最終章
今回で完結します。貴重な時間を割いて読んで下さる方に感謝します。
最終章
月が赤くこうこうと照っている。異様な霞があたりを包み、それなのに月明かりだけが異様に迫りくる。それに触発されるように僕の身体は痙攣を起こしていた。
ホームは相変わらず混んでいた。それでも最前列で並んでいたんだ。そうこんな光景を前にもあった。
快走電車が通過すると、アナウンスを聞いた。
そう、こんな風な感じだった。
ホームの最前列で、電車をオレは待っていたんだ。
そのとき、オレの前に女性が立った。割り込みかと、オレは注意しようと女性の背中に声をかける。すると女性は振り向いて、妖艶に微笑む。それはつい先日別れた美奈だった。オレの手を掴み、そのままホーム下に吸い込まれるように落ちていく。電車はもうそこまで来ていた。先頭車両がそのまま駅に進入してきていた。美奈の顔は側面を殴打し、美奈の肉片と鮮血が飛び散り、そのまま引っ張られるオレを一瞬硬直させた。視界も硬直し、美奈の顔が一瞬にして潰れた映像が脳でリフレインされている。スローモーションで繰り替えされる。実感してくる。オレは美奈に手を掴まれていたため、そのままあおりをくらって吹っ飛ばされたのだ。オレは状況を把握できないまま、衝撃を受け、ホームの上を転がって、頭の激痛を感じた。意識は朦朧として沈んでいったんだ。オレは脳裏で空間処理を試みようとするが、激しく交錯するフラッシュバックに自制も効かず、オレの 被服からはみ出た手は震えていて、冷や汗は止め処なく流れ落ちる。
固まって重くなり、その外圧に耐えかね、オレは静かにひびわれていくように口からこぼれる。
「僕は本当はわかっていたんだ。起こったことに整理がつかなかった……」
それがすべての停滞の原因なのだ。オレは僕であって、僕はオレであって、そのホームの事故の後、意識不明になって眠っていたのだ。
見たくない現実を見ないという悪い癖を持っていたために、逃避してしまったんだ。美奈とオレとに起こったことは事実にしては受け入れがたかったのも確かだけど、それでも受け入れなければならない事実に逃げ出してしまった。
そう、たとえばオレの肌に黒い影が射してきて、身体を蝕んで行く時の感覚は不思議と本来あるべき事実と同化していくようで心地よさを感じるとともに、毒素を含んだ柔らかな唇を重ねて思考の痺れを招き、しかしオレはそれに抗することなく、自分が自分でなくなる恐れとつながっていながらそのまま違うものに支配されていく、……自己の分裂と直結していくそんな感じを抱く日はオレは正気と狂気の分岐点で立ち止まって震えて眠るしかなかった……そうだな、眠っていたのだな。オレはさ迷っていたんだな。とろけるように深い休息の後、オレは目覚めようというのかもしれない……眠りから覚めようというとき……何を見るというのだろう?
あたしはあなたの心の闇に惹かれたのよ。それはあたしと同質のものよ。でも、あなたは目覚めようというのね。
病院の非常灯に蛾が舞っているのか、影が異様に大きく見えるのはなぜなのだろうか。
光や色が極端に省略されたような退廃的な含意があり、本来なら次第に自閉していく僕を止めているのは、きらきらと舞い落ちる光を、群れる蛾の背後で輝き出した光を感じたからだった。
僕は彼の病室に入り、ベットの前に立つ。瞼を半ば閉じて、そして、深く息をつく。眠る彼に吸い込まれていくような感覚を覚えていた。
オレは黒猫を抱きしめた。それは美奈だろう。そうだ、このぬくもりを覚えている。
あたしは肌にしみ染めしぬくもりを、あたしに向けられたあなたの包容力をずっと待っていたの。でも、……あなたは今、何を思っているのかしら。……たぶん戻ることを考えているのね。
いつの間にか気がつくと僕はタクシーに乗っていた。後部座席で美奈と寄り添っている。
「ほら足音が聞こえるでしょう。……冷たい足音ね」
美奈が車外の虚空を見つめながら、独り言のように言った。
タクシーは止まっているのか、走っているのか、車内は暗くて静か過ぎる。ヘッドライトだけがずっと先まで照らしている。
「聞こえないよ」
僕には足音なんて聞こえない。
「やっぱりタクは聞こえないのね。あたしには聞こえるの。お父さんが呼んでいるのよ。行かなきゃならないんだけど、タクともう少しだけいたいのよ」
動悸が落ち着かないのを収めようと、僕は眼を瞑って美奈に肩をあずける。
あたしがあなたにまとわりついていたのは寂しいから。あたしは違う世界に来てしまったということに気づいていたの。あなたの匂いをあたしは微か嗅いでもしかしたら戻れるかと思っていたのよ。戻れそうにないことは気がついてた。だったらあなたをあたしのもとに引きずり込むしかないとも思ったわ。でも、あなたは戻る、あたしは戻れない。なぜならあたしは死んで、この世界に落ちたから。それも自ら命を断ち切って。もう一人の あなたは世界に執着していたけど、当然ね。病院のベットで死ぬのを嫌がっていたのはわかってた。そして、もうひとりのあなたはあたしを気遣って身体から抜け出して迷い続けてたのもなんとなくわかってた。あたしはあなたとともにこの世界にいたかったのよ。こわかったの。一人でこの世界にいることが、もうだめなのね。でも、あたしには……お父さんがいる、罪が癒えるまでさ迷い続けるあたしには先に逝ったお父さんの愛がまだ残されているのだわ……こんなあたしにもまだ残されているのね。生きてたとき、きっとあたしが死んでも世界は変わらないと薄々と気がついていたの。そんなことは気づいていて、誰かにそれでも頑張れと言われたかった。でも、そんな言葉は聞かなかったし、実際こうして死んでしまうと、そんなこと聞いたところであたしにはどうしようもないことだったと思うの。そう思ってしまうのよ。……こうしてあなたに寄り添っているがもう少しだと思うと……想いを語るのはつらいだけだわ。今日はきっと太陽が昇って行くのね。その太陽はあたしにはまぶしすぎて耐えられないでしょう。今年もきっと春が来て桜が満開に咲くのでしょう。きっと花びらを見上げるあなたは喜びを感じるのね……そして、私の存在はあなたから消えていくのでしょう。やがて、あなたは目覚めた意味を探りながら、人生を送るのでしょう。……月夜に見る浅き夢はなんて儚いのでしょう。
美奈が消えた。タクシーを降りて、立ち尽くす。道路の角にあるミラーに写っている月を見て、僕は振り返る。月を最後に見たのは何時ごろか、そうだ、八月の駅のホームだ。夕暮れ時だった。あの事故があって以来だ。僕はすべてを流れに任せた。刺すような雨が降り注いでいたはずだが、雨は止み始めている。流れが徐々に速くなっていく。戻ったら何をするのかと思いながら。出来ることなど高が知れているけど僕は流れに乗ったのだ。でも、きっと僕はその世界で、ひとつの魂として消えていくことぐらいはできそうだ。月の青白い光は僕の心を限りなく透明色に染める。
病室で眠る自分を眺めた僕は囁く。
「目覚めよう……でも、美奈はどこ……?」
美奈と一緒に僕は電車の椅子で、寄り添っていた。車内は明るく人々の匂い、人々の息遣いが感じられる。懐かしい以前経験していた感覚を戻しつつある。
次の停車駅はどこだろうか。窓から進路の方向を見ると、眼前にリアルタワーが広がっている。それはミサワが言ったとおり、壮大なスケールで、僕には語れそうもない。高く天に上っている。果てがないような高さに僕は緊張している。
「あたし、降りなきゃ」
「一緒に行こうよ」
即座に僕は返す。
「だめよ。もうあたしにはその資格がないのよ」
「いやだよ、連れて行くよ!」
そのとき、電車が急停止した。静かにドアが開く。冷たげなホームは山間にある無人駅みたいに寂れていた。
「オレは美奈が好きだ。オレと行こうよ」
僕はそう言って、すり抜けるようにホームの上に降りた美奈の腕を掴もうとするが、掴めない。美奈の腕だけではなく、身体にも触れられない。そこにいるのに僕の腕は空を切ってしまう。
「ダメよ。いくらやっても。もうあなたは戻るの。もう身体が感じ始めているの。実感するためにあなたの身体感覚は戻り始めているのよ」
「美奈!美奈って!?」
ドアがゆっくりと閉まり始める。僕の足は前に出なかった。
「さっき足音がすぐそこに聞こえたわ。駅の外にお父さんがいるの」
閉まり狭まるドアの隙間から、声が流れ込む。
「何言ってるんだよ!美奈の父さんは死んでるじゃないか」
「そう、……死んでるのよ」
無情にもドアは閉まった。僕と美奈との別れだ。
「あなたはリアルタワーに戻ったら、あたしのことを思い出すわ。あたしがあなたにしたことも思い出すわ。でも、あたしはあなたに出会ってよかった。こんなことたぶんリアルタワーに戻ったらあなたは怒るでしょうけど。ごめんなさい!ほんとうにごめんなさい!」
美奈は嗚咽を噛み切るように大声で叫んでいるようだ。
「美奈よく聞こえないよ。えっ?なぜあやまるの?」
「あたしはそれだけのことをあなたにしたのよ!」
「何をしたんだよ?オレはそんなこと知らないよ」
ゆっくりと電車は動き出し、美奈との距離が開いていく。僕に徐々にあせりをもたらしていく。ふと駅の外に目を遣る。美奈を見守るように立っているスーツ姿の人影が……いつかどこかで出会った男性だった。
「言いたくない!でも、あなたはもう思い出しているのよ。それをあなたはまだ気遣って知らないという屁理屈な態度で示してるんだわ。その態度もあなたが戻りかけているという証拠なのよ。あなたにとってもう一度生きるということは苦痛でしょうね。苦しむでしょうね。あなたは少し弱すぎるわ。まだあたし……あなたに言えることがあるとしたら、生きるということに正直になりなさい!そして、もっと言葉で自分を飾りなさい。あなたが生きていけるとしたらそれしかないと思うの!自分の言葉に広がりをもちなさい!言葉が広がっていけば狭かったあなたの世界が広がっていくわ!人と接する姿勢も変わっていくわ!そうすれば感じることも全部変わっていくのよ!」
大声を僕にぶつけるように、美奈は叫んでいるようだ。
「よく聞こえないよ!えっ?!」
電車の中の喧騒が徐々にボリュームを増し、苛立った僕は周りに向かって怒鳴った。
「ああーうるさいよ!静かにしてくれよ」
もう一度、僕は外を見た。
美奈は泣きながらも笑顔を向けている。それはさびしげで、それが本来の美奈の美しさで、ある種諦めとも、覚悟とも、そう感じさせる姿だ。やがて美奈の面影が闇に沈んでいく。
九月の暦のままのカレンダーに目をやり、一枚目を僕は破り捨てた。
止まったままの時間が動き出すような躍動感を感じた。
十月、十一月、そして、……十二月。
耳元にかつて経験した街の喧騒が蘇る。
脱色された視界がだんだん鮮明になっていく。
全身に喚起するような喜びを感じている。
あったかかったりさむかったり、落ち着かない。
タバコを吸えない禁断症状ではなく、これは覚醒への自覚症状だろう。たとえそれが歪んだカタチからの蘇りであっても、それが振付師から示された愛のかけらだ。
気分は一度旋回し、戻り始めている。
香りがする。
血が流れているのを感じている。
神経が活性化している。
どんどん五感が冴えてくる。
なぜだか赤いパラソルを片手に僕は立っていた。
赤いパラソルは僕の気持ちを代弁している。
風が吹いて、僕は手から離した。
パラソルが空高く舞い上がる。
僕は気持ちよくなって空をそのまま眺めた。
そのとき、空を引き裂く怒声が響く。
雷はまだどこにいるのかわからない。近くにいるような気もする。遠くにいるような気もする。
すさまじい稲光りが天を駆け抜ける。
エネルギーが満ちてくる。
この世には確かさなんてものはないのかもしれない。
愛なんていらないと人は言うかもしれない。
それがなんだというんだ。
僕はそんなものどうでもいいのだ。
大空に感謝したい。
何気ない日常が重たかったのだ。
僕は通り過ぎていった風を追いかけたくなる。
あとからくるものは追い風だろう。どうか僕の腕が届きますように。どうか指先だけでも届きますように。
色彩に乏しい町並みが懐かしく輝いて見える。
交通安全の幟の揺れ具合が今日の風を物語っていて、耳元に吹き込むせせらぎが今日の川の流れを物語っていて、遠くの山の新緑のみずみずしさが今日の天気を物語っていて、かつて誰かと交した約束事なんて反故にして、僕は自転車で旅に出て行く。
街から街へ越境していく。
今日はいい日だ。
(もっと言葉で飾りなさい)
どこかで澄んだ声がする。
今日は本当にいい日だった。
(もっと飾りなさい)
今日という日はもう二度と来ないけれどとてもいい日で、明日はどうなるか分からないけれど、きっといい日に違いない。
僕は遠浅の夢を見る。
両親と仲良く買い物した幼い頃の自分、近所の交通事故のニュース映像、川原で遊びまわった姿、国と国とを隔てていた壁を壊して歓喜している群衆、高校に入学したときの記念撮影のはにかんだ笑み、関西の大震災の生々しい映像、友人との会話に笑いが止まらなかった姿、双頭のビルにジェット機が突っ込む映像、様々な出来事が脳裏を掠め、交錯し、そして収束していき、やりきれなくて苦しいときに空を眺め何かを癒そうとしていたことを思い出した。
世界を再構築していくのだろう。
僕は戻っていくのだ。野に集まった人々が建てたこの塔は丸くて美しいのだろう。それを出来るだけ感じよう。そして僕は破いてしまった進路を修復しよう。
工事現場に翻る旗が小気味よい音を立てている。
地平線の先には限りない奥行きがある。
遠くの山肌に雲の影が張り付いて移動していく。
雲のない日はつまらなかった。
いつも同じ、同じ空の下で生活していると息苦しかった。
そんな空でもふと見上げた先に、雲があって、その流れに救われていた。
人の思惑を超えて、世界を動かしている意志に安堵していた。
このまま無事に朝を迎えたい。
きっとさっぱりした朝が来る。
この予感は当たりそうだ。
(そう、あなたは戻るの)
僕は呼吸をしていた世界に戻るさ。
(そう、もっともっと言葉で世界を広げていきなさい。そして、感じるのよ!人は世界を感じることでしか生きられないの。実感するのよ!)
たぶん目覚めるのは朝に違いない。
まず、病室の窓から差し込む朝陽を浴びるだろう。そして、窓際まで歩いてそこから世界を眺める。
そして、窓を開けて、まず風を感じ、素直に心地よさを味わうのさ。
この作品は「まえに誰かに聴かされた」というタイトルで公募し、いつものように落選したものでした。最後まで読んで下さった方がいましたらその方とその後背にいる方たちに感謝致します。
いつになるかわかりませんが、もうひとつ公募で落選した作品を載せる予定です。




