第14話 脅迫
12月になり、幸希くんは卒論のラストスパートだそうで、かなり忙しくなった。
自分のことを優先してほしくて、だからデートができなくてもしょうがないと伝えてはいるが、そうはいっても会えないのはやっぱり寂しかった。
でも、きょうは久しぶりに幸希くんと会う約束をしている。
彼は朝から大学に行っていて、午後に市民プールで待ち合わせることになっていた。幸希くんは市民プールのバイトは随分前に辞めていて、だから久しぶりに泳ぎたいと言っていた。それはきっと半分本当で半分嘘だ。今あまり出かけられない状況で、それでもどうにか会う口実をつくってくれたのだろう。
私は市民プールの屋内、自販機の横に立って、手提げバッグの中をのぞき見る。ダークブラウンの包み紙はつやつやしている。ここに来る間、雪が降っていたから濡れていないか心配だったけれど、大丈夫そうだ。これは幸希くんへの差し入れだ。甘いものが好きな幸希くんにチョコを買ってきたのだ。
やがて約束の時間になった。だが、幸希くんはあらわれない。かわりにスマホにメッセージが届いた。
「ごめんなさい。卒論指導が長引いちゃって遅れそうです」
私はすぐに返信した。
「じゃあ、先に泳いでようかな。無理しないでね。あ、今日はお土産あるから楽しみにしてて」
ゆっくり時間をかけて着替えて、念入りに準備体操を行い、遊泳コースをおそめのペースで往復した。ここで一旦プールサイドに上がった。温水プールだけれど、やはり冬は寒く感じる。お湯がはられたジャグジーで休もうと思ったのだ。だが、そちらは大人気のようで人でごった返していた。お年寄りだけでなく小中学生もお湯に肩までつかって嬉しそうにしている。平日の昼間なのにどうしてこんなに子供がいるんだろうと不思議に思い、ああ、そうか、いまは冬休み中なんだなと、すぐに思い当たった。
では、採暖室という部屋で暖まろうと思い、水泳帽を外して室内に入ろうとしたときだった。
「ちょっといいですか?」
見知らぬ女性3人組から声をかけられ、取り囲まれてしまった。競泳用の水着を着た若い女性たちだ。
「あの……何か?」
「よくこのプールに顔を出せますね」
「え……?」
「不倫してるくせに」
寒気が走ったのか、体が燃えるように熱くなったのか。どちらにせよ激しい感覚が全身を走ったのは確かだった。
「大学生をたぶらかしているくせに」
直感があった。うちの郵便受けにゴミを入れているのは、この3人の中の誰かだ。みんな若い。女子大生だろうか。2人は水泳帽をかぶっているが、1人はブラウンに染めた長い髪を肩下までたらしている。
私は慎重に、慎重にと自分に言い聞かせた。ここでおかしなことを言えば、彼に迷惑がかかってしまうだろう。相手はカラスの死骸を嫌がらせに使うような人物。まともに話が通じるとは思えない。
私は沈黙を選んだ。
「だんまりですか」
「反論できないんですね」
「何か言ったらどうなんですか」
彼女たちは口々に私を責める。それでも私が黙っていたら、しびれを切らしたのか、長い髪の女の子が眉をつりあげて私に迫った。
「彼と別れてください」
「あなたは……確かこのプールのスタッフさんでしたよね」
言葉を交わしたことはないけれど、よく見かけていた顔だ。彼女は彼のバイト仲間だ。
そこで、はっとした。
彼女の険のある視線は、恋敵に対するものだと気づいた。そうだったのか。彼女は幸希くんのことが好きだったのか。
そういえば、以前幸希くんに不倫をやめるよう忠告していたのも彼女だった。
「私がスタッフだから何ですか。そんなのあなたの不倫とは何も関係ないですけど!」
彼女はプールに響き渡るような大声を出した。いけない、あまり刺激しないようにしないと。
「あなたがたぶらかしている相手……幸希くんは、立派な会社に内定が決まったんです。でも、不倫しているってバレたら、内定取り消しになるかも……」
「一流企業って、そういうのにうるさいし」
「絶対やばいよね」
友人たちが彼女を援護する。
私は今は独身で、今は不倫じゃない。そう言いたい気持ちもあったけれど、過去に不倫状態にあったことは事実だ。何も言えた立場じゃない。
「本当に彼のことが好きなら、身を引くべきじゃないですか?」
「あなたが身を引かないっていうんだったら、幸希くんはつらい思いをするかもしれない……言っている意味、わかりますよね?」
内定先に密告する、そう彼女は脅しているのだ。嬉しそうに内定が出たと報告してくれた幸希くんの顔を思い出し、絶対に内定取り消しなんてさせたくないと強く思った。
あらためて彼女の顔を見る。恋に狂った女の顔をしていた。私が言うとおりにしなければ、きっと密告するだろう。幸希くんの幸せより、自分の幸せを選ぶ。そんな顔つきだ。そんなの、あまりにも愛がない。でも、未来ある彼を不倫という道に引きずり込んでしまった私には、彼女のことを責める資格はない。
「私……」
涙が出てきたので、慌てて瞬きする。泣くなんて情けない、自分でまいた種じゃないかと自分に言い聞かせる。
「私……」
「クソむかつくんだけど」
「こ、幸希くん!?」
彼女たちの視線を追う形で振り返ると、そこには幸希くんが見たこともないぐらい怖い顔をして立っていた。
「彼女に余計なことを言うなよ。おまえらには何の関係もないだろ」
女の子二人は黙ったが、スタッフの子だけが、「でも」と食い下がった。
「私、幸希くんのためを思って……」
「あのさ、そういうのいいから。僕は彼女と別れる気はないし、ほっといてくれ」
彼女はかぶりを振ると、つかみかかるようにして私の両肩に手を置いた。
すぐ目の前に、彼女の濡れた瞳が迫った。




