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この毒に身を焦がせば  作者: ゴオルド


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第9話 夫が失踪し、働く自信が戻ってきた

 夫が失踪した。

 季節はいつしか夏になっていた。


 浮気相手である近藤さんという女性が乗り込んできてから数週間後、忽然と夫が姿を消したのだ。仕事にも行っていないらしく、ある日、会社から「無断欠勤が続いているのですが……」と連絡があった。


 ところで駆け落ちと失踪って同じものなのだろうか。夫は駆け落ちなんだろうと思って、私は気にしていなかったのだが、これが失踪となると、どうなんだろう?


 こういうとき、サレ妻としては失踪届を出すべきなのだろうか?


 でも、それだとまるで夫に帰ってきてほしいみたいではないだろうか。帰ってきてくれなくていいんだけど。しかし、だからといって放置するのも薄情すぎるかなあと思い、形だけではあるけれど失踪届を出しておいた。


「行方不明? ただの家出じゃないですか?」


 警察官からそっけなく言われても、そうかもしれませんとしか答えられなかった。うちの夫は家出なんかしませんと言える夫婦ではなかったことが悲しく、それでいて、もうどうでもいいなという気持ちもした。



 専業主婦だった私は、夫の失踪により無職の女性という立場になった。無収入で、つまり外に働きに出なければいけない。そんなこと以前はとても無理だと思っていたけれど、夫のいない日々を過ごすうちに、だんだんと「もしかしたら自分でも働けるかもしれない。だめでもともとだ、頑張ってみよう」という前向きな気持ちになってきていた。


 生理痛の痛みも、以前より軽くなった気がする。婦人科の先生にそう伝えると、「生理痛はストレスの影響も大きいですからね。何か環境の変化でもあったんですか」と言われた。心当たりはある。夫がいなくなったこと。あと不倫したこと。もちろんこんなことを人に言うわけにはいかないけれど。


 私はハローワークに通い始めた。



 プールの彼からはしょっちゅうスマホにメッセージが送られてきている。

「会いたい」

「プールではいつもあなたを探してしまう。どこにもいなくて、がっかりします」

 電話がかかってくることもあったが、出なかった。


 わざわざ別れを告げるなんてことをしなくても、連絡を断てば自然とフェードアウトできると思っていたが、私が間違っていたようだ。彼からは決まって毎日1通のメッセージが届く。電話はもうかかってこなくなったが、メッセージだけは律儀なほど毎日来るのだ。


 着信を告げる振動とともに罪悪感がわき起こり、さらに罪深いことに、私はどこか嬉しい気持ちでいた。そんな自分に吐き気がした。こんなことなら、ちゃんと会って、別れを告げるべきだった。



 だから、その日、夕立があがり、灰色の雲の向こうにオレンジ色の空が顔を覗かせたころ、駅近くのコンビニ前に立つ彼を見かけたのは、きっと運命なのだろう。


 アスファルトで熱せられた空気の中に浮かび上がる蜃気楼のように不確かで不揃いな通行人たちの向こうに、彼だけがくっきりとした輪郭を持って存在していた。


 きちんと終わらせなさいと神様が言っているのかもしれない。きっとそうだ、そう自分に言い聞かせながら、彼に向かって歩き出した。



 彼は、スマホで通話していた。コンビニに背を向ける形で立っている。

「ふざけんなよ」

 怒ったような声だった。


「弟を病院につれていくって話だっただろ。だから1万貸してやったんじゃん。なんだよ、パチンコですったって。弟はどうしたんだよ」

 しばらくの沈黙。

「それならいいけど。……だから、貸さないって。なんでおまえのパチンコ代を僕が出すんだよ、ばっかじゃねえの」


 彼がスマホをおろした。通話が終わったのだろう。彼はなぜか周りを見回した。そして何かに引かれるみたいに、立ち尽くしている私を見つけた。目が限界まで見開かれる。


「相田さん! 会いたかっ……いや、あの、今の聞いて……ましたよね? えっと、今のは違うんです、あの、僕いつもはあんな乱暴な口調じゃなくてですね」

 しどろもどろで弁明する彼に、いいよ、と私は笑う。


「今時の男の子だもん、友だちと話すときはそういう口調になっちゃうよね」

「いや、でも、あの……」


「言葉遣いはともかく、話の内容自体は乱暴じゃなかったよ」

「怖く……なかったですか?」


「怖くないよ」

「良かった……」

 私は少し息を吐いて、思い切って口を開いた。


幸希(こうき)くん。あのね、私、話したいことが……あっ」


 彼は私の手を握ると、何も言わずに歩き出した。

 なんとなく会話を避ける空気をまとった幸希くんに何も言えなくて、私も黙ってついていく。


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