女郎蜘蛛
未熟な小説家ですのでお手柔らかに
私には、転入なされたあの日より、ひそかにお慕ひ申し上げてゐるお方がある。
悠華さん――。
誰に対しても嫣然と微笑まれ、聡明にして、また人を惹きつけずにはおかぬ華やかさをお持ちである。少し吊り上がつたお目許には、星屑を散らしたやうな煌めきがあり、すつと通つた鼻筋も、ほつそりとした顎も、何とも申せぬほど美しい。可憐と妖艶とを一つの御身に宿された、摩訶不思議なお方なのである。
ああ、私はあのお方に、どうにかしてお近づきになりたかつた。
けれども、いきなりお声をかけるなど、私には到底できさうもない。そこで、先づは悠華さんのお友達と親しくなり、やがてその御縁から、あのお方のお傍へ参らうと決心したのである。
早速、近頃できたばかりのデパートへ出掛け、白粉やらお洋服やらを買ひ求めた。少しでもあのお方に釣り合ふやうになりたい一心で、運動にも励んだ。鏡の前に立つては襟元を直し、髪を撫でつけ、ああでもない、かうでもないと、幾度も自分の姿を眺めた。
これでよし。
いよいよ明日より、私の作戦は決行されるのである!
さて、翌朝。
胸を躍らせながら登校した私を待ち受けてゐたのは、何と、悠華さんのお友達の方々からのお声掛けであつた。
「あのねえ、鈴美さん? 私、以前から貴女とお話してみたいと思つてゐましたの。ねえ、今日を境に、お友達になつてくださいませんこと?」
まあ!
何とお手本どほりの、いへ、何と都合のよいお申し出であらう!
まさか、こちらから近づく前に、あちらより歩み寄つてくださるとは。私は内心、天にも昇る心地であつた。けれども、ここであまりに嬉しさを露はにしては、いかにも見苦しいではないか。
「ええ、私もさう思つてゐましたの」
などと、殊更に落ち着いたふうを装つて答へたのである。
それからといふもの、私は何か不思議な糸に手繰り寄せられるやうに、皆様と親しくなつていつた。お昼休みには御一緒にお弁当をいただき、帰り道には他愛もないお話に花を咲かせた。時折、悠華さんのお名前が出るたび、私は何でもないふうを装ひながら、耳ばかりは人一倍そばだててゐた。
けれども、今になつて思へば、あれは何とも奇妙なことであつた。
あの方々は、あまりにも自然に私の懐へ入つて来られたのである。
まるで、初めからそこに私の居場所が用意されてゐたかのやうに。
――されど、その時分の私には、そんなことを疑ふ余裕など、露ほどもなかつたのである。
*
それから、幾月かの月日が流れた。
ある日の放課後、悠華さんは私を呼び止められた。
「鈴美さん。私、貴女と仲良くなれて、本当に嬉しく思つてゐましてよ。……勿論、嘘ぢやないわ」
そのお言葉を耳にした途端、私の胸の裡で、何かがぱつと弾けた。
嗚呼!
この方は、何といふことを仰るのであらう。
頭の芯がかつと熱くなり、目の前の景色が、薄紅色の霞に包まれてゆく。嬉しい。嬉しいのに、どうしてこんなにも苦しいのであらう。心臓は早鐘のやうに鳴り、幾度もお返事をしようとする唇は、ただ頼りなく震へるばかりである。
「あ、あの……その……!」
何たる失態!
あれほど鏡の前で、あれほど幾度も、あのお方とお話する日のことを夢に描いてゐたといふのに。いざその時となつてみれば、私は自分の心ひとつ、満足に言ひ表すことができないのである。
「わ、私……貴女が転入していらした時から、ずつと……」
言葉が喉につかへた。
ああ、どうか私に、もう少しだけ勇気をお与へくださいませ!
「ほかの方々と仲良くしてゐても、私の心はいつも貴女のことばかり……。まるで、あの方々さへ、貴女のお傍へ近づくための……」
そこまで申し上げて、私は思はず俯いてしまつた。
何と浅ましい告白であらう。けれども、もう取り消すことなどできない。私は両手を固く握りしめ、ただ次のお言葉を待つてゐた。
すると、悠華さんは、ふつとお笑ひになつた。
「まあ、鈴美さん。貴女、私に恋をしてゐるのでせう?」
私は、はつと顔を上げた。
「私を想つて、想つて、どうしやうもないほど夢中になつてゐたのでせう? ……知つてゐたわ」
そのお声は、あまりにも優しかつた。
「だからね、私のお友達にお願いしてゐたの。貴女と仲良くしてあげて、つて。貴女がどんなお顔をなさるのか、どんなお話をなさるのか、私、ずつと気になつてゐたのよ」
まあ、何と!
私は、息をすることさへ忘れてしまつた。
では、あの出逢ひも、あの親切も、あの方々の微笑みも、みな……。
私は初めて、自分が知らぬ間に、悠華さんのお手の裡にあつたことを知つたのである。
それなのに。
それなのに、私は少しも恐ろしいとは思はなかつた。
むしろ、胸の奥底から、どうしやうもない喜びが込み上げて来るのである。私の知らぬところで、あのお方は私を御覧になつてゐた。私の知らぬところで、あのお方は私のことをお考へになつてゐた。
ああ、何といふ幸福であらう!
「大丈夫よ、鈴美さん」
悠華さんは、私の顔を覗き込まれた。
「私も貴女を愛してゐるわ。きつと、貴女が想像もできないくらゐに。……ねえ、信じてくださる?」
私は、何も申し上げられなかつた。
ただ、胸の裡に、熱いものが満ちてゆくのを感じてゐた。
「ねえ。旧校舎まで、御一緒してくださらない?」
悠華さんは、いたづらつぽく微笑まれた。
「二人きりで、お話がしたいの」
私は、そのお言葉に逆らふことなど、到底できなかつた。
旧校舎の廊下には、夕陽が細長く差し込んでゐた。
誰もゐない校舎は、いつもの学校とは思はれぬほど静まり返り、私たちの足音だけが、古びた床の上に、こつ、こつ、と響いてゐた。
悠華さんが立ち止まられたのは、扉にただ「準備室」とだけ記された、一室の前であつた。
扉が開く。
埃の匂ひが、ほのかに鼻を掠めた。
その薄暗がりのなかで、悠華さんは私を振り返られた。
嗚呼、何と美しいお顔であらう。
夕陽に縁取られた頬も、細められた御目許も、いつもよりずつと近くにある。あのお方の微笑みが、私ひとりのために向けられてゐる。その事実だけで、私はもう、どうなつてしまつても構はないやうな気持ちになつてゐた。
「鈴美さん」
お声とともに、そつと頸に腕が廻された。
私はただ、目を閉ぢた。
次の瞬間、二つの苹果が、そつと触れ合つた。
窓の向かうでは、傾きかけた陽が、空を淡い橙色に染めてゐた。二つの果実は、夕映えのなかで、ひとつの夢のやうに重なつてゐた。
私は、あのお方のぬくもりを感じてゐた。
何もかもが、あまりに近い。
吐息も、囁きも、胸の裡で鳴る鼓動さへも、二人のあひだでは、秘密といふにはあまりに確かなものとなつてゐた。
嗚呼、悠華さん。
貴女は、まるで女郎蜘蛛。
私が貴女に恋をした、その時分から、貴女はもう、細い糸を張り巡らせてゐたのでせうか。
私がひとりで悩み、ひとりで喜び、貴女のお姿を追ひ求めてゐた、そのすべてさへ、貴女の掌の上にあつたのでせうか。
それなのに、私は逃げようとは思はない。
いいえ、逃げたいなどとは、少しも思はないのである。
貴女の張られた糸に、私の心は、いつの間にか絡め取られてしまつた。
外からそつと包まれて、内側から、ゆるゆると融かされてゆく。
ああ、何と甘美なことであらう。
女郎蜘蛛よ。
どうか、このまま私を離さないで。
貴女の巣の片隅で、貴女だけを想ひながら、いつまでも、いつまでも、夢を見てゐたいのです。
吉屋信子意識です




