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「皆、寝台列車スノーホワイト号の門出を祝して——乾杯!」
ノクティア王女の快活な発声とともに、クリスタルグラスが触れ合う澄んだ音が食堂車に響き渡った。
列車は王都の喧騒を遠く離れ、車窓にはちらほらと雪が見え始めている。
磨き上げられた樺材の壁、魔法灯のシャンデリア、そして贅を尽くした料理の数々。
優雅な空間は、まさに選ばれた者だけの特権階級の象徴だった。
「素晴らしいパーティーですね、ノクティア殿下。
この列車の『白』は、これからの未来を照らす象徴になるでしょ」
エドワードが爽やかな笑みを浮かべ、ノクティアに頭を下げる。
しかし、その言葉に鼻で笑う者がいた。
「これからの未来か。はっ! 随分とおめでたいな、検事殿」
そう吐き捨てたのは、バルトロメウス公爵だ。
肉厚な首元には何連もの太い金の鎖が重なり、太い指にはいくつもの宝石が光っている。
恰幅の良い体躯を最高級の仕立てのスーツに包んでいるが、その表情は傲慢そのもの。
「……私の知る限り、未来というのは『金』で買うものだ。
お前のような若造が振りかざす、薄っぺらな正義のことではない」
公爵は不機嫌そうに太い葉巻を揺らし、エドワードに紫煙を吹きかける。
エドワードは顔色一つ変えず、静かに眼鏡を指で押し上げた。
「公爵。金で未来が買えたのは過去の話ですよ。
これからの時代、法と正義を無視する者に、このスノーホワイト号が走る雪道は少々、厳しすぎるかもしれませんね」
「……貴様……!」
バルトロメウス公爵の顔が怒りで赤黒く染まる。一触即発の空気が流れる中、レイチェルが冷徹な瞳でその様子を見つめていた。
「エドワード、熱くなりすぎよ。
それとバルトロメウス公爵、汚れた煙はあちらで吐いてくださらない?……お酒が不味くなるわ」
裁判官レイチェルの一言が、冷たい風のように公爵を射抜く。
公爵は舌打ちをしながら顔を背けその場を離れた。
アウレリアは、その緊張感に胸のざわつきを覚える。
(……この豪華な列車、まるで見えない火花が散っているみたい。)
「おやおや、レイチェルもエドワードくんも。今日は楽しくいこうじゃないか。
……アウレリア嬢、ここのマカロンは絶品だよ。
ソフィアさんも、遠慮せず食べなさい」
二人の上司であるオーウェンが、丸い顔を綻ばせて場を和ませる。
アウレリアは、オーウェンの差し出した皿を受け取りながら、食堂車の端に座る人々を観察した。
そこには、雪景色を背景に、芸術品のような横顔を見せる一人の女性が佇んでいた。
「ねぇルーク、あそこに座っている綺麗な人……
なんだか周りと空気が違わない?」
アウレリアが小声で尋ねると、ルークはグラスを口に運ぶ手を止め、視線だけでその女性を追った。
「マダム・イザベラだ。数々の資産家を虜にし、巨万の富を継承してきた『影の女王』だよ。
彼女に魅了された男たちが、最終的にどうなったかは……あまり子供が聞くような話じゃないね」
ルークの言葉通り、彼女は大人の魅力に溢れていた。
漆黒のドレスに身を包み、退屈そうにシャンパンの泡を眺めていた彼女だったが、不意に立ち上がると、エドワードの方へと歩み寄った。
「エドワード様。
そんなに怖い顔ばかりしていては、せっかくのハンサムが台無しよ」
彼女はしなやかな動作で、自分のグラスをエドワードのそれに軽く近づけた。
「……少し、私の部屋で雪を眺めながら、二人だけで乾杯しませんこと?」
男なら誰もが抗えないような誘惑の笑み。しかし、エドワードは爽やかな顔に微塵の動揺も見せず、静かに頭を下げた。
「お誘いは光栄ですが、マダム。
今回はこの列車の完成パーティーですので、列車の旅を満喫させてください。」
公衆の面前での、あまりに潔癖すぎる拒絶。
周囲には一瞬の静寂が流れたが、イザベラは顔色一つ変えず、優雅に扇子を広げた。
「あら、そう? 残念だわ。
……でも、あなたのそういう『頑固』なところも、嫌いじゃないわ」
彼女は「うふふ」と艶やかに笑うと、気留めた様子もなく、そのまま風のように去っていった。
だが、アウレリアは見逃さなかった。背を向けた瞬間のイザベラの瞳に、凍てつくような「拒絶された女」の苛立ちが宿ったのを。
「……気に留めてないフリをしてるけど、あれは一番怖いパターンね」
アウレリアが身震いすると、ルークは苦笑して彼女の頭を軽く叩いた。「余計なこと言わないの!」
イザベラが去った後、アウレリアはふと、食堂車のカウンターの隅に座る老紳士に視線が吸い寄せられた。
彼は一言も発さず、磨き上げられた銀の懐中時計を執拗に弄びながら、じっとこちらを見つめていた。
古木のように枯れた容貌に、底の知れない澱んだ瞳。
その視線とぶつかった瞬間、アウレリアは蛇に睨まれた蛙のような、冷たい戦慄を覚えた。
(……なにあれ、怖っ……)
アウレリアが慌ててパッと目をそらすと、隣にいたアンディが心配そうに覗き込んできた。
「アウレリアさん、どうかしましたか? 顔色が悪いようですが」
「あ、ううん……。
ねぇアンディ、あの隅に座っているおじいさん……
あの人はどんな人なの?」
アンディはアウレリアの視線を追うと、その表情を少し強張らせ、声を潜めた。
「あの方は、元大臣のサミュエル卿です。
今は政界の一線を退いていますが……政界の『生き字引』であり、同時に『影の支配者』とも噂される人物ですよ。
彼の教え子や息のかかった役人は数知れず、彼が指一本動かせば、消せないスキャンダルはないとまで言われています」
「まるでフィクサーね……」
「ええ。最近では、エドワードさんが追っている大規模な汚職事件の背後に、彼の影があるという噂です。
正義感の強いエドワードさんにとっては、最も警戒すべき『巨悪』と言えるかもしれません」
アンディの話を聞きながら、アウレリアがもう一度サミュエル卿の方を伺うと、彼は相変わらず無表情のまま、秒針の音を楽しむように時計を見つめていた。その指先が、時折ピクリと不自然に跳ねる。
「……なんだか、この列車、光よりも影の方が濃い気がするわ」
アウレリアの呟きは、汽笛の音にかき消された。時計の針は13時を指す。




