第十一話 日本人
ほのかに湿り気を帯びた風が、頬を撫でた。
誘われるように女が窓の外に目をやると、一羽の燕が、彼女の視界を横切っていった。
無意識に燕の行方を追うと、自然、外の風景が目に入る。
眼下に広がるのは、遠くに海を仰ぐ、雄大なるボルソンの街並みだ。
首都ボルソン。
帝国領オルバン王国の首都であるこの巨大都市を見下ろす位置に、風の宮殿がある。
かつてオルバン王国の宮殿であり、現在も“鎧の王”の居城となっている宮殿は、広大な街並みを見下ろす小高い丘の上に建っていた。
その一角。
かつての後宮の一室に、彼女は居た。
広く、豪奢で、しかし調度の類のほとんどない閑散とした空間に、女はひとり、たたずんでいる。
淡い金髪に紫の瞳。恐ろしく整った顔立ちの女だ。
年齢は、はっきりしない。若いようでいて、そのくせひどく老けて見えることもある。
体の線を一切出さない、黒のローブを目深にかぶり、鈍色の杖を突きながら、女は見通すような瞳で遠くを見やる。
「よう。“魔女”」
ふいに声がかけられ、女は振り返った。
扉が開いており、戸口に巨漢が立っている。
年のころは、四十過ぎ。焼けた、なめし皮のような肌に、黒い短髪の主だ。
全体的に荒々しい造作の中で、目だけがひどく鋭い。それが、この男に剣呑な印象を与えている。
「メルヴ。また来たか」
年齢不詳の美女が、冷めた紫の瞳を男に向けた。
メルヴ――帝国領オルバンの国王を前にして、女の態度は不遜とも言えるものだったが、男がとくに咎める様子はない。
逆に苦笑さえ浮かべて、鎧の王は女に語りかける。
「だんまりは止めたか」
「飽きたからのう」
戸口に体を預けながら言う鎧の王に、女は淡々と、言葉を返す。
「――さすがに一月以上、怒り続けるのも大人げないと思うてな。話くらいは聞いてやろうぞ。メルヴよ」
「ったく、ようやく耳を貸す気になったか。餓鬼を人質に取ったからって拗ねやがって。そんなにあの餓鬼が気に入ってやがったかよ」
「聞こえておるぞ! 下衆な勘ぐりをするでない! なによりそなたにだけは言われとうないわ!」
全力の抗議を「悪い悪い」と流して、鎧の王は続ける。
「しかし、おい。“魔女”――シスよ。いい加減俺様に手を貸す気にならんか? お前の望み通り、皇帝はぶっ殺してやるぜ?」
平然と。
鎧の王は驚くべきことを口にした。
帝国の支配体制、一帝八王の頂点である皇帝を、殺す。
それは、公然たる反逆宣言に他ならない。
「相変わらずだのう。まだ謀反気が抜けぬか。メルヴよ」
魔女――シスは冷たい瞳で、男を見据える。
帝国がいまだ列国としのぎを削っていた時代、帝国の一諸侯であったこの男は、従う勢力を転々とし、時に裏切りながら、その実力ゆえに許され、ついには八王に列せられた経歴の持ち主だ。
「――皇帝を討って、至尊の地位を奪い取るつもりかえ? じゃが、メルヴよ。それは不可能というもの。貴様は王の王たりえぬよ」
「ふん、見くびられたもんだ」
断ずるような女の言葉を、鎧の王は鼻で笑う。
「――国内はすでに抑えた。たとえ反逆を起こそうと、オルバンの帝国将兵も有力者どもも、すべて俺様の味方だ。俺様がその気になれば、明日にでも数万の軍を集め、皇帝打倒の軍を起こせるんだぜ?」
「知っておるよ。貴様ならば、それくらいはやるであろう。もとよりオルバンは尚武の気風強き地。強者に靡くは必然……だから、どうしたというのじゃ? 反乱を起こすことと皇帝を討つことの間には、那由多の隔たりがあるぞ?」
魔女の言葉には、淡い諦念が含まれている。
「――反乱を起こしたところで、西に鎮座する戦斧の王をどう抜くつもりじゃ? それから、盾の王を忘れてはいまい。彼奴は為政者としても将軍としても一流じゃ。ひとたび反乱ともなれば、戦機逃さず兵を率いて飛んで来おるぞ?」
その指摘は正しい。
ただし、彼女は知らない。
その前提が、すでに半ば覆っていることを。
「盾の王――ルースの野郎は死んだぜ?」
「なんじゃと!?」
女が目を見開いた。
紫の瞳に、強い驚愕の色が浮かんでいる。
盾の王。北の鎮護たる彼の死は、彼女にとってにわかには信じがたい報せだった。
「くく、さしもの魔女も驚くか……そうだよな。あの北の鎮護が殺された。しかも、その中枢戦力も壊滅だ。やったのは――想像がつくだろう?」
「……日本人。やりそうな娘に心当たりがあるわい」
衝撃が抜けきらない様子で、魔女シスはつぶやくように答えた。
「そうだ。ニホンジンだ」
鎧の王が強くうなずいた。
「お前がその杖で召喚した。強力な武装使いの才能を持つ、ニホンジン。奴らをもっと喚んで従えりゃあ、皇帝も怖くねえ。だから、おい、協力しろよ。そうすりゃ、俺様が皇帝になった時、皇后くらいにはしてやるぜ? ま、もっとも、お前みたいな嫁き遅れなんぞまったく好みじゃねえけどな」
「い、嫁き遅れ!?」
鎧の王が最後に付け加えた言葉に、女はがびーん、と、あからさまに衝撃を受けた。
それから、ちがうもんちがうもん家格と才能が釣り合う相手がいなかっただけだもん世の男どもが不甲斐ないだけで妾は悪くないもん。と、呪文のように唱え、女は己を支える。
「……ふっ。ふふ、もとより貴様のような幼児性愛者なんぞ、こちらからお断りじゃわい」
と、かろうじて杖にすがって身を支えながら、年齢不詳の美女は返した。
「――それに、日本人を従えるじゃと? 笑わせおる。妾が。この絶世の天才と謳われし杖の武装使い――魔女シスですら、恐れて一度に一人づつしか召喚できなかった日本人を、貴様ごときが従えるじゃと?」
突き刺すような魔女の言葉。
だが、鎧の王は揺るがない。
巨大な体をそり返らせ、己に親指を向ける。
「従えるさ。腕力でな。どちらが上か、体に叩き込んでわからせてやる。あのニホンジンの餓鬼のようにな」
自信にあふれた男の言葉に、魔女はため息をついた。
鎧の王は、日本人の恐ろしさを、まるで理解していない。
「……メルヴよ、お主は分かっておらぬ。日本人は恐ろしいぞ? なにより、奴らの持つ常識が、この上なく恐ろしい」
言い聞かせるように、魔女シスはゆっくりと語る。
「妾は皇帝を討ち、玉座の主を他の皇子にすげ替えるつもりでおった。メルヴよ。貴様は己自身が皇帝の座に就くことを目論んでおる……しょせんその程度よ。我らの成さんとしておることは、な」
鎧の王が、驚きに無骨な眉を動かせた。
政変、反乱。帝国を揺るがすであろう大事を、その程度、と言い捨てられたのだから、当然だ。
「――じゃが、日本人は違う。彼奴等は皇帝という存在自体を消し去るかもしれぬ。王を廃し貴族を消して、民草しか存在せぬ世に世界を作り替えるやもしれぬ……メルヴよ、鎧の王よ。日本人を望むなら、喚んでやろう。じゃが、彼奴等は毒じゃぞ? この世界にとっての異物そのものじゃ。そのことを、心せねばならぬ」
魔女シスは知らない。
異変が、すでに起こりつつあることを。
帝国の一帝八王のうち、二人の王がすでに討たれたことを。
旧エヴェンス王国を中心とした解放の機運が高まり、すでに北の国ノルズに波及していることを。
「けっ。奴らがそんなに大したものかよ。シスよ。忘れたわけじゃねえだろう? お前が隠れ住んでいた宵闇の森。あそこにいたニホンジンなんざ、俺様に締めあげられて、手も足も出なかったじゃねえか」
拳を鳴らす鎧の王に、魔女シスはかぶりを振った。
「舐めぬが良いぞ。日本人を、そして、あの子――王城健吾を。予言するぞ。あ奴は必ず、貴様に祟る」
「はっ。口の減らねえ。お前こそ、力を貸さんつもりなら、覚悟しておくんだな。女を従わせる方法なんざ、いくらでもあるんだからよ」
魔女の予言を笑い飛ばした男が、脅し交じりの言葉を吐いた、その時。
すさまじい轟音とともに、風の宮殿が――揺れた。
「――っ、なんだあっ!?」
叫ぶ鎧の王より早く、魔女シスは事態を把握していた。
窓の外、はるか彼方、洋上に浮かんでいる、巨大な鉄の塊。
この世界のものではありえないその鉄塊の正体を、彼女は識っている。
知らず、彼女はその名を口にしていた。
「戦艦……長門」
◆
帝国領オルバンの首都ボルソン。
この大都市を遠くに仰ぐ洋上を進む、巨大な鉄の塊があった。
戦艦の武装、“超弩級戦艦”。
圧倒的な鉄量を誇る、この世界において世最大最強の戦船。
その舳先で仁王立ちになりながら、黒髪の美少女、長門かえでは不敵に笑う。
笑いながら、はるか彼方に見える宮殿に、少女はいたずらっぽく語りかける。
「お待たせ、魔女さん。お待たせ、鎧の王……日本人一名、お届けにあがりましたーっ!」
にひ、と笑う少女のその横で。
王城健吾は、獣のごとき笑みを浮かべた。
◆登場人物
シス……年齢不詳の金髪美魔女
メルヴ……俺様系野心家男子
 




