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王都の時計塔の最上階。
吹き抜けの回廊に、冷たい夜風が吹き荒れている。
柵の向こう側、今にも身を投げ出しそうなほど身を乗り出している少女の背中があった。
「ソフィアさん!」
アウレリアの叫びに、少女の肩がびくりと跳ねた。
振り返ったソフィアの顔は、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになり、瞳には深い絶望の色が張り付いている。
「……来ないで。私は……私は、人殺しなの」
ソフィアの震える手には、皆に振る舞ったハーブの空き袋が握りしめられていた。
「みんなが、私のハーブを飲んで……苦しんで……。私が、私が殺したのよ! あの教祖様は言ったわ……『君が毒を入れたんだ』って!」
「違うわ、ソフィア!」
アウレリアはアンディの静止を振り切り、一歩前へ踏み出した。
「あなたは殺していない! あなたの『みんなに安らいでほしい』という善意を、あいつが利用しただけなの! あなたのハーブで他の教徒が苦しんで死ぬのを見せて罪を擦り付けようとしたのよ!」
「嘘よ……みんな死んだわ。私のせいで、みんな……!」
ソフィアの瞳から光が消えた。
アウレリアの必死の説得も、罪の意識に塗りつぶされた彼女の耳には、届かない
。 ソフィアは力なく微笑むと、そのまま後ろ向きに、体を預傾けた。
「ソフィア――!!」
アウレリアが叫び、アンディが駆け寄ろうとしたその時。
背後の重い扉が、凄まじい音を立てて蹴破られた。
「――往け、ソフィア! そのまま落ちるがよい!!」
凛烈たる声が時計塔の頂上に響き渡った。
身を投げようとしたソフィアの体が、驚愕で硬直する。
そこには、肩で息をし、ドレスの裾を泥で汚したノクティア王女が立っていた。
アンディが、背後で静かに胸に手を当てて一礼する。
彼はアウレリアが日記を読み終えた瞬間、秘密裏に王宮へ連絡を入れていたのだ。
「ノクティア………?」
「なぜ止まった? 自分の命を、物語の結末のように安っぽく散らしたいのであろう?
ならば勝手にせよ! だが、そなたが死ねば、毒を盛った真犯人の名は永遠に伏せられ、そなたは後世に語り継がれる『稀代の毒婦』として物語に刻まれることになるぞ!」
ノクティアは優雅な歩みとは程遠い足取りで詰め寄り、
柵を掴むソフィアの手を、その白く細い手で力いっぱい掴み取った。
「妾が友としたのは、弱きを助ける薬草を愛し、見ぬ異世界に夢を馳せる、心優しきソフィアだ!
罪から逃げ、真実を闇に葬る卑怯者ではない!」
「でも、私は……もう、戻れない……!」
「戻る場所がないなら、妾が作ってやる! 王女である妾が命じているのだ、勝手に死ぬことなど許さぬ!」
ノクティアの瞳には、怒りと、それ以上の慈愛が満ちていた。
ソフィアの指から力が抜け、崩れ落ちる。ノクティアは彼女を抱き止め、その肩に顔を埋めた。
「……馬鹿者が。妾に、これほど走らせおって」
ソフィアは声を上げて泣きじゃくった。
その泣き声は、かつて一人震えていた孤独な少女ではなく、ようやく友の腕の中に辿り着いた、一人の人間の産声のようだった。
アンディは静かにアウレリアの隣に立ち、穏やかに微笑んだ。
「……殿下の行動力には、いつも驚かされますね」
アウレリアは、張り詰めていた糸が切れたように深く息を吐いた。
事件から数日後。
王都を揺るがした「ソウル・リバース」の集団中毒死事件は、
教祖の逮捕と、その背後にあった卑劣な金銭欲が暴かれたことで、一応の幕引きを迎えた。
しかし、警察局の執務室で報告書をまとめるジュリアンの表情は晴れない。
「……やはり、ただのカルト教団の仕業じゃないな」
ジュリアンが睨む資料には、現場で回収された薬物の分析結果が記されていた。
「以前の捜査で見つかった規制薬物『ミラー』。
今回のは、その幻覚作用と毒性を極限まで高めた改良版だ。
……教祖一人に、こんな高度な調合ができるはずがない。もっと大きな、根の深い組織が裏で糸を引いている……」
ジュリアンは窓の外を見上げ、兄・ルークの飄々とした顔を思い浮かべた。
「何に首をつこんでるんだ、兄貴……」
アウレリアとルークは、王宮の美しい庭園で行われる「特別なお茶会」
に招かれていた。
「よく来たな、アウレリア。そして……おまけのルークよ」
豪華なテーブルの主座に座るノクティア王女が、不敵な笑みで二人を迎える。
その後ろには、見慣れない光景が広がっていた。
「……ぷ、プロビーさん? アンディさん?」
アウレリアが思わず声を漏らす。
そこには、あまりにも似合わないほどピシッとした正装に身を包んだ二人の
「警護兵」が立っていた。
アンディは苦笑いを浮かべ、プロビーにいたっては、今にも舌打ちしそうなほど「嫌そうな顔」で空を見つめている。
どうやらノクティアから王女の警備員として、一時的にこき使われているらしい。
そして、ノクティアのすぐ傍らには、新しいメイド服を纏ったソフィアが控えていた。 顔色は見違えるほど良くなり、その瞳にはかつての絶望ではなく、確かな生気が宿っている。
「ソフィアさん!」
「アウレリア様…… あの時は、本当にありがとうございました」
ソフィアは深く頭を下げた。
彼女は法的なお咎めなしという特例措置を受け、ノクティアの専属侍女として王宮に迎え入れられたのだ。
仕事の合間には、王女と肩を並べて異世界の物語について語り合う「友人」としての時間も許されているという。
「ふん、ソフィアは妾の所有物だ。
二度と変なネズミに捕まらぬよう、妾が直々に監視してやることにした」
ノクティアは偉そうに胸を張るが、その口調には隠しきれない喜びがあった。
ソフィアが淹れたばかりのハーブティーの香りが、庭園に優しく広がる。
それはもう、人を傷つける毒ではなく、心を癒やす本物の救いの香りがした。
「さぁ、アウレリア。今日はそなたから、もっと面白い話を聞かせてもらうぞ。
……ルーク、そなたはあっちで、プロビーとでも遊んでおれ!」
「はいはい、仰せのままに、わがままな王女様」
ルークは肩をすくめ、プロビーの方へと歩いていく。
アウレリアはソフィアと視線を合わせ、小さく微笑み合った。
事件の熱狂が去った王都の片隅。
そこは、光の届かない廃教会の地下。
冷たく、湿った空気の中に、魔力によって灯された青白い火だけが揺れていた。
「……報告は以上です。『ソウル・リバース』は壊滅。
教祖は警察局に。我々が提供した『ミラー・改』のサンプルも、すべて回収された模様です」
影の中から、男の低い声が響いた。
部屋の奥、豪奢な椅子に深く腰掛けた人物が、手元のグラスを軽く揺らす。氷がカチリと鳴る音が、不気味なほど大きく響いた。
「惜しいことをした。あの教祖は、欲深いだけの安っぽい使い駒だったが……
被験体を集める手際だけは評価していたというのに」
「追撃しますか? ……」
手下の殺気に満ちた問いに、ボスと呼ばれた人物は低く笑った。
「いや、いい。今回はあちらに花を持たせてやろう。
……それよりも、気になる『イレギュラー』が混じっていたな」
男は机の上に置かれた一枚の書類を指先で叩いた。
そこには、お茶会で微笑むアウレリアの似顔絵が描かれている。
「……アウレリア、と言ったか。彼女が触れた瞬間、認識阻害の結界が霧散した。
魔法を打ち消す、あるいは無力化する『空白の存在』。
……彼女こそが、我々のカギになるかもしれん」
ボスの瞳が、暗闇の中で獣のように細められた。
「泳がせておけ。彼女の周りにどんな『物語』が生まれるか、特等席で見守らせてもらうとしよう……」
青白い火がふっと消え、部屋は完全な静寂と闇に包まれた。 アウレリアの知らないところで、巨大な影がその小さな背中に手を伸ばそうとしていた。




