「お前が我が息子だということを、本当に誇りに思うよ」
※
「いっつ・・・・」
頬を引き攣らせて呻くヒロム。
「だから先に治しとこうって言ったのに」
汗に塗れたヒロムの身体を拭きながらアンヘルは薬草の塗られた布を痣の上に当てていく。
「このくらい、魔法で治す必要ないだろ」
そう言いながらも布を当てられるたびにヒロムは顔を歪ませた。
その腹や脇腹には青黒い痣がいくつも出来ている。
「魔法を使わない必要性もないと思うけどね。ホントにヒロムは強情だよ」
ルディの格闘修行に付き合い始めて2か月が経ち、ようやく格闘の基礎を修得したヒロムは以前からの要望通りルディと実戦形式で手合せをした。
さすがに5年もの差は2カ月では埋まらず、ルディの一方的な攻めに押され続けたヒロムだったが苦し紛れに振り抜いた拳がルディの顎を打ち抜き、最終的にはヒロムが勝ったのだった。
「ルディ、泣いてたよ」
「ま、あんだけ一方的に攻めてて負けるとは思わないだろうからな」
「ヒロムがあそこまで耐えるとも思ってなかったみたいだけど。やっぱり重戦士の家系は違うよね」
この2カ月でヒロムの身体は一気に厚みを増した。
ルディのようなボコボコと筋肉が盛り上がった体型ではないが、密度の高い筋肉が大柄な骨格を覆っているのはかなりの威圧感を生み出している。
「はぁ、まだまだ弱えぇな・・・・俺は」
「たった2カ月でここまでなれるってだけで凄いと思うよ?」
アンヘルはヒロムの身体に包帯を巻いていくと「これでよし」と立ち上がった。
「それじゃ、食堂で何かもらってくるよ。大人しくしてなよ」
「はいはい」
ベッドに倒れ込んだヒロムは「はぁ」と溜め息を漏らした。
実は経験がないとはいえ肉弾戦ならば自信があった。
それが実際にやってみるとまさに「手も足も出ない」有様。
良いパンチが入り偶然勝ったとはいえ、とても“勝利した”などとは言えない。
普段は隠しているが、自分が負けず嫌いであることは良く分かっている。
今もルディに打ち勝つことしか考えていない。
「どうやったら勝てっかな・・・」
ルディの実力が本物であることはルディと手合せしたというリベルガルト教導院の連中から聞いた。
戦士を専攻している5年生と渡り合った末に勝利したというのだから本物だろう。
「あんま気が進まねぇが・・・あれしかないか」
「ついに脱落したか」
中央司令部、南方方面作戦群指令室で、大柄な肉体を豪快に揺らし笑う父に、ヒロムは唇を尖らせた。
「違げーよ。ちょっと、どうしても勝ちたい相手が・・・」
「あぁ、ウィリアム=ジンフロストか」
父の口から出てきた名前にヒロムは目を剥く。
「な、なんでそれを・・・」
「二年連続で規格外の院生が入ってきたと噂になっていたからな。ジンフロストだというのに相当鍛えてるんだろ?実力のほうもかなりのものだとか。その酷い面からすると一方的にやられたか」
「相打ち・・・だろうな。結果としては。偶然良いパンチが入ってさ、ルール上は一応勝ったんだ」
「つまり勝てたとは思ってないわけだ。で、俺のところに来たのは?」
「格闘術を教えて欲しい。父さんなら漢闘もやってたし・・・」
父、トウジ=カルディアは若い頃は漢闘大会で大活躍していたと聞く。異人の侵攻が激しさを増し、それどころではなくなった後に重戦士部隊の総司令官を任され、同時に王都防衛部隊の副長となったために漢闘は引退した。
「それは構わんが、一つ答えろ。お前は魔導士になって何を目指してるんだ?」
「何って・・・」
「お前が魔導士になると言い出したからには、なにか理由があるはずだと考えていた。お前はただ“嫌だから”なんて理由で物事を決める奴じゃないからな。何か考えがあるんだろうが、うちの血は明らかに魔導士には向いていないから、魔導士としての現実を知って挫折するのではないかとも考えていた。だからあえて理由は訊かなかったんだ。だが、先日ラウ老師にお会いする機会があってな、お前の事をとても評価されていた。お前ならアルフレイドすら超えるのではないかとね」
随分買われているものだと恥ずかしくなったが、ヒロムは姿勢を正して父をまっすぐ見つめた。
「俺は父さんや兄貴たちみたいに、報われもしないのに傷つき続けることなんて出来ない。もちろん、父さんたち、重戦士が果たす役目が重要であることは理解してる。父さんたちが身体を張って傷ついているから、前衛が突き崩されることがないわけだから。でも、最前線で、後衛からの支援もほとんど受けられない、危険な兵種だろ?戦士より人数は少ないから戦死者は戦士より少ないけど、率は一番高いじゃないか。重傷を負って退任に追い込まれる率も全兵種の中で一番高い。だから俺はそんな状況を変えたいんだ」
「ヒロム・・・」
「俺は最前線で重戦士や戦士の支援を出来る魔導士になりたい。俺の魔力じゃ高位の魔法は使えないし、長距離魔法も使えないけど、最前線に立っていれば低位の魔法でも十分に効果があるはずなんだ」
「そんなことをしていたら、いくつ命があっても足りないぞ?魔法の発動には精神の集中が必要だと聞くし、発動まで時間がかかるものだ。だからこそ、魔導士は後衛に配置されているんだ」
父の言葉にヒロムは頷く。
「わかってる。だから俺は魔法の発動をもっと簡略化できないかって考えてるんだ。魔法式の構造を理解すれば省略できる部分もあるんじゃないかって。老師に教えていただいて省略は難しいって判ったけど、今ある魔法から違う魔法を創ることは出来るなって、考えてる。あとは法具の補助があれば発動時間の短縮は出来るから、最前線でも十分にやれるんじゃないかって。怯ませることさえできれば止めは重戦士や戦士に刺してもらえばいいんだし、威力はそこまで必要ないはずだからさ」
「そういうことか・・・」
父は椅子から立ち上がるとヒロムを抱き寄せた。
「お前は本当に聡明で、優しいな。寮で食堂の手伝いをしていることも聞いている。神聖魔法の天才、アンヘル=グランデのためなんだろう?彼は西の最貧地域の出身だからな」
「それは違うよ。俺はただアンヘルと一緒にいたいから、一緒にやってるだけ。それに・・・」
ヒロムは言葉を詰まらせる。これを言ってしまうのはカルディア家そのものを否定してしまうことだ。
「どうした?」
少し体を離した父が、促すように微笑む。その微笑みにヒロムは覚悟を決める。
「俺には、わからないんだ。王族も、貴族も、庶民から吸い上げた富で潤ってるだけ。もちろん、王族も貴族も庶民とは違う責任を果たしてることはわかってるよ。でも、それだけのものを黙って受け入れるだけの責任を、本当に負っているのかな?」
ヒロムは拳を握りしめる。
「アンヘルの奴、シチューを食べたことがなかったんだって。それだけじゃない、温かい料理そのものをほとんど口にしたことがなかったんだ。そんな生活をしなきゃいけない奴がいて、なんで俺たちは何不自由なく暮らせているのか、俺にはわからないんだ」
「そうか・・・」
父は再びヒロムを抱き寄せる。
「本当にお前は聡明だな。もっと迷えばいい。迷い、自身で導き出した答えこそがもっとも真実に近いものだ。お前は王下72柱の家に生まれた者としての責任と、その意味をきっと見つけることが出来るだろう」
そして父は体を離すとそっとヒロムの頬に触れる。
「老師の仰っていたことが理解できたよ。お前はこの国の在り方を変えるかもしれない存在だと、そう仰られていた。それがどんな未来に繋がるかはわからないが、確かな『希望』だとも」
「父さん・・・」
「お前が我が息子だということを、本当に誇りに思うよ。だが、あまり無理はするな」
「うん・・・」
「とりあえず、ジンフロストの件を片付けておくか。本当は俺が直接教えてやりたいんだが、お前も授業に食堂の手伝いにと忙しいからな。リベルガルトにかなり腕の立つ教導師がいる。話は通しておくから会いに行け」
「リベルガルトに?」
「5年前の天神祭でカズマに敗れた奴だ。うちには色々と含むものもあるだろうから、熱のこもった指導が期待出来るだろ?」
カズマに敗れた―――確か、ライノ=リックソンとか言ったと思う。カズマと同じく重戦士だったはずだ。
「経験年数は違ったとしても、同じように魔導士の紋章を宿す者だ。お前の方が一つ上で、カルディアの血を継いでる。条件としては十分にフェアだろう。その手で確かな勝利をもぎ取って来い」
「うん!」
こうしてヒロムはリベルガルト教導院へと向かうことになった。
「ほう、お前が有名な“カルディアの異端児”か」
カズマに匹敵する巨躯に、分厚い筋肉を纏った男―――ライノ=リックソンはヒロムを上から下まで舐めまわすように見ると不敵に笑う。
リベルガルト教導院を訪れたヒロムは、すぐに重戦士養成科の格闘場へと案内された。
一応、壁と天井があり、建物の体裁はとっているものの床は土がそのまま露出している。
多くの男たちの汗を吸っているのであろうその地面からは、土の臭いとは違う臭いがわずかに立ち昇っていた。
そこに待ち構えていたライノはパンツ一丁、漢闘をするときの姿で仁王立ちしていた。
カズマに匹敵する、まさに鋼の肉体と呼べそうな筋肉には、肩から腹にかけて大きく割かれたような傷跡が残り、厳ついとしか形容できない男臭さあふれる顔にも額から右目を通り唇まで、ざっくり割かれたような傷が残っていた。以前、天神祭で見た時にはこのような傷跡はなかった。とすると重戦士から教導師となったのはこの怪我が理由だろう。
「初めまして。父から伺っているとは思いますが―――」
「ジンフロストに勝ちたいんだって?」
にやにや笑いを隠さないライノをヒロムはまっすぐ見つめ返す。
「そうです。そこで格闘を指導していただけないかと」
「構わんが俺の指導は厳しいことで知られていてな。王下72柱の一柱、カルディアの人間だからと手加減は出来んぞ?」
「もちろんです。そうでなくては意味がありませんから」
ヒロムの言葉にライノは少し意外そうな顔をした。
「わかった。とりあえず服をすべて脱げ。下着もな」
言われたとおりにすべて脱いで全裸になるヒロム。
それを見てライノは顎に手をやり撫で始めた。
「ほう・・・うちの連中レベルには身体が出来上がってるんだな。確かまだ二年だろう?」
「はい」
「本当に魔導士の紋章を宿してるのか?あれを宿すと極端に筋肉がつきにくくなるはずだが」
ヒロムは黙って左手甲の紋章を見せた。
「ふむ、さすがはカルディアというところか。重戦士の紋章無しでこれほどのものとはな。よし」
手を叩いたライノはヒロムを手招きする。
「身体作りの必要はなさそうだ。最初から技術を叩きこむ。いいな?」
そう言いながらヒロムに漢闘で使うパンツを渡した。
「はい!」
「ジンフロストの奴は確か、拳闘だったな。まずは拳闘の技術から覚えるとするか」
ライノはパンツを穿いたヒロムに長い布を二枚、渡してきた。
「それを拳に巻け。多少は衝撃が和らぐ。練習時点から悶絶してるようじゃ練習にならんからな」
「わかりました」
ヒロムが苦戦しながら布を巻いていると、すぐに巻き終えたライノが手を貸した。
「すみません」
「ま、初めてだからな。仕方がない。お前には俺も期待してんだ」
「え?」
「ジンフロストにギリギリまで追い込まれていながら、最後は一矢報いて勝ったそうじゃねぇか」
「あんなの・・・勝ったことにはなりませんよ」
「かもしれんが、土をつけてやったことは事実だ。ジンフロストにはうちの院生がことごとく潰されててな、どうしたものかと考えてたんだ。よし、と」
ヒロムの拳に布を巻き終えたライノは、その拳を軽く叩く。
「重戦士養成科の5年にな、俺が目をかけている奴がいる。アレクってやつなんだが、資質もかなりのものだし、重戦士として将来有望、うちで毎年行われてる漢闘大会で上級生を抑えて三年連続で優勝してるような奴だ。だが、ジンフロストに一方的に嬲られて今はすっかり自信を無くしちまってる。体格的にはお前よりタッパはあるし、体も一回りデカい。それが自分より二回りは小さい奴にやられたのが相当ショックだったんだろうな」
「三年連続?」
白兵戦系の技能を教える教導院で毎年行われている競技大会は秋の天神祭の直前に行われる。天神祭で各校の代表が競うあうことになっているからだ。
今年の競技大会はまだ行われていないはずなので、そのアレクという院生は二年から上級生を抑えて優勝していることになる。
魔道教導院のように上級生と下級生の体格差が少ないところと違って、年齢と体格が顕著に比例する教導院で、その記録はすごいことではないだろうか。
「そんな院生に本当にルディが勝ったんですか?」
「あぁ。体格差を利用したともいえるが、懐に潜りこんでボディを徹底的に攻める戦術でアレクに何もさせなかった。あのフットワークはかなりのもんだな」
そう言われると、ヒロムに対しても主に狙ってきていたのは腹だ。体格差があるのだから、頭部より狙いやすい腹を狙うのは当然だろう。腹に打ち込んで、あまりの苦しさに下がってきた顔に打ち込む―――それがパターンだった。
「懐に入らせないようにすれば勝てますか?」
「そりゃ、体格が上の方が腕が長いぶん射程が長いからな。だが、あの体さばきで迫られたら防ぐのは難しいと思うぞ。パンチの速射で徹底的に牽制出来ればいいが、そんなことしてたらこっちの体力が先に尽きる。まあ、心配すんな。攻略法は考えてある。お前なら出来るだろうさ」
ニヤッと笑ったライノに、一抹の不安を覚えるヒロムだった。
「ごげえっっ!!!」
一気にせり上がってきた胃液を抑えることも出来ず盛大に噴き出すヒロム。
「げばぁ・・・が・・・・」
足に力が入らず、完全に脱力し、胃を押し潰すように深々とめり込んだ拳に支えられているだけだ。
「ふう、今日はここまでにしとくか」
ライノはヒロムを抱えると井戸端へと運ぶ。
「よいしょっと」
くみ上げた水を汗とゲロに塗れたヒロムへとぶちまけると、再びくみ上げた水で自分の頭からかぶった。
「ほれ、しっかりしろ」
ライノはヒロムを抱え起こすと頬をはたく。
「う・・・」
「起きたか。どんな気分だ?」
「ぐぅっ・・・くっ、さ、最悪・・・です・・・」
「だろうな」
ヒロムのくっきりと割れている腹筋にはルディにつけられた青黒い痣と、ライノに攻められ真っ赤に鬱血したものとでまだら模様が出来ている。
「まあ、初日にしちゃあかなりのもんだ。あそこまでフットワークの基本が出来てりゃ、うちの連中とはもう渡り合えるだろうよ」
ライノの攻略法とは、ルディ並みのフットワークを身に着けることだった。
体格でも腕力でも勝っている以上は、速度が追いつけばまず負けることはないという判断からだ。
戦士系の紋章を付けると筋肉は発達するが、瞬発力は落ちる。
だが、魔導士の紋章を付けていて重戦士並みの腕力を持つヒロムならば、剣士の紋章ほどではないにしても瞬発力を伸ばすことが出来るはずだとライノは考えたのだった。
そこでパンチやキックといった攻撃に対するフットワークの使い方の基礎を教わり、すぐに実戦形式での入った。
ライノはカズマ並みの体格にも関わらず、その瞬発力はルディ以上で、一応手加減はしてくれていたのだろうが、あっという間に追い込まれて腹に一撃喰らい悶絶させられた。
分厚く布を巻いていてこれならば、素手ならば肉体を貫通するのではないかと思うほどの威力だ。
それを数十回繰り返し、ボロボロになったヒロムの腹筋ではかなり手加減された一撃にも耐えることは出来なかった。
ライノはヒロムを抱きかかえると格闘場の脇の部屋へと入っていく。
どうやら医務室のようで様々な薬品や道具が棚に陳列していた。
そのまま寝台にヒロムを寝かせたライノはヒロムの身体を手ぬぐいで拭くと、自分の身体も拭き上げていく。
「さて、確かお前ってあの神聖魔法の天才とルームメイトなんだよな。ちょっくら呼んでくるから治してもらえ」
手ぬぐいを籠に投げ入れたライノはそう言い残して部屋を出ていった。
「痛ってぇ・・・」
全身に残る痺れるような痛み―――ルディとの戦いの時とは比べ物にならないほどに身体の芯まで響いている。
これが本物の重戦士の力なのだ。
だが、これほど強くても異人たちには敵わないという現実―――
オークやワーウルフの身体能力は人とは比較にならないほどに高いという。そんな連中と戦ってこれまで生き延びてきた父や兄たちは、本当にすごいのだなと、改めて実感する。
そんな皆を一人でも守るために――――ヒロムはもっと魔導士としての実力を高めなければならない。
しかし最前線に立つのだから、白兵戦の実力も必要だ。
このまま、ラウ老師の教えを請いながら、こうやってライノたちの指導を受けていれば父の、そして兄たちのサポートくらいは出来るはず。
全身の痛みにはうんざりするが、きっとこれはヒロムが望んでいたものに繋がっている痛みだ。
そんな満足感を感じながら、ヒロムはいつの間にか眠りに落ちていた。
「ふぐうっっ!!!」
腹から伝わる衝撃にわずかに体が浮き上がり、足から力が抜けかけたが何とか堪える。
「やるじゃねぇか!!続けるぞ!!!」
「うっす!!!」
二人の男は汗を散らしながら、格闘場に作った囲いの中を動き続ける。
あれから一月―――これで7回目のライノの指導だが、最初はほぼ確実に喰らっていた攻撃も、今では2割ほどしか喰らわなくなっていた。
とはいえ一撃が重いので、喰らえば骨の髄まで響くことに変わりはない。
ヒロムはひたすらライノの筋肉の動きを見続ける。
視線を見ずとも、筋肉の動きで次の攻撃がおおよそ読めることはもうわかっていた。
「ふんっ!!」
ライノの大胸筋が盛り上がり、右のわき腹が締まる。
右のボディブローだ。
ヒロムは一歩踏み込んで、拳を振り切ることが出来ないようにしつつ、ジャブでライノの鼻面を叩く。
「へっ!!やるじゃねぇか!!!」
ヒロムの腕力ではライノの鋼のような筋肉には通用しないだろう。狙うなら頭部しかないが、さすがに簡単に打たせてはくれない。
「ごぼおっっ!!!」
距離を置こうとしたところでほぼ真下から鳩尾を突き上げられ、ヒロムは目を剥く。
衝撃と同時に喉を焼く刺激がこみあげてきて、凄まじい刺激とともにヒロムの鼻と口から噴き出した。
「おうぇっ!!!おうぇえええっっ!!!!」
腹を押さえ、胃液を吐き散らしながら地面でのたうち回るヒロム。
汗に塗れた身体はあっという間に土に汚れていく。
「ふう、まだまだだな」
「おうぇええ・・・・うぇっ・・・・」
意識が朦朧とし、顔を地面に押し付けて動かなくなったヒロムをライノは抱え上げる。
「ま、これくらい動けりゃ、ジンフロストの奴にも一泡吹かせられるだろうさ」
ライノは囲いの外に出ると、ヒロムを地面に寝かせる。
「じゃ、後は頼むぜ」
「はい」
少し泣きそうな顔で頷いたのはアンヘルだ。
ヒロムがライノの指導を受けることにしたあの日から、アンヘルもヒロムについてきていた。
「清明なる火、清澄なる水、清涼なる風、清浄なる地、万象を包みたる御霊、其の寵愛を以って苦痛のすべてを廃し給え、『天意の恵み』」
杖を翳し、詠唱したアンヘルから光が迸る。
その光がヒロムを包み込んでしばし―――
「ふう」
一息ついたアンヘルから光が消える。ヒロムの身体は汗と土に塗れているのでよくわからないが、すでに完治しているはずだ。
「お、終わったか?」
汗を流してさっぱりしてきたライノが戻ってくる。顔面はわずかに赤くなっているが、それ以外は痣一つ見えない。
「はい」
「やっぱ神聖魔法は便利だよな。もう少し軍に神聖魔法の魔導士が増えてくれりゃあいいんだが」
「その怪我・・・やっぱり魔法で治してないんですね」
アンヘルはライノの身体についた傷跡を痛ましく見る。
「うちにいた魔導士は『天意の恵み』までしか使えなかったんだ。俺の怪我は『天意の恵み』程度で治せるようなもんじゃなかったからな。とはいえ、俺が生き延びることが出来たのはそいつのおかげだから感謝はしてるさ。お前はどうするんだ?天才って評判だし、教会も囲い込みをかけてきてるんだろうが」
「以前、セルデガルフ様にお会いした時には、教会へ入るのは止めた方がいいと仰っていました。奨学金の事もあるので、軍に進みたいとは考えてますが」
「大賢者様がねぇ・・・教会の内部で色々揉めてるらしいって話は聞いたが、よほどのもんなんだな」
教会のトップであるはずの教皇位にあった人物がそこまで言うのだから、教会内部の歪みは相当なものだと考えていい。
「さて、ヒロムを綺麗にしたら今日は帰れ。来週は競技会だし、そろそろジンフロストとの決着をつけても良い頃合いじゃないか?」
「そう思いますか?」
「向こうもさらに鍛錬を積んでいるんだろうが、ヒロムならイケると思うぜ」
そう言いながらヒロムを抱え上げて井戸端へと運んでいくライノの後を、アンヘルは追いかけた。
「大丈夫?」
「あぁ・・・もう痛みもないしな」
ライノにくみ上げてもらった水で身体の汚れを落としながら、ヒロムは苦笑する。
神聖魔法第二位相、『天意の恵み』。教会で最も使われる機会のある魔法だが、教会に所属する正魔導士以外では効果が低いことで有名な魔法だ。
だが、アンヘルに掛かればあっという間に傷口まで塞がる。
つまり神聖魔法に信心は必要ないということだ。考えられるのは一つだけ。専用に調整された法具を教会は司教とした正魔導士たちに渡しているのだろう。そうして魔法の効果を引き上げ、さも信心が重要なもののように見せかける。庶民の知ることのない、ちゃちな手品で虚栄心を満足させているのだ。
アンヘルという本物に出会ったからこそ気付いたヒロムが言える立場ではないが。
「本当に筋肉ついたよね。もうルディ以上にはなってるよ」
「まあな。制服買い替えなきゃならなくなったし」
ルディとの特訓から三か月。身長はさほど伸びていないのだが、胸周りと二の腕が入らなくなってしまったために、ヒロムは制服を買い替える羽目になった。家には頼らないと決めているので、中々痛い出費だったのだ。
「あ~、今度の試験で魔力が落ちてたらどうすっかな」
肉体の成長が進んでいるということは、マナが肉体の成長へと回されているということだ。その分、魔力へと変換されているマナは減っているはずだった。
現状、ヒロムの魔力では第四位相を一回使うのが限界で、二年生の中間考査ともなれば実技で第三位相を二系統は使えなければならないので、今でもギリギリだ。これ以上減るとなると、正攻法ではない隠し玉を考えておく必要があった。
「お父さんに頼んで『マジックイーター』調達してもらいなよ。ヒロムが頼らないって決めてるのは知ってるけど、背に腹は代えられないでしょ?」
「『マジックイーター』ねぇ・・・」
『マジックイーター』は指輪型の法具で、その名の通り魔力を吸収する。
自分の魔力では使えない、より上の位相の魔法を使うために用いられるが、非常に高価なもので並みの魔導士では手が出せない代物だった。
それを贖える貴族階級の魔導士か、勇者が主に用いている。
勇者は基本的に皆がアンヘル同様『祝福されし者』だ。生まれながらにして魔力を持つ存在。
だから魔導士の紋章がなくとも魔法を使えるが、魔導士の紋章によってマナから常に魔力を補給している魔導士に比べるとやはり魔力切れが早い。最前線で闘う勇者にとって、魔力切れは戦略上不利な状況となる。そこで用いられるのが『マジックイーター』だった。
「無理無理。あんなクソ高いもん。あ~誰か気前のいい人が貸してくんねぇかな」
「貸してもらう・・・か。そういえばヒロムのお兄さんって、リヒト様とパーティー組んでるんじゃなかったっけ?」
光の勇者、リヒト=ルカイン。70年前、異人を率い王国へと侵攻してきた魔王アタバスカを討ち取った勇者ドレイトンが育てた勇者として、現在、王国でもっとも注目されている人物だ。
昨年の天神祭で行われた国王主催の剣技を競う大会に登場したのだが、圧倒的な剣技で優勝の最有力候補とされていた王下72柱の一柱、剣技が卓越していることで有名なムーント家の長子、ラファエル=ムーントを下し優勝を掻っ攫って行った。
その上『祝福されし者』で魔法の技能も魔導士に引けを取らず、さらに知的な印象の整った容姿もあり国民からの人気が沸騰した。
「そういえば兄貴と同じ教導院だったか」
白兵戦系の技能を教える教導院のうち、ひとつは設備が充実した貴族階級専門の教導院なので、本来ならばカルディアの長子であるカズマはそこに通うはずだったのだが、カズマは面倒だと言って屋敷からもっとも近いユーデンシア教導院に通っていた。
リヒトもその教導院出身だったはずだ。
「天神祭に合わせて任務から帰ってくるかもしれないし、お会いしてみたらどうかな?」
「そうだな・・・チャンスがあればそうしてみるよ」
ヒロムはざぶっと頭から水を被ると、アンヘルが渡してくれた手ぬぐいで体を拭きあげる。
「さて、ルディの奴に挑戦状を突きつけに行くか」
「そうだね」
ヒロムは服を着ると格闘場に戻る。
「先生」
「ん?」
振り返ったライノに頭を下げる。
「今日はありがとうございました。これからルディの奴に挑戦してきます」
「おうよ。良い話を期待してるぜ」
「あいつに勝っても指導は続けてもらえませんか?」
ヒロムの申し出にライノは首をかしげる。
「なんだってまた」
「あいつを倒したら、次の目標は先生ですから」
ヒロムが突き付けた挑戦に、ライノはニヤッと歯を剥く。
「いいぜ。カズマ=カルディアの奴にはリベンジ出来なかったからな。お前をしっかり鍛え上げて、全力でお前を倒す。それであいつの代わりにしてやるよ」
「負けませんよ」
「こっちのセリフだ。じゃ、キッチリ勝利をもぎ取って来い」
「はい!」