俺。

 爆音が鳴り響き、炎が俺を包んだ。

 

「死ねっ!悪魔め! 下等種めっ! 死ねぇぇぇっ!」


 絶叫する派手な男。

 俺は焦った。不意打ちにではない。こんな屁みたいな中位魔法、常時展開障壁の前ではそよ風みたいなもんだ。そんなことは問題じゃない。そういう話じゃないんだ。

 俺はバッとオルテナに振り返って絶句する。


「虫が……っ」

「ヒィッ!」

「やめろオルテナ!」


 流星の如く派手な男に向かうオルテナ、暗く光る黒剣を右上段に構える。そして

 

「ヒィィィィィッッ!!」

「オルテナァァアl!!」


 夜空を切り裂くように、闇が振り下ろされた。 

 

 


□□□□□□□□□□





 一点の曇りも無い闇夜。

 中途半端に欠けた月が、申し訳程度にあたりを照らす。

 

 俺は今、泣きじゃくる彼女を抱きしめていた。

 くぐもった嗚咽を胸に受け、痛みをこらえて苦笑する。

 

「イサオ! イサオ! すまない! 私はまた……っ!」

「いいんだ、仲間だろう? 気にすんなよ」

 

 ごめんなさいごめんなさいと涙を流すオルテナ。

 左手が動かないことに気付き、右手で彼女の頭をグシャグシャ撫でる。


「お父さんが、殺されたんだ……」

「ああ……」

「お母さんが、みんなが…… おねえちゃんも、新しいお父さんも、みんな、みんな……っ! 

「そうか……」


 俺にはその闇の深さは解らない。自分の家族がそんな目に遭うなんて想像もできないし、したくもない。

 そんな地獄を見てきた彼女に言える言葉なんて無い。だから俺はただただ彼女の背中をさすったんだ。

 

  

 彼女が剣を振りおろす寸前に間に入った俺

 【闇姫】の右上段からの袈裟切りは、俺の6枚の物理障壁を突破し、左腕上腕部に深く食い込んだ。障壁のおかげなのか、それとも彼女が必死に止めたのか、俺には解らない。

 だが結果として剣は俺の左腕を切り裂いたのみで、直後に彼女は剣を放した。

 そして俺は骨まで達したその傷の痛みを端に押しやりながら、呆然と目を見開く彼女を抱きしめたのだ。

 抱きしめながら俺は、以前もこんなことがあったような気がして顔をしかめる。

 まったく、俺の人生こんなのばっかりだ。


「わ、私は、やっぱり、生きている事が許されない…… 大事な人間をも殺そうとする、そんな許されない種なんだ……っ!」


 おでこをぺしっと叩いて上を向かせた。


「種とか何とか、そんなこと許さない奴がいるなら、許されないのはきっとそいつだ」


 驚愕したように目を見開き固まるオルテナ。

 物凄い既視感を感じて疑問に思うが、おそらくは血を流し過ぎて意識が朦朧とするせいだと、一人納得する。

 俺は彼女をゆっくりと引き離し、「ちょ、回復魔法かけなきゃ死ぬっす」と言ってから左腕に回復魔法をかける。

 しばらく左腕は動かせないだろう。

 目と唇を潤ませボーっと俺を見つめるオルテナさんにドキっとするが、今はとりあえず置いておく。

 まだ俺にはやることがあった。


「じゃあ、死にたくなかったら洗いざらいしゃべれ」

 

 失禁してガタガタ震える男に向かって言い放つ。

 派手な男、よく見たらオルテナとノリちゃんと3人でご飯を食べに行った時、ちょっかいをかけてきた貴族ではないか。

 俺は、どんだけ逆恨みしてんだよとため息一つ。

 白いローブの男はいつの間にかいなくなっていた。今思い出したらこっ恥ずかしい、俺とオルテナの青春ドラマ上演中にそそくさと逃げてしまったのだろう。ちょっとした黒歴史だ。

 自嘲気味に笑ってからアリアを引き抜く。


「しゃべんないと本当に殺すよ俺は」

「話すっ! 話すからっ!」



 そうして事の顛末を聞いた俺たちは動き始める。

 途中から「マジスッゲ!」しか言わず、マジスッゲマシーンと化していたチャラ男に貴族の身柄をお願いし、オルテナにはクルルちゃんの救出をお願いする。

 

 そして俺は一人、全力のスピードでザンボア原野に向かう。

 2か月前の規模ならば、うまく立ち回るだけでなんとかなるだろうと甘い希望を抱いて。

 


   




 

◇ ◇ ◇ ◇








 闇より深い黒が夜空を滑空する。

 全てを呑込むかのような漆黒、そしてその上に鎮座するのは神々しいまでの白。

 黒は、震えがくるほどの歓喜に高く啼いた。


「エルマキナ様、どちらに向かいたいので?」

「ノリだお。ノリはあるじをやくだつたいです!」


 ゼプツィール遥か上空を飛ぶカルヴァドス。翼を広げれば30m近くもある彼の背中に、ノリはちょこんとお行儀よく座っていた。

 

「エルマキナ様、なぜあのような淫じゅ…… イサオ殿を手伝うのです?」

「ノリです。あんなー あるじがなー 『はたらかざるものくーべからず」てゆってなー ノリ『くーべからず』かもしれんくてなー」


 『働かざる者』という概念も『食うべからず』という概念も、正直ノリにとってはサッパリだ。

 だが何となく『くーべからず』が良くない子だということは薄々感じていた。

 と言っても、彼女はまだまだモノ知らぬ幼竜。傍から聞いていても、イサオがノリに向けて言った言葉ではないのは明らかだ。

 

「ノリは、はたらかざるものになります!」


 がおー

 

 用法も単語も完全に間違っているが気持ちはわかる。

 それに、大変な場面に遭遇しているかもしれないイサオを助けたい、何か与えたい。という彼女の純粋な欲求は、この(ことわざ)が戒める怠惰とは全く無縁の感情だ。

 しかしここに一人、そんな健気な主君に感銘を受ける者がいた。


「ご立派です! ご立派ですぞエルマキナ様っ! 不肖カルヴァドス、今宵はエルマキナ様にどこまでもお供いたしますぞ!」

「ノリです! でもなー ノリどこにいけばいいかわからんかもしれんくてなー……」

「――っ!」


 しょんぼりと項垂れるノリ。

 わたわたとカルヴァドスが慌てる。

 

 そもそも彼はイサオの助けになど行きたいとは思っていない。

 そんなことより、畏れ多くも敬愛する主君を背に乗せ空を飛ぶという、無謬のひと時を一秒でも長く噛み締めていたいというのが本音だ。幼い主君に嘘とまでは言わないが、それらしい事を言ってずっとこのまま空中遊泳をしていたかったのだ。

 

 だが、神にも等しい主君が悲しげに俯いているのを見て、それでも己の我欲を優先するというのなら、それは決して許されざる蛮行だ。理由や事情など関係ない、そのような者には死の制裁が与えられなければならないし、たとえそれが自分であっても変わらない。

 忠実なる(しもべ)である彼にとって、それは看過できない事態であると同時に耐えがたい不名誉であった。


「淫じゅ…… イサオ殿は冒険者ですので、それならば今は東におられると思いますよ。今、東は魔獣大侵攻により、多くの冒険者が集まっております」


 私はこんなにも役に立つ下僕です、御傍に置いていただけないでしょうか? という様子のカルヴァドス。

 そんな彼に対し、ノリは小首を傾げて言った。


「ひがしはみぎですかひだりですか?」


 空を飛んでいる最中にも関わらず、恭しく頭を垂れ、心酔する主君に上申する。


「右です。東は右ですよエルマキナ様」

「ノリってゆった! ではノリはみぎにいきたいです!」

「御意!」


 カルヴァドスは、左に90°旋回すると東に向かった。


「めぇ~! どらごんさん、いまひだりにいったー! ノリはびっくりしました! ノリはみぎにいきたいです!」


 カルヴァドスは、右に360°回転して東に向かった。






□□□□□□□□□




 天駈連隊の山場は過ぎた。そもそも空を飛ぶ魔物はそれほど多くないし、機動力もあるので、戦闘開始直後が一番の正念場だった。

 それを乗り切れば後からやってくる魔獣は微々たるもので、上空の戦力を脅かすまでにはなっていない。今は地上から時折放たれる攻性魔法に注意していれば墜とされることはまずないだろう。

 だからこそ良く見える地上の様子


 上空から見る地上は地獄絵図だった。

 

 それはもう戦闘などではない。

 捕食だ。強者による捕食が繰り広げられている。


 一度は崩壊した戦線。

 それでも精強なる我が軍と勇敢なる冒険者たちは立て直した。魔獣どもを全滅せしめた。

 勝鬨を上げる者までいたのだ。戦いは勝利寸前だった。

 だが、直後に現れた魔獣たち、ヤツらは桁違いの強さだった。


「撃て! 撃てぇ! ちくしょう! 撃たなきゃみんな死ぬぞ!!」


 隣の部下が、もう魔力など尽きているというのに、生命力を削って地上へと魔法を行使している。このまま撃ち続けると気絶し、治療が施されなければそのまま死ぬだろう。

 

「くそ!止まれ! 止まれぇぇぇぇっ!!!」


 周りを見ても皆似たようなものだ。空から魔獣の陣営に向かって雨あられと降り注ぐ攻性魔法。生命力まで削って攻撃しているのに、敵の損耗は泣きたくなるほど軽微だった。

 今や安全地帯となった空から全力で打ち下ろしてこれなのだ。地上の兵力は一体どうなっているだろうか。想像もしたくない。このままでは全滅は必至だった。


 連隊長はヘカトンケイル2体を葬り去り、瀕死のところをワイバーンに墜とされた。もう生きてはいないだろう。

 連隊長がいない今、副官であった私が指揮権を握っている。

 どうする、どうしたらいい、このままでは皆死んでしまう。


 とうとう私も魔力が尽きた。どうすべきだろうか。削るのか? 戦死覚悟で生命力を削るのか……?

 どうする、どうしたらいいっ! 神よ! 教えてくれ! 

 守るべき街で、パン屋を経営している夫

 人気店になっても弛まぬ努力をつづける真面目な夫

 可愛らしい幼竜が美味しい美味しいとジャムパンを食べるんだと嬉しそうに語る優しい夫

 君だけを愛していると言ってくれた、それを証明し続けてくれた

 そんな愛しい人との待ち侘びた愛の結晶がっ! 赤ちゃんがお腹にいるんだっ!

 

 死ぬ! 私だけではない、この子も死ぬ! それが正しいのか!

 わからない、わからないんだ! 誰か教えてくれ、私に教えてくれ!

 

 周りを見渡す。みな必死の形相で命を削っていた。

 ふっ と自嘲する。

 私は副官だ。死にゆく部下たちのために私は率先して死ななければならない。


「ごめんなさいトール、私は帰れそうも無い」


 ちゃんとした女性を。

 こんなどうしようもない女ではなく、我が子を道連れに死ぬような最低の女ではなく

 もっとちゃんとした素敵な女性を見つけて欲しいと切に願う。

 

「やってやる! この命尽きるまでっ!」


 私が自身の最大の魔法を行使するため詠唱に入った時、

 その声は聞こえた。



――――あるじー! あるじー!





□□□□□□□□






「くそっ! このままでは!」


 幼少期より一緒に育ってきたボクのユニコーンは、とっくに喰われた。

 涙を流す暇は無い。

 もし帰る事ができるならば、思いっきり声を上げて泣いてやる。

 だがきっとボクも、もうすぐそっちに……


 弱気に流れそうになった思考を、頭を振って払いのける。

 あまりの疲労に筋肉が悲鳴を上げる。関節が軋み、心臓は破裂しそうだった。


 これでも年頃の女の子だというのに、そこらじゅうの肌は裂け、肉と脂肪がはみ出している。

 大型魔獣の内臓を切って糞尿を引っ被ったせいで肥溜めと同じ匂いがする。

 傷口が皮一枚で済んでいるといえども、良くて炎症、悪くて腐り落ちるだろう。

 だがそれも生き残れたらの話だ。


 周りから見たら今ボクはどんな風にみえるのだろうか。

 王女ともあろうものがこんな度し難いほど汚くボロボロになってもいいものだろうか。

 カカカっ と牙を剥き出す。

 何もかもが生き残ってからの話だ。今心配する事ではない。


 それにボクは指揮官だ。

 皆ボクに命を捧げている。ボクが命を預けろと言った。

 

 周りを一瞥してみる。

 視界を埋め尽くすのは高位魔獣の群。

 耳を打つのは地響きを伴う魔獣の足音、爆音、轟音、怒号、そして絶叫。 

 こうしている間にも兵は死に続けている。

 きっと遺族はボクを恨むだろう。罵るだろう、いつかその罰をこの身に受ける日が来るのかもしれない。

 それでもボクが戦わなくて誰が戦うというのか。

 我々が戦わなくて誰を守れるというのか。


「一匹でも多く斃せっ! 残される人たちのために! 一人でも多くを助けるためにっ!」

 

 剣を握りしめ、疲労骨折寸前の腕を振る。ギガースを一刀両断で切り捨てた。

 するとその時だ。近くでサイクロプスを葬った近衛が絶望に顔を歪めて叫んだ。


「姫様! ドラゴンが! ドラゴンが現れましたっ!」

「ドラゴンだとっ!」


 ボクは走りまわりながら、少ない間隙を縫って空を見上げる。

 闇夜に溶け込むような漆黒のドラゴンが悠然とこちらの空域に向かってきていた。

 ボクは自分の顔が引きつるのを感じる。


 ドラゴンは魔獣ではない。知性ある孤高の種族だ。しかも力の強い希少なブラックドラゴンともなれば、ほぼ間違いなく『名付き』で筆舌に尽くしがたい力を持っているに違いない。

 最早通達も儘ならない状況で、上空の指揮官が賢明であってくれと必死に祈る。


 今手を出したら完全に終わりだ。

 ブレス一発でボク達は壊滅状態に陥るだろう。

 

 飛びかかってきた魔獣の首を刎ねて再度上空を見上げた。

 天駈連隊もそれに気付いているが、攻撃しようとする様子は伺えない。ボクはホッと胸を撫で下ろす。

 そして自然に湧き上がる疑問


「なぜだ……」


 なぜドラゴンが、よりによってこんな時にやってくる、ここに何かあるとでも言うのか。

 もしかして助けに来てくれた……

 そこまで思って、その都合のいい考えを否定する。

 

 不干渉を貫く彼らが、人がどれだけ死のうが魔獣が住処を離れようが、気にすることは無い。彼らのテリトリーさえ侵さなければ彼らは興味すら示さない。

 理由も無く助太刀など、天地がひっくり返っても有り得ないのだ。


 ならばなぜだ……?


 戦場のさなか、戦闘の短い合間、ボクが呆然と空を見上げている時、その声は聞こえた。





――――あるじー! あるじー!






□□□□□□□□

  



「な、なんだよ……コレ……」


 俺はザンボア原野の小高い丘の上から下を見下ろして絶句した。

 光源魔法によって照らされた眼下の景色は、幽世(かくりょ)がこの世に顕現したかのような地獄だった。

 そこは戦場ではない。魔獣共の餌場だった。


「俺が…… 俺のせいで……」


 俺は膝をつき、呆然とその光景を眺める事しか出来ない。

 

 嬌声にも似た断末魔がそこらで上がり、その度に魔獣が喜悦を含んだ奇声を上げる。

 確かに魔獣が斃されてもいる。だがそれは喰われる人の数と比べたらごく僅かでしかない。

 

 俺は自分でそう自覚できる程、はっきりと顔を歪めていた。泣いてはいないと思う。


 自分がこの国に存在したことで巻き起こしてしまった悲劇。

 どれくらいの人が死んだのだろうか、どれくらいの家族が涙を流すのだろうか。

 それを考えた時、足元が崩れ、奈落の底に落ちてしまうような浮遊感を感じた。

 

「ノリちゃんごめんね、もうここには住めないかも知れない」


 ケツを拭かなければ、そう思った。

 俺は夢遊病者の様にフラフラ立ち上がると、覚悟を決めて詠唱を始めた。

 

 芒星落とし(カルナ・ルーン)


 上空に無数の魔法陣を展開し、地上に向かって極大の柱を落とす。

 れっきとした禁呪だ。


 地形は変わってしまうだろう。森も相当の範囲で消滅する。

 爆発は起きない、ただただ上から下へと、魔力塊が全てを押しつぶす。

 丘の斜面に展開している何人かの魔道士系兵士や冒険者が、背後()に集まる膨大な魔力に驚愕し、こちらを見ている。

 間違いなくバレる。もしかしたら、西側の惨状も俺のせいにされるかも知れない。


 だがそれでもよかった。


 これは偽善だ。

 力を隠し続け、迫る危機を甘く見て、結果招いたこの惨劇。

 もう起きてしまったこの悪夢のような惨状を解決することで、少しでも罪悪感から逃げ出したいという浅ましい自己防衛の為せる業。


 これは欺瞞だ。

 普段から討伐依頼を避け続け、遠くで起きるであろう被害には目を瞑り、生き物を殺すのはイヤだと、エセ人格者ぶっておきながら、自身の罪悪感を軽くする、ただそれだけのために容赦なく魔獣を殺戮する。反吐が出るほど笑える話だ。


 そしてきっとその罰は受けなければならないのだと思う。

 大げさに罰といったところで、住処を無くして追われるくらい、喜んでその身に受けるべきだ。

 死んでしまった人や、死なれてしまった人に比べると、涙が出るほど軽い罰ではないか。


 俺は心の底から謝罪し、そして目の前の事実から目を逸らす準備をした。

 そして詠唱が完成する。

 後は座標を指定して呪文を唱えるだけ。

 

「ごめんな……」


 その呟きは、死んでしまった者に向けたのか、今から殺す魔獣に向けたものなのか、それとも悲しい思いをさせてしまうだろうノリちゃんに向けてなのか、自分でもわからなかった。

 

 すっと右手を上げ、東の空に向ける。そして呪文を唱えようとした時、

 ブオッっと何かが上空を通り過ぎた。

 何だろうと空を見やる。


「あ、あれは……」


 ブラックドラゴンが悠然と空を飛んでいる。天駈の兵がまるで崇敬を示すかのように割れた。

 誰もが呆然と上空を見上げていた。魔獣までもが何かを畏れるように上空を気にしている。

 俺はマヌケな面を晒して呆けるようにそれを見ていた。


 そしてその声は聞こえてきたのだ。



―――あるじー! あるじー!



 「ノリ、ちゃん……」





 





◇ ◇ ◇ ◇







「あるじいないのかも……」


 ノリはションボリしていた。耳も羽も尻尾も縮こまってしまっている。

 カルヴァドスが焦り出した。


「エルマキナ様! 聞こえないだけかも知れませぬ。何せ地上は今戦争中ですから!」

「せんそう……?」


 まるで叱られる子供の様に上目使いでカルヴァドスの顔を見るノリ。

 完全にハートを撃ち抜かれたカルヴァドスは、その邪な気持ちを隠すように話し出す。


「え、ええそうですともっ! ま、まああのままでは人間は負けますね。はははっ」 

「まけたら、どーなるの……?」

「あ、ああそうですね、負けたら街が無くなりますね」

「まちがなくなったら、どーなるの……?」


 どんどんか細くなっていくノリの声。

 幼い彼女にとって街が無くなると言われたところで、どうなるのかまで明確な想像は出来ない。


「住めなくなりますよ」

「やっ! ノリやぁっ!!」


 ノリにとって、ゼプツィールは、生まれてすぐ連れて来られてずっと暮らしていた街だ。

 賑やかな商店街が大好きだったし、近所の人たちにも良くしてもらっていた。多くの人と出会い、笑って過ごした時間は、何にも替え難いキラキラ輝く無形の宝物だ。


「では、わたくしめの重撃ブレスで魔獣共をみな潰してしまいましょうぞ!」


 意気揚々とブレスの装填に移行するカルヴァドス。

 そんな彼に対し、子供の純心が返される。


「また、ぶー するよ?」


 今度はカルヴァドスが項垂れる番だった。

 神にも等しい主君の前で、粗相をしてしまったことは今でも彼のトラウマだった。


「それになー あるじなー ぬっころしたら めっ!てゆった」

「し、しかしですね、地上を見て下さいエルマキナ様」


 ノリは「ノリはノリなのに……」と呟く。そしてそこで初めてカルヴァドスの広い背中から下を覗き込む。

 

「なに、してるの……?」


 それは隠しようもない殺戮の現場。そこに蠢く者たちは一つの例外も無く殺し合っていた。していないとすればそれは死んでいる者だけだ。

 始めて見る異様な光景。ノリはそこで何が行われているか、その結果どうなってしまうのか、理解も出来なければ具体的な想像も出来なかった。

 だが、本能的な恐怖を感じとり、プルプル震えながらか細い声でカルヴァドスに問いかける。


「ちが、いっぱいでてるよ……?」


 脅えて震えるノリに対し、カルヴァドスは事も無げに言った。


「ええ、戦争なので血も出ます。もうかなり死んでいるようですし」

 

 ノリは大きな目を見開く。

 実際のところ、カルヴァドスが具体的に何を言っているのか、彼女はほとんど理解していない。

 だが地上で何か恐ろしい事が起こっており、目の前のドラゴンが恐ろしい事を口にしているのだということを敏感に感じ取っていた。

 

「しんだらどーなるの……?」

「死んだら、そうですね、死んだ者とは会えなくなります」

「あえなくなる……?」


 キョトンとするノリ。 


「あるじともあえない?」

「もしイサオ殿が死んだらそうなりますね」


 ノリは何を言っているのかわからないといった風に首を傾げた。


「ノリはあうよ?」


 それは純心だ。

 朝起きたら横にいる、いつでも話しかけたら返事をしてくれる。そんなそこに居て当たり前の人と会えなくなるということが認められないのだ。

 生と死、そんな普遍的で不可避な事実すらも幼い彼女にとっては非常識だった。


「イサオ殿が死んだら、たとえエルマキナ様とて、イサオ殿とは二度と会えません」


 事実だ。それは真実だ。変えようのないこの世の真理だ。

 だがノリにとってそれが真実だろうが何だろうが関係ない。「ノリ」という大切な名前があるにも関わらず、「エルマキナ」と呼ばれた事だってどうでもいい。

 大好きなイサオと、ノリの全てであるイサオと、二度と会えなくなるという可能性を考え、筆舌に尽くし難い恐怖に襲われる。

 

「ノリはあうってゆった!」

「それが出来ないのです……」


 有り得ないではないか、ほんの数刻前まで一緒にいたのだ。ご飯だって一緒に食べたし、歌だって一緒に歌った。

 お留守番をお願いされたのだ。自分は知っている、それは『帰ってくるから待っててね』という意味だ。昨日だって一緒に寝た。今日だって帰って一緒に寝るのだ。

 明日だって明後日だってイサオは一緒にいてくれるし、一緒に手を繋いで歩いてくれる。その先も、そのもっと先もずっとずっと一緒にいるのだ。そんなこと当たり前ではないか。


 それが出来なくなるのだとカルヴァドスは言う。そんなことは無い。絶対に無い。許されるハズが無い。イサオはいなくなったりしない。イサオが自分を置いてどこかに行くわけがない。

 だから否定したいわけではなかった。否定しなくてはならなかったのだ。 

 

「ノリはあえるもん! あるじはしなないもん!」


 目には涙が浮かび、声は裏返る。

 自分がまだ幼く、世の中にはまだまだ知らない事がたくさんあるということを自覚している。彼のほうが物知りだということだって認めている。

 だから目の前の彼を言い負かしたいわけではなかった。ただそれを口にしなければ、本当にそうなってしまいそうで怖かったのだ。

 そんな彼女に、無情にも再度真実が告げられる。


「エルマキナ様、残念ですが誰もが死にますし、死んだら誰もが会えません。畏れながら再度下を御覧ください」


 涙をぼたぼた落としながら再び地上に視線を落とす。

 夥しい数の魔獣、それと闘う人たち。

 ある者は跳ね飛ばされ、ある者は爪に貫かれ、ある者は踏みつぶされていた。飛び出る内臓、吹き出る血潮。

 彼らが踏みしだくのは血と泥の沼。一体どれだけの血が流されたのだろうか。

 その沼に倒れピクリとも動かない数々の生き物たち。一体どれだけの者が動かなくなったのだろうか。


「あれが『死』です。エルマキナ様」


 ビクッと震える。

 死は怖くない。解らないからだ。

 だが、会えなくなる、それが怖くてたまらなかった。


「みんな……あえない……?」

「ええ、会えません」

「あいたいひとも……あえない……?」

「ええ、残念ながら」

「かなしいよ?」

「それが『死』です」


 悲しみだろうか、この地に転がる生き物の、悲しい定めを嘆いたのだろうか。

 それとも恐れだろうか、尽き行く者をその眼に、自身の未来を憂いたのだろうか。

 あるいは哀れみだろうか、二度とは会えぬ躯の家族に想いを馳せたのだろうか。

 違う。

 それは祈りだった。


「めぇぇぇぇ~~~っ!!!」


 ノリの口元にバキバキと音を立てて魔力が集まる。

 カルヴァドスは驚愕した。魔力悲鳴ドライブだ。

 

 魔力悲鳴はその名の通り、高密度に圧縮された魔力が悲鳴のような甲高い音を立てる現象のはずだ。なのに、今、鳴っているこの音は何だ。まるで圧縮された魔力を砕き割り破砕するような、そんな異常な音だ。

 一体どれほどの魔力をどれほどの密度で集約したのか、それは竜の里で1,2を争うカルヴァドスとて想像も出来ない領域だった。


 その間にもメキメキと音は鳴り続け、ようやくその勢いが止まる。

 ここで属性を付与して発動させれば、ブレスは完成される。

 だが付与のための魔法陣が展開される様子は一切ない。それもそのはずだ。ノリはブレスを放つ気など全く無かったのだから。

 

 神代の時代の偉大なる種が、圧倒的魔力に込めたのは、侵すこと叶わぬ遥かなる祈り。

 歪んだ世界に舞い降りた、優しき女神が放ったのは、穢すこと叶わぬ無垢なる願い。

 魔力に「祈り」を言葉に「願い」を

 それは眼下の全ての者たちに降り注いだ。



「めぇぇぇぇぇ~~~~~~~~~~っっ!!!!!」




□□□□□□□□□□







 蹂躙だった。

 強者による圧倒的な殺戮劇だった。

 僕は毒づく。こんなの卑怯じゃないか。無理に決まってるじゃないか。

 

 筋肉が断裂しそれでも生き抜くために剣を振り続けた。

 だがもう痛みなんて感じない。一体僕はどうなってしまうのだろうか。

 止めども無く溢れる涙が頬を伝う。

 

 もうだめだ、こんな魔獣相手に生き残れるはずがない。

 それでも僕は剣を構える。痛みも痺れも通り越して痙攣を始めた腕。そのうち腕が千切れて飛んでいってしまうのではないかと考えて自嘲する。

 どちらでも一緒だ。喰いちぎられるのと何が違う。


 アイアンゴーレムと相対しながらヒヒヒっと泣き笑う。

 まともに上がらなくなった腕で、金属の塊とどうやって戦えと言うのだ。

 魔法の援護はないのかと後陣を見てみる。丁度ベヒーモスが魔装連隊の一群に突っ込んで行くところだった。

 

 終わりだ。何もかも終わりだ。

 ゆっくりと拳を振り上げる身の丈4mの鉄の巨人を見上げながらそう思った。

 ああ、これで僕は死ぬ、生まれてくる我が子を見ることも無く、僕は死ぬ。

 はははっ 乾いた笑いが漏れた。


 すると横合いから飛び出た一人の重戦士。

 ガイーンと金属同士が衝突する音が聞こえて、アイアンゴーレムが地面に倒れる。


「なにボーっとしてやがる! 死にたいの―――」


 そう檄を飛ばし切る前に、メイスを持った戦士の首が飛んだ。

 のっそりと現れたのは、ドでかいナメクジのような下半身にカマキリの胴体、顔は人間という吐き気を催すような醜悪な化け物、先程の戦士はそのカマでやられたのだろう。


 何が面白いのか、ニタニタと瞳の無い眼を歪めて笑う化け物は、予備動作無しにブンっとカマを振り下ろしてきた。

 剣で受けれたのは単なる運だ。ただ構えているところにカマ来ただけに過ぎない。

 それでも僕は吹き飛ばされ、ギガースの死体に背中を打ち付けて、地面にべしゃりと落ちた。

 力などもう入らない。血で出来た泥水から顔だけ上げて、僕を吹き飛ばした化け物を見据えた。


 そいつはやはりニヤつきながら俺の目の前までやってくると、カマを振り上げる。ああ、僕は死ぬんだ、そう思った。


 と、その時、過去の記憶が頭の中を猛烈なスピードで走り抜けていく。

 ああ、これが死ぬ間際に見えるというアレか。引き伸ばされた奇妙な数秒間で、僕は僕の人生を俯瞰的に見つめていた。

 そうだ、僕はこうして生きてきたんだ。


 小さいころ、よく父さんと母さんと手を繋いで歩いた。家は没落貴族だったけど父さんは一生懸命働いていたし、母さんは一生懸命支えていた。

 3男なのに、両親は変わらぬ愛情を注いでくれた。愛されて育った。

 風邪を引くと付きっ切りで看病してくれた、学校でいい成績をとると、我が事のように喜んでくれた

 軍に入る時、母さんは泣いてたし、父さんは頑張れと肩を叩いてくれた。

 入隊後、先輩に連れて行ってもらった先のお店、そこで僕は出会ったんだ。

 今までのどんな瞬間よりも輝いて見える。君との記憶は全てが輝いているよ。今この瞬間ですら色褪せない記憶の断片。

 ノエル…… 誰よりも何よりも愛しい人。誰よりも君を愛してる。

 平民だっていいじゃないか、獣人だっていいじゃないか。

 父さん、子供が生まれるんだ。仲直りがしたい。ノエルが父さんに子供の名前を付けてもらいたいって言っているんだ。

 母さん、心配ばかりかけたことを謝りたい。ノエルが料理を食べさせたいって言ってるんだ。

 だけどごめん、僕はもうきっと帰れない。ごめん父さん、ごめんなさい母さん。

 ごめんな、こんな僕でごめん、君を愛してる。愛しているんだ。

 会いたいよ、君に会いたい。僕は、君をっ!


「ノエル……っ!」





―――めぇぇぇぇぇ~~~~~~~~~~っっ!!!!!



 声が、聞こえた。


「僕は……なんで…… 生きてる……?」


 いつまでたってもとどめの一撃が来なかった。

 それともそう思っているだけで、もう死んでしまっているのか?

 すると、地響きが鳴り始めた。一体何が起きたんだ?

 僕はうつ伏せに倒れたまま、顔を横に向ける。

 そして驚愕した。魔獣が退却を始めていたのだ。顔半分を血だまりに沈めたまま、呆然と口を開ける。流れ込んでくる血の味が気持ち悪くて思いっきり咳き込んだ。

 

 何が起こったんだ。血と泥が目に入って何も見えない。腕で擦ろうと踠いてみるが、体中どこもかしこも思い通りに動く箇所なんて無かった。


 なんとか右腕を顔の横に持ってくることに成功した時、

 何者かが空から降りてくる音が聞こえた。そしてすぐ近くから魔力圧による魔力風がブオッと吹き抜ける。

 

 僕は最後の力を振り絞ってその音の方に顔を上げゴシゴシと目元を拭った。泥と血が滴り落ちる髪の毛の隙間から見えたのは、生きている者も死んでいる者もみんな血の泥をかぶって、全てが赤茶色1色に染め上げられた世界。

 そんな一色で染まった狂った世界に、ただ一滴落とされた眩いばかりの『白』

 僕はその時、確かに見たのだ。


「ごんにぢわ゛ イガワ、ひぐっ、イガワノリです ふぐぅ……」


 天使がこの地獄に舞い降りるのを。






□□□□□□□□






 今やほとんどの魔獣が森に逃げ帰り、振り返りもしない。

 上空から叩きつけられた有り得ないほど巨大な力。彼らはその本能で知る、もしあれに攻撃の意思があったらどうなっていたかを。

 その魔力弾とも言うべき叫びは、魔鬼餌で狂った魔獣をしてなお圧倒的強者の存在を認めさせ、彼等にこの場を離れることを選択させたのだ。


 呆然と立ち尽くす人々の真ん中に降り立った若頭とノリちゃん。

 ノリちゃんが若頭の背からふよふよと飛んで空中に着地する。すると若頭はその位置よりさらに頭を下げてノリちゃんに傅いた。

 誰しもが固唾をのんで見守る中 


「ごんにぢわ゛、イガワ、ひぐっ、イガワノリです ふぐぅ……」


 挨拶をした。


「エルマキナ様、今は夜です」

「うぅ こんばんわでじだ……」


 言葉を失うとはこの事だろうか、誰しもが一言も言葉を発せずに、二人の言葉を待っている。

 俺は斜面を駆け下り、フラフラと彼女に近づいて行った。


「じんだら、えぐっ、じんだらあえなくなるので、ノリはよぐないど思いばす……」


 えっえっ としゃっくり上げて涙を流すノリちゃん。

 

「ノリは……ノリは……っ!」


 そうか、そうだよな。

 俺は苦笑して軽く俯く。

 

 何を思って彼女が家を出て、どうやって、なぜ彼女がここに着たのか、横に控えるデカブツを見たら理由はわかりそうなものだが、今はとりあえずいいじゃないか。

 

 理由はどうあれ、結果的に彼女はここに辿り着いた、そしてまた一つ成長してしまったのだ。

 今日ここで何が起き、それがどういう結果を招くのかを認識し、きっと涙が出るほど怖くなってしまったのだ。


「ノリは……うぐっ ノリあるじとあえないのはやだもんっ!」



 今こみ上げるこの激情を、止められるヤツがいるなら止めてくれ。

 断言するよ。絶対に無理だ。

 彼女が云う「あるじ」が俺であることの優越感とか、そんなケッタイな感情なんかじゃない。

 嬉しいのだ。ただ純粋に、ひたすら素直に、涙が出るくらい俺が嬉しいのだ。 


 何の変哲も無い村人Aが勇者の力を持ってしまったのだという自覚はある。

 そんな、力以外何の取り柄も無い俺のそばに、彼女はいてくれているということも知ってる。

 色々と間違っているのだ。

 だがそれでも彼女は、会えなくなるのは良くないと言った。俺と会えなくなるのはイヤだと言った。

 ならば俺はそんな彼女にどう答えるべきだろうか?

 そんなことは考えるまでも無い。

 俺は彼女の手を離さない。彼女と一緒に歩んでいくんだ。


「ノリは……、ノリはあるじと、ノリあるじといっしょだもん!」


 今回の事でノリちゃんの力がバレて、利用しようとする者、恐れ忌避する者が出てくるのだろうと思う。

 だけど、と俺は笑みを浮かべた。

 目元を拭って周りを見渡す。みんなが彼女に見惚れ、理由もわからぬ涙を流している。あまりに神々しい威と纏う気配に、本気で彼女に向かって手を合わせている者すらいる。

 でもそれは本質じゃない。

 ここにいるみんなが知った。君がなぜこの地獄に降臨したのかを。君が何を思い、何に涙を流したのかを。

 恐れる者がいたとしてもそれが何だ、君を理解してくれる人だっていっぱいいるんだ。


 大丈夫だ。ノリちゃん、えらいよ。君はやっぱり天使だ。誰にも否定なんかさせない。

 だって君はこんなにも優しい子に育ったじゃないか。

 


「あるじー!」


 俺を見つけてパタパタと飛んでくるノリちゃんを受け止めて、力いっぱい抱きしめる。

 周りの目なんか構うものか

 俺の、何より、誰よりも愛しい俺の家族。


「あるじはしぬの? ノリといっしょにいれなくなるの?」


 今はただ死という概念を漠然と想像して怖くなっただけだろう。

 彼女が食べるシチューに入っている肉だって、食べるために人が殺したものだ。生き物の命を刈り取り、生きていくための糧とする自然な行為、そして罪深い行為だ。

 その辺の区別もまだ曖昧に過ぎない彼女には、まだまだ教えることがたくさんある。

 

「死なないよ、あるじは死なない」 


 あれだけ痛い目に合ったというのに俺はまた嘘をつく。

 これで彼女が『死』という概念をキチンと理解出来るその時まで、俺は生き続けなければならない。

 それは近い将来かも知れない。彼女の寿命を考えると遥か遠い未来の話なのかもしれない。

 だからこれは嘘ではない、決意だ。

 もしそれが詭弁だというのなら、俺はそれでもいいと思う。誹られたっていい。罵られたっていい。

 だけど俺はそう決めたんだ。

 

 きっと俺達はもうこの国には住めない。だけど大丈夫だ。彼女がこんなにも素直で優しい子に育ってる以上、不安は無い。後悔だって無い。場所は重要じゃないんだ。

 真っ直ぐ俺の目を見つめる真剣な眼差し。俺の全てを信じていると、その瞳が雄弁に語っている。

 俺は人差し指で彼女の目尻を拭うと、いつものように頭を撫でた。

 行き止まりで迷う事はもうしない。一歩踏み出そう。きっと、踏み出したそこが、その場所が、俺たちの道だ。


「いつまでも一緒さ」


 だから俺は、強く、強く、彼女を抱きしめたんだ。




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