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この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。

女郎蜘蛛

作者: 切々
掲載日:2026/10/14

未熟な小説家ですのでお手柔らかに

私には、転入なされたあの日より、ひそかにお慕ひ申し上げてゐるお方がある。


 悠華さん――。


 誰に対しても嫣然と微笑まれ、聡明にして、また人を惹きつけずにはおかぬ華やかさをお持ちである。少し吊り上がつたお目許には、星屑を散らしたやうな煌めきがあり、すつと通つた鼻筋も、ほつそりとした顎も、何とも申せぬほど美しい。可憐と妖艶とを一つの御身に宿された、摩訶不思議なお方なのである。


 ああ、私はあのお方に、どうにかしてお近づきになりたかつた。


 けれども、いきなりお声をかけるなど、私には到底できさうもない。そこで、先づは悠華さんのお友達と親しくなり、やがてその御縁から、あのお方のお傍へ参らうと決心したのである。


 早速、近頃できたばかりのデパートへ出掛け、白粉やらお洋服やらを買ひ求めた。少しでもあのお方に釣り合ふやうになりたい一心で、運動にも励んだ。鏡の前に立つては襟元を直し、髪を撫でつけ、ああでもない、かうでもないと、幾度も自分の姿を眺めた。


 これでよし。


 いよいよ明日より、私の作戦は決行されるのである!


 さて、翌朝。


 胸を躍らせながら登校した私を待ち受けてゐたのは、何と、悠華さんのお友達の方々からのお声掛けであつた。


「あのねえ、鈴美さん? 私、以前から貴女とお話してみたいと思つてゐましたの。ねえ、今日を境に、お友達になつてくださいませんこと?」


 まあ!


 何とお手本どほりの、いへ、何と都合のよいお申し出であらう!


 まさか、こちらから近づく前に、あちらより歩み寄つてくださるとは。私は内心、天にも昇る心地であつた。けれども、ここであまりに嬉しさを露はにしては、いかにも見苦しいではないか。


「ええ、私もさう思つてゐましたの」


 などと、殊更に落ち着いたふうを装つて答へたのである。


 それからといふもの、私は何か不思議な糸に手繰り寄せられるやうに、皆様と親しくなつていつた。お昼休みには御一緒にお弁当をいただき、帰り道には他愛もないお話に花を咲かせた。時折、悠華さんのお名前が出るたび、私は何でもないふうを装ひながら、耳ばかりは人一倍そばだててゐた。


 けれども、今になつて思へば、あれは何とも奇妙なことであつた。


 あの方々は、あまりにも自然に私の懐へ入つて来られたのである。


 まるで、初めからそこに私の居場所が用意されてゐたかのやうに。


 ――されど、その時分の私には、そんなことを疑ふ余裕など、露ほどもなかつたのである。


      *


 それから、幾月かの月日が流れた。


 ある日の放課後、悠華さんは私を呼び止められた。


「鈴美さん。私、貴女と仲良くなれて、本当に嬉しく思つてゐましてよ。……勿論、嘘ぢやないわ」


 そのお言葉を耳にした途端、私の胸の裡で、何かがぱつと弾けた。


 嗚呼!


 この方は、何といふことを仰るのであらう。


 頭の芯がかつと熱くなり、目の前の景色が、薄紅色の霞に包まれてゆく。嬉しい。嬉しいのに、どうしてこんなにも苦しいのであらう。心臓は早鐘のやうに鳴り、幾度もお返事をしようとする唇は、ただ頼りなく震へるばかりである。


「あ、あの……その……!」


 何たる失態!


 あれほど鏡の前で、あれほど幾度も、あのお方とお話する日のことを夢に描いてゐたといふのに。いざその時となつてみれば、私は自分の心ひとつ、満足に言ひ表すことができないのである。


「わ、私……貴女が転入していらした時から、ずつと……」


 言葉が喉につかへた。


 ああ、どうか私に、もう少しだけ勇気をお与へくださいませ!


「ほかの方々と仲良くしてゐても、私の心はいつも貴女のことばかり……。まるで、あの方々さへ、貴女のお傍へ近づくための……」


 そこまで申し上げて、私は思はず俯いてしまつた。


 何と浅ましい告白であらう。けれども、もう取り消すことなどできない。私は両手を固く握りしめ、ただ次のお言葉を待つてゐた。


 すると、悠華さんは、ふつとお笑ひになつた。


「まあ、鈴美さん。貴女、私に恋をしてゐるのでせう?」


 私は、はつと顔を上げた。


「私を想つて、想つて、どうしやうもないほど夢中になつてゐたのでせう? ……知つてゐたわ」


 そのお声は、あまりにも優しかつた。


「だからね、私のお友達にお願いしてゐたの。貴女と仲良くしてあげて、つて。貴女がどんなお顔をなさるのか、どんなお話をなさるのか、私、ずつと気になつてゐたのよ」


 まあ、何と!


 私は、息をすることさへ忘れてしまつた。


 では、あの出逢ひも、あの親切も、あの方々の微笑みも、みな……。


 私は初めて、自分が知らぬ間に、悠華さんのお手の裡にあつたことを知つたのである。


 それなのに。


 それなのに、私は少しも恐ろしいとは思はなかつた。


 むしろ、胸の奥底から、どうしやうもない喜びが込み上げて来るのである。私の知らぬところで、あのお方は私を御覧になつてゐた。私の知らぬところで、あのお方は私のことをお考へになつてゐた。


 ああ、何といふ幸福であらう!


「大丈夫よ、鈴美さん」


 悠華さんは、私の顔を覗き込まれた。


「私も貴女を愛してゐるわ。きつと、貴女が想像もできないくらゐに。……ねえ、信じてくださる?」


 私は、何も申し上げられなかつた。


 ただ、胸の裡に、熱いものが満ちてゆくのを感じてゐた。


「ねえ。旧校舎まで、御一緒してくださらない?」


 悠華さんは、いたづらつぽく微笑まれた。


「二人きりで、お話がしたいの」


 私は、そのお言葉に逆らふことなど、到底できなかつた。


      


 旧校舎の廊下には、夕陽が細長く差し込んでゐた。


 誰もゐない校舎は、いつもの学校とは思はれぬほど静まり返り、私たちの足音だけが、古びた床の上に、こつ、こつ、と響いてゐた。


 悠華さんが立ち止まられたのは、扉にただ「準備室」とだけ記された、一室の前であつた。


 扉が開く。


 埃の匂ひが、ほのかに鼻を掠めた。


 その薄暗がりのなかで、悠華さんは私を振り返られた。


 嗚呼、何と美しいお顔であらう。


 夕陽に縁取られた頬も、細められた御目許も、いつもよりずつと近くにある。あのお方の微笑みが、私ひとりのために向けられてゐる。その事実だけで、私はもう、どうなつてしまつても構はないやうな気持ちになつてゐた。


「鈴美さん」


 お声とともに、そつと頸に腕が廻された。


 私はただ、目を閉ぢた。


 次の瞬間、二つの苹果が、そつと触れ合つた。


 窓の向かうでは、傾きかけた陽が、空を淡い橙色に染めてゐた。二つの果実は、夕映えのなかで、ひとつの夢のやうに重なつてゐた。


 私は、あのお方のぬくもりを感じてゐた。


 何もかもが、あまりに近い。


 吐息も、囁きも、胸の裡で鳴る鼓動さへも、二人のあひだでは、秘密といふにはあまりに確かなものとなつてゐた。


 嗚呼、悠華さん。


 貴女は、まるで女郎蜘蛛。


 私が貴女に恋をした、その時分から、貴女はもう、細い糸を張り巡らせてゐたのでせうか。


 私がひとりで悩み、ひとりで喜び、貴女のお姿を追ひ求めてゐた、そのすべてさへ、貴女の掌の上にあつたのでせうか。


 それなのに、私は逃げようとは思はない。


 いいえ、逃げたいなどとは、少しも思はないのである。


 貴女の張られた糸に、私の心は、いつの間にか絡め取られてしまつた。


 外からそつと包まれて、内側から、ゆるゆると融かされてゆく。


 ああ、何と甘美なことであらう。


 女郎蜘蛛よ。


 どうか、このまま私を離さないで。


 貴女の巣の片隅で、貴女だけを想ひながら、いつまでも、いつまでも、夢を見てゐたいのです。

吉屋信子意識です

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― 新着の感想 ―
 文体がストーリーに合っていて良かったです。私は百合、ガールズラブの作品は元々とても好きなのですが、いわゆるエスの物語はあまり読んだことがなかったので上品でいいなと思いました。
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