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俺が買った『猿でも分かる魔法の使い方』が本物の魔導書だったので、とりあえず確率操作で無双します【リメイク】  作者: パラレル・ゲーマー


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第22話 猿とオラクルと五年ぶりの連絡

 斎藤アスカという少女を保護した初任務、そして総合格闘技ジムで自分の新たな伸びしろを見つけてから、さらに数日が経過していた。


 佐藤健司は、朝の通勤ラッシュが落ち着き始めた地下鉄の改札を抜け、霞が関の地下通路を歩いていた。


 この数日間の彼の生活は、数ヶ月前の底辺フリーター時代からは想像もつかないほど劇的に変化している。


 SAITO MMA GYMでの基礎体力と格闘技術の訓練。魔導書の容赦ない指導による、魔法回路の制御練習。身体強化のリミッター管理。資金を維持するための最低限のデイトレード。そして、ヤタガラス東京支部への出勤と、あの不気味な「消えた自販機」案件の追加報告待ち。


 以前の健司の生活圏は、深夜のコンビニエンスストアと、六畳一間のアパートのPCの前、そして魔導書との口喧嘩という極めて狭い世界で完結していた。


 だが今は違う。


 国家の裏組織に特別任用職員として出勤し、本格的な戦闘の基礎を叩き込まれ、未知の能力事件に関わって人を助け、さらにその裏に潜む悪意の影を追おうとしている。


 当然、肉体的にも精神的にも疲労は溜まっていた。しかし、それは決して嫌な疲れではなかった。


(忙しいけど……なんだかんだ、ちゃんと前に進んでる感じはあるな)


 健司は、軽く肩を回しながら心の中で独りごちた。


『出勤する猿か。すっかり国家の犬としての生活リズムにも慣れてきたようだな』


 すかさず、脳内に魔導書の皮肉が響く。


(国家の犬って言い方やめろよ。俺はちゃんと契約を結んで、給料をもらって働いてるんだから)


『その給料とやらで、立派な首輪を買われた猿だと言っているのだ』


(言い方!)


 健司は心の中で盛大にツッコミを入れながら、ヤタガラス東京支部へと続く秘密の通用口をくぐった。


 いつもの軽口の応酬が、出勤前のわずかな緊張を適度に解きほぐしてくれる。


 厳重なセキュリティゲートを抜け、十三階の特殊事象対策課のフロアに足を踏み入れた途端、健司は周囲の空気の微妙な変化を感じ取った。


 以前よりも、職員たちから向けられる視線が明らかに柔らかいのだ。


 初出勤の日は、「あいつがネットで騒がれてる予知者Kか」「民間上がりのTier3だろ」「扱いにくそうな新人だな」という、警戒と好奇心が入り混じった刺さるような視線ばかりだった。


 しかし今は違う。


 すれ違う職員たちの間で交わされる囁き声のトーンが、明確に変わっている。


「斎藤アスカの件、あいつが対応したらしいぞ」


「初任務で、暴走しかけの対象者を一人で落ち着かせたんだろ?」


「ネットの予知だけじゃなくて、現場の対人対応もできるのか」


「橘副課長が直接担当してるだけはあるな……」


 健司は、歩調や表情を変えないように必死でポーカーフェイスを保っていたが、内心ではかなり喜んでいた。


(……俺、ちゃんと評価されてる?)


 受付を通り過ぎる際も、女性職員が以前よりずっと丁寧な笑みを浮かべて頭を下げてきた。


「おはようございます、佐藤さん」


「あ、おはようございます」


 廊下ですれ違った現場調査員の中には、立ち止まって軽く会釈をしてくれる者までいた。


 健司は、社会的な組織の中で自分が「認められる」という扱いにまだ慣れていない。だが、それは決して悪い気分ではなかった。


『群れの中で一度でも明確な手柄を立てると、急に毛づやがよく見えるものだな』


 魔導書が、面白がるように皮肉る。


(でも、正当に評価されるのは悪くないだろ?)


『否定はせん。猿の群れにおいて、“信用”というものは何にも代えがたい重要な資源だ。特に、貴様のようなポッと出の新入り猿にとってはな』


 魔導書も、珍しくその点に関しては素直に認めた。


 アスカの保護任務は、ただ少女を救ったというだけでなく、ヤタガラスという官僚組織の内部において、佐藤健司という新人の「実績」として見事に機能していたのだ。


 自分のデスクに着いた健司は、支給されたセキュア端末を起動した。


 彼の頭の片隅を占めているのは、あのアスカの件の続報だ。


 存在しなかった古い自動販売機。


 管理会社にも道路使用記録にも、データが一切存在しない怪異。


 そして、防犯カメラに不自然に生じていた、数秒間の映像欠落。


 橘が「外部要因による覚醒誘発案件」と表現した、誰かが意図的に能力者を作り出している疑惑。


 あれから数日が経っている。そろそろ、現地を調査している別班から、何らかの追加報告が上がってくる頃合いかもしれない。


(今日は、その自販機の現地確認に同行しろとか、そういう話かな……)


 健司が端末のスケジュールを確認しようとした、ちょうどその時だった。


 デスクの上の内線電話が、鋭い音を立てて鳴った。


 受話器を取る。相手は、橘の補佐として現場に同行していた三枝だった。


「佐藤さん。橘副課長がお呼びです。すぐに第一執務室へ」


(やっぱり来たか)


 健司はすぐに立ち上がり、ジャケットを羽織った。


 アスカ案件の続きだと確信し、気を引き締めて橘の部屋へと向かう。


 だが、橘の執務室の前に辿り着いた健司は、思わず足を止めた。


 普段とは、明らかに様子が違う。


 いつもならIDカードのタッチだけで通されるはずのドアの前に、黒いスーツを着た大柄な警備職員が二人、彫像のように立っていたのだ。


「佐藤健司特別任用職員ですね。確認手続きを行います」


 警備職員が、事務的な、しかし有無を言わせぬ声で告げる。


 IDカードの確認。厳密な生体認証。そして、スマートフォンの完全な一時預かり。外部との通信を物理的に遮断する電波暗箱への収納。さらには、ハンディタイプのスキャナーを使った簡易呪的検査まで行われた。


 最後に、執務室のドアノブに手をかける直前、警備職員が部屋の周囲に「会話記録の外部保存を遮断する処理」を展開したのが分かった。空気が薄い膜で覆われたような、耳鳴りに似た感覚。


 健司は戸惑いを隠せなかった。


(え……? 自販機の調査の話だけで、ここまで厳重にやるのか?)


『ほう』


 魔導書が、脳内で興味深そうに声を上げた。


『猿の巣穴にしては、なかなか念入りで高度な防壁だ。少なくとも、ただの自販機ごっこの続きではなさそうだな』


 その言葉に、健司の不安が一気に膨れ上がった。


 重い防音扉を開けて中に入ると、橘真が広々としたデスクの奥で待っていた。


 いつも通り冷静で穏やかな佇まいだが、その表情は普段よりもわずかに硬い。


 デスクの上には、いつものような白い事務ファイルはなかった。


 置かれているのは、一通の漆黒の封筒と、強固な暗号化が施された分厚い専用端末だけだ。


 健司がソファに腰を下ろすと、橘は前置きを一切省いて切り出した。


「佐藤君。今日は、斎藤アスカさんの自販機案件とは別件だ」


 健司は目を瞬かせた。


「別件、ですか?」


「完全に無関係とは言い切れない。だが、今日君に話すのは、あの自販機そのもののことではない。ある“人物”についてだ」


 健司は背筋を伸ばし、身構えた。


「人物……?」


 橘は、デスクの上の黒い封筒にそっと指を置いた。


「君に会いたいと言っている人物がいる」


 健司は首を傾げた。


「俺に、ですか? それは、ヤタガラスの上の人とか……?」


「いや。ただし、その人物について何も説明しないまま、君を不用意に会わせるわけにはいかない」


 橘のその底冷えのするような真剣なトーンに、健司はこれがただの顔合わせや、日常的な面談ではないことを察した。


 橘は黒い封筒を開き、中から一枚だけペラリと資料を取り出した。


 そこには、顔写真も、経歴も、本名すら書かれていなかった。ただ、ページの中央にアルファベットのコードネームだけが印字されている。


 ORACLE。


 健司はその文字を読み上げた。


「オラクル……?」


「組織内でのコードネームだ。日本語では、『託宣の巫女』と呼ばれることもある」


 橘が静かに説明する。


「託宣の巫女……」


 健司は、その名前の響きだけで、相手がただの能力者ではないことを直感した。


 魔導書も、脳内でわずかに反応を示した。


『託宣、か。未来を視る予知猿の上位個体につける名としては、悪くない響きだ』


「かつてヤタガラスには、極めて強力な予知能力者が協力していた」


 橘は、淡々と、感情を交えずに語り始めた。


「国内最高峰であり、世界的に見ても極めて特異な、トップクラスの予知能力者だ」


 健司は息を呑んで黙って聞く。


「大規模な自然災害、高位能力者の致命的な暴走、国外組織による悪意ある干渉、そして大規模な因果災害。彼女は、表舞台に一切出ることなく、その予知によっていくつもの国家的な危機を未然に防いできた」


 橘の口からは、オラクルの圧倒的な「実績」だけが語られた。


 彼女がその予知の中で何を思い、何を苦しんでいたのか、そういった心理的な側面は一切語られない。救いすぎて壊れたとも、予知の重圧に耐えかねたとも言わない。


 ただ、彼女が防いできた危機の事実だけが、重いレンガのように積み上げられていく。


 健司は素直に驚嘆の声を漏らした。


「そんなすごい人が……いたんですか」


「いた、というより、今もいる。ただし、我々の前にはもうほとんど姿を見せないがね」


 橘はそこで言葉を区切り、健司を真っ直ぐに見据えた。


「彼女は、数年前から予知を止めている」


 健司は思わず聞き返した。


「予知を止めている? それって、何かの原因で能力を失ってしまったということですか?」


「いや。少なくとも、ヤタガラスはそう判断していない。予知ができなくなったのではなく、自らの意思で『しなくなった』。そう見るのが自然だ」


「どうしてですか?」


 橘は、少しだけ沈黙した。


 そして、はっきりと首を振った。


「分からない」


 その断言に、健司はハッとした。


「彼女がなぜ、突然予知を止めたのか。我々は正確な理由を把握していない。本人が、その理由を一切語らないからだ」


 健司は黙り込んだ。


 当然、理由は知りたくなる。だが、橘はそこから先の安易な推測を、自らの口で固く戒めた。


「終わりのない予知の連鎖に疲労したのか。我々には見えない致命的な何かを視てしまったのか。あるいは、ARCとの間に何らかの決定的な対立があったのか。それとも、我々一般の人間には到底想像も及ばないような理由があるのか。それは誰にも分からない。どれも、憶測の域を出ない」


 健司は小さく頷いた。


『よい態度だ』


 魔導書が脳内で静かに言う。


『理由を知らぬものが、自分たちの都合の良いように勝手に理由をでっち上げるな。分からないことは分からないと認め、ただ事実だけを冷徹に積む。それが観測者の基本だ』


「ある時期を境に、彼女は『ARC』を除くほぼ全ての窓口との連絡を完全に絶った。我々ヤタガラスも例外ではない」


 橘の言葉が続く。


「……ARC?」


 健司は、さっきから橘の口に出る見慣れない単語に引っかかった。


「我々からの再三の接触にも、彼女は長く応じなかった。完全に所在不明になったわけではない。だが、ヤタガラスと彼女の間にあった通常の連絡線は、実質的に切断されていた」


 橘は健司の問いを一旦保留し、説明を続けた。


「それが、何年くらいだと思いますか?」


「……何年、ですか?」


「約五年だ」


 健司は息を呑んだ。


 五年。


 それは「最近ちょっと忙しくて」とか「少し距離を置きたい」といったレベルの話ではない。


 五年という月日は、明確な『沈黙』だ。世界に対する、あるいは何らかの事象に対する強烈な拒絶のようにも見える。


 だが、その理由は誰にも分からない。


 その事実の羅列が、オラクルという存在の底知れない格の高さと、不気味な謎を健司に突きつけていた。


「すみません、橘さん」


 健司はたまらず質問を挟んだ。


「さっきから出ている『ARC』って、何なんですか?」


 橘は手元の暗号化端末を操作した。


 小さなディスプレイに、一行のアルファベットと漢字が表示される。


 ARC。


 国際因果律改変能力者委員会。


 健司は、その字面をそのまま声に出して読み上げた。


「国際……因果律改変能力者、委員会?」


「そうだ。通称、ARC。表向きの国連のような国際機関ではないし、国家間で結ばれた条約機構でもない。ヤタガラスや、アメリカのマジェスティックのような、国家に所属する能力者管理機関とも成り立ちが違う」


「じゃあ、何なんですか、それ」


「国家という矮小な枠組みには到底収まりきらない因果律改変能力者、あるいはそれに準じる規格外の存在たちによる、相互監視および調停機構だ」


 健司の体が、強張った。


「相互……監視?」


「ああ。能力者の中には、一つの国家の秩序や武力では到底制御できない存在がいる。世界規模で因果の糸に干渉できる者、概念そのものが神格に近い者、異界や時間軸そのものに触れられる者。そうした規格外の存在同士が無秩序に地上で衝突すれば、国家間の戦争どころの騒ぎでは済まない」


 健司は、初面談の日に見た、ヤタッピの解説DVDの狂気を帯びたワンシーンを思い出した。


 地球を見下ろす、二十体の巨大な人型の影。


「それって……前に聞いた、Tier0とかいう、神様みたいな存在のことですか?」


「含まれる」


 橘のあまりに短い肯定に、健司は血の気が引く思いだった。


「ARCの目的は、各国の国家利益の調整などではない」


 橘は、必要最低限の事実だけを端的に述べる。


「惑星の存続、大規模な因果災害の防止、そして……破損してしまった世界の修復だ」


 健司は眉をひそめた。スケールが大きすぎて、頭の処理が追いつかない。


「破損した世界の修復……?」


「世界は壊れる。少なくとも、容易に壊せる存在がこの世界にはいる。だからこそ、壊さないための取り決めと、万が一壊れてしまった時の責任の割り振りが必要になる」


 橘は淡々と言い放った。


「ARCの能力者社会における俗称は、『神々の円卓』だ」


「神々……」


 健司は呟いたまま、言葉を失った。


「比喩ではない場合もある」


 橘のその言葉が、とどめを刺した。


『ククク……ハハハハ!』


 健司の沈黙をよそに、脳内で魔導書が歓喜の笑い声を上げた。


『猿どもも、ようやく自分たちの巣穴ごと吹き飛ばされぬための、最低限の話し合いの席を作ったというわけか。悪くない』


(悪くないって……スケールがでかすぎるんだけど……)


『今まで貴様が見ていたのは、足元の水たまりに映った空にすぎん。本物の空そのものではない。世界は、貴様が想像しているよりも遥かに広くて深いぞ、猿』


 健司は、自分が今まで触れていた「予知」や「魔法」の世界が、まだほんの入り口の浅瀬にすぎなかったことを、圧倒的な質量とともに理解させられていた。


「オラクルは、ヤタガラスへの協力者であると同時に、そのARCにも関わっていた」


 橘が話を元に戻す。


「オラクルも、ARCのメンバーだったんですか?」


 健司が尋ねると、橘は即答を避けた。


「そこは、今の君には答えられない」


 橘は明確に線を引いた。


「ただ、彼女はARCという組織全体が無視できないほどの、桁外れの予知能力者だった。ヤタガラスの一協力者という枠組みには、到底収まりきらない存在だったことだけは確かだ」


 健司は改めて、机の上の資料に目を落とした。


 オラクル。託宣の巫女。


 国内最高峰の予知能力者。世界的にも特異。


 神々の円卓であるARCとも関わっていた。


 しかし、数年前から突然予知を止めた。


 ARC以外との接触を絶ち、沈黙した。


 理由は、誰にも分からない。


 情報量が多すぎて、健司は眩暈がしそうだった。


「でも……どうして今、急にその話を俺に?」


 健司は当然の疑問を口にした。


 橘は少しだけ沈黙し、机の上の漆黒の封筒に視線を落とした。


「数日前、彼女から我々に連絡があった」


 健司は一瞬、誰のことか分からなかった。


「彼女って……」


「オラクルだ」


 部屋の空気が、急激に張り詰めた。


 健司は思わず姿勢を正した。


「……え?」


「我々が把握している限り、彼女がARC以外の相手、少なくともヤタガラスという組織に対して、自分から通信を開いてきたのは……実に五年ぶりだ」


 五年ぶり。


 五年間、完全に沈黙を守り続けていた伝説級の予知能力者が、自らヤタガラスへ連絡してきた。


 しかも、それはアスカの「消えた自販機事件」が浮上したわずか数日後のことだ。


 健司の頭の中で、二つの事象が嫌でも結びついてしまう。


「それって……もしかして、あの自販機の件と何か関係があるんですか?」


 橘は断定しなかった。


「分からない。だが、タイミングが良すぎる。無関係だと決めつけることはできない」


 その言い方が、逆に事態の深刻さを物語っていた。


 関係があるとも、ないとも言えない。


 ただ、絶対に無視することはできない強烈な特異点。


「そして」


 橘は、黒い封筒からもう一枚、小さなメモのような資料を取り出した。


「彼女は、君に会いたいと言っている」


 健司の思考が、真っ白にフリーズした。


「……俺に?」


「ああ」


「予知者Kとして、ですか?」


「違う」


 橘は、鋭い視線で健司を射抜いた。


「佐藤健司。彼女は、君の『本名』を出した」


 健司の呼吸が止まった。


 ネット上のペルソナである「予知者K」ではない。佐藤健司という本名。


 ヤタガラスの内部情報から知った可能性はある。だが、五年間も沈黙し、他者との関わりを絶っていた伝説の存在が、突然自分から連絡をしてきて、ただの新人である健司を本名で名指しした。


 これは、明らかに異常だ。


「なんで……俺の名前なんかを……」


「分からない」


 橘は、今日何度目かになるその言葉を繰り返した。


「彼女が自らの予知で君を視たのか。ARC経由で情報を得たのか。我々の知らない別の観測手段があるのか。それとも、全く別の理由があるのか。現時点では、我々にも全くの不明だ」


 健司は言葉を失い、黙り込んだ。


 分からないことが多すぎる。分からないまま、事実だけが目の前に高く積み上げられていく。それが、オラクルという存在の得体の知れない恐ろしさだった。


「佐藤君。我々ヤタガラスは、君をより慎重に扱う必要が出てきた」


 橘が、静かな、しかし重みのある声で言った。


「俺を、ですか?」


「ああ。君はすでに『予知者K』として、外部のネット上に巨大な痕跡を残している。斎藤アスカさんの案件にも直接関わった。外部要因による覚醒誘発案件という、未知の脅威の初動にも居合わせた。そして今、五年もの間沈黙していたオラクルが、君を本名で名指しした」


 橘は淡々と、これまでの健司の実績と事実を並べ立てた。


「これはもう、単なる新人職員の能力面談などでは済まされない事態だ」


 健司は、自分に向けられている言葉の重さに押し潰されそうになった。


「君が今、何を視ているのか。そして、君が誰に視られているのか。我々ヤタガラスは、それを極めて慎重に判断しなければならない」


 ここで、健司の組織内での格が、明確に一段階引き上げられた。


 だがそれは、決して浮かれるようなものではなかった。


 初任務での迅速な対応、ジムでの訓練姿勢、予知の現場での応用力。それらの実績が評価されたからこそ、橘はこの重大な情報を隠さずに開示しているのだ。


「……俺、何か取り返しのつかないこと、やらかしましたか?」


 健司が思わず尋ねると、橘はほんの少しだけ表情を緩めた。


「少なくとも、現時点では君が何かをやらかしたわけではない」


「『現時点では』って前置きされると、めちゃくちゃ怖いんですけど」


「君が関わっている事象のスケールが、我々の想定よりもずっと大きい可能性が出てきた、ということだ」


 橘のその言葉に、健司は頭を抱えたくなった。


『クックック……よかったな、猿』


 魔導書が脳内で愉快そうに笑う。


『格闘技ごっこで才能を褒められたと思ったら、今度は五年間も沈黙していた伝説の予知猿に名指しでご指名だ。大人気だな』


(やめろ。絶対そういう楽しい方向の人気じゃないだろこれ)


 健司は内心で魔導書に問うた。


(なあ、どう思う?)


 魔導書は少し沈黙し、低い声で答えた。


『……面白い』


(お前の『面白い』は、だいたい俺にとって不穏なんだよ)


『五年間も完全に沈黙していた予知能力者が、数日前に突然動いた。しかも名指ししたのは、新入りの貴様だ。ただの偶然で片づけるには、あまりに因果が綺麗に繋がりすぎている』


(オラクルが、俺の未来を予知したってことか?)


『断定するな、猿』


 魔導書がぴしゃりと戒める。


『予知か、ARC経由の情報か、別の観測か、あるいは完全に別の理由か。現時点で答えを決めつけるのは愚か者のすることだ』


 魔導書でさえ、理由を断定しなかった。


『だが、会いに行く価値は十二分にある。貴様が予知を扱う者としてこの先へ進むつもりなら、予知を放棄した者の存在は、絶対に避けては通れん道だ』


(危なくないのか?)


『危ないに決まっているだろうな』


(即答かよ)


『だが、危険であることと、価値がないことは別だ』


 魔導書らしい、非情で合理的な結論だった。


「これは命令ではない。あくまで依頼だ」


 橘が、健司の目を見てはっきりと告げた。


「……拒否することもできるんですか?」


「できる」


 橘は頷いた。


「相手はオラクルだ。彼女が我々の敵対者だとは思っていない。だが、絶対に安全だと断言できる相手でもない。彼女は、我々ヤタガラスよりも遥かに深い場所を視ている、あるいは視ていた人物だ」


 健司は息を呑んだ。


「彼女は、こちらの施設には来ないと言っている。会談の場所も、彼女側の指定になる可能性が高い。ヤタガラス側で可能な限りの安全確認とバックアップはするが、完全にこちらの管理下に置くことはできない面談になる」


 健司は迷った。


 怖い。


 だが、強烈な興味もある。


 自分を本名で名指しした伝説の予知能力者。数年前から予知を止めた理由不明の人物。ARC以外との連絡を絶っていた存在。


 その人が、なぜか自分に会いたいと言っている。


 ここで会わずに逃げる方が、後から得体の知れない因果に巻き込まれるよりも、ずっと怖い気がした。


 健司はしばらくの沈黙の後、顔を上げて答えた。


「……会います」


 橘は、小さく、しかし安堵したように頷いた。


「分かった。先方と調整する」


「一つだけ、佐藤君に覚えておいてほしいことがある」


 面談の最後、橘が静かなトーンで忠告した。


「はい」


「彼女がなぜ予知を止めたのか、我々は知らない。だから、君も勝手に決めつけないことだ」


 健司は真剣な顔で耳を傾けた。


「予知の重圧に疲れたのかもしれない。何か決定的な破滅のビジョンを視たのかもしれない。ARCとの間に軋轢があったのかもしれない。あるいは、我々が想像もできない全く別の理由かもしれない。だが、どれも推測に過ぎない」


 橘は、健司の目をまっすぐに見つめた。


「本人が自ら語るまで、分からない。そして、本人が語らないのであれば、その『沈黙』もまた、彼女の一つの答えだ」


 健司は深く頷いた。


「分かりました」


 オラクルの沈黙を尊重する。それが、この面談における最低限の礼儀なのだ。


「それと、もう一つ」


 橘が実務的な注意を付け加えた。


「彼女に、自分の未来を視てもらおうとは思わないことだ」


「……分かってます」


「君が頭で分かっていても、人は、強力な予知能力者を目の前にすると、つい未来の答えを聞きたくなるものだ。自分はどうなるのか。何が起きるのか。どうすれば助かるのか。……だが、彼女は予知を止めている」


 橘の言葉には、長年能力者たちを管理してきた者特有の重みがあった。


「その選択は、尊重してやってくれ」


「はい。肝に銘じます」


 健司は、重く受け止めた。


 橘の執務室を出て、厳重な警備の敷かれたエリアから通常のフロアへと戻る。


 そこでは、職員たちが足早に歩き、どこかで電話のベルが鳴り、会議室からは議論の声が漏れ聞こえていた。


 急に、ただの官公庁の「普通」の空気に戻ったように感じられる。


 だが、健司の中では、もはや何も普通ではなかった。


 頭の中で、橘から叩き込まれた情報が激しく渦巻いている。


 オラクル。託宣の巫女。


 数年前から予知を止めた伝説の存在。


 ARC。神々の円卓。


 消えた自販機。外部要因による覚醒誘発。


 そして、佐藤健司という本名への指名。


 健司は、廊下の窓から外を見た。


 眼下には、霞が関の無機質な街並みが広がっている。


 道路の脇には、当たり前のように自動販売機が並び、スーツ姿の人々がせわしなく行き交っている。


 ほんの少し前までなら、何とも思わなかった退屈な景色だ。


 だが今は、あの自販機も、ビルも、人の流れも、すべてが巨大な何かの布石であるように見えてしまう。


「……俺、いったいどこまで深いところに巻き込まれてるんだ?」


 健司は窓ガラスに額を押し当て、小さく呟いた。


『ようやく、自分が立っている場所の輪郭が、ほんの少しだけ見え始めたようだな』


 魔導書が、静かに答えた。


(どこなんだよ、ここは。底なし沼か?)


『渦の縁だ』


(中心じゃなくて?)


『思い上がるな。貴様はまだ、因果の中心に立つほどの器ではない。だが、その縁に両足をかけた以上、もう見なかったことにはできんぞ』


 健司は苦笑を漏らした。


「次から次へと、とんでもないスケールの話ばっかりだな。少しは休ませてほしいよ」


『喜べ。名もなき猿の人生にしては、随分と大きな因果の流れに触れているぞ』


 五年ぶりに長き沈黙を破った託宣の巫女は、なぜか、佐藤健司というただの青年の名を知っていた。

最後までお付き合いいただき感謝します。


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