第3話 「夫の浮気、治します」
女子トイレ? と首をかしげながらプール更衣室を出て、女子トイレに入ってみたら、言われた意味がわかった。
手洗い場のところに、カードサイズのチラシが多数設置されていたのだ。それらのカードには、「女性差別に困ったときの法律相談」「夫の暴力・DV相談」「夜間でもOK! レイプ相談センターに連絡を」などと書かれている。NPOや女性団体の連絡先が載っているそのカード型のチラシは、どれも自由に持ち帰れるようになっていた。
ずらりと鏡の前に並んだカードケースたち。その数の多さに圧倒されてしまう。ここは市民プールのトイレで、つまりお役所の施設なわけで、だから、こういうチラシが多いのだろう。駅のトイレなんかだとせいぜい2、3種類ぐらいしかないのに。
この市内だけでも、こんなにたくさんのチラシがあるなんて。ここのチラシの数だけ、女性を救おうとする人たちがいて、その助けを必要としている女性がいるのだ。これだけ多数の団体が存在するということは、それだけ多くの女性たちが男性によって苦しめられているということなのだ。ずんと胸が重くなる。私もその一人ということ?
「さっきの人、このどこかに電話をかけたらいいよって言いたかったんだろうな」
苦笑してしまう。このカードに書かれているのは、どれも深刻な状況ばかりではないか。
私はそんなに不幸じゃないのに……。
夫が浮気して、痩せないと生活費を減らすと言われて、離婚されたら生きていけないだけ……。愛していないけれど夫とは別れられないから、夫に逆らえないだけ。ただそれだけだから、私はここにあるような人たちとは違う。私はまだ恵まれている。そう自分に言い聞かせながら、でも心のどこかで、本当にそうだろうかという気持ちもする。
私は、不幸?
私は、幸せ?
あまり深く考えたくはなくて、視線を逸らしたとき、あるカードに目が引き寄せられた。
それは「夫の浮気、治します」という言葉だけが書かれた、シンプルなカードだった。
治す? 浮気を? どうやって? あまりに荒唐無稽すぎて、思わず手にとってしまった。
カードチラシをひっくり返して裏を見ると、相談先として製薬会社の名前が書いてあった。なぜ製薬会社なんだろう。浮気と製薬会社がどう関係するんだろうか。カウンセリングとかならまだわかるけど。薬で浮気を治すということ? そんなまさかね。
なんだか胡散臭いなあ、変な会社かもしれないと思ったのに、気づけばカードを握りしめてトイレを出ていた。
こんな怪しいチラシに電話を掛けるなんてどうかしている。もし友達がこんなのに電話しようとしていたら、絶対止めると思う。
そう思うのに、なぜか私は素早くあたりを見回して、人に聞かれず電話ができそうなスペースを探した。いいぐあいに自販機のあたりには人気がない。私は足早に自販機に近づくと、その陰に隠れるようにして立ち、壁にもたれかかって電話をかけてみた。
しばらくオルゴールのメロディーを聞かされた後、女性が出て、事情を尋ねてきた。事情というのは要するに浮気の状況だ。私はしどろもどろになってしまった。ああ、こんなことなら事前に頭の中で話を整理しておけばよかった。とにかく気が急いていたのだ。
かなり詳しく内容を尋ねられたので、求められるままに話した。夫の浮気が発覚した時の説明をしたときはまだ良くて、その後、浮気した夫のためにダイエットをしないと生活費を減らされるというあたりの説明は、自分でも何を言っているのか意味不明だし、それだけに余計にみじめだった。
「夫は遊び相手にお金を使いたいんだろうと思うんです。そのために私に渡す生活費を減らしたくって、そのために私にダイエットをしろと言い出したわけです」
なんなの、これ。こんなわけのわからない話を聞かされる電話相手が気の毒になるレベルだ。
だけどオペレーターの女性は、私の要領を得ない話を辛抱強く聞いてくれた後、
「それはおつらいでしょう」と同情的な口調で言ってくれた。
「は、はい……」
おつらいです……主にダイエットとか、生活費の心配とかが。
「ぜひ弊社に相談にいらしてください。詳しい治療計画については、そちらで担当者とお話ししていただくことになります」
「ち、治療ですか……」
「はい。ただ、まことに申しわけないのですが、ただいま1カ月待ちとなっております」
「1カ月も待つんですか?」
「申しわけございません。浮気で悩む女性が多いようで、お申し込みが殺到しているんです」
しかし、私はかえって相談したい気持ちになった。そんなにたくさんの人が相談しているのなら、信用できるかもしれないと考えたのだ。我ながら単純だ。
「お待たせしてしまうことになるのですが、どうされますか。浮気治療の面談の予約を入れますか?」
私は「はい、お願いします」と即答していた。
だって、もしも夫が浮気をやめてくれたら。あの背の低い美人と別れてくれたら。ダイエットしろとか生活費を減らすとか言わなくなるかもしれない。すっかり冷え切った夫婦関係を改善できるかもしれない。
そんなわけないよ、あの人はもうそういうことを期待できる男じゃないって心のどこかで気づいているのに、でも、もしかしたらって、あの人も考え直してくれるかもって、また二人でうまくやっていけるかもしれないって、そう思いたくて、自分を騙したくて、私は現実を見ないふりをした。
今、夫は浮気に舞い上がってるだけなんだ――。
浮気さえ治ったら、きっと大丈夫――。
電話を切って、スマホをかばんにしまおうとしたとき、ふと視線を感じた。
あたりを見回すと、壁の中に若い男性がいた。いや、壁じゃない。さっきは見落としていたが、自販機のすぐ隣に喫煙ルームがあったのだ。壁を四角く凹ませたような喫煙ルームは、暗い色したガラス戸で通路と仕切られていた。ドアは内側に開いている。通話を聞かれてしまっただろうか。こんなに近距離だ、おそらく聞かれただろう。
私と目が合うと、男性は気まずそうな顔をして、半分ほど入ったアイスココアのペットボトルのふたを閉めながら出てきた。
彼は、白に黄緑のラインが入ったジャージを着て、首からIDカードをさげていた。この市民プールでスタッフとして働いている男性だ。まだ若い。学生だろうか。喫煙室にいたがタバコを吸っていた様子はない。
お互い何か言いたげな顔をしたまま、目が合う。
「あ……」
その綺麗な顔立ちには見覚えがあった。アクアビクス教室のアシスタントをしている人だ。
私は市民プールの無料教室はほとんど出ており(もちろん少しでも痩せるために)、だからアクアビクス教室にも参加しているし、スタッフの顔は大体覚えていた。
それに正直、彼は覚えやすい顔をしていた。「紅顔の美少年だ」とプールに通うお婆さんたちが更衣室で噂しているのを聞いたことがある。少年というには成長しすぎているとは思うが、「美」の部分は同意せざるを得ない。イケメンというより美しいという言葉のほうが似合う、どこか中性的な線の細い男の子だった。
彼は、小さく頭を下げた。
「聞く気はなかったんですけど、全部聞こえてしまいました」
ああ、やっぱりか。家庭の恥をさらすことになってしまい、いたたまれない。
「済みません、相田さん」
「えっ。私の名前、覚えてくださっていたんですか」
話したこともないのに。少し身構えた。どうしよう、全然知らない相手ならまだ良かったが、私の名前まで知っている人に、あまりにもあまりな意味不明すぎる浮気相談を立ち聞きされてしまうなんて。
恥ずかしい。自分の顔が少し熱を持った気がした。




