第7話 可愛い七尾とギザ歯の人
ぼくが家の中へ滑り込むと、そこは真っ暗闇だった。
いきなり暗い所へ入って目が慣れていない――なんて言う優しいものじゃなかった。
ねっとりとした、闇そのものがそこにある感じ。
ぼくの狐耳がちょっとぴくっとした。
「あれ? 思っているのと大分違うかな?
窓が閉じてて真っ暗とか、そんな暗闇じゃないな。
まずいかもこれ……そこら辺の雑魚幽霊じゃないぞ?」
普通なら締め切った屋内だろうと、開けたドアから差し込む光で、廊下の端くらいは見える。
それが何も見えなかった。
墨で塗りたくったような闇だった。
まるで遠近感がないんですが?
「うっく……」
ぼくの頭の中に「撤退」の文字が浮かぶ。
無理をしてはいけない。
後でお師さまと来ればいい。
ぼくが正面を見すえたまま、擦り足で半歩下がった時、背後から女の人の声がした。
「なんじゃ、ワシが結んだ“闇の帷”に入る者がいるじゃと?
そんな者がこんな所におったのか?」
首筋へ当たる生温かな息に、ぼくはおぞけ振るう。
女の人の声に、妖狐としての本能がささくれ立った。
息がかかるまで近付かれたのに、全く気づけないってどう言う事なの!?
首筋に牙を突き立てられるような恐怖を感じて、跳ねるように振り返る。
すると背後にあったはずのドアが無かった。
光源を断たれて、ぼくは自分の手の先も見えなくなってしまう。
「なんてっ」
ぼくは闇の中、必死に手を伸ばすけど扉には届かない。
「帰りたいのかえ?」
ぼくの慌てようが可笑しかったのだろう。
からかうような声が聞こえた。
「闇が怖いかえ? そうじゃろう? そうでなくては」
ふいに闇の中で青白い光が灯る。
仄かな燐光を纏い、闇に女性の姿が浮かび上がった。
その体が微弱に発光していた。
闇と同じ色のドレスを身に着けて、長い裾が海中を漂うように揺れていた。
顔は闇に溶け込みよく見えない。
けれど口元だけは燐光で浮かび上がり、青紫色の唇が動くたびに、サメのように鋭利な歯並びが見えた。
右手には男の生首が握られている。
首を千切られたさいに浮かべた、恐怖の表情が張り付いたままだった。
切り口からはまだ温かい血が滴っている。
「ほほう……まだ童ではないか。
よくワシの結界を通り抜けたものじゃ。
本来ならば獣人など、恐怖で足がすくみ入れぬはずじゃが?
どこぞの魔導に仕える者か?
どれ、もっと顔をよく見せてみい」
そう言って闇の女は、更に顔を近づける。
鼻が触れ合うほど近づいても、その顔は闇に溶けたままだった。
ノコギリのような歯の隙間から、赤い舌がちろちろと覗く。
女からは闇の波動が溢れ出し、ぼくは心臓を鷲づかみにされたような錯覚を覚えた。
恐怖に心を侵されて、ぼくの体が金縛りにあったみたいに動かない。
すんすんすんと、ぼくの匂いを嗅いでくる。
「ほほう……面白い。
獣人の身でありながら、魔物か何かかのう。
その白い毛並みが、北海の獣に似ておるぞ」
ぼくは牙を剥き、唸り声を上げる。
自分の硬直した心を、怒りで揺り動かそうと必死だった。
(惑わされるなっ、怒りで恐怖に打ち勝てっ、心に牙を立てろっ!)
みしりみしりと、ぼくの中で軋む音がする。
硬直した神経と肉を、無理やり動かそうとする音だった。
ぼくは鎖を引きちぎるように、首を曲げ、背筋をねじり、縮こまる肺を強引に開いた。
「かああああああっ!」
その雄叫びが、黒衣の女を喜ばせる。
「ほほほ……これはまた何と美しい……」
女の目に映るのは、光り輝く白き獣。
ぼくの全身が、妖気で白銀に輝いている。
獣耳がピンと立ち、腰の尻尾が針山みたいにぱんぱんに膨れ上がっていた。
ぼくの光彩に照らされて、女の闇がじりじりと退く。
「ほほほ、面白いっ」
ぼくは嘲笑う女に、返事をする余裕なんかなかった。
追いやった闇が、また直ぐじりじりとぼくの光彩を浸食し始めている。
ぼくの神使としての光を浴びても、女の顔にかかる闇はそのままだった。
女はノコギリ歯の口元を、更なる笑みに変えていく。
「ところで童、何をしにここへ入った?
ひょっとして悪霊に襲われた、哀れな男でも助けにきたかえ?」
ぼくはちらりと男の生首を見て尋ねる。
「……名のある、古来よりの祟り神殿とお見受けします。
なぜ男に、この様な仕打ちをなさるのですか」
「ほう……目上にちゃんとした口が利けるのか、偉いのう。
しかし祟り神とは心外。
ワシはそのような恐いものではないぞ……くくくっ」
その手に掴まれた生首が、恐怖の表情を張り付かせたまま、ゆらゆらと揺れる。
限界まで開かれた、男の眼と口。
一体どれだけのの恐怖と苦痛が、この男に与えられたの?
ワシは恐いものではないとか、よくもまあ言える。
「童よ、そんな恐い顔をするでない。
おぬしは少し、思い違いをしているようじゃの」
女はすいっと、右手にもつ首を掲げた。
「この男はな、山菜採りと称してワシの落としたものを……
ほれ、これをくすねて行きおったんじゃ」
女は掌に乗せたものを、七緒の顔へ近づける。
それは翡翠色をした、美しい巻貝だった。
「酷い男じゃろ?
落としものをくすねおって。
なあそう思うじゃろう?
ワシの方が、哀れな女子なのじゃ。
だからな、この男は報いを受けねばならぬ」
ぼくは巻貝を、まじまじと見つめてしまう。
たかが巻貝一つ。
だけど軽く見ることはできなかった。
山に巣くう物の怪や悪霊なんかは、人の価値観とはほど遠い世界にいるのだから。
ぼくは難しい顔をする。
「一人で……怒りを収めてくれるのですか?」
「これまた心外じゃのう。
ワシは宝をくすねておらぬ者まで、殺す気はない。
童よ、おぬしはちと心配が過ぎぬかえ?」
「…………」
黒衣の女は、ぼくの沈黙を“是”と捉えた。
「くくくっ、分かってくれれば良い。
さてワシは用事も済んだことだし、もう行くが――
ふむん……こうして会ったのも何かの縁。
可愛い童に、一つ良いことを教えてやろう」
闇に溶け込む女の息が、ぼくの首筋にかかる。
うひいっ、怖いのにっ、怖いのにー!
とっても良い匂いがした。




