第7話 彼の全てを汚しきってしまう前に
「私、離婚したいっていう気持ちが強くなった。というかもう絶対別れたい。たったいまこの瞬間に、あなたと一緒にいたいっていう気持ちが完全に消滅したの」
「なんでだよ!? こっちが下手に出てれば調子に乗って……」
「そうだよね、調子に乗ってるし、私なんて可愛くないよね。なら離婚しましょう」
「いやだ、絶対離婚なんかしない」
「……そう。それならお願いがあるの」
不機嫌そうに眉根を寄せた夫にひるむことなく意見が言える自分に戸惑いつつも興奮している。私がこんなに言い返せるようになったのはどうしてだろうかと考えたら、プールの彼の顔が自然と思い浮かんだ。
人は誰かに求められると、自信がついて強くなれるのかもしれない。たとえ間違った関係であったとしても。
「ある製薬会社が、浮気治療について研究開発中なの。その治験に参加してほしい」
「浮気治療……研究? それの治験って……。何なんだよ、それ、めちゃくちゃ危なそうじゃないか。この俺に人体実験なんてあり得ないだろ」
「嫌なら離婚して」
「どっちも嫌だ。お断りだ!」
夫はかんしゃくを起こした子供みたいにわめいてキッチンに戻ると、冷蔵庫の中で冷たくなったロールキャベツをやけ食いしだした。温め直せばいいのに、と思いながらも、私は温め直してやることはせず、寝室に引っ込んだ。
布団に倒れ込んで、スマホを見る。プールの彼から届いたメッセージを表示させると、気持ちがほぐれた。
「今夜は僕のところに来ませんか」だなんて、まるで恋人みたい。
彼は私を女として見てくれている。それだけで、そう自覚するだけで、どうしてこんなに心が浮き立つんだろう。スマホをお守りみたいに胸に抱いて、目を閉じた。
その夜からずっと夫とは冷戦状態が続いている。
たまに気遣いのつもりかコンビニのスイーツを買ってくるけれど、私は太りたくないからと言って断る。すると、夫はむくれて、家を出ていく。
寒々しい家庭。きっと私が悪いのだろう。自責の念がシンクの汚れのように日々増えていき、心にこびりついたまま取れない。夫は夫なりに歩み寄ろうとしているのに、それを突っぱねている私は心が狭くて意地悪で醜い。
そう私は醜い。
ほかの男と会ったりしている。でも、先に不倫したのは夫のほうだと自分に言い訳しているなんて、本当に醜い。
夫は不倫を続けている。だから私だって良いじゃないかって、そう思うことにしている。そう思う自分がひどく汚れてしまったように感じる。
この夫といると、私はどんどん醜くなっていくような気がした。
その日の午前も、私は市民プールを訪れていた。
もうダイエットはしなくて良いから、以前のように熱心に通うこともないが、彼もいるし、気晴らしに泳ぐのは楽しかった。
水着に着替えて更衣室を出ると、プールサイドにいる彼は、ちょうど若い女の子と話しているところだった。彼女は首にIDカードをさげている。同じプールスタッフのようだ。
仕事の邪魔するのも気がひけて、私はひとまずプールのはじにあるジャグジーに向かった。プールで冷えた体を温めるためにつくられたジャグジーには熱いお湯がはられており、いつもお年寄りのたまり場になっていた。これまで利用したことがなかったけれど、今日はなんとなく人の輪に入ってみたい気持ちだった。
彼の方に背を向ける形でジャグジーに入り、周囲のお年寄りに会釈した。私だけじゃなく、ジャグジーに入る人はみな最初に会釈している。ここはそういう独自の文化が形成されているようだ。お湯は結構熱かった。お風呂みたい。まるでプール内で営業している銭湯だ。
隣にいたおばあさんと、「今日は風が強いですね」「そうよねえ、風で洗濯物が飛んでいきそう」などと雑談をかわしていたら、
「は? くそウザイんだけど」という男の声がした。
聞き覚えのある声だった。
そっと振り返ってみて、驚いた。彼が女の子とともにしゃべりながら、すぐ近くを歩いていたのだ。
くそウザイって、これが彼の言葉なの? いつもの優しい口調と全然違う……。そんなことを言う子じゃないと思っていたのに。私の前では行儀のいい男の子の演技をしていたのだろうか。
「だよね。私もすごいムカついたもん。すれ違いざまにお尻を触ってくることもあるんだよ!」
女の子が、早口でまくしたてた。
「出禁でいいよ、そのジジイ。っていうか通報してもいいんじゃないの」
「それがダメなんだって。あのクソジジイは部長の親戚だから」
舌打ちが聞こえた。
「あーあ、気分悪いな。気分変えるために相田さんに会ってこようっと」
自分の名前を呼ばれてどきりとした。二人は足をとめ、一般プールのほうを向いた。
「相田さん、今日は来てないか」
彼がほかの女の子と一緒にいるときも私を探してくれているのが、自分でもびっくりするぐらい嬉しかった。
「あのさあ、幸希くんさ……」
女の子はちらりとジャグジーのほうを振り返った。一瞬私と目が合ったような気がして思わずびくりとしたが、彼女は次の瞬間にはもうプールのほうに向き直っていた。
「あのね、恋愛は自由だとは思うんだよ。でも、あの人って既婚者なんでしょ?」
彼は何も言わなかった。
「かなり噂になってるよ。私たちは大学4年生になったわけだし、就職とかインターンとかもあるわけじゃん。マイナスになるようなことはやめておいたほうが……あ、待ってよ」
女の子をその場に残し、足早に立ち去る彼の背中を遠くから見つめながら、さきほどの言葉を心のなかで反すうする。
「マイナスになるようなこと、か……」
小さく呟いてみて、そのとおりだと思った。私との関係は、彼にとってマイナスでしかない。私は彼に甘えてしまって心の拠り所にしていて、そのお返しにあげられるのは不倫という不名誉な肩書きだけなのだ。
離婚もせず、かといって夫と和解もせず、彼と会い続けている身勝手な私。
自分は不幸でもいい、自業自得だから。でも、彼まで巻き込んではいけない。彼には未来があるんだから。そんなことにやっと気づいた。冷水を頭からかけられて目が覚めたかのようだった。
もう彼と会うのをやめよう。
一線を越えていないのは良かった。彼のために、良かった。彼の青春の全てを汚してしまうことなく、一部分だけでも綺麗なままに残せたのはよかった。
こんなふうに思うのは、私のエゴに過ぎないのかもしれないけれど。
背の高い私を、彼は素敵だと言ってくれて、私に自信をくれて、夫に別れを切り出す勇気をもらった。私のためになることをしてくれた。今度は私が彼のためになることをしよう。
そう心に決めた。
その日はもう泳がずに着替えてプールを出た。
家に戻ると、平日の昼だというのに、なぜか玄関の鍵があいていた。




