2.
応接室を出て如月氏の後に付いて行った。
この建物は奥に長く、病室が並ぶ病院のような造りだった。いくつもの鉄扉が並んでいるが、中が見えず、何の部屋なのかはわからない。ひんやりした暗い廊下が続く。外気温は三十度以上あったが、この建物はツタに覆われているせいか、とても涼しい。
歩きながら如月氏が説明した。
「私はいろいろあって学会から干されていて、今の実験にすべてをかけている。ここはこんな山の中で不便だが、極秘に実験を進めるには都合がいい。この場所は、戦時中も秘密の実験施設だったらしい。ここを買い取ったときには、まだ土地のあちこちに実験で殺された人の骨が埋まっていた」
心霊スポットでも僕は怖くない。見えない幽霊よりも、むしろこの、白衣を着ているくせに汚く見える如月氏の方が気持ち悪いと思った。この人が実は吸血鬼かゾンビだと言われれば、そうだと信じてしまいそうだ。
「ここが坂上君の二日間の住まいだ。少々狭いが辛抱してくれ」
案内された狭い部屋には窓が一つもなかった。
広さは四畳半ほどで、壁はすべて扉と同じような金属製。病院の診察台のような狭く飾りのない固そうなベッドが真ん中に一つ置いてあるだけで、家具は他にない。
「今すぐその服に着替えてくれ。荷物は全部預かる。明日帰るときに帰すから」
ベッドの上には、手術着のような前合わせの緑色の服と、パンツ型紙おむつが用意されていた。
緊張を飲み込む。
自力でトイレへ行けないほどきつい仕事が待っているというのか。
「その紙おむつも履くんですよね?」
「下着を濡らしてもいいなら普通の下着でかまわないが、たまに失禁してしまう人がいる」
マジかよ。そんなことになるなら紙おむつにした方がいい。
手早く紙おむつをつけ、手術着っぽい服一枚の姿になると、如月氏は僕のカバン、スマホなど、すべてを脱衣かごに収め、部屋の外の廊下へ出した。
「ベッドに横になってくれ。血圧をもう一度測る。ついでに、血液サンプルを少しもらう」
僕に拒否権はない。やっぱり血を採るのか。
如月氏は手早く採血準備を整え、僕の細くて見えにくい血管を一発で当てた。採血に関してはプロだと思う。この男が医者だという話は信じたい。
「これで事前検査は終わりだ。昼食までここにいてくれ。悪いがアイマスクをさせてもらう。アイマスクは勝手にはずしてはいけない。それが仕事だ」
「……はい」
なんでアイマスク?
疑問をぶつける間もなく、さっと目が覆われて、僕の世界は暗闇一色になった。
「昼食になったら呼びに来るから、それまではゆっくりくつろぎたまえ。ここならば誰も危害を加えない。この室内なら自由に動いてもらって構わない」
ガチャンと扉が閉められ、如月氏は出て行ったようだった。天井に備え付けられたエアコンの音だけが僕の耳に入ってくる。
アイマスクをしていても手足は自由だ。どうしても我慢できなかったらアイマスクを取ればいい。
それにしても……くつろげ、と言われても、目はこれだし、テレビもスマホもなくては音を楽しむことすらできない。伝い歩きで散歩するにしても、窓もない狭苦しい部屋だ。こんなところで歩いていてもおもしろくない。結局、ベッドに座るか横になるしかない。
本当におかしなバイトだ。なんらかの精神病の研究か。このまま閉じ込められ続けたら狂ってしまいそう。いや、そんなすぐに狂うわけがない。到着したのは朝十時ぐらいだった。すぐに二時間ぐらい経って、昼食事時間になれば休憩できる。
そういえば、トイレはどうするんだろう。この部屋にはトイレはなかった。紙おむつでやれと?
「すみません、如月さん、トイレはどうしたら」
声が返ってこない。近くにいないのか。モニターで僕を見ているのなら、すぐに来てくれてもよさそうなのに。
まあ辛抱だ。今すぐトイレに行きたいわけでもないし、昼食の時に行けばいい。目隠しをしてじっとしているだけで一日三万円なら超楽なバイト。退屈でも明日の夜には終わる。
何もすることがないと時の流れはゆっくりに感じる。
腹が減ってきた。水も飲みたい。今何時かな。昼食は何だろう。給食のおばさんとかいるのかな。作るのは如月氏の奥さん? 僕の他には短期バイトのやつはいないのか。いたら、一緒に食べることができるかも。それがかわいい女の子だったら最高じゃないか。
――なんて考えていたら、突然女性の悲鳴が聞こえてきた。
『いやぁっ!』
はっとして耳に神経を集中させる。
『最初に言ったと思うが、私はホルのが好きでね。ホルことに命をかけている』
如月氏の声だ。僕にも同じことを言った。
『佐竹さんは久しぶりの実験体だ。今日は運よくもうひとりバイトが来てね、明日もホルことができる。ここしばらくの間、人が全く集まらなかったから、二日連続でできるとは最高の気分だ』
『あたしを解放してください。お金はいりませんから』
『そういうわけにはいかない。契約通りちゃんと実験の手伝いをしてもらう』
『もういいです。早く拘束をほどいてください。きゃっ、なにするんですか!』
『いいねえ、その歪んだ顔。恐怖が増すほど、すばらしい結果が出る。さあ、もっと楽しませてもらおう。苦しみはこれからだ』
如月氏は暗い笑い声を発している。女の子の泣き声は、さるぐつわを付けられたのか、くぐもった声に変わった。僕は耐えられなくなり、金属の壁を両手でたたいた。
「如月さん、何をしているんですか」
返答はない。向こうには僕の声は聞こえていないのか。
女の子の声はそのうちに静まり、如月氏の笑い声だけが遠くに響いている。
……彼女が犯された? それとも殺されてしまったか。女の子の啜り泣きすら聞こえなくなった。
あいつ、キチガイだ。あんなやつのことなんか呼び捨てにしてやる。
「あの男、何やってんだよ。ここには他の職員はいないのか」
僕がこんなに騒いでいるのに誰も来ない。もしかして、僕の他に、この建物の中にいるのはあの男と、かわいそうな女の子だけ?
ひんやりとした金属の壁をたたいているうちに、背筋に寒気が走った。
ここは山中の一軒家。どんな大声を出しても近所から助けが来ることはない。この部屋は何もなく、まるで牢獄じゃないか。
畜生、はめられた。
高額を提示して人を集め、被害者をいたぶって殺しをやることが目的だったに違いない。こんなところで頭のおかしい男に無残に殺されてたまるか。
アイマスクをむしり取って床に投げ捨てた。
「やってられるか!」
今すぐ逃げないと僕も殺される。早く脱出だ。
扉に突撃しようとして拍子抜け。意外なことに、扉はすんなり外へ開いた。
鍵はかかっていると思い込んでいた。それなら悲鳴をあげていた女の子を助けに行けたと思うと、申し訳ない気持ちがかすめたが、今は人の救出どころじゃない。扉が開いているなら逃げるだけだ。女の子を助けたいけれど、彼女はきっと気絶しているか、最悪の場合は死んでいる。動けない女の子を連れてここから逃げきる自信はない。
走りながら心の中で彼女にあやまった。
すぐに僕が警察を呼んできてやる。それまで待っていてくれ。
とにかく、今はここから脱出するんだ。
着替えた時に廊下に出された僕の持ち物一式はそこには置いていなかった。如月がどこに持っていったのかわからない。スマホがあればすぐに警察を呼べるけれど、荷物を探し回るよりも、如月が女の子にかまけている間が逃げるチャンスだ。
南にある玄関方面へ向かうと、廊下の途中、廊下を仕切るように鉄の防火扉が閉められていた。しかも防火扉のくせに鍵がかかっている!
舌打ちしそうになる衝動を押さえた。ここが通過できないなら、さっきまでいた部屋の方へ戻るしかない。廊下の途中にあるいくつかの扉もそっと開こうと試してみたが、すべてに鍵がかかっていた。どこかの部屋の窓から外へ逃げることは無理そうだ。
結局、扉に鍵がかかっていなかったのは僕がいた部屋だけだった。
裸足でつま先立ち、できるだけ静かに廊下を移動すると、一つの部屋に人がいる気配がする。カチャ、カチャ、と人が皿を洗っているような音と同時に、ピッ、ピッ、と規則正しい機械音が漏れている。
きっとこの部屋が拷問部屋だ。幸い、その部屋の扉に窓はない。僕が廊下を通っても中からは見えない。
部屋を素通りし、廊下の奥にある外への扉を開いた。運よくここには鍵がかかっていなかった。むっとする夏の外気が頬に触れ、蝉の声が大きくなる。
開いた先は明るく広い中庭で、あまり手入れされていない庭木が不規則に植えられていた。
さっと見回すと、普通に塀に切れ目というか、裏口があるじゃないか。門扉は付いておらず警備員はいない。やはり、この自称研究所にはあのキチガイ男しかいないんだ。
裏口を目指して全力で庭を駆け抜け――
「っ!」
足元が突然崩れ、宙をつかんだ。