拳鬼襲来③
「こんなことって……っ!」
私は焦っていた。
当初、草の報告からはこんなに事が急に動くとは思えなかったし、対策も緩やかなものだった。だが今となっては、相手を甘く見て初動を誤ってしまったことを痛感する。
確かに、ゼプツィールにあるギルドだからといっても、名目上、ギルドはあらゆる組織から中立でなければならない。出来る事と言っても情報の収集と提供ぐらいなもので、直接的にこの国の手助けをすることは出来ないのだ。
しかし予想以上の速さと規模で進む敵の動き、何がキッカケだったのかはわからないが、奴らは本気でこの国を潰しに来ているとしか思えない。
それは中立とはいえ、弱き者の生命と財産を守ることを根本目的とするギルドが看過出来ないレベルに達し始めている。特に拳鬼が現れてからのスピードは異常だ。
ゼプツェン皇国としては完全に後手に回ってしまっている状況だった。
もうここ数日、水浴び以外に家に帰っていない。ギルドの執務室に籠りっきりだ。
今日、あの女が飛び込んできた時、応対業務をしていたのは偶然だった。他の応対業務の子が休憩中に変わってあげただけなのだ。
そして本来は、あの女が彼に「泊めてくれ」とのたまい二人で消えた時、私が出て行くべきだったが、現状がそれを許さない。草の一人を派遣することで何とか心の均衡を保つのが精いっぱいだった。
私がこの場を離れられない理由、それは魔鬼餌がこの国に持ち込まれているという情報が入ったからだった。
―――魔鬼餌
それは人類最大の禁忌と呼ばれる混沌の扉に指定された魔道具の一つだ。
270年前、ムンゼスカ戦役で初めてそれが使用され、そして国が一つ地図から消えた。
多くの歴史書がその事件のことを〝赤い夜"と呼称し、人類史上最も忌まわしい出来事の一つとして記していた。
歴史上最初で最後の使用例となったその戦役後、主要各国が集まる合同会議にて一つの反対票が投じられることも無く、それは大陸連名で最大級禁忌として指定された。一つの例外も無く、使った側も、使われた側も総じて恐怖に震えたのだ。
そんな魔鬼餌がこの国に持ち込まれている……
名目上は一つ残らず封印された事になっている。
だが、封印とて解除することは可能だし、何より、悲しいかな人とは遠くの脅威より目先の脅威に震えてしまう生き物だ。
他国の対応がその国の自己申告でしかない時点で、抑止力として保持しようと考えるものが出てきたとしてもおかしくない。いや、そう考えるのが自然なのだ。
とにかく、今はそんな憶測などはどうでもいい。問題なのは事実としてこの国にそれが持ち込まれたらしいという情報が上がってきたことだ。それも確かな情報筋として。
もうこれは個人でどうこうできる範疇を大きく超えていた。
私は多くを把握しているものの、更新情報を探して最新の報告書に目を落す。
情報を仕入れた工作班が対象を追跡中、彼等からの連絡が途絶える。捕えられたのか、それとも……
そこで、それまでの報告にあった拠点を別動工作班が襲撃。しかしすでにそこはもぬけの殻。直接捜索は完全に暗礁に乗り上げた。
ギルドはその時点で緊急警戒情報としてゼプツェン皇国情報部に報告。
非常事態行動規則に則りギルドはゼプツェン皇国と共同戦線を張る。
大陸連名指定の禁制品の輸入などそう簡単に出来るものではない。各関所では禁制品として登録された魔導波を感知する専用魔具が設置され、所持が発覚した時点で所持者は即処刑だ。各関所は何も関税を徴収するだけの場所ではない。
それらの事実を鑑みた時、当然のように導き出される答え。
手引きした者がいる。
それも国の安全保障と税徴収の要の一つである関所に影響を与えられる、そんな巨大な権力を背景とした者の手引きが。
ゼプツェン皇国はその危機体制を厳重警戒体勢へ移行、ギルドに戦時緊急協力要請、ギルドはこれを受諾、ギルドに対し超法規的戦時特権を付与した。
ギルドは戦時特権を根拠に、関所の通関帳面を接収、辻褄が合わない部分、違和感を感じる部分を分析し抽出、結果、通関に関わる多くの者から3名の職員をピックアップ。
その3名に対し、拷問に限りなく近い尋問を開始する。
結果1名は死亡、残った2名の証言から、西門関所所長の指示による帳面の改竄が発覚。
その時点で所長宅に踏み込むが所長は何者かに殺害されており、手がかりが途絶えたかに思えた。
しかし、所長の背後関係を徹底的に洗っているうちにとある貴族の名が浮上する。
「レーベル侯爵家……」
私はすぐそこまで出かかっている情報を思い出そうと眉間を指で摘まむ。
「そう、確かレーベル侯爵家といったら……」
ゼプツェン皇国十貴族の一角を担う有力貴族で、現当主が病に臥せており、放蕩気質な長男は旅に出たまま帰らず、実質二男がその権力を集約しているという旧家だ。そして……
「カナリヤに居合わせた貴族……」
以前、イサオさんとノリちゃんとあの女の三人が食事をした中等区のレストラン「カナリヤ」において、魔力爆発があった際に居合わせた貴族ではないか。報告では取り巻きを連れ、何やら3人に絡んでいたらしいが、確かその貴族がレーベル侯爵家二男だったはずだ。
私は何か薄ら寒いものが背中を過った気がした。
これは単なる偶然だろうか。いや、考え過ぎだ。いくらイサオさんが気になるからと言って何から何まで結び付けて考えるべきではない。
今しなければならないことは、新たに工作班から上がってきた『レーベル侯爵家関与の疑い』の情報を国と共有することだ。
私は報告書に補整・追加情報を書き加えると、それを皇国諜報部に届けてもらうため、通信班の部屋に向かった。
□□□□□□□□
「どうやら魔鬼餌が持ち込まれたのはもう間違いないようだな……」
それは人類が生み出した最も醜悪な魔道具の一つ。
ひと度撒かれれば広範囲の魔獣を呼び寄せ興奮状態に陥れる。そこに何もないと悟った彼等の矛先はどこに向かうか、想像するのも悍ましい。そこは例外なく肉と臓物飛び散り血飛沫舞い絶叫響き渡る地獄と化す。
どこか疲れたようにその女性は呟いた。
「はっ 既に斥候を放っております。そろそろ報告が上がってくるかと」
「斥候? モノがどこにあるのかわからないのにどこに斥候を?」
「はっ おそれながら申し上げます。アレが使われるとしたら必ずや魔境側、したがって現在、魔境周辺広範囲に斥候部隊を展開させ状況を確認しております」
すると女性は自嘲気味な笑みを浮かべて言った。
「そうだな、そんな事も思いつかずに申し訳ない。妾は戦場を駆けるしか能のない半端者ゆえ苦労を掛ける」
「滅多な事を言ってはなりませぬぞオフィーリア様!」
謝罪と労りを受けたというのに、まるでそれが不名誉であるかのような反論。
その様子からも、女性――オフィーリアがどれだけの忠誠をうけているかが伺える。
王宮に設置された皇国軍指令室、その部屋の円卓を囲んだ5人の人物。全員がゼプツェン皇国軍の将軍たちだ。
魔境に接している国情から、必然的に練り上げられた武力。
精練にて苛烈、勇猛にて果敢。それが大陸最強の呼び声高いゼプツェン皇国軍である。
そんな精強な軍のトップたちも皆総じて皇国軍の有り方をその身で体現するかのようなつわもの揃いだった。
そんな猛者共を率いるは皇国第3王女オフィーリア。
市井では魔境に咲く花と謡われる彼女はまさしく天上の美姫。
完璧と断言し得るほど整った造形は、ただそこに佇んでいるだけで高貴と威厳を撒き散らす。
馥郁たる若葉より鮮やかに、そしてエメラルドグリーンより深い濃緑の髪を編び、頭の上で束ねたその姿は、儚く幻想的と表現する者もいるだろう。
だがそんな見た目に反し、彼女は戦場では戦乙女と呼ばれ、齢18にして騎獣猟兵連隊隊長を務める希代の女傑だ。
いつもは強気に眉を跳ね上げているそんな彼女が今、憂いの表情を浮かべ報告書に目を落していた。
「オフィーリア様、我らが将がそんなお顔をなさってはいけませんよ」
優しく、まるで姉が妹を慮るかのような口調。オフィーリアが「そうだな……」と向いた先に立つ女性。魔装特務連隊隊長ミラ・シグルドだ。
「オフィーリア様、どのような決断でも我々は従いますわ」
「わかっている」
その時、「し、失礼します!」という焦った声と共に、衛士が指令室に入り諜報部隊隊長ガドに一枚の紙を渡した。
そしてその紙に目を落とし青ざめるガド。おそらくは先ほど話していた斥候からの報告が来たのだ。そしてそれを見たガドのただならぬ様子。
オフィーリアが問いかける。
「ガド、報告を」
「はっ、魔獣大侵攻の可能性が極めて高いと」
「規模と階層は」
「規模は少なくとも2千、階層は……」
言葉に詰まるガド、その様子を見て室内の緊張感が高まった。
「ガド、階層はどうか」
「はっ だ、第3階層と推測されます……」
その瞬間、将軍たちが息を呑む。
ガドの声が上ずったことではない、その内容にだ。
「間違いはないか」
「報告によると……」
オフィーリアが、ふうっと息を吐く。
魔獣大侵攻。
過去幾度もこの国を襲った厄災だ。
さして知能を持たない魔獣たちが、時折、何故か示し合わせたように魔境から出てくることがある。
魔境に接するこの国がそれらを撃退する役割を担ってきたし、そうしなければ生き残ってこれなかった。
建国当初より異種族間融和政策を掲げ、迫害される人外種族を無条件で受け入れることによって発展してきたこの国は、王族にすら異種族の血が流れている。
それなのに人族を頂点とした身分制度を採る大国レガリアと、異種族完全排他主義を叫ぶマイノリア聖王朝という大国に囲まれながら、今まで全面的な衝突がなかったのは、この国が魔獣大侵攻から人類を守り続けてきたからだ。
弱肉強食がまかり通るこの大陸において、そこらじゅうで勃発している紛争や戦争の危険を回避する代わりに、人などよりも遥かに強大な魔獣たちとの戦争をこの国は強いられてきた。
だから、魔獣大侵攻と言っても、取り立て絶望するほどのものでもない。
それがこの国の常識であり歴史なのだ。
ならばなぜこの部屋がこんなにも重苦しい雰囲気に包まれているのか。
「第3階層……か……」
それはあまりにも今回の魔獣の出所が深いからだ。
東に広がる広大な魔境。
奥に進めば進むほど化け物じみた魔獣達が闊歩し最深部である第1階層などは、人類が想像もつかないほど強力な魔獣が蠢いているのだという。
最も深い1階層から最も浅い7階層に分類された魔境には、それぞれ生息する魔獣も異なり、生息する階層が、イコールその魔獣の強さだと考えて問題無い。
いつもの大侵攻は、第6、7階層の魔獣が群になって襲ってくるだけに過ぎず、極稀に深部である第5層の魔獣が出てくる時もあるが、だとしてもその程度、既存戦力でどうにでもなるのだ。しかし……
「S級が出てくるか……」
「はっ、少なくともヘカトンケイル2体及びゴーゴン2体を確認しております」
大深部である3層ともなるとA級がメインになり、S級魔獣も混ざってくる。
1体2体ならまだいい。ダンジョンと呼ばれる場所に、少数ではあるがそれクラスの魔獣は生息しているし、今までも任務として討伐してきた経験もある。
ここにいる将軍達が相手になれば何とかなるし、Sランカーであるミラ・シグルド魔装連隊長や、他でもない【緑星】であるオフィーリア自身も単騎でS級魔獣を撃破した経験があるのだ。
だが魔獣大侵攻は話が違う。
押し寄せる津波のように襲い掛かってくる夥しい数の魔獣。
必然的に敵味方入り乱れての大混戦となってしまう。流れ弾もあれば、斬撃に巻き込まれる事だってある。死体に足を捕られることだってあるだろう。転んだ所に重量級の魔獣にでも圧し掛かられたら振れるものだって振れなくなる。
たとえ幾多の戦場を渡り歩いた歴戦の猛者だとしても、運が悪ければ思わぬところで致命傷を負いかねないのだ。
その津波の中にA級・S級の魔獣が混ざってくるなど、冗談にしても笑えない。
だとしても、嘆いていれば事態が好転するわけではない。祈れば神が手を差し伸べてくれるわけでも何でもない。大地に足を捕らわれた矮小な生き物たる自分たちが、生き残るために足掻くしか道など無いのだ。
何よりも、絶望的な状況だとしても、すべきことをしないで失われるのは、いつだって守るべき民の命だ。
オフィーリアは決断する。
「即時、第2王女オフィーリアの名において戦時特令を発令せよ。陛下の皇勅は事後承認で構わぬ。都下の衛士に住民の避難を開始させろ、場所は大深度地下神殿、当初の警戒レベルは3を通達、恐慌を起こさせるな。冒険者ギルドに対しては、有事協定に基づく『緊急招集』発動を要請しろ」
「「「「はっ」」」」
「各連隊も緊急招集、ミラ・シグルド、魔装連隊は即時、各連隊装備に中期強化魔法を付与、天駈連隊、魔導化重甲連隊、騎獣猟兵連隊の順に行え、終わり次第後衛に布陣せよ」
「了解いたしました」
「レギドラ・グルド、天駈連隊は付与が終わり次第出撃、制空権を確保し、予想主要戦場を特定せよ」
「御意!」
「ベルト・カイナッツォ、魔導化重甲連隊は付与が終わり次第壁外待機、戦場特定を待て」
「はっ!」
「ガド・ミルヴァディア、諜報部隊は西に展開、各国のネズミ共の好きにさせるな。騎重猟兵連隊は最前線に展開する。妾も出るぞ」
オフィーリアは、一息でそこまで命令をすると、将軍たちの顔を見渡す。
みな一様に苦渋に満ちた顔をしていた。相手が強大だからではない。彼等は皆、自身の義務と部下と武勲に誇りをもち、国のために命を投げ出すこと躊躇わぬ忠義の臣だ。状況が最悪だからと言って怖気づくような者たちではないし、そう邪推することはたとえ部下であったとしても不敬にあたると彼女は思う。
ではなぜ彼らはそんな顔をしているのか。
「姫様…… 畏れながら此度は御避難下さりますよう、何卒ご一考を……」
全員が真剣な顔でオフィーリアを見つめる。
言いたい事はわかる。語るまでも無かった。あまりに危険すぎるのだ。
だがオフィーリアは、望む望まないに関わらず王族に生まれ、背負ったその責務を、誰よりも誇りに思い、それを全うし続けてきた。今更投げ出すはずもない。
忠臣達の心配は嬉しい。ここでそれを受け入れたとしても誰も責める者などいるはずがないだろう。
しかし何より愛すべき民に背を向けるなど、たとえ他人が許してもオフィーリア自身が絶対に赦しはしないのだ。
だから彼女は一蹴した。
「妾も出る。意見は許さぬ」
双眸に灯った揺るがぬ決意を見せつけるかのように将軍達を睨み付ける。
そして息を吐き出すと数瞬だけ緑色の瞳を閉じた。
瞼に映るのは愛する国土の情景、そして何より守るべき命の炎。
オフィーリアは深く息を吸って括目する。そして言った。
「生き残るぞ!」
◇ ◇ ◇ ◇
「ノリちゃん、今日はお留守番だよ。出来るかな?」
俺はションボリ俯くノリちゃんの顔を覗き込んで言った。
「うんとなー ノリなー おてつだいはー?」
「今日はダメなんだ。ごめんね」
悲しそうなノリちゃんの顔を見ると、心臓を鷲掴みにされたような圧迫感を覚える。
だけど彼女を連れて行くわけにはいかない。
ノリちゃんにいつも教えている道徳。ウソはいけないと、欲張ってはいけないと、人を傷付けてはいけないと、俺は散々偉そうに講釈垂れてきた。
しかし今日、これから俺は、今まで俺が教えてきたことを全否定するかのような行為に及ぶ。途方もない力を有する元勇者だとて、聖人でもなければ神様でもない。汚い感情だって沢山抱えてるし、鬱屈とした思いを山ほど隠している。
俺は今から行うことを正しい事なんて言わない。正当な行為だなんて間違っても口にはしない。
一日たった今でも腹に渦巻くのは、汚泥のようなドス黒く醜い感情だ。この感情にしたがって相手をぶちのめす事について、正義など語れるはずがない。
ノリちゃんの教育に悪いとか、そんな建前はもう言うまい。俺は俺のそんな姿を彼女に見られたくないのだ。なんと利己的で自分勝手な横暴だろうか。
だが俺は止まらない。せめてヤツに落とし前をつけてもらわなければ、胸の奥底暗く蠢くこの炎が
消えるはずがないからだ。
「ノリちゃん、鐘9つには帰ってくるから、そしたらシチューを食べよう」
最愛の家族を食べ物で釣ろうとするこの浅ましさといったらどうだ。我ながら反吐が出る。
そんな俺に彼女は、何か考え込む様な仕草をみせたが、最終的には健気にも力強く頷いた。
「ノリおるすばんする」
俺はノリちゃんの頭を一撫ですると、立ち上がる。
オルテナには来るなと言ったが彼女は聞く耳を持たなかった。拳鬼と本気でやり合って、俺の正体がバレるのが嫌だったが、SSSランカー相手に無事に帰ってきたとなると、ついて来ようが来まいが変わりはしないだろうと思って結局許可した。
それにもしクルルちゃんの居場所を聞き出せたら、彼女だけでも向かわせられるとの目算もあったからだ。
彼女は着替えをすると言って一足先に家を出た。西門で合流予定だ。
決闘ならば立ち合いを務めようかとも言われたが、それははっきりと断った。今から行うのは決闘などではない。互いに誇りを賭けて火花を散らすような高潔なものではない。殺し合いだ。
俺は自嘲気味に頬を歪める。
場所はグリーデルの丘。
西門より外に出て数百メートルのところにある小高い丘、そしてその頂上は今でも石柱が乱立する古代神殿跡地となっているある種の霊域だ。
ドアに手をかける。
「行ってきます」
だがこの時の俺はまだ知らない。
ノリちゃんが自分で考え行動出来るくらい日々成長していたことを。
□□□□□□□
「首尾はどうですか?」
「依頼の通りに済ませてきやしたぜ旦那」
ゼプツィール北門付近の原生林内。
近くの気に4頭の馬が括り付けられ、怪しげな男達4名が言葉を交わしていた。
1人は仕立の良い白いローブを纏い、場違いとも思える気品を漂わせ悠然と佇んでいる。
残りの3人はボロボロのフード付きマントを羽織り、下品な顔を下品に歪め、手もみする勢いで白ローブの男に擦り寄っていた。
「そうですか、では報酬をお渡しします」
そう言って白ローブの男が胸元から皮袋を取り出す。中身を確認するまでも無く、袋はパンパンに膨らみ、ジャラジャラと音を立てていた。
3人の男が嬌声に似た歓声を上げる。
「きっちり仕事をこなしてくれたみたいなので、上乗せしておきましたよ」
男達の下品な笑顔がさらに卑しく歪んだ。
3人の中でもリーダー格らしい男が、所々抜け落ちた歯の隙間からヒューヒュー音を立てながら言う。
「いやあ、ありがてえや旦那」
「いえいえ、当然ですよ。全員無事に第5階層まで到達して、きっちりモノを設置して帰ってくるとは正直思ってもいませんでした。これは過酷な任務に対する正当な報酬です。お受け取りください」
リーダー格が袋を受け取ると、ズッシリと重いその中身を確認して破顔する。
「すげえ! 何年か遊んで暮らせるぞ!」
「そうですか、それはよかった。では私はこれ―――」
「そういえば、あのブツの中身なんですがね」
問いかけられた言葉に、白ローブの男が「なんでしょう?」と答える。
「これ、なんかヤバいモノなんでしょう?」
ぴくっと反応する白ローブ。
「いや、ふた月くらい前ですがね、初めてちっちゃい欠片を5層に置いてくるよう言われた時は、それをやったあたりから明らかに魔境の森が騒がしくなって、魔境から出てくる魔獣が増えたんですよ」
「ほう、そうなんですか……?」
「そんで他にも何回か5層に欠片を置くとね、その度に魔境は騒がしくなっていきやした。そんでここひと月、6層と7層に欠片を一つずつ、おかげで冒険者ギルドは大賑わいでさあ」
欠けた歯を剥き出しにして、いやらしく笑うリーダー格
「そして今回はデカいオーブを持って、魔境からザンボア原野まで歩くだけの仕事、へへへ……」
「何が言いたいんですか……?」
白ローブの男がイラついたように言った。
「いやね、なんか街が騒がしいのと関係あるのかなぁ~~ なんて思いやして。さっき東に向かって飛んでったのは、おそらく天駈連隊の連中ですよ。旦那ぁ、あっしらは何を運ばされたんで?」
「知る必要は無いですよ」
「それじゃあもうちっと貰わねえと割に合いやせんねぇ~、あっしらもあの街を拠点にしてるンですよ」
グヘヘと涎を垂らさんばかりにニヤつく男達。下卑た笑声がその品性の無さを主張しているようだった。
すると白ローブの男が、疲れたようにため息をつく。
「これだからクズの相手は疲れる…… はぁ……」
「ああ? なんだと!?」
白ローブの男が小馬鹿にするように「やれやれ」と大仰なジェスチャーをした
「いや、屑の相手は疲れるなーと思いまして。汚らしいし醜いし、息臭いし、体臭だって獣と変わらない。ホント人間ですかあんたら」
「て、てめぇ! 下手に出てりゃ調子に乗りやがって! この状況わかってんのか!ああ!?
「下手に出てるのは僕だし、調子に乗ってんのはそっちなんだけど、まあ動物にはわかんないか」
小馬鹿にしたような態度を崩さない白ローブの男。
それに対して男たちは激高した。
「黙って金出しゃあいいモンを! ぶっ殺してやる! おめぇら! やるぞ!」
「「へぇっ」」
すると、白ローブの男の顔が嗜虐的に歪んだ。
「かわいそうに…… まだ殺さないつもりだったのに残念だ。」
とても残念だとは思えないほど顔を喜悦に歪めて、大雑把に腕を振る。
狩る側だと信じて疑わない男たちが、余裕の笑みを浮かべた。そしてすぐその笑みが驚愕に変わる。
立っているのに、なぜ急激に地面が迫って来るのかが理解出来なかったからだ。
ドサッと何かが地面に落ちる音、その音源が自分たちだと気付いた時には、彼等は事切れていた。
次いで、思いのほか長いタイムラグの後、数秒前まで彼等であった体が頭部の後を追う。
おそらく心臓がまだ動いているのだろう。崩れ落ちた彼らの首からピュッ、ピュッ と断続的に血が噴き出す。
白ローブの男は、足元に転がってきたリーダー格の頭部をつま先で転がすとせせら笑った。
「まさか無詠唱のライトセイバーごときで死ぬとは、やっぱりカスはカスだね」
そして何事もなかったかのように帰り支度を始めると、西に向かって歩き出す。
「とうとう悲願成就の時だ。浄化してあげましょう忌まわしい悪魔め」
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「お! イサオちゃ……ん……?」
日も沈み始める頃、たまたまイサオちゃんを見つけたので声をかけようとしたが、やめておく。
何があったのか知らないが、あからさまに人を寄せ付けないオーラを出していたからだ。
オレは、鬼気迫る雰囲気を纏ったイサオちゃんが西門に向かって歩くのを首を傾げて眺めていた。
「あれマジ切れモードじゃね?」
しばらく彼を目で追っていると、彼の周りを張り付くように移動する数人の気配を察知する。時に人ごみに紛れ、時に道を外れ、夕時の喧騒に溶け込むようにして違和感なく移動している。
オレは眉を潜めた。普通の人にはわからないだろうがオレの目はごまかされない。あれは完全にイサオちゃんを補足している。しかも相当な訓練を受けた暗部の人間だ。
確かに前からイサオちゃんの周りにはチラホラ違和感を感じる影があったし、ここひと月くらいはそれが顕著だった、しかしここまであからさまなものは初めてだ。
そして俺はその追跡のやり方には、嫌でも覚えがあった。
「あちゃー マジ教会の連中じゃーん、あいつらマジしつこい系マジ超サゲだわー」
この大陸で教会を敵に回したら生きていけないというのに、一体彼は何をやらかしたんだろうか。
とはいっても、何となく気付いてはいる。
超高位の竜種を連れて歩き、その実力だって底知れない。
盗賊の襲撃を受け、なんとか踏ん張ろうと思った時に襲われた急激な眠気。抗ってはみたがわずか数秒で意識持って行かれた。
結局のところ、何がおきたかうやむやになっているが、おそらくあれは彼の仕業だ。斥候職として状態異常耐性はあるほうだが、そんなもの全く意味をなさなかった。
とてつもない使い手であることは間違いない。そして大陸には珍しい黒目黒髪。
ここまでお膳立てされれば、ある程度推測だってする。確かそいつは教会から『異端』を超えて『悪魔』の烙印を押されていたはずだ。
「あー マジそういう事っスかー つーかヤバくね?」
そもそも下心があって近づいたわけではない。
常に周りに壁を作り、誰にも踏み込まれないように、目立たないように必死で走り回ってる奴がいたら、斥候職としてはその壁の中に何を隠しているのか興味だって湧く。
そしてその中身を垣間見た時、何となく親近感が湧いた。
拍子抜けするほど裏表のない真面目な男。少なくない影を背負い、少ない甲斐性をさらに薄く伸ばし、必死こいてやりくりして、なんとか家族と真っ当に生きようとする素朴な男。そんな誠実な男とオレの間に共通点など少ないのかもしれない。
だが、少なくない問題を抱え、何より素性をあまり知られたくないのはオレと一緒だったのだ。
「あー マジどーすんべ」
ガラにも無く考え込んでみたりしながら、とりあえずギルドへ足を運ぶ。
するとギルド入口で屯っていた冒険者たちが俺を見つけ「聞いたか?」と喋り出す。
「おい大将、ほんの数分前だけどよ、戦時特令が発令されたぜ! ギルドが『緊急招集』を宣言した!」
―――緊急招集
通行税も住民税も利益税も払わなくてよく、出入国手続きの簡略化や、一定の身分保証まで認められた冒険者の義務だ。基本的にギルドが関与しない国家間の紛争においても、市民に危険が及ぶと判断される場合、彼らを守るためだけに武力を用いることが許可され且つそれが強制される。
2々月くらい前の小規模な魔獣大侵攻の時もそれは宣言された。
「え、マッジ! また大侵攻? マジ早くね? マジ半年もたってねーし」
「いや、それが今回は結構デカいらしいんだよ、とりあえず警戒レベルは3らしいけどよ、西区から避難が始まるみてーなんだよ、大将も準備したほうがいいぜ」
「あー マジダリーんだけど。オレマジ斥候職だからマジ集団戦とかムリっつーか正直見つかったら負けじゃね? って感じガチで」
義務といっても、ギルド側が参加不参加をいちいち真面目に把握し切れるわけではない。
この街には無数の冒険者がいるし、体調が悪い者もいればケガしている者もいる。遠征に行った者もいれば、どっかで野たれ死んでる奴だっているのだ。
そんなの連中を全て管理するなんてはっきり言って無理だ。要するに1回2回サボってもバレなきゃ問題は無い。
こんな時にイサオちゃんは何しに行ったんだろうと考えた時、何かうなじのあたりがザワついた。先程の光景が頭をよぎり、痒いところに手が届かないような感覚に陥る。
イサオちゃんは西に向かっていた。避難か? いやあの雰囲気はそうじゃない、それに珍しくノリさんを連れていなかった。だから避難は有り得ないだろう。
だとしたらこの状況で西に向かう理由は何だ? 大侵攻は東だ。魔境が東にあるのだから当たり前だ。それなのになぜ彼は西に向かう、それもあんな怒りを堪える表情で。
オレは考える。
最近彼の前に現れた拳鬼。
西に向かうイサオ。
彼に付き纏う教会の暗部。
早すぎる大侵攻。
そして宣言された『緊急招集』
「なーんかキナ臭ぇんスけど」
ただタイミングよく色々重なっただけなのだろうか。
全く別々の事件のように見えるし、むしろその可能性のほうが高いのだろう。
しかし、と俺は思う。
根拠など無い、単なる勘でしかない。
しかしオレは教会が何を憎み、何を隠しているのか、ある程度は把握しているつもりだし、イサオはイサオで大き過ぎる荷物を背負っていることを知っている。
いつかは交差するハズの両者が、こうも様々な要素が絡み合ったタイミングで偶然邂逅するものだろうか。
オレはそうは思わない。
それではあまりにもあちらさんの都合が良すぎる
ここ何年も斥候職としてダンジョンに潜り、トラップを回避してきたオレの勘が告げる。
そこに待ち受けているのは戦場だ。
さてそれではどうしようか。
選択肢は二つ。
一つは大侵攻戦に参加
オレは冒険者だ。形式的には緊急招集に応じる義務があるし相応の報酬だって出る。
だからオレも東に向かうべきなのだろうと思う。参加せずにバレたらバレたで何らかのペナルティを受けてしまうし、そんなリスクを侵すのも馬鹿らしい。
もう一つは、強くてもどこか頼りない気のいい仲間の援護。
義務も無いし、報酬だって出ない。正面から手伝う事なんてないだろうから、気付かれないよう裏方仕事が待っているに違いない。それに相手はクソ面倒臭い教会だ。
正直、冒険者として割りに合わないにも程がある。
だから答えはすぐに出た。
馬鹿馬鹿しい。こうして整理してみると考えるまでも無い。
普通に考えたら当然ではないか。
「ま、ダチ優先っしょ」
オレは、「マジしょーがねーなー」と呟くと西に向かって歩き始めた。
◇ ◇ ◇ ◇
ドットがイサオの後をつけ始めた。
肩で風を切って進むイサオの背中を見失わないよう、出来るだけ離れて小走りでついて行く。
弟子が師匠を尾行するには訳があった。
ドットがイサオの家に転がり込んだ次の日、イサオは何をするでもなく、どこに行くでもなく普通の休日のようにその日を過ごした。
捜索を頼んで昨日の今日のの話だ。「俺を信じろ」と言われてすぐの話だ。
それなのに朝は普通に起き、探しに行こうと懇願するドットに曖昧な返事を返すだけのイサオ。
普通なら、何をやっているんだと激高する場面だろう。当たり前の話だ。たとえそれがお願いなのだとしても、他に頼る人もいない状況で必死に頼み込み、引き受けると断言してくれたのだ。状況も考えたら、泊まった女性が作った朝ごはんをのんびり食べている彼に怒鳴り散らしたって何らおかしくは無い。
だがドットはそうはならなかった。
イサオを信じているからだ。
自身の力ではもうどうしようもない絶望的な状況から、いとも簡単に自分の命を救ってくれたイサオ。ドットは助けてもらったその日に弟子入りを懇願した。
そして剣の手解きを受けてから約2年。ドットにとってイサオの存在は英雄と同義だ。
だから彼はこう思う。
―――師匠は何か手がかりを見つけた。そして何かを待っている。
それとなくその場に行くときは連れて行って欲しいとお願いしてみるも、イサオは話をはぐらかすだけだった。
そこでドットは確信する。
―――師匠はその場に俺を連れて行ってはくれない。
恐ろしい程の勢いを以て胸に突き刺さる無力感。
ドットは絶望する。
師匠に足手まといと判断された事ではない。この一番大事な場面で子供扱いされた事でもない。
何も出来ない自分の弱さに対してだ。
他でもない自分の手で助け出したい大事な友達を、師匠とはいえ他人任せにするしかない、そんな無力で惨めな自身の弱さにだ。
しかし、だからこそドットは戦慄きながらも立ち上がる。
弱さを認めるのはいい。いや、認めなくてはならない。
だがそこで、この一番大事な場面で足掻くことを諦めるのならば、それはもう弱者ですらない。
だからドットは外に飛び出し、まずやるべきことをする。
誰もいない家に帰り、姉へ手紙を書いた。衛士の詰所に行き、カイナッツォ家への言伝をお願いした。
すべきことをしたドットは『その時』を淡々と待っていた。
そして『その時』はとうとう訪れる。
イサオの家のドアが見える場所に隠れはじめて丸一日。何らかの決意を顔に浮かべたイサオが外に出てくきたのだ。
そして彼は師匠の後をつけはじめる。
「どこにいくんだろう、西門に向かってるみたいだけど」
気付かれないように歩き始めて十数分、イサオは大通りを越え、中通に入っていた。
気付かれてはいない。気付かれたら帰されるに違いない。一度見つかってしまえば簡単に巻かれてしまう。だからこの調子で尾行を続けるのだ。
バクバクと口から飛び出しそうになる心臓。ドットはそれを押さえつけるかのように胸に手をやりながらイサオの後を追った。すると……
路地裏から一人の男性が出てくる、そして極々自然な所作でドットの前に立ちはだかった。
目の前に現れるその時まで、何の違和感も覚えなかった事に驚く。
「お久しぶりですね、少年」
「あ、あなたは……」
その人物―――上品な口髭を蓄えた白髪の老紳士は、以前、クルルを助けに亡者の大空洞に入った時、クルルがそこにいることを知らせ、馬まで貸し与えてくれた恩人だった。
あの時は街に入ると、部下を名乗るメイドさんが馬を連れて行ってしまい、直接お礼も返却も何も出来なかった。
あれ以来ずっと気になっていたのできちんとお礼をしようと思った時、視界の隅でイサオが角を曲がったのを捉える。
「あの時はありがとうございます。だけど今ちょっと急いでて! 今度キチンとお礼をするのでまた……っ」
失礼なのはわかっていたが、焦ったドットはそう言って、老紳士の脇をすり抜けようとした。
するとドットの進行方向に寄ってきて立ちはだかる老紳士。
ドットは眉を潜めるも今度は逆に抜けようと足を踏み出す。
するとまた進行方向に老紳士が体を寄せる。
ドットは思わず叫んだ。
「なんのつもりですか! ホントに急いでるんです!」
すると老紳士が、まるで物を見るかのような冷たい眼でドットを見下ろして言う。
「今あなたが行って彼女は助かるので?」
一瞬で跳ね上がる警戒心。
ドットはバックステップで老紳士との距離をあけ、そのまま睨みつける。
そしてすぐ剣を抜けるよう右手を左腰へと回した。
「誰だ! もしかしてクルルを攫った奴らの仲間か!」
「そう警戒なさらなくても大丈夫ですよ。ただ私はあなたに問いに来たのです」
「わかるもんか! クルルの居場所を言え! さもなくば……」
ドットが剣の柄に手をかける。そして剣を抜きながら一歩踏み出した時、
ドットは戦慄する。
「さもなくばどうするのです? 女性一人守れずに随分と勇ましいようで」
「――っ!!」
声が後ろから聞こえてきたからだ。そして首筋に感じるヒンヤリとした金属の感触。
ドットは、今、自分が死の淵に立たされている事を理解し乾いた喉を鳴らした。
一瞬? 一秒? それとも1分か? 今この空間だけ時間が止まっているかのようだ。
永遠とも思える数瞬、汗腺が壊れてしまったかのように冷や汗が噴き出す。
恐怖で歯がカチカチと鳴り始めた時、至極穏やかな声が投げかけられた。
「選びなさい。諦めるというのならあなたは無事家に帰る事が出来る」
刹那の沈黙。
「だが諦めないと言うのなら……」
肌が泡立つような殺気が背後で爆発する。
老紳士がゾッとするような乾いた声音で言い放った。
「今この場で殺す……」
血も凍るようなプレッシャー。
今や滝のように流れ落ちる油汗が存分に地面を濡らしている。
この男は本気だ。本気で殺す気だ。ドットは止まりそうになる思考を蹴飛ばして必死に考える。
クルルは助けたい、いや、助けなければいけない。そのためには死ぬわけにはいかない。ここは素直に従って出直すべきだ。敵わない相手に突っかかって殺されてしまえば全て終わりだ。
そうだ、そうすべきだ。言え、言うんだ。「諦めます」と言うんだ。それしか方法は無いじゃないか。
「俺は……っ!!」
涙が溢れた。
ただ自分が死にたくないがため大事な友達を建前に使い、そう自身を偽ろうとしている自分の卑しさに吐き気がした。
意地やプライドだけでは生きていけないと、子供の自分だって知っている。
だが譲れないモノというのは確かにあった。例え天秤にかけられているものが自身の命なのだとしても、それだけは超えてはいけない一線というものはあった。
だが自分は、一瞬それを越えようとしたのだ。
なるほど負けるわけだ、大事な友達すら守れないわけだ。当然ではないか。
そんなさもしい性根で一体誰を守るというのだ、一体何を守るというのだ。
大層な言葉を語る資格など無い。出来もしない戯言を口にする資格など無い。
だからドットは叫んだのだ。
「やってみろっ! 俺は絶対にクルルを助けてやる! 死んでも助けてやる! 俺は…… 俺は……っ!!」
やってみろ。
それしか自分には残っていない。
諦めないことしか、弱くて矮小な自分には足掻き踠く事だけしか残されていない。だから……
「俺は絶対に諦めないっ!」
顔は涙と鼻水でグチャグチャだ。
歯は鳴り足は震え、気を抜くと失禁してしまいそうだ。
だが、瞳に灯る、何人たりとも消すことの出来ない決意の炎だけが、彼の心がまだ折れていないことを証明していた。
「そうですか……」
フッと緩む気配。
「それが聞きたかったのですよドット様」
先ほどまで場を支配していた苛烈な殺気は、なぜか何事も無かったかのように消え失せていた。
すると、いつの間にかまた正面に立っていた老紳士が、恭しくお辞儀をしながら言う。
「イサオ様の向かう先にクルル様はいません。クルル様は高等区のとある屋敷に捕えられています」
すぐには理解が出来なかった。
ドットは老紳士の口から告げられた言葉を反芻してからその意味に気付く。
「でも師匠が……」
「そこにはいませんよ。大体、あなた一人行ったところで勝敗が分かれるとでも? それに前回はどうでしたか、私が告げた先にクルル様はいらっしゃったでしょう?」
「じゃあ、ホントに……」
ドットはまだ混乱から抜け出せない。それはそうだ。
尾行中に突然現れ、ナイフを首に尋常ではない殺気を浴びせられた後の唐突な情報提供だ。子供でなくても混乱する。
だが、たとえ混乱していたとしても、変わらない決意はあった。
「場所を教えるのは構いません。ですが高等区に無許可で平民が入ったら厳罰ですよ。捕まったらきっと酷い目に合う。殺されるかも知れない。それでも助けるのですか?」
突然目の前に降りてきた救いのロープ。
老紳士の言う通りだ。イサオが行く先に自分が行ったとしても役に立てるとは思えない。だったら自分はどうしたらいい? たとえそれが溺れた自分の前に浮かぶ藁なのだとしても、手に取らなければ可能性はゼロだ。
だからドットはソレを掴む。
「助ける!」
「上手く辿り着いたとしても貴族の館です。私兵もいれば護衛もいる。捕まった先に待っているのは想像するのも悍ましい未来です。良くて下劣な貴族の慰みものです。それでも行きますか?」
深く、深く、空気を吸う。次いで吐き出した息と共に、胸のドロドロとしたモノが流れ出て行くような気がした。清々しい気分だった。
ドットは不敵に笑う。そして宣言した。
「俺は行く。絶対に諦めない」
すると老紳士は穏やかな笑みを一変、意地悪そうに片頬を釣り上げる。
「よいでしょう。その館はレーベル侯爵家別邸。場所と目印は……」
場所を詳しく聞いたドットはすぐに駈け出そうとするが、老紳士がそれを制する。
「もうじき日が沈みます。闇に紛れて高等区に侵入しなさい。それでもまだ間に合いますので」
「わかりました、でも、その、前もそうだけど、なんであなたは俺たちを助けてくれるんですか?」
再び穏やかに微笑む老紳士。
ドットは、夕日を逆光に見えにくい彼のその面影が、どこかで見たことがあるような気がして目を細める。
そうしていると老紳士が悪戯っぽい口調でこう言った。
「さあ、なぜでしょうか」
話は終わりですとばかりに背を向ける老紳士。
ドットは釈然としないものを抱えつつも、その背中に一礼すると、中等区と高等区を仕切る壁に向かって歩き出した。
残された老紳士。
身なりの良い老人と、平民の子供のいざこざに、いつの間にかチラホラ出来上がっていた人だかり。
老紳士は人だかりに「お騒がせいたしました」と頭を下げて回る。気が抜けたようにパラパラ散っていく人だかり。
老紳士は苦笑しながら小さくなっていくドットの背中を見送り頬を緩める。
「頑張ってください。若旦那様」
そう呟いて踵を返した。
◇ ◇ ◇ ◇
―――壮観
ありきたりな言葉でそれを表現するのならば、その単語が最も適切だろう。
最前線に展開する騎獣猟兵連隊2500
次衛に鎮座するのが魔導化重甲連隊4200
後列に待機している魔装特務連隊1800
上空をから下界を見下ろす天駈連隊650
皇都ゼプツィールより北東に馬車で1日強程の地点。ザンボア原野。
城壁内治安維持の部隊を除き、現在ゼプツィールが有する主要戦力の全てがそこにいた。
先行した天駈連隊と諜報部隊の報告・分析により、魔獣たちはこの地点を目指していると推測。なだらかな丘、高い位置から見下ろせるという地形的優位性もあって、オフィーリアはこの場所を決戦地点として各連隊に通達する。
少し視線を上げれば前方に広がるのは、気が遠くなるほど広大な大森林。
全部が全部魔境領域指定されている森林ではないが、その線引きは非常に難しい。ここから最も近い地点だと、馬車でせいぜい2日ほど走るともう《魔境》なのだ。
「もう、すぐそこまで来ているな……」
先ほどから地鳴りともつかない音と振動が地面を伝わってくる。
時折聞こえる魔獣の咆哮が、もうすぐそこまで死線が来ていることを嫌でも認識させた。
オフィーリアは、もう半分以上沈んだ太陽に目を細めながら、ふと自陣営を見渡してみる。
ある者は緊張し、ある者は高揚し、そしてある者は怯えていた。
ゼプツェンでは当たり前なのであまり話題に上がることは少ないが、他国の人間からすると、こんなに《魔境》から近い地点に一国の首都を置くというのは狂気の沙汰らしい。
だがゼプツェン国民にとってはそれこそ全く理解が出来ない。最も強大な戦力が集中する首都が魔境と近くなくてどうするのだと。そう考えるのが普通だ。
そもそも魔獣大侵攻を止められなければ国が亡ぶのは必至、ならばいの一番で決戦を仕掛けなければ飲み込まれる集落はたまったものではない。首都以東より人が住めるわけがないではないか。
この国はそういう覚悟の下に歴史を紡いできた。
北は山脈に守られ、西の国境には国境都市ゼノビアが相応の戦力を展開させている。
他国との全面戦争にでもならない限り、ゼプツィールの戦力はすなわち対魔獣特化集団なのだ。
だが、そうだとしても魔獣大侵攻など厄災に他ならない。恐怖もすれば震えもする。特に今回はその規模が尋常ではないのだ。回避できるものならば回避するに越したことはないに決まっているではないか。
それはまごう事無き戦争だ。敵味方の血肉溢れかえる奈落なのだ。
その時、自陣営がどよめいた。オフィーリアが視線を東へと戻す。
「来たか……」
魔獣の先頭集団が雄叫びを上げながら森を抜けてきたのだ。
まだ遠いとはいえ、魔獣を視認することで兵たちの体に緊張が走る。
当初の予定通り、まずは浅い階層の魔獣たちが押し寄せてきているようだった。
だが魔獣たちがその姿を現すたび、兵たちが次第に異変に気付く。とある兵が呟いた。
「お、おい…… なんだよあの数……」
2か月前のものとは比べ物にならない規模。
もう既に森から姿を現すというよりは、巻き上がる土埃から姿を現す様相となっている魔獣たち。
いつもなら魔獣種別の進軍速度の差異から、断続的に森から吐き出される魔獣たちだが、今、一度に現れる魔獣の数が減る様子はない。いやむしろ増えている。
そして遠くから聞こえる轟音。
何かと目を凝らしてみると、地平線あたりの森の木が一部、こちらに向かってどんどんなぎ倒されている。弩級の魔獣が参戦しているのだ。
いくら大侵攻に慣れている精強な兵士と言えども、見たことも無い規模の大侵攻に怯むなと言うほうが無理だ。
このままでは戦う前から負けてしまうと将校たちに焦りが見え始める。
収まらないどよめき、広がり始める混乱、そんな中、静かにオフィーリアは口を開いた。
「後ろを見よ」
魔獣の咆哮、地響き、轟音、どよめき。それらが響き渡る中で発せられた静かな声。普通ならばかき消され兵の耳に届くはずもない、そんな言葉。
だが、今この瞬間、その澄んだ声は何よりもはっきりと、この上なく力強く、兵たちの耳に届き渡った。
兵たち全員が、一斉に先頭、ユニコーンに騎乗する彼等の主君を見る。
「後ろを見よ。何が見える。国か? 街か? 城壁か?」
みなが思い思いに後ろを振り返る。
小高い丘から見る背後の景色は美しかった。
もうすでに日は沈み、残余の光が空をかろうじて照らしている。そしてその麓、地平の境界微かに浮かぶのは守るべき祖国の皇都ゼプツィール。
耳朶を打つのは厳かに響き渡る君が咏
「国ではない。街ではない。城壁でもない。それは灯りだ」
まだ避難完了までは時間がある。街のこちら側、東半分は、いたるところに簡易光源魔具の灯りが灯っていた。
その一つ一つの下に人が生き、生活をしている。彼らの家族だっていることだろう。
「街に浮かぶ一つの灯り。煌めくそれがその数だけ想いを背負い、そして命の存在を証明する。それは一つの物語だ」
ある者は目を閉じ、ある者は地面を睨み付け、そしてある者は空を見上げる。
しかし彼らが見ているモノは同じだった。
其々が見つめる先、瞼、大地、空、その向こうに、彼等は彼等の物語を幻視したに違いない。
「ありふれた小さな物語が身を寄せ合い、街を作り国を作り、そうして今この時まで夜空を照らしてきた。たとえ一つ一つの明かりが消えても、新しく始まる物語がそれを埋め、そうして歴史は紡がれた」
誰しもが俯き、もうそこまで魔獣が来ている事を忘れ、彼女の声に聞き入っていた。
彼女は奏でつづける。
「我々が守るべきは歴史だ。800年前より途切れることなく紡がれてきた、愛しむべき生命の営みだ。そこに貴賤など無い。優劣など無い」
そこでオフィーリアは目を閉じ胸に剣を掲げる。
そして訪れる耳が痛くなるような沈黙。兵達にはもう魔獣の咆哮など聞こえてはいない。
『彼女と自分』。この瞬間、彼らの世界はそれで完結していたのだ。
完結した世界の中、彼女はおもむろに強く目を見開き、声を轟かせた。
「剣を掲げろ! その剣に誇りを託せ! 命尽きようとも残りし剣がその誇りを継ぐだろう!
顔を上げろ! その命をわらわに託せ! わらわが死ぬその時まで、振り返ることは許さん!
今この時より貴様らは一振りの剣である! 剣は何のためにあるっ!!」
「「「「守るためにっ!」」」」
それは空震
それは天突く命の咆哮
「貴様らは何を守るっ!!」
「「「「我らの歴史をっ!!」」」」
先ほどまでの動揺など塵ほども残ってはいない。
彼女が信じ、兵達が信じる。
そして認識する、自身が何を背負っているのかを。
だからオフィーリアは、その剣を天に翳した。
「ならば妾に続けっ! 鬨の声を上げろっ!」
「「「おおおおおおおおおおっっ!!!」」」
「全軍進撃!!」
命の炎が激しく燃える。
救いなど無い。祈りなど届かない。
そんな悲しい世界の片隅で、繰り広げられるは一編の狂想歌。
それを織り成すのは怒号か絶叫か、誰も答えなど知る由も無い。
今日この日、闇夜が世界を照らす中
両軍は激突した。
◇ ◇ ◇ ◇
俺達は西門前でオルテナと合流すると、城門簡易出口から外に出る。
どこの都市も入るには検査が必要だが、出るのに手続きは要らない。犯罪抑止のため係官に面通しをしてそれで終わり、冒険者ならギルドカードと依頼書まで提示出来たら完璧だ。
グリーデルの丘は城門より1kmほど先の小高い丘で、その周りには古代の神殿跡が点在する歴史的価値も高い場所。大人3人が手を繋いでようやく届く太さの石柱が聳え立っていたり、祭壇のようなものが剥き出しになっていたりする。
頂上は台地になっており、そしてその台地の向こう、西側は森に囲まれた街道が伸びており、馬車で2週間も進めばそこは国境都市ゼノビアだ。
その昔、多くの人が神に祈りを捧げるため通ったであろう、丘の頂上に続く蛇行道を二人無言で歩く。
そして目的地に着くと、既に拳鬼が待っていた。
「貴様っ 変態めっ! よくもぬけぬけと現れたなっ」
「おい黙れ、そりゃこっちのセリフだボケ」
やはり少し苦手意識があるのだろうか、オルテナがビクついているものの、やはり怒りのほうが大きいらしく吊り目をさらに吊り上げて拳鬼を睨み付けている。
「な、なんだとっ! 貴様こそ卑劣な蛮行に及ぼ―――」
「いいんだ、いいから黙れ。やらかしてくれたじゃねえかまったく…… 躾のなってない変態だ」
激高し、何か言い返そうとする拳鬼を手で制してから俺は言った。
「死にたくなかったらクルルちゃん…… 娘の居場所を言え。半殺しで許してやる」
すると拳鬼は肩を竦め、何が言いたいのかわからないといったムカつくリアクションで言い放つ。
「何の事だ? 私は知らんぞ?」
俺は獰猛に嗤った。
「いやいいんだ。下から少しずつスライスされたら嫌でも喋りたくなるさ」
「貴様っ 一体何を言っているっ!」
クソが。
普段はネコ被っているのだ。舐められるのは別にいい。小馬鹿にされるのだって問題は無い。
だが踏み込んではならない領域に踏み込まれた時までヘラヘラしていたら、この世界で生きてなどいけない。
徹底的にだ。何に触れてしまったのかその体に徹底的に刻み込んでやる。
「じゃあはじめようか、オルテナ、巻き込まれないよう離れていろ」
こくこく素直に頷いて端の方まで移動するオルテナ。
俺はえげつないくらい強化魔法で自身を強化すると、スラッっとアリアを抜き放つ。
クルルちゃんが近くにいるかもしれないしオルテナもいる。殲滅系の魔法は使えない。
そして俺は高位の敵に通じる間接魔法や、都合のいい魔法など持っていない。圧倒的大火力で放つ攻性魔法だけしか俺には無い。
迫撃勝負だ。
俺のただならぬ雰囲気を察知したのか、拳鬼も腰を落とし臨戦態勢に入った。
「はははっ 私と戦おうというのかっ! かかってくるがいいっ! 私の拳を受けて立ち上がった者などいないがなっ!! 私はこの肉体一つであらゆる敵を……」
ナメやがって。
戦闘、特には臨戦態勢に入ってから口を開くなど愚の骨頂。
もし戦闘中、敵に話しかけるとしたら限られた場面でしか有り得ない。
動揺を誘う場合、説得をしたい場合、情報を引き出したい場合。この3つだけだ。
ここはゲームや漫画の世界ではない。得意気に技の解説などをして律儀に待っていてくれる相手などどこにもいない。
いるとしたら舌を噛んで死にたいドMか、殺して下さいと懇願する自殺志願者かどちらかだ。
俺の裡、抑えきれない本能にも似た獣が這い上がり、敵を斃せと耳元で甘く囁く。
俺はさりげなく足元が石畳の場所まで移動すると、腰を落としてアリアを担いだ。
なおも話し続けようとする拳鬼。
ただでさえ迫撃はヤツの土俵だ。話し終えるまで待ってやる義理などない。
俺は、拳鬼が息を吐き切るタイミングを狙う。ヤツまでの距離は20歩程度、一撃で決めてやる。
「……だから私の鍛え上げた肉体に貴様のような変態の剣など届きはしな――――」
―――今っ!
足元が爆散し俺は弾丸となる。
瞬時に迫る拳鬼に向かって
俺はアリアを振り下ろした。
□□□□□□□□
「あるじがむーってしてた……」
一人部屋で留守番をするノリが呟く。
最初は、最近発明した「ちゃらおのうた」の振り付けを一生懸命練習していたノリだったが、やはり昨日からのイサオの様子が気になって、ちゃぶ台にアゴを乗せる。
「めっするのとちがった……」
きっと良くないことが起きたに違いない。
自分にはわからない何か良くないことが起きたのだ。
だからノリは悲しかった。
「ノリおてつだいしたいもん……」
イサオが全てだった。
生まれたその瞬間、彼女を抱きしめたのはイサオだった。
「さむい」と震えた時、懐で温めてくれたのはイサオだった。
眠れない時、寝るまで絵本を読んでくれたのはイサオだった。
暗いのが怖いと泣いた時、泣き止むまで頭を撫で続けたのはイサオだった。
良い事をすると、いっぱい褒めてくれた
悪い事をすると、めってされた。
お風呂で一緒に100数えた。
シチューの歌を一緒に歌った。
素敵な、素敵な名前をくれた。
ノリにとって、イサオは全てだったのだ。
かつてイサオは「ノリちゃんは幸せにならなきゃいけない」と言った。
ノリには「幸せ」とは何なのかがよくわからない。わからないと言ったら「楽しくて嬉しい事だよ」と言われた。
だからノリは言った。
「ノリなー たのしいしうれしいよ?」
その時のイサオの嬉しそうな顔をノリは忘れない。
よくわからないが何となく思う。自分は今幸せなのだ。と。
全てを与えてもらっているという自覚がある。
全てを受け入れてもらっているという自覚がある。
だからノリは返したかった。
全てとは言わない。あまりに大き過ぎて、全てを返せるわけがない。少しでいい、出来るところからでいい。大好きなイサオに少しでも与えられるようになりたい。
そう思い始めたノリ、そしてそんな時に訪れた今回の出来事。
「あるじがかなしいのは、やー!」
イサオが言った「幸せ」というものは、正直今でもよくわからない。
だが今日、さっき出て行ったイサオが「幸せ」だとは、とてもじゃないが思えなかった。
そしてそんな彼を見て、彼が幸せでないと、きっと自分も幸せになれないのだと思った。
「あるじはノリがしあわせにするの!」
自分に何か出来ないだろうか。イサオが幸せになるために、自分が幸せになるために。
もしイサオがノリの葛藤を聞いていたら、間違いなくこう言っていただろう。
「ノリちゃんがいるだけで俺は幸せだ」と
だが幼い彼女にはまだわからない。
自分が既に、いや、最初から与える側に立っていることなど、露ほども思わない。
あまりにも真っ直ぐで純粋な幼い心が、イサオのために何かするのだと彼女を急き立てる。
確かに言いつけを守って留守番をしているのが正しいのかも知れない。
イサオはどんなことでも出来るし、どんなことでも解決してくれる。自分が何かしなくてもきっと全部片付けて帰ってくるはずだ。普段ならそれでよかったのだろう。
だがノリは昨日からのイサオの顔を思い出す。今まで見たことが無いほど怖い顔。
そんな時でも何もせずに待っているだけで、いつか与えられるようになれるのだろうか。
なれるはずがない。大変な時に何もしないで、あんなに凄いイサオに、大好きなイサオに、何かを与えることなど出来はしない。
怒られるかも知れなかった。めってされるかも知れなかった。
だけど、と、ノリは思う。
「ノリは、やくだつしたい! やくだちたい……? んー やくだつたい!」
ノリは決意する。
ふよふよと飛んでドアの鍵を開け踊り場に出る。
そして周りを見渡してしょんぼりと項垂れた。
重大な事に気付いたのだ。
「ノリどこに行けばいいかわからんかも……」
手伝いたくても何もできない、何もわからない自分。
ノリの目にじわっと涙が広がる。
だがそこでノリは、ハッと顔を上げた。誰かに手伝ってもらえばいいのだ。何をしたらいいか、誰かに教えて貰えばいいのだ。
ノリは考える。
イサオとオルテナはダメだ。ずっと前に出て行ったし、お留守番を言い渡した張本人だ。
他に頭に浮かんだのは二人だけ。それが今の彼女の世界の全て。
「ちゃらおー ちゃらおー」
返事はない。有るはずがない。
そんな都合の良い事が起きるはずないと、幼いノリも薄々感じてはいた。
だが、誰もが笑うような、万に一つもない可能性。大好きなイサオのため、彼女はそれに全てを賭ける。
それは幸か不幸か、はたまた天の気まぐれか。誰にも答えはわからない。
だが確かに彼女の願いは天に届く。
誰よりもまっさらで一生懸命な彼女。
何かしたい。褒められなくてもいい、イサオの役に立ちたい。
裏も表も無い、ごまかしや偽りも無い、そんな彼女の純粋な想いが奇跡を起こしたのだ。
「どらごんさーん! どらごんさーん!」
隣の部屋のドアが、さも当たり前だと言わんばかりに開いた。
そしてそこから出てきたのは一人の美丈夫。
美丈夫はノリの前まで進み出ると恭しく跪いた。
「エルマキナ様。遅れ馳せながら、不肖カルヴァドスここに」
◇ ◇ ◇ ◇
「たすっ 助げがぐぃぁああ―――」
「やってやる! かかってこい魔じゅべぇげ―――」
「ひぃっ くそっ くそぉぉあああぎぎぃ―――」
ここは地獄
血と肉と臓物と汚物が形創る狂気の牢獄
人が住む世に顕現した、常夜の際に蠢く煉獄
「おおっ 神よ……っ!」
「祈ってるヒマがあったら剣を振れっ! 死にたいかぴぃぃべ―――」
絶叫、慟哭、阿鼻叫喚
餌? 供物? 贄?
どれでも一緒だ。救いなど有りはしない。
そこらじゅうで人が喰いちぎられ飲み込まれ踏みしだかれている。
僕は渾身の力を込めて、目の前の魔獣に切りかかった。
魔獣が悲鳴とも断末魔ともつかない声を上げて絶命する。
次の相手を探す手間など要らない。暇もない。
僕は右から迫って来るミミズの化け物の突進を躱し胴に剣を突き立てる。
ビビビッと、脂で切れ味が鈍った剣が魔獣の肉を掻き分けた。
血飛沫が目に入り、反射的に顎を上げて乱暴に右目を擦る。上げた視線の先、上空を駆け抜ける幾筋もの魔法弾と、こちらに飛びかかってくる『マン・イーター』が見えた。
僕はすぐさま横に転がってマン・イーターの凶爪を躱す。
そして立ち上がり足を踏み出した時、味方の死体に足を取られて血だまりに肩から突っ込んだ。
数刻前まで鈍色に光っていた僕の鎧は、泥と血と汚物に塗れてとんでもない異臭を放っていた。
ハアハアと肩で息をし、呼吸を整える。
久方ぶりに鼻で息を吸い込むと、あまりの生臭さに思わず吐瀉した。胃の内容物などとっくの前に出し切ってしまっている。変わりに吐き出した酸っぱい汁が鼻腔を駆け上がり、僕はそのエグさに咳き込んでしまう。顔は涙と鼻水と吐瀉物でグシャグシャだ。
再度飛びかかってきたマン・イーターを右に躱し、下から救い上げるように腹を切り裂く。
ゴポッと音をたてて流れ出るグロテスクな内臓に顔をしかめてから周囲を確認した。
もう優勢なのか劣勢なのかもわからない。
下では魔獣と人が入り乱れて景色など見えはしない。上空は遠距離魔術が飛び交い、着弾するたびに
轟音を撒き散らしていた。
するとすぐ近くで「ドゴンッ」と衝突音が聞こえてそちらに視線をやる。魔獣も人も巻き込んで空から落ちてきたソレは、ワイバーンとその爪に掴まれた天駈の兵士だった。
そして、既に事切れている両者に気付いた魔獣があっと言う間に群がり、食事を始める。
肉を噛み千切る音、骨をかみ砕く音、咀嚼し飲み下す音。
間違いない。ここは地獄だ。
こんなはずじゃなかった。最初は順調だったのだ。
森から出てきた低位魔獣。
僕たちは進軍を開始し、そして接敵前に魔装兵から放たれた数々の戦略級団体魔法。
それらは緩い弧を描いて確実に敵陣に着弾し、魔獣どもを散り散りにさせた。
猟兵や重甲兵は逃げ惑う魔獣を複数人で囲い、確実に魔獣の数を減らしていった。
兵たちは高揚する。このまま凌げば勝てると、たいした被害も出さずに撃退出来ると、勇ましく魔獣に躍りかかっていた。
だが状況は一変する。
中位魔獣が現れ始めても、順調に撃退し、掃討がやや作業的になってきた時、それは起こった。
後衛から放たれた一際大きい戦略級団体魔法『リデル・バイン』が、突如空中で霧散したのだ。
詠唱か構築でミスったなと、再度射出される高位魔法。そしてそれも当たり前のように霧散した。
何が起きたとざわめく自陣営。誰かが叫んだ。「沈黙を尊ぶ者が出たぞ! けっこういるぞ!」
沈黙を尊ぶ者
第5層に潜む1mくらいの生首の化け物で、強くは無い、むしろ弱いだろう。ある程度の兵士が切りかかったら一撃で倒せる貧弱な魔獣だ。
だがそいつは、あらゆる魔法を問答無用で無効化するという、魔道士の天敵と言い得る魔獣。
全ての部隊の矛先がサイレスに向かう。そいつを優先的に攻撃しなければ勝ち目など無い。
下された命令の下、サイレスに接近した兵達に、SS級魔獣『ジャバウォック』は立ちはだかった。あまりに強力な魔獣の出現に浮足立つ自陣営。
掃討戦が長く続いたせいで伸び始めた戦線。魔法攻撃で数を減らせず、脹れあがった魔獣の波が、一気にそのど真ん中に押し寄せて、あっけなく戦線は崩壊した。
そこからは隊も陣形も援護もクソもない、人と魔獣入り乱れて悪夢の大混戦だ。
途中、姫様とベルト連隊長が消耗していたジャバウォックを倒し、魔法攻撃が再開されたが、もう戦線など回復はすまい。
殺し尽くすか殺し尽くされるかしないではこの戦闘は終わらない。
僕はただただ剣を振るった。ひたすら振った。振るのを止めたら死んでしまうとばかりに振った。
どれくらいそうしていたかはわからない。冗談みたく飛び交う魔法弾で照らされ昼だか夜だかも脳が認識しない。
疲労は限界だった。もうここまでくると付与された筋持続力強化などなんの意味も無い。
そして腕の筋肉が疲労で断裂したその時、周りに魔獣はいなくなっていた。
立っているのは誇りある我が軍の兵士のみ。しかも、この惨状とは裏腹に随分と多くの兵が生き残っている。
僕は叫んだ。
魂の奥底より湧き上がる衝動にまかせて、獣の様に咆哮した。
勝ったのだ。僕たちは魔獣どもに勝利したのだ。
そこらじゅうで上がる勝鬨
僕は泣いた。
戦うため張っていた何かがプツンと切れ、赤ん坊の様に泣いた。
生き残ったのだ。僕たちは生き残ったのだ。
没落貴族の三男として生まれ、行き場も無く軍に入隊。
必死で訓練をこなし、現場を経て、3度目の大侵攻。
僕はもうここで死ぬんだろうなと、戦いながらボンヤリと思っていた。
帰ったら、喧嘩別れになってしまった父親に会いに行こう。泣かせてしまった母親に謝罪をしよう。
愛する人も出来たんだ。子供だってもうすぐ生まれる。報告しよう。きっと喜んでくれるに違いない。
湧き上がる歓声、そこらじゅうで抱き合う兵士達。
僕たちは急いで負傷者の手当てに周り、倒れた魔獣にとどめを刺してまわった。
作業も一段落し、皆が皆、姫様の勝利宣言を待っていた。その時だった。
「グゥオオオオオォォォ――っ!!」
森のほうから咆哮が聞こえた。僕たちは顔に笑みを張り付けたままそちらを見る。そして恐怖に顔を引き攣らせた。
多くの視線が向かった先で何事も無かったように姿を現す魔獣たち。
知っている魔獣は少なかった。そしてその知っている魔獣の全てがA級かS級の魔獣だ。
未だにゾロゾロと森から現れ続ける魔獣たち、俺は先頭に佇むベヒーモスと目が合ったような気がした。
「終わった……」
ポツリと呟く。
誰もが呆然とする中
自分たちの優位を誇示するかのようにゆっくりと
ゆっくりと絶望がこちらに歩みを始めた。
□□□□□□□□□
私はミスをした。
当初、草からその陰謀の報告を受けた時、すぐに上には報告しなかった。
独自に調査を進め、魔鬼餌が持ち込まれたらしいという情報を掴んでから初めて報告をしたのだ。
確かに最初の事実レベルだと、個人がその判断で調査しても問題は無い。支部長も問題は無かった旨の意見を添えて上に報告書を提出してくれていた。
だが、あの時報告を上げていればもっと早く対応ができたのではないか、そう思うと罪悪感で押しつぶされそうになる。
しかし、過去を悔やむだけなら誰でもできる。そして今はそんなことをしている暇はないのだ。
だからせめてミスを取り返せるよう、きちんとした形で明日を迎えられるよう、私は私が出来ることをやるだけだ。
現在、ゼプツィール内は避難が始まっている。混乱も無く穏やかなものだ。年に1回か2回くらいの頻度で大侵攻があるのだ、皆いつものことだと笑みすら浮かべていた。
だが市民は知らない、今回の大侵攻が特異なものであることを。
どんなイレギュラーがあるかわからない。正直、私も迎撃戦に参加しようか迷ったが、散々考えたがやめておいた。
皇都の主要戦力が出払い、衛士が避難を誘導し、市民が姿を消している今だからこそ出来る事というのはある。
そう、例えば、普段なら簡単に入れない高等区、そこにある貴族の別邸を捜索する事や、戦時特令でも保護される上級貴族の特権を排し、証拠品を持ち帰る事が出来る。
平時ならば表立って調査することはできない。少なすぎる材料で上級貴族を追い詰めることなど出来はしないからだ。
国の機関にそれとなく匂わせたところ、「我々は関知しない」との返事をもらった。事実上の黙認だ。
このタイミングで徹底的に不穏分子を洗い出さなくては有事が無事に終わったとしても、次から次へと問題を持ち込まれてしまうだろう。
疲弊したゼプツィールに仕掛けてくる不埒な輩は絶対にいる。そんなことは断じて認めない。後顧の憂いは徹底的に絶たせてもらう。
そうして向かったレーベル侯爵家別邸
私は今、館を見上げ眉を潜めていた。
―――おかしい、静かすぎる。避難が始まったとしても護衛は残るはずなのに……
門番もいなければ、庭に私兵が巡回してるわけでもない。
私は訝しりながらも気配を消すと、闇に紛れて裏口まで移動した。
ここに来る前に見取り図は頭に入れておいた。3階建ての横長の屋敷、階段は正面より左に進んだあたりにある一か所と、東館奥から降りる地下室のみ。
裏口のカギを開錠しスルリと忍び込む。そこで私は歩を止めた。
おかしい、やはり違和感がぬぐえない。屋敷内に灯りが灯っているにも関わらず、人が動く気配がしないのだ。
ふと絨毯に目をやってみる。すると、何かが引きずられたような跡を至る所に見ることが出来た。
私はしゃがんでその跡を確かめる。
「これは…… 人を引き摺った跡……?」
ズズズと鳥肌が立った。
まずい、これは賊のやり方ではない、敵に先を越されてしまったか、もしかしたら口封じまでされているかもしれない。
それぞれの跡をよく見てみると、みな西館に向かって集まっていた。
私はすぐさま鮮血公女を引き抜くと周囲を警戒する。
そして足音を立てずに、擦り跡が向かう先へと進み、とある部屋の前で立ち止まる。
この部屋だ。全ての擦り跡がこの部屋の中に消えている。
ドアに耳をあてる、やはり何かが動く気配はしない。
私は軽く息を吐き出すと覚悟を決める。投擲できるよう鮮血公女を持ち直した。
ゆっくりとドアノブを回し、一気にドアを開けて飛び込む。そして絶句した。
「なんです…… これ……?」
客室だろうか、落ち着いた装飾や重厚感のある家具が配置された広めの部屋。
そこに手足を縛られ猿ぐつわをされた男たちが転がされていた。10人はいる。
私は全員が気絶している事を確かめてから、この部屋を少しだけ調べることにする。
まずはドアを閉めようとドアに近づいた時、誰かが正面入り口から入ってくる音が聞こえた。
―――誰だ、襲撃者か……?
その可能性が高い。
カギを開ける音はしなかった。正面入り口のカギが開いていたのだ。そんなこと普通では考えられない。カギが開いていることを知っていた人間か、それとも……
―――賊か……?
それなら話は早い。殺せばいいだけだ。
私は部屋のドアの前でしゃがむと、廊下に向かってナイフを突き出し、それを鏡替わりにホールの様子を伺う。
「なっ!!」
私は思わず声を上げそうになった。
―――ドット! なぜこんなところにっ!
血の気が引いた。
入口から入ってきたのはなんと、私の唯一の家族であるドットだった。
なぜここへ? 何をしに? どうするつもり?
ホールでキョロキョロあたりを見回す弟は、自分が何をしているかまるっきりわかっていない。
無防備に過ぎる。もしこういう状況でなければとっくに捕まるか殺されるかしている。
弟が今、なんでもないように歩いていられるのは単なる運だ。
何てことだ。平民は高等区に出入りする事さえ許されていない。
無許可で入ったとなると、子供だろうと尋問され、罰を受ける。もしこの屋敷を無事に出られたとしても、外で捕まってしまったら一巻の終わりだ。
―――どうする……
私は一瞬、弟がここに転がる護衛兵を斃した可能性を考えてみるが、すぐに首を振った。
確かに弟は毎日訓練し、週に一回はイサオに稽古をつけてもらってる。相当強くなっているし、贔屓目に見てるのかも知れないが、おそらくEからDランク程度の実力は備えているだろう。
だがどこまで行こうと所詮は子供で、武装した大人の男10数人を殺すではなく気絶さえ一か所にまとめるなど、逆立ちしたって無理な話だ。
きっと、何か理由があって来たのだ。
だが、たとえ正当な理由があったとしても認めるわけにはいかない。平民が貴族の、しかも上級貴族の屋敷に侵入することの意味。笑いごとで済む話ではないのだ。
―――連れ出そう
顔を見られるわけにもいかない。気絶させて運び出すしかない。
私は、階段を駆け上がる弟を連れ出すため立ち上が―――
「彼を行かせてあげてもらえませんか?」
ゾッとした。
背骨を駆け上がる悪寒に全身の毛穴が開く。
「そんなに警戒なさらなくても大丈夫ですよ。敵ではございません」
どこだ! どこに潜んでいた!
最初から最後まで気配など感じなかった。散々確認し、この部屋の死角も全て確認した。
それなのに一体これはどういうことだ……っ!
「いえ、ちょっとだけ気配を絶つのが得意でして、いやお恥ずかしい話です」
お恥ずかしいどころの話ではない。潜入工作を本業とする私が、違和感すら感じられぬまま背後を取られるなど有り得ない。
私が戦闘で勝てない相手は腐るほどいるだろう。だが気付かれず私の背後に立てる人間などいる筈がない。
私はゴクリと唾を飲み込むと、立ち上がりかけた中腰のままギギギと首だけで振り返る。
そこには口髭を蓄え、燕尾服を完璧に着こなした老紳士がいた。
穏やかな雰囲気と表情だ。だが自然に細められた目、その眼光が、同業者であることを雄弁に語っていた。暗くて鋭すぎる。
老紳士は軽く一礼すると再度口を開いた。
「行かせてあげてもらえないでしょうか? 実は、ここにはお嬢様が捕えられておりまして、彼はお嬢様の王子様なのです」
王子様? お嬢様?
そういえばどこかで見た事があると思ったら、この男、名門騎士貴族カイナッツォ家当主付きの執事だ。
だが関係無い。家族のことに口を挟まれる謂われはない。
私は廊下を一瞥すると、極限まで声を押えて激高した。
「勝手な事言わないで下さい……っ!」
無理だ。出来るわけがない。
相手の貴族がたとえ今回の内通者だとしても、平民が勝手をしていいわけない。たとえ越権だとしても私は戦時特権を国から授権されたギルドの職員だ。
それなのに弟はなんの背景ももたない、つま先から髪の毛の先までただの平民だ。
レーベル家と友好関係にあろうと敵対関係にあろうと関係など無い。
メンツやプライドを重んじる貴族たちが、「平民による貴族の襲撃」という事象そのものを許すはずがないのだ。
そして弾劾されるであろうその「平民」は、他でもない私の大切な弟だ。
勝ち目がないと知りつつナイフを老紳士に向ける私。
すると老紳士は、顔を歪める私に対して驚くべき発言をした。
「彼の安全は当家が、カイナッツォ家がその名と誇りに懸けて完全に保証いたします」
「どういうこと……?」
ありえない。
ドットがカイナッツォ家の令嬢と懇意にしているのは知っている。おそらくは向こうが弟に好意があるであろうことも把握している。
だが、ゼプツェン皇国有数の騎士貴族であるカイナッツォ家が、そこまでのことをする理由は何だ。 むしろ、令嬢に好意を向けられている平民など、死んでくれた方が都合がいいはずなのだ。
そこで私はハッと気付く。
「っ! 私の弟を合法的に消そうとしていますね! 絶対に許しませんよそんな―――」
「有り得ません」
真っ向から否定した老紳士は、微笑を浮かべながら言った。
「今日は偶然見張りが少なく、偶然護衛が手薄な日です。きっと彼は偶然誰に見つかることも誰何されることもなく無事家へと帰る事でしょう」
何を言っているのだ化け物め
転がされた男達を一瞥して、血の気が引く。護衛が手薄など一体どの口で言うのだ。
私が呼吸を荒げていると、ドットが階段を駆け下りてくる音が聞こえた。
館内図か何か見つけたのだろうか、真っ直ぐ東館の奥に向かって走っているようだ。おそらく地下への階段を降りて行くことだろう。
「なぜそこまでするんです? 大体なぜあなたは早く助け出さないんですか? 捕まった女の子なんてどんな目に合うかわからないんですよ! 何が起きるかだってわか―――」
「起きませんよ」
「そんなことわから―――」
「起きません」
そんな可能性は皆無だとばかりに断言する老紳士。
「確かに攫われてしまったのは私の部下のミスなのですが、我々は我々で駒を持っております。そういうことになる前に対応出来る体制は出来ておりました。結果的にはお嬢様にとっても良い経験でした」
ではなぜだ。
助けようと思えば助けられる状況だったのだという。
良い経験だったと言い切るほどの余裕があったというのだ。
ではなぜだ?
なぜカイナッツォ家にとって邪魔であろうドットに助けさせようとするのだ。
「じゃあなぜドットに助けさせようとするのですか、なぜドットに肩入れを?」
すると老紳士はどこか哀愁を感じる笑みを浮かべ、遠い眼を外に向けた。
「彼はね…… 私と同じなのですよ」
「同じ……?」
「昔は許されずとも、今ならきっと時代が許してくれる。私の想いを彼に託してしまっているだけなのかも知れませんね」
何を言っているかはわからない。
だが、苦笑しながら目を落とす老紳士は敵ではない事は確かなようだ。
すると、東館のほうから声がする。
「ドット! ドット! ドット! 何で! なん、で、来たのよぉバガドッドォォォォ~~~」
思わず笑ってしまった。
東館の地下室からここまで届く絶叫にも似た歓喜の叫び。
侵入して助けに来たことなど一切頭にないようだ。
随分と元気なお姫様だった。
老紳士もどうやら苦笑しているようだ。
「まったく…… ここは敵地であるということがお嬢様にはわかってないようで。まあそれほど嬉しいのでしょうな」
ホホホと笑う老紳士を見て、なんだかゴチャゴチャと考えていた私が馬鹿みたいだと思った。
互いに顔を見合わせてふふふと軽く噴き出してしまう。
「ではあなたはあなたのすべき事を続けてください。ちなみにもう護衛兵はいませんのでごゆっくり。私は、お二人が無事家に帰るまで護衛いたしますので」
「あら、二人は偶然見つからないんじゃなかったんですか?」
私の軽口に対して老紳士は片頬を釣り上げ、ニヤリと笑った。
「いやいや、もちろん偶然ですよ。偶然私が居合わせるだけですから」
随分と素敵な偶然があったものだ。
私は再度軽く噴き出してから、「弟をお願いします」と頭を下げた。




