第6話 それならいっそ別れましょう
「治験、ですか」
治験とは、人間を使って薬の効果や安全性を調べることを言う。つまり、浮気治療はまだ試験段階ということなのだろう。少しがっかりする。
「夫に害はないのでしょうか。重大な副作用とか……」
一番気になることをまっさきに尋ねた。
「それは、否定はできません。それでも構わないという覚悟を決めた方だけに治験をお願いしたいと思っています」
「そう、ですか……」
ふくらんでいた希望の泡がぱちんと弾けたような気持ちだった。浮気が治ればどんなにいいか。でも夫を危険な目に遭わせるわけにはいかない。
しょんぼりと肩を落としていたら、女性がやや早口で話し始めた。
「どのようなリスクが想定されるか、一応ご説明しますね。一番考えられるのは、人格の変化です。つまり人が変わってしまう。浮気しない夫になるのではなくて、別人のような性格になる可能性があります。また、骨がもろくなったり、腎臓を悪くしたり、神経が麻痺して寝たきりになってしまうリスクもゼロではありません」
そうなったとしても愛せるのか、と問われている気がした。
どんな夫になったとしても、一生添い遂げる覚悟はあるのかと。
「それは……あの、今すぐにはお返事できません」
そうでしょうと三人は頷いた。
「夫に相談してみます」
彼らの顔がくもる。
「いや、それは……。ご主人には無断で処置するほうがスムーズなのですが」
「多分、話がこじれますよ」
でも、と私が言うより先に、セーターの男が声をあげた。
「いや、重要なことですからね。夫婦で合意できるのならば、そのほうが良いですよ。決して後悔のない決断をなさってください」
後悔のない決断なんて、この世にあるんだろうか。
製薬会社から帰ると、夜8時を過ぎていた。夫はまだ帰っていない。スーパーに寄って買い物をしたせいで遅くなってしまい、夫が先に帰宅していたらどうしようかと焦ったが、ほっと安堵の息を吐いた。
今ごろ浮気相手のところにいるのだろうか。それとも残業なのか。不倫の事実を知るまでは、夫の帰りが遅くても何も感じなかったのに、今は何でも疑うような気持ちになってしまう。
もやもやした気分のままエプロンをつけ、夕食の支度を始めた。今夜はロールキャベツだ。安い鶏むね肉をフードプロセッサーでミンチにして使っているから、少しだけ固いけれど、味は良いはず。
ロールキャベツを包み終わり、鍋に並べていたとき、スマホにメッセージが届いた音がした。どきりとする。まさか夫からの連絡だろうか。今夜は帰りが遅くなりそうだ、とか? いや、そんなわけない。あの人は私にスマホで連絡してくるなんて、もう随分前からしなくなっている。
では、誰か。
心当たりは一人だけだった。プールで出会った大学生の彼。おそるおそるスマホを見てみると、予想どおり彼からだった。きれいな男の子の顔を思いだし、少し胸がときめく。
「相田さんに会いたいです」
男の人からこんなにまっすぐな言葉を掛けてもらったのって、いつぶりだろう。私も会いたい、という気持ちを文字にしてしまっていいのかどうか。迷っていたら、さらに届いた。
「これから会えませんか」
「ごめんなさい。今夜は、2カ月間のダイエットの報告をしなきゃいけない日だから」
すぐに返信が来た。
「そんなの無視してよくないですか。やる必要のないダイエットをさせるなんて、ひどいですよ」
それはそうなのだが……。
「今夜は僕のところに来ませんか」
行けたらどんなにいいだろう。でも、相手は大学生。こんなこと、いつまでも続けるわけにはいかない。返事をせずにスマホ画面を伏せて、テーブルに置いた。
ロールキャベツがすっかり冷めて、日付も変わろうかという頃、夫が上機嫌で帰ってきた。その笑顔に潜む悪意に気づかないわけがない。これは偽りの上機嫌だとすぐわかった。
「おい、約束の日はきょうだったろ。ちゃんと10キロ痩せたんだろうな」
早速来た。
「それは……」
口ごもる私の足下に、夫はかばんをたたきつけた。
「何キロ痩せたんだ、言ってみろよ」
「な、7キロ……」
夫は大げさに溜息を吐くと、リビングのソファにだらしなく倒れ込んだ。
「俺がこんなに大変な思いをして働いているのに、おまえときたらブクブクブクブク太りやがって。その上、約束まで破るのか」
「で、でも、40キロ台にはなれたよ」
「そういうことじゃねえんだよ!」
「ごめんなさい……」
うなだれる私に、夫は指を2本つきつけた。
「2万な」
来月からは2万円でやりくりしろというのだ。できるだろうか、いや、やらなければならない。離婚されないためにも、頑張らなくては。
夫は立ち上がると、玄関に向かって歩き出した。
「え? どこに行くの」
「デブおばさんと一緒にいる気にならないし。彼女のところに行くわ。彼女のほうがおまえの何倍も綺麗だし」
「待って、行かないで」
夫は私の手を振り払った。まるで汚い物でも払うかのように。
「俺たち、もう別れた方がいいのかもな」
「そんな……私、離婚したくないよ」
「離婚したらおまえは生きていけないもんな」
そのときの夫の顔を、生涯忘れることはないだろう。
夫は笑っていた。
無力な芋虫をむごたらしくちぎって捨てる子供のような残酷な笑みだった。それでいて、妻がすがりついてきて捨てないでと懇願することを信じて疑わない傲慢そうな顔。
その顔が、あまりに醜くて、背筋がぞっとした。目の前にいる夫がもはや同じ人間とは思えなかった。
その瞬間、あ、もう無理と思った。
私のストレスは容器のふちぎりぎりまでいっぱいに溜まっていて、その限界ラインを超える最後の一滴が、この顔だったのだろう。もう無理、これは生理的に無理。私たち夫婦はとうとうゲームオーバーとなったようだ。「私たち夫婦」という言葉も、気分が悪い。
どこか冷静に自分の心理を分析している自分をあえて強く意識しながら、ふっと軽く息を吐く。
「わかった。別れましょう」
そう口にするのは、思ったより簡単だった。
「……は?」
振り返った夫は、もう笑っていなかった。それが妙に愉快だと思ってしまった。私はきわめて冷静に振る舞うよう心がけながら、口を開いた。
「もう私たち無理なんだってわかったよ。だから、別れましょう」
「な、何だよ、それ……。俺と別れたら、おまえは生きていけないだろ。まともに働けないくせに」
「そうだね」
別れて、ひとりになった私は、どこかでのたれ死ぬのだろう。もうそれでもいいやという気分だった。
「私疲れちゃった。何もかもどうでもよくなっちゃった」
「おい、落ち着けよ」
「それは私のせりふだよ。なんでそんなに慌ててるの」
「いや、だって、おまえが別れるなんて言うから」
「え、だって別れてほしいんじゃないの?」
「別にそうは言ってないだろ」
「何それ……、私みたいなデブといたくないんじゃなかったの。可愛い彼女のところに行けばいいじゃない。それとも彼女をここに呼ぶ? 私、お邪魔だろうから出ていくね」
「待てよ、ヒステリー起こすなって、ああ、もう!」
夫は私の腕をとった。
「ごめんごめん、俺が悪かった。降参だから、な? 機嫌なおせよ」
へらっと笑った夫の顔を、無言で冷たく見返す。
「だってさあ、彼女はたしかに美人だよ。それは認める。おまえなんか逆立ちしたってかなわない。でも、家事は全然できないし、金遣いも荒いし、一緒に暮らす相手としてはイマイチでさ」
ひょっとして、夫はこう言うことで私が喜ぶとでも思っているのだろうか? もしかしてものすごく頭が悪いのだろうか。妻を家政婦だとしか思っていないと言っているのも同然なのに。
「だから、安心しろ。おまえと別れたりしないから!」
結婚前には気づかなかったが、どうやら夫はバカのようだった。




