第10話 一線を越えて、深くなる罪
駅前通りは人が多く、あちこちから人の声が聞こえてきた。日没前の夕陽に照らされた人々――高校生たちはじゃれあいながら歩いている。買い物袋を提げた女性は八百屋さんの前で談笑中だ。自転車を押すおじいさんは小さなラジオを鳴らして、ゆっくり進む。若いカップルが何か言い合って、おかしそうに笑った……そんな幸せそうな日常たちでつくられた世界に逆らうようにして、少しずつ宵闇が深くなっていく町を歩いた。
やがて、二人で行ったことのあるカレー屋さんのある角に行き当たった。その次は、一緒に食材を買ったスーパーの前、さらにその次は、待ち合わせ場所にしていた小さな公園。
だんだんと見慣れた景色になっていく。どこへ向かっているのか察して、私は声を上げた。
「だめだよ、幸希くん、だめ……」
握られた手をはずそうとしても、しっかりと握り込まれて、離せない。
やがて彼の住むマンションに到着した。部屋に入るなり、彼に横抱きにされて、ベッドの上に仰向けに寝かされる。
「だめだよ、幸希くんが不幸になっちゃうよ……」
そう言いながら、覆い被さってくる彼を押しのける力はあまりにも弱くて、私が心の奥底に閉じ込めた思いは隠しようもなかった。
一度抱けば、それで満足するかもしれない。すぐに私に飽きて、ほかの女のところに行くかもしれない。いつまでも拒んでいたのが、かえってあだになって未練を残しているだけなのかもしれない。
だから、別れ話をしにきたのに体を重ねてしまったのは、決しておかしな話ではないはず。
そんな説得力のない言い訳を頭の中に並べながら浴室から出ると、部屋が涼しくなっていた。私がシャワーを浴びている間に、冷房を入れてくれたようだ。
彼はちょうど珈琲を淹れているところだった。インスタントじゃなくて豆から淹れる本格式だ。
「相田さんはカフェオレがいいですよね、砂糖はなしで」
「あ、うん、ありがとう」
「僕は格好よくブラック、と言いたいところですが、カフェオレに砂糖たっぷりにします」
にこにこの上機嫌の彼を前にして、これからどうやって別れ話に持っていけばいいのか見当もつかなかった。
「体、大丈夫そうですか」
カフェオレの入ったマグカップを受け取り、うん、と頷いた。私は一人用のソファに腰掛け、彼はベッドに腰掛けて、向かい合うようにして座った。
「済みません、乱暴にするつもりはなかったんですが」
「幸希くんは何も悪くないよ。とっても優しくしてくれたのはわかってる。ただ、その……」
夫とレスになって長かった。だから、少々痛みを伴うことになってしまっただけだ。しかし、そんなことは言いづらい。
「旦那さんとは全然してなかったんですね」
ずばりと正解を言い当てられて、私は慌てた。
「もう! そういうことは口に出したらだめ」
私が冗談めかして叱ると、彼は目を細めて笑った。
「僕は嬉しかったです。旦那さんと不仲なのは本当なんだなってわかったから。いや、別に相田さんの話を疑ってたわけじゃないですよ。でも、なんか実感したっていうか」
「うん……」
「隣に来ません?」
ベッドに座る彼は、自分の隣を指さした。ベッドに並んで座ったら、完全に恋人同士みたいじゃないか。これから別れ話を切り出すのがますます難しくなる。
「……ここがいい」
私は自分の座るソファのふちを撫でた。
「じゃあ、僕がそっちに行こうかな」
「む、無理だよ、一人がけソファだし、定員オーバー」
「膝の上なら座れるかも」
「え、私の膝の上に? 幸希くんが乗るの!?」
「相田さんが僕に乗ってもいいですけど。乗りたいですか」
「い、いい、遠慮しておく!」
そうやってふざけあって、結局、別れを切り出せないままだった。
ずっと連絡を無視していたことについても、彼は何も聞かなかった。
そうして、なし崩し的に二人の関係はもとに戻ってしまった。いや、ただ戻っただけじゃない。より許されない関係になってしまった。
離れなければいけない。そう頭ではわかっているのに、もう連絡を無視することはできなくなっていた。
それから数週間後ぐらい経ったころだろうか。
面接を受けた企業からお断りの手紙が届いて落胆していた時という、私にとっては嫌なタイミングで、近藤菜乃歌と名乗る女性から電話がかかってきた。
一瞬、誰だっけ? と思ってしまった。
彼女は夫の不倫相手だ。けれど、正直もうどうでもいい気持ちだ。




