第三十四話 蟷螂の斧
クラウリーからの使者、ネリーは帰還の途についた。
健吾たちは北の帝国領トレントへの遠征の準備を進め、短日のうちにそれを終える。
そして出発の前夜。
夜更けに、長門かえでの部屋の扉を叩く者がいた。
「誰?」
「オレだ」
誰何に応えた声は、王城健吾のものだった。
「こんな時間に、なに?」
「ちょっと相談してェことがあってよ」
「いいわよ」と言いかけて、かえでは気づいた。
すでに寝る準備を終え、ベッドで横になっていたかえではパジャマ姿だ。これで健吾の前に出るのは、すこし恥ずかしい。
「ちょっと待って。いまパジャマだから、着替えさせて」
「おう」
健吾の返事には、特に動揺の色はない。
それはそれで、プライドが傷つくんだけど、と眉をひそめながら、かえでは着替えを済ませ、卓上の明かりを灯すと、室内に健吾を招き入れた。
「よう。遅くにすまねェな。邪魔するぜ」
健吾と違って、かえでは宝玉宮のきらびやかな装飾にも抵抗はない。
豪奢な部屋にふさわしい大理石のテーブルにつくと、健吾は、妙に話しにくそうにしながら、切り出した。
「あのよ……ちょっと、相談なんだが」
深夜である。
健吾の性格は知ってはいるが、それでも彼の野獣めいた容姿を見れば、淡い危機感を覚えないでもない。
――まあ、健吾くんだし、大丈夫だろうけど。
魔女シスと脅威の中学生的ストロベリー空間を形成していた健吾である。
きっと身の危険など皆無だ。
――やっぱり、それはそれで腹立つわね。
思いながら、かえでは首をかしげる。
「なに。相談って?」
「オウ、ちょっと聞きたいんだけどよ……“惚れる”ってどんな感じなんだ?」
「は? 惚れる?」
思わぬ言葉に、かえでは頓狂な声をあげてしまう。
「オウ。どうにも恥ずかしい話だがよ、オレは人に惚れたって事がねェんだよ。いったいどんな感じなんだ?」
「……」
「おい、かえで?」
「……うん。見栄張ってもしょうがないわね。告白します。あたしもわかんないの。人に惚れるって感覚が」
告白されたことなら、山ほどある。
異性に好感を抱いたことも、ある。
目の前に居る王城健吾のことだって、好ましく思っている。
だが、惚れる、という感覚は、長門かえでにとっては未体験の領域なのだ。
「マジかよ……参ったな。かえでに聞きゃわかると思ったんだが」
「あのね。あたしにだってわからないことはあるの。昔っから恋愛ごとって苦手だった……でも、なんでいきなりそんな事聞いてきたの?」
「おう、それがよ、言われたんだよ、車輪の王のおっさんに。オレは魔女さんに惚れてるって」
言いながら、健吾は困ったように頭をかく。
「車輪の王に」
「オウ。言われて、納得した」
「納得したんだ……」
「魔女さんに惚れてる車輪の王の言うことだ。間違いねェだろう」
「いや、ものすごい誤解があるような気がするんだけど……」
――どうなんでしょう。
かえでは首をひねる。
健吾の魔女シスに対する思いは、はっきりとした恋愛感情までは行っていない気がするのだが。
「でもま、理解したわ。それで、あたしに聞きに来たってわけね」
「おう」
それが、わりと真剣に人選ミスだったのはさておき。
「じゃあ、ストレートに聞いてみるけど、健吾、あなた魔女さんのこと、どう思ってる? 惚れた、とか抽象的なものじゃなくて、具体的にはどんな感じ?」
「ああ……まあ、胸は、デカイよな」
「……まずそれか畜生」
「ん?」
「なんでもないわ。続けて」
小声で吐きだしたのを聞き咎められて、かえでは誤魔化した。
「あー……あとは、美人だよな。で、命を助けてもらった恩人だ。あとは――なんか、ほっとけねェっつーか」
「ほっとけない?」
「たとえばよ、かえで、おまえ、日本でよ……たった一人でコンクリの壁をぶっ壊そうとしてるやつを見たら、どう思う?」
「止めるわよそんな不審者」
「いや……だがよ、そいつは止めても止まらねえ。必死でよ、コンクリの壁をぶん殴り続けてるんだ。壁をぶっ壊すのがみんなにとって一番いいことだって信じてよぉ」
それは、健吾なりの例えなのだろうか。
皇女である彼女が。
自分が生まれた帝国を。
滅ぶのを承知で。滅ぼすのを覚悟して。
皆のためにたった一人で蟷螂の斧をふるい続けたこと対する。
「そんなの、ほっとけねェだろ」
「かもしれないわね」
――でも、それはやっぱり恋とは違う気がするけれど。
内心で思いながら、かえでは同意した。
魔女シスのことも、この帝国のことも、長門かえでは放っておけない。
だが、かえでは魔女シスとは違う。
かえでが救うべき人の中に、帝国の人間は含まれていない。
帝国の人間を助けるには、彼らは旧七王国の人間の恨みを買いすぎた。
だからかえでは、今後必然的に形成されるであろう戦後の体制は、帝国人の流血の上に成り立つと推測している。
むろん、その流血を最小限のものにしようとは思ってはいるが、帝国すべてを救うことをあきらめなかった魔女シスとは、そこが決定的に違う。
ふと、かえでは思った。
「ねえ、健吾。あなたはどう? あなたはその、壁を殴り続ける人を、どうしたいの?」
「オレか? そうだな……そいつを止めて……」
王城健吾は言った。
獣の笑みを浮かべて。
「――オレがかわりにぶっ壊してやるさ」
揺るがぬ言葉に、かえでは苦笑を浮かべる。
彼の、こういうギリギリ紙一重のまっすぐさは嫌いじゃない。
「その時は、あたしも手伝うわ。他の誰でもない。王城健吾がやるのなら、あたしも、手伝う」
なぜなら。
この野獣のような青年は、いつだって、子供のために戦ってきたのだから。
「オウ。よろしくな、相棒」
笑って拳を突き出す健吾に、かえでは拳をぶつける。
「こっちこそ。頼りにしてるわ。相棒……にひ」
灯明に照らされたかえでの笑みには、微小量の照れが混じっていた。
そして、その夜の不毛な恋愛相談は、結局結論が出なかった。
◆
トレント首都ルートン、摩天城。
その日、槍の王の元に、三通の手紙が同時に届いた。
一通は杖の王――皇女シスからの手紙。
曰く、剣の王と協調して鉄塊の王を討て。
二通目は剣の王ソードからの手紙。
曰く、皇女の命で皇領を離れることになった。武装使いを編成してそちらに向かうから待っていてくれ。
そして三通目は、鉄塊の王、王城健吾からの手紙。
曰く、ぶっ倒しに行くから首を洗って待ってな。
「まったく、どうしろと言うのだ」
玉座の前にあぐらをかきながら、“槍の王”ランスは頭を抱えた。
三通の手紙の内容は、それぞれ単純ながら、深刻な問題を孕んでいる。
三通目の手紙は、鉄塊の王がほどなくして侵入してくることを示している。
だが、二通目の手紙にあるように、剣の王が帝国皇領より武装使いを引き抜いて軍を編制するとなれば、相応の時間がかかり、間に合わない。
しかし、一通目の手紙。皇女シスからの命令があるせいで、早期に思い切った作戦行動に出ることが、ためらわれるのだ。
「――どう考えても、一介の平凡な男に課せられる試練としては重すぎるわ。これは結社の仕業か」
「どうしても手が足りん」と槍の王は一人、唸る。
――狂人め。
槍の王の眼前で膝をつく副王ハルマンは、心中毒づいた。
――敵も味方も疑って殺しまくったのは貴様だろうが。
ハルマンは思う。
大陸統一を成し遂げた統一皇帝は偉大なお方であったが、この男をトレント王に封じたことだけは、失敗であったと。
なるほど、この男は英雄だ。
兵卒から叩き上げで成り上がっただけのことはある。
一兵卒としてのランスは、勇猛かつ命令に忠実な男だった。
部隊を率いる将としてのランスは、部隊を一丸として強固に保持し、戦う有能な男だった。
一軍を率いる将軍としてのランスは、戦機をとらえるに敏であり、また兵の効率的な運用に長けた、優れた男だった。
だが、王としてのランスは、別人のように無能だった。
まともな組織構築も、官僚団の統制も出来ず、国内に長い混乱をもたらした。
あげくに己の無能を認められず、己の支配を邪魔する“結社”の存在を妄想上に築きあげた。
現地官僚を疑い、粛清して政務を滞らせ、味方武将を疑い、粛清して帝国のトレント支配に支障をきたしている。
果てには民草までをも結社の手先として虐殺する始末だ。
英雄は、王となって、手のつけられない暴君と化してしまった。
だが。
ハルマンは苦い感慨を交えながら、思う。
――大陸解放の波を、鉄塊の王の侵略を押しとどめるためには、この男が必要だ。
八王中最も非力な、だからこそ恐ろしい、この男が。
◆
帝国領クラウリー王国、龍江イシズ流域都市のひとつにロックスがある。
“戦斧の王”エクスの討死後、解放を宣言した中核都市のひとつだ。
クラウリー解放都市の使者、ネリーはロックスに帰還すると、町はずれの質素な隠宅を訪ねた。
「養父さま。やはりこちらでしたか」
薄暗い部屋のなか、椅子に腰をかけた男の姿を見て、ネリーは声をかけた。
年のころは四十過ぎか。
ほっそりとした顔に、端正に整えられた顎鬚の、君子然とした男だ。
椅子の高さが合っていないのか、それともよほど長身なのか、半ば膝をたたむような格好でいる男は、ネリーに声をかけられ、目を細めた。
「お帰り。ネリー。首尾は……良かったようだな」
「はい。“鉄塊の王”との同盟、無事成りました……それにしても養父さま。なぜ“七賢者”のあなたが政庁に居られないのですか。ロイド様が愚痴を重ねられていましたよ」
七賢者、とは、ロックスをはじめとしたクラウリーの解放諸都市の指導者たちの総称だ。
戦斧の王の粛清により、武装使いを失ったクラウリーは、指導者の資質を知と政治力に求めた。
「ロックスはロイドがよくやってくれているよ。わしなどは、居ても邪魔なだけだろう」
「そのようなことは」
「よいのだ。政務はロイドに任せておけば、滞ることはあるまい。調整役、調停役、それぞれに秀でた資質を持つ者が、七賢者に居る」
涸れたようなことを言う男の声は、しかし壮気に満ちている。
己の使命を明確に知るがゆえの、迷いなき声音だ。
「だから、始めよう。わしはわしに出来ることを始めよう。策を弄し兵を使い帝国の武装使いどもの滅殺を始めよう」
ぎり、と拳を握りこみながら、明確な意思をもって、男は誓うように言った。
「――このロビンが、始めよう」
トレントとクラウリー。
弱き者が強者を討たんとする戦いが、大陸の北と南で、同時に始まろうとしている。
◆登場人物
ランス……いっぱいいっぱい系狂人中年
ハルマン……胃痛系苦労症副官




