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冬の名残がしつこく居座る朝だった。窓の外には薄い霜が残り、吐く息はまだ白い。けれど、空気の奥にはほんの少しだけ春の匂いが混じっている。そんな季節の境目の朝、アウレリアはいつものように台所に立っていた。
卵を割り、パンを焼き、スープを温める。特別なものは何もない。けれど、こういう“普通の朝”が彼女は好きだった。事件も魔法も関係ない、ただの生活の音が心を落ち着かせてくれる。
「さて、食べよ……」
椅子に腰を下ろした瞬間だった。
――コン、コン。
玄関の扉が控えめに、しかし急いでいるような調子で叩かれた。
こんな時間に誰だろう、と首を傾げながら扉を開けると、冷たい風と一緒にジュリアンが飛び込んできた。
「アウレリア、すぐ来てほしい!」
息を弾ませ、眉間に皺を寄せている。後ろにはルークもいて、彼は珍しく真剣な顔をしていた。
「朝からどうしたの? まだご飯も……」
「ごめん、でも本当に急ぎなんだ。セラフィーナからの指示で、現場に来てほしいって」
セラフィーナの名が出た瞬間、アウレリアの胸に小さな緊張が走る。
ただ事ではない。
「……わかった。すぐ支度する」
温かいスープの湯気が、静かに揺れていた。
その朝食は、結局一口も食べられないまま冷めていく。
玄関を出ると、王都の通りには白い息を吐きながら数台の車が走っていた。まだ普及し始めて間もない新技術だが、ここ最近は急に見かける数が増えた。セラフィーナが開発に関わっていると聞いて、アウレリアは妙に納得する。
「こっちだ、乗って!」
ジュリアンが停めていた黒い車の運転席に滑り込み、エンジンをかける。低く唸る音がまだ新鮮だ。アウレリアは後部座席のドアを開けると、すでに座っていたルークと目が合った。
「……おはよう、アウレリア」
「おはよう、ルーク」
彼はいつも通りの落ち着いた声で挨拶する。けれど、アウレリアはほんの少しだけ気まずさを覚えた。理由は自分でもよくわからない。ただ、ルークの静かな視線が、朝の冷たい空気よりも温度を持っている気がした。
ジュリアンが前を向いたまま声を張る。
「急ぐよ!」
車が滑るように発進する。王都の石畳を走る振動はまだ改善の余地があるらしく、車体が小さく揺れた。
「……セラフィーナが呼んだってことは、ただの現場じゃないよね」
アウレリアが呟くと、ルークは窓の外を見たまま短く答えた。
「そうだろうな。
ジュリアンも朝から焦ってたし」
「焦ってない! ただ……状況が状況でさ!」
運転席からの声は、どこか誤魔化すように明るい。
アウレリアは揺れる車内で姿勢を整え、胸の奥に小さく広がる不安を押し込めた。
――春の前の最後の寒さのように、何かが張りつめている。
車は王都の中心から離れた森へ向かって加速していった。




