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責任について

作者: 相浦アキラ

 日産が巨額の赤字を出して工場閉鎖や大規模リストラまで至ったというのがニュースでやっていたんですが、経営責任を取る形で退任した役員が総額6億4600万円もの退職金を受け取ったとかも言われていて「責任っていったい何なんだろう」と考えさせられるという事がありました。


 責任というのは人間にしか理解できない概念でしょう。犬でも何かやらかしたら申し訳なさそうにする事はありますが、それは責任を感じているというのとは大分違って精々が「怒られるかもしれない」という恐怖でしかありません。責任とはそれ自体が誇りであり恩寵であり、動物には理解が難しい概念です。


 例えば蚊が飛んでいたので叩いて殺した人がいて「蚊に責任を取らせてやったぜ」なんて言っていたら冗談にしか聞こえないでしょう。責任を取る事ができるのは、客観的に自己を省みる事が可能な高度な知能を持った人間だけです。蚊は何があっても後悔も反省もしませんし、自己を省みる事ができないというか、そもそも自己を持っていないとも言えます。


 責任と言う概念は武士の切腹に当てはめると分かりやすいでしょう。武士は問題を起こしたら切腹を命じられ責任を取って死ななければなりませんが、それはある意味特権でもありました。武士以外の階級でも処刑される事はできますが、それは有体にいってしまえば「害虫駆除」程度の意味合いでしかなく、武士の切腹とは全く本質が異なります。武士が切腹を許される(命じられる)と言う事は、彼が他の階層と異なり責任を取る事ができ「生存本能に抗う程の強烈な意志を示すことが出来る人間的な主体である」と公的に認められたという事です。だから本来責任というのは、本来それ自体が名誉な事なのです。この罰を自分から引き受けるとか、名誉がどうたらとかは動物にはまず理解できないでしょう。キリスト教に関しても罪を「人が神に負った責任」と解釈すれば、人が罪を負う事が出来るのは神が人を主体であると認めているからこそであって、人の負った罪自体は害悪であっても人が罪を負う事が可能な存在であると神に認められた事自体は名誉なことである、と考える事もできるでしょう。


 そしてもう一つ重要なのは人が責任を引き受ける事は功利に照らしても合理的であったという事です。武士は上様の為に責任を持って尽くす事で俸禄を貰う事が出来ましたし、問題を起こしても切腹して責任を取る事で許され家を存続させる事ができました。キリスト教徒も罪を引き受けて神への義務を果たす事で死後の福音を受ける事が出来ます。しかし一方が責任を果たさないと、一方もまた責任を破棄するのが世の常でありました。鎌倉幕府の御恩と奉公の関係が元寇によって崩壊したり、黒船で幕府の威信が薄れて倒幕運動が起こったりといった実例が示すように、責任は基本的に相互関係でなければなりたちません。逆に言えば実質が伴ってさえいれば責任は社会を非常に強固にする作用を持っていたと言えるでしょう。原始的には家族の中の役割分担として発生したであろう責任という概念がキリスト教や封建制の中で育まれ、功利的かつ精神的な実質として社会の中に息づいて来たわけです。


 しかし近代になって封建制が終わりキリスト教も形骸化していき、工業化に適合する形で平等を推し進めていくと、責任と言うのが実質を伴わなくなってきますし、責任の精神性というのもよくわからなくなってきます。日露戦争で旅順要塞を陥落させた乃木将軍は帰国して称賛を浴びますが、多数の将兵を死なせた自責の念から妻と自刃しますが、これも現代人からしたら理解しにくいことでしょう。そして封建制の余波が薄れた戦後には、散々自国民を死に追いやった権力者は殆ど誰も責任を取ろうとしませんでした。国家への責務を果たそうと国の為に戦った元軍人も、世間から「迷惑な事をしやがって」と冷たい目を向けられるようになり、かつては非国民と蔑まれながら必死で逃げ回って徴兵を逃れた人の方が称賛されるようになったそうで、昭和には実利的にも精神的にも責任なんてのは殆ど形骸化していることが見て取れます。


 そもそも人間の行動は脳が無意識にやっているだけで意識は関与できず、意識がやっている事は後付けで行動を意味づけしているだけとも言われております。脳が勝手にやった事に、どうして人間が責任を感じなければならないのでしょう。そんな事を言い出したらキリスト教には科学的根拠がありませんし、生まれつき武士だけ特権があるなんてのも不平等で妥当性がありません。責任と言うのは「あって欲しい」と心の底から願わなければ霧消してしまうものであって、否定しようと思えば「誰にも責任なんてない」という事になってしまいます。


 ましてや現代においては総理大臣にすら全く責任なんてものはなくて、ただの肩書に過ぎなくなっていると思います。総理大臣になっていいことと言えばチヤホヤされるとか権力を振るえるとか程度の事であり、総理大臣としての責任そのものを尊ぶというのはよくわからなくなっています。責任というのは何の重みも無く、せいぜい「出来れば取りたくないけど取った方が得するなら取らないこともない」程度のものでしかありません。今時総理大臣が「責任を取って切腹します」なんて前時代的な事言い出したら誰だって「そんなバカな事はやめろ」と言うでしょう。言葉で「責任を取れ」なんていってみても、誰だって自分は責任を取りたくないし、総理大臣に肩書以上の責任があるなんて本心では思っていません。総理大臣に切腹なんてされてしまったら自分も何か社会に面倒な責任を持たせられそうで嫌なので、誰もそんな事して欲しくないのです。


 またリベラリズムの浸透に伴って最小の社会単位である家族においても責任というのは形骸化していて、社会の平等が進んだことにより男性の家父長的な優位性というのは精神的にも実質的にも無くなってきましたし、何なら子供に対する母親の権威というのも薄れてきています。こうなってくると子供を作っても親としての責任なんてものに価値を感じられず、金がかかって面倒くさいだけで精神的にも実質的にも何の利益もありません。だったら子供を作らなければいいじゃない、となって少子化が進んで行くのもまあ自然な流れなのでしょう。


 こういった流れはリベラリズムが原因の一端であると思います。もちろんリベラリズムは局所的には正しいと思いますし資本主義社会には適合しているのですが、しかし社会単位で長期的に見た時に本当に持続可能なのかは疑念があります。実際、このまま少子化が進んで行けばいずれ社会が維持できなくなるという事も考えられます。保守の人達はこういったリベラルの問題に本能的に気付いていて、リベラルを攻撃する立場に立つのですが、リベラルの本質的な所まで批判することが出来ません。何故なら保守側もまた、本当は責任を負いたくないからです。だから保守を名乗っていても保守としての主張というのは殆ど無く、一番頭が悪そうなリベラルを探し出して嘲笑したり中国韓国を叩いて見たりと保守っぽいポーズを取ってみせるばかりで、どいつもこいつも金太郎飴のように同じことばかり言っています。そういうわけで保守もリベラルも本質的に大した違いはないとおもいます。


 だったら責任に価値を感じられる保守が出てきて責任の美徳を中心に社会を纏めればいいという結論になりそうですが、それも難しいでしょう。現代の社会システムがそもそも責任を取らない方が得をするようになっている訳ですし、今の時代に本気で責任の美徳なんかを説いている人は地に足がついてなくて胡散臭いが感じがします。乃木大将の自刃にしても当時から「前時代的だ」という批判もあったわけですし、50年以上前の三島由紀夫の切腹に至ってはもう完全に人工的な感じがしてしまいます。そういう時代ですから、今の時代に本気(?)で保守的な事を言っている連中は地に足がついていないと言うか、フワフワと空想の世界を生きている人たちにしか思えなくて、そんな連中が責任だのなんだの言っても空虚にしか思えません。


 何だか絶望的な感じになってしまいましたが、まあなる様にしかならないでしょう。かく言う私も「武士は責任を取って切腹するなんてすごいなあ」とかは言えますが、自分の事になると責任なんてのはなるべく取りたくないとしか思えませんし、江戸時代の武士に転生してしまって切腹を命じられたら何もかも捨ててでも必死で逃げて助かろうとするかもしれません。


 そういうわけで、冒頭の日産の役員が総額6億4600万円もの退職金を貰ったからと言っても、それは自己の利益を最大化する為に合理的に行動したというだけの話で、我々に責める資格はないのかもしれません。……それにしたって、社会にとって一番重要な仕事と言っても過言ではないコメ農家さんが赤字なのに、散々やらかした役員が何億ももらえるというのは何だかなあ……という感じもしますが。



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