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第三章、第四章

 

第三章

 美奈の部屋へと行こうと、玄関のドアを開ける。

 するとふたつ隣の住人がドアを開けた。眼が合ったのでその住人に挨拶をしたが、無視され、勢いよくドアを閉められてしまった。僕が勢いよく ドアを開けるから怒っているのだろうか。何も毎度毎度僕が外に出るのを見計らってドアを開けることはないだろう。一言言ってくれればいいのに。こうなったら言われるまで何も直さない。

 最近人に無視されることが多い。

 僕が何かしたのであろうか。

 静かにドアを閉める。マンションの四階通路。僕は振り向き、空の匂いを確かめる。雨は降っていないが水分を含んだ空気が広がっている。暗い雲が重なって、圧迫する。やがて水分の深みが増し、重量感が増す。遠景に広がっている住宅街の屋根をそっと踏みつける。その湿り気のある風景には何か足りないものがある。やがて曇天の空が落ちたように土砂降りになる。

 唐突に救急車の音が耳元を掠め、いつもより響く。

 突然、世界が崩壊した。……またか。

 傾斜角度は七〇度から90度というところ。崩れる身体を支えきれなかった。不快な吐き気にも似た感情を惹起させ、理性的であろうとする僕を苛み、体温が急速に失速していくような深刻な葛藤をもたらした。

 重い吐息が僕の口からすべり落ちる。

「なんだろう……?」

 冷たく刺すように舞い落ちる小雨は、身体の細部に沈殿してきて、それはわずらわしい不純物となって、身体を腐食していく。

しかし、僕の鈍い性格ではそれに気づくことなく常に何か理由をつけて、もたらす結果を表現してしまう。

 太陽が出てなくて苛立っているのだ。ただそれだけだ。外の風景に物足りなかったのは太陽だったのだ。

 タバコを吸いすぎたせいで、頭は鈍い重みがある。

 寝不足のせいで、身体は痺れを感じてだるい。

 自分の状況を整理しようとするが、答えらしきものが見つからないままに……。

 気がつくとひとり部屋にいる……まただ。

 僕は舌打ちをして、タバコに火をつけた。煙が眼に入り、涙が零れ落ちる。

 酷く寂しい心持ちがし、そのような瀰漫している空間を遮るように先ほどから渦巻いていた思考が浮上してくるのである。

 今日僕は何をしていたのだろうか?……思い出せない。

 溜め息は受け止め兼ねている事実を象徴するように、雪のようにひんやりとして、一瞬に霧散するがその足跡を僕の心に残している。

 僕の瞳から映し出される世界は傾きかけている、いやすでに傾いていてその色彩は町を流れる川のように、酷く淀んで汚れている。

 

 


 不思議な夢を見ているようだ。

 まるでオレは目覚めているようだと、とっさにそう感じた。

 殺風景なものだった。壁側にありきたりなパイプベットがあって、ありきたりなテーブルが部屋の中央にあり、角のほうにありきたりなテレビがあった。

 そこはオレの部屋だった。

 壁はきれいで白かったはずだがタバコの脂のせいか、黄ばんで、年月を感じさせる。あとはどこかの商店でもらったありきたりなカレンダーがハンガーでかけてあるだけで、オレの性格を物語るように斜めに傾いてかけてある。

 生きることが長く感じられるそんな時刻ってのがある。

 そう今の焦燥に駆られた心持ちの時間がそうなのだ。

 部屋の外ではカラスが鳴いている。どこか不吉で皮膚の表面がその寒さを拒否するように逆立っている。

 オレを呼ぶようにひつこい。

 オレはなぜこんなにも恐れているのだろう。

 その不安はいくら大丈夫だと自分に言い聞かせても消えないのだ。

「妄想によって現実はつくられていた」

 こんな文章をペンで書いてみた。

 黒ペンのにじんだ字が今の心境を物語っていた。

 子供の頃の懐かしい記憶がよみがえる。

 まだ素直に世間を信じていた幼い思い出。

 父親と母親とで暮らしていた楽しい生活。

 見るもの聞くものすべてが興味深かった。未来は自由自在に広がっているように思えていたあの頃。子供の頃のオレは自由だったに違いない。あの分別などなにひとつ身に付けていなかった時代。でも、一番生き生きしていたあの時代が浮かぶ。

 いつか誰かと結婚して、子供が生まれ、当たり前の生活を送る。それが平凡だけどオレらしい生き方……と思っていた。

 歳を重ね、二十五を過ぎるあたりからそれがあまりにも非現実的な虚妄に過ぎないと感じはじめ、何が発火点になったか思い出せないが、それからオレはいつしかこうして夢を見ていることを意識しながら、その夢に埋没している。

 オレは逃げていている。生命が刻む時はすばらしいものかもしれないが、オレはそれを浪費しながらどこまで逃げ続けるのだろう。

 外で鳴いているカラスは、なぜそんなにしつこく呼ぶのか。

 体臭を感じている。

 隠微な香りに浸っていく。

 それはいつしか嗅いだ香水の匂い。懐かしい。

 抱いて抱かれた記憶?そんなものかもしれない。 

 オレの口から何か零れ落ち何かに乗っかって、どこかへ飛翔していきそうな、そんな気持ちって……なんだろう?




第四章

 梅雨の季節は意外と嫌いではないと、落ち着かない日常に振り回される自分を癒してくれると、身体に溜まった憎悪や怒りを洗い流してくれるような、窓ガラスに着いた水滴がやがて互いに寄り添いながら引力に導かれ流れ落ちていく、安堵しながら、僕はそっと窓外から眼を離した。

 その静かな空間が好きで、その落ち着いた空気を好み、知的空間に浸されながら、僕は椅子に腰を下ろす。ひざの上には大きな写真集が横たわっていて、僕はどこかためらいがちに表紙をめくる。

 そこにはどこかの街の風景写真が載っていて、それは知らない街だというのは感じていて、どこかで見た風景にも思えてもいて、僕の記憶と事実との境界線は不明瞭なまま、僕はページをめくっている。

 写真はページをめくるごとにどこかの街を写していて、一枚一枚丹念に眺めていると気がついたことがあった。風景の片隅にビルが存在することだった。遠近を考えても大きそうなビルだ。

「タクじゃないか?」

 そんなことを思っていたら突然声をかけられた。顔を上げて振り向くと男が立っている。どこかで見たようないような、僕は記憶をまさぐりながら相手の出方を待っていた。

「オレだよ。ミサワだよ」

 僕は思い出していた。それは昔居酒屋でバイトしていたときのマネージャーだった。もっとも年齢は同じで、彼は高校卒業後、居酒屋にバイトで入って、そのまま認められてマネージャーになり、そのバイトを辞めてからは会っていなかったが、その後人づてで、バイクのツーリング中に事故に遭い、病院に収容されたらしく、あまり容態は良くないらしいと聞いていた。しかし、彼は以前の彼のままで立っていた。

「あれ死んだって聞いてたよ。なんだ生きてんじゃん」

「ひでえな。勝手に殺すなよ。オレは不死身だぜ」

「わりい」僕は素直に謝り、続けた。

「いつ退院したんだ?」

「何言ってんだよ。オレは以前どおり、マネージャーやってる」

 確かに目の前の彼は病人には見えない。以前のままの彼で、僕はガセネタを掴ませた相手を思い出そうと思考が空を横切るが、思い出せなかった。

「おまえも冷たいやつだな。バイト辞めてから顔も見せないで、たまには顔出せよ」

「なんかせわしくてな」

「おまえはとっつきにくいところあるからな。結局おまえはそれで悩んでんじゃないか。生きたいのだろう?人生を全うしたいのだろう?」

 ミサワは見つめて、僕に問いかける。その言葉に涙腺が潤みそうになるのをこらえつつ、なんでこいつは僕の気持ちを知っているのだろうと不思議に感じていた。

 仕事場での人間関係は複雑で、さっきまで仲良くしていた人もその人が離れた途端、悪口をいい、それに合わせるように僕は曖昧に相槌を打ち、気分は霞んでいく毎日だ。人は自分に合わない人をよく中傷するが、まあ僕もそんなひとりであるときも、そのとき判断する材料としてあたかもその人に貫流している人の悪さを推測し、それをあげつらっているだけであろう言説には辟易しつつ、たとえ同意見であっても口にするのを憚りながら生きているわけで、それはあまっちょろい描線で描いたクレヨン画のようなもので、そんな僕は幼稚で敬遠されていくのだが、その態度は僕の良心になんらかの影響を与えるはずなのに、なぜか心は冷めていくばかりで僕は自己防衛のために、そんなものだと言い聞かせて、なんとか日々を繰り返している。

「もういつまで悩んでんだよ。こんなところで時化こんでいたって何も解決策にはならないぞ」

「ここは落ち着くんだ」

「図書館なんて、オレは窮屈で仕方がないがな」

「お前は自分を否定するのか」

「別にオレは図書館に用があってきたんじゃない」

「何しに来たんだよ」

「きっとお前がいるだろうと思ってな」

「なんだそれ?」

「そんな気がしたんだ」

 ミサワは人懐っこい口調で言う。以前の彼は目つきは厳しめで、同じ年なのに威厳みたいなものを感じさせる男だった。

「どうせ偶然見かけただけだろう」

「いや、オレはお前が呼んだからきたのさ。答えを求めていると思ってな」

「別に何も求めていねえけど」

「いや、おまえその想いに気づいてねえな。その写真集を抱えているのが、お前が求めている証拠だ」

 僕は手にしていた写真集に眼を落とす。そのとき、表紙にゴシック調で印字された文字を凝視した。『リアルタワー』それがこの分厚い写真集のタイトルなのだ。

「リアルタワーってなんだ?」

「ほれ、その片隅に写っているタワーさ。それ次のページにも、その次にも…」

 ミサワはオレの膝に載っている写真集のページを次々にめくり、短い説明を加えた。

「ランドスケープと言えばいいのかな。まあ、この世界の象徴的な建物だ。オレはそれをこの眼で見ていたことがある。遠い視界の遥か先、そう、その写真集のように片隅にひっそりと建っていた。今は見えないがな」

「都庁みたいなもの?」

「スケールが違うな。リアルタワーは広大すぎて、オレにはすべてを語れない。人には語りきれないところだ。語り得る人間がいるとしたら、そいつは意識レベルが違う人間さ。まあ、かつて語ったやつはいたが、誰だろうと今のお前には関係ないね。とにかくリアルタワーには人生があるのは間違いない。人は上を目指して上っていく。やがてたどり着く境地があるという。しかし、人は永劫にたどり着けない。それがリアルタワーのすばらしいところであり、おそろしいところだ。光の届かない底へ至る道もある。あたかもそこへと至る綿密な計画が何者かの意思を介して存在しているかのように、様々な落とし穴が用意されてもいる」

「なんだよ。おまえなんかの宗教にかぶれてんのか」

「宗教?馬鹿だな。そんなもの今のオレには意味ない。おまえはその落とし穴に嵌っているのさ」

「わけがわからないな。おまえ完全に精神世界のほうへ行っているぞ」

 僕は怪しげな言葉を口にするミサワに警戒心を見せ、眉間に皴を寄せた。

「その顔はなんだかな〜。おまえは勘違いしている。現実なんてものは妄想から造られたひとつのフィクションに過ぎないし、その都度良いほうにも悪いほうに変わっていくし、あてにはならないものさ。ひとの心がころころ変わるように、おまえが感じている現実はおまえが生み出した幻想に過ぎなくて、それを現実にしているのはおまえの弱い自意識そのもののだ」

「意味わかんね」

「まだわからんだろうけどな?……そもそもおまえは今おれといるこの場所がどこだかわかってんのか?」

「図書館だ」

「まあ、図書館には違いないがな……」

 困ったような仕草をしながら、考え直すように言う。

「おまえは頭は悪いのに考えすぎる」

 笑って言うミサワに不平を返そうとしたが、それを阻むようにミサワは続ける。

「図星だろ。考えすぎる。時には考えるのを止めてみることだ。そうだな、本から得る知識は大切なものもあるが、それだけじゃわからないだろう。おまえが悩んでいる人間関係とかな。おまえは薄々気がついているのだろう?気がついているのに動けなくなるのはな、考えすぎるからなのよ。思考を停止し、判断を停止し、ただ直感に従って思い切ってハンドルを回せ。そうすればお前は人生のレールに乗る。……リアルタワーはそんなやつが生き抜くことができるところさ」

 静かな空間に突然、聞きなれた音が響く。僕は少し身体が震えた。

 僕の携帯が鳴ったのだ。ちらりと着信を覗く。

「それ、おまえの彼女か」

「ああ」

「キスとかしたか?」

「ああ」

「セックスとかしたか?」

「ああ、うるせい!」

 なんかその時を思い出して、リアルに反芻されていき、なんか羞恥の念を抱く。電話に出ようか迷っていると、

「そうか、でも、やめとけ」

「なんだよ」

「いいから彼女はやめとけ。オレと同じ感じだ。オレとは相性がいいがな」

「うるせい!」 

「じゃあな!」

 ミサワは哄笑しながら、前方の階段を降りて行った。鳴り続けていた着信音は止み、僕は後で連絡入れればいいと判断した。写真集を無造作に椅子に置き、立ち上がってミサワを追いかけた。階段を足早に降りていくが、その靴底は妙に鈍く響き重なっていく。

 突然激しい痛みを感じて、両手で頭を押さえ、うずくまる。全身に浸透していくような痛みに翻弄されながら、そのまま意識が遠のいていく。




「……逃げ場はまったくなくて、家に居ても罵声を浴びながら殴られるし、学校にいても今度は逆に無視されたり、陰口を叩かれるし、ひどいときはものを隠されたりしてきたの。どこにも休む場所がなかったの。あたし疲れて……」

 僕はまともに聞かないで、テレビを見ているフリをし、実は目線はテレビの上をぼんやりと眺めていた。その上には死んだ蝶らしきものが載っている。なぜこんなところにそんなものが置かれているのかと訝りながら、どう彼女の気をそらそうか、と考えていた。

 過去を過度に瀕用している彼女ははっきり言ってうっとうしかった。もう同じことを三十分ぐらい言い続けている。それが毎回なのだ。

 彼女は幼い頃、父親から暴力を受けていた。もっともその父親は自分自身の苦悩に耐え切れずにどこかの世界へ行ってしまった。小学校の四年頃のことだ。僕は隣の部屋に両親と住んでいて美奈とは幼馴染だったから、それを知っている。父親が借金を抱える前はそれなりに中流志向のありふれてはいるが幸せな家庭で、僕の両親とも仲が良くて、隣に住んでいることもあって美奈とはよく遊んでいた。兄弟のように育った。しかし、美奈の父親は自分の資力以上に欲を出して闇金に手を出してまで株に投資し、バブルが弾けた頃から美奈の家庭は何か微妙な濁った流れが発生し始めていた。借金取りが毎日のように来るようになりそれがエスカレートする一方で、温厚だった美奈の父親は美奈や母親に暴力を振るうようになった。 警察が時折田訪ねてきたがそれはなんの解決にもならず、何度か美奈は母親に庇われて僕の家に逃げ込んできた。そういったとき美奈の父親は玄関で叫ぶように押しかけるのだが、僕の両親になだめられ、お詫びを言って静かに帰っていく。そんなに悪い人ではないのだ。ただ静まったかと思うとまた騒ぎ出す。ただそういうだけだった。そのような毎日が続いていたせいか、明るかった美奈の笑顔が段々減っていき、学校でもしゃべらなくなり、そんな感じだからいじめられるようになってしまった。二年ぐらい経った頃だろうか、地道に耐えてきた美奈の母親は突然家を出てしまい、それから数週間後、美奈の父親はベランダからダイブし、僕らの家はマンションの四階にあったから当然生きているわけはなく、その存在を自ら消滅させた。

 美奈は親戚の叔母夫婦に預けられ、マンションは残されたがそれは父親がダイブしたために買い手が着かなくて残っていたもので、借金は叔母夫婦がいろいろ駆けずり回って親戚中からかき集めなんとか法的には清算されたらしい。結局美奈の母親も行方知れずのまま、ある日そのマンションに美奈は唐突に現れた。偶然僕が見かけ、懐かしさもあって声を交わした。

 はじめは気まずかったが、毎日挨拶するうちに打ち解けて、やがてお互いの部屋を行ききするようになり、今では恋人同士だ。僕の方はというと、僕が高校生になった頃だろうか、両親は離婚し、父親と暮らすことになり、その後大学に入学した頃、父親は仕事の関係で単身赴任、札幌の方に行ってしまっていて、ちょうどそのままマンションにひとりで居座っていて美奈と再開したのもそんな時期だった。

 あれから二年が過ぎた。僕は大学を中退し、新宿にあるディスカウントストアーにバイトに出かける毎日だ。美奈の心身のバランスが悪いと気づいたのはいつだったろうか。美奈はこの忌まわしきマンションに戻ってきてから、働いているという様子がなくて生活費はどこから得ているのかわからなかったし、どうでもよくて聞かなかった。何度か会話しているうちに、心療内科に通院しているらしいこと、僕はそのときもあんまり深く追求はしなかった。心の病なんてものは環境によって治るものだとも軽く思っていた。

 美奈の部屋はきれいなときと、汚いときが極端で、汚いときはだいたい心が荒れている。

 今日もそんな感じで、今朝だか、昼だかわからないが、食事をとったそのまま食器は置いてあり、だらしなく箸は机の上に転がり、泣いていたのかティッシュペーパーが床にも散乱している有様だ。仕事を終えて帰ってきた僕は美奈の部屋に入ってきた早々、過去の話と不満やら、聞かされていて、それは今までにもう幾度となく聞いた話で、半分は聞いていない。

 それは彼女の神経が繊細だったためにもたらしたものだろうが、一種異様な罵詈雑言の羅列であったり、それも自分が悪いのよねといった謙虚な姿勢を見せたり、不満をぶちまけたくなるのもわからないでもないが、立て続けに聞いていると、話に整合性などまったくなく、これでは外に出ても理解を得るのは難しいなと、自分を棚に上げて思っていた。

「あたし生きているのかしら……」

「生きてるさ」 

「死んでいるのかもしれない」

「そんなわけないじゃん」

「タクだって、本当は死んでるかもしれないわ」

「なに言ってんだよ。まあ、薬飲め」

 リアルなき言動はアンバランスな心の現われで、それでも僕には彼女は人なのだし、何よりも好きな女性なのだ。

「あたしが欲しいのは薬なんかじゃない」

「まあ、飲めよ」

 なんとか薬で落ち着かせようと飲ませようとする。

「いらない」

「何が欲しいの」

「わからない」

「わからないんじゃなー。とりあえず、薬飲めよ」

「薬じゃないって言ってるでしょう!」

 そう美奈は怒鳴るような口調で言うと、差し出した薬を手ではじき飛ばす。

 涙を流しながら、抱きついてくる。

「たぶん愛が欲しいの……」

「愛してるさ」

 そう言うと僕は彼女の頬にキスをする。それが愛というものではないのはどことなく感じていて、美奈と僕の満たされない心の空白を埋めるようなしぐさそのもので、ひととき唇を絡ませながら、お互いの毒素を分かち合う。

「オレさ、きのう苦情言われてさ、へこんでんだ」

「バイト、大変?」

 少し落ち着いたのか、美奈はさっぱりした表情で言う。

「大変だけどまあやりがいはあるけどね。でも、そういうことあるとさ、なんか行きたくねえ」

「やりがいあるならいいじゃん」

「やりがいありすぎてねー」 

 嘘だった。やりがいはあるのはあるのだが、僕はバイトに行くのが億劫になっていた。吐き出したい感情を胃に突き刺したまま、その痛みに懊悩している。長くは続けたい。ここで二人でマイナス思考陥るのはイヤだったため、自制していた。契約社員になれそうだったが、職場の人間関係や仕事に触れて知ったビジネスの厳しさは甘えていた自分を周りの人間から否応なく浮かび上がらせて、自分はダメな人間なのさと想起させ、そのことは僕の腹部を圧迫している。その弱さは自信の無さを裏付けるもので、世間的にも取り残された印象をぬぐえない。そんな世間に同化するように努力すればいいものを、僕は悪い反発をしてしまうという悪循環を起こしていた。常識的に生きて、道徳的に生きようとする心持はあるが、逆に世間の常識は自分の想い描いていた常識と違うのに気づいていた。周りの凝固した空気が僕を泥の川へ沈み込ませる。

 接客ミスによる苦情を聞き、そのことが上司の厳しい批判を招き、さらに僕をマイナス思考に追いやり、自分の態度を縮小させ、人と接したくないといった気持ちにさせ、職場の同僚の誘いも断り、部屋で閉じこもっていた。「当然あいつは付き合いにくい人間だ」とレッテルを張られるのは仕方ない。友達は少ないほうだったが、それでもそんな彼らに連絡を取ろうにも、彼らも忙しく連絡はつかないし、あんまり彼らに話したい事柄でもなかった。父親も単身赴任で居らず、沈んでいく気持ちを持ちこたえるために必要だったのが、美奈で唯一の話し相手だった。

「なんだこれ?」

 気になっていたテレビの上の蝶を指して聞いた。

「きれいな蝶でしょう。ベランダに落ちていたのよ」

「きれいかもしれないけどさ、死骸だよ。外に出せよ」

「あなたにはこの美しさがわからないの?」

「でもな……まあ、美奈のうちだから好きにすれば」

 僕はどうでもよくなり言葉を返した。

「わかったわ。明日の朝外の公園に埋めてくる」

 残念そうに言う美奈はかわいい。たまに見せるその理性的な眼差しが、僕を安心させていた。





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