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イオの数学

作者: 透瞳佑月

僕らの学年には314人の生徒がいて、一人ひとりに学年番号が振られている。

僕の学年番号は220。イオは284。友愛数だ。神の特別な計らいによって、美しい絆で結ばれた二つの数字。


この学校には姫が棲んでいる。

「姫」は姫というあだ名で呼ばれているわけではない。暗黙の了解――いやそれ以前の共通認識とでも言おうか、この学園において茅ヶ崎イオは姫だった。


茅ヶ崎グループの御令嬢にして数学の天才。小学1年生から小学6年生までの六年間国際数学オリンピック六連覇。現在高校2年生である彼女が十一連覇をしていないのは「お遊びに飽きた」なんてありきたりで陳腐な理由でなく、あまりに忙しすぎるからだ。


既にフィールズ賞候補の彼女の脳のリソースを最早与えられた課題に費やす余裕なんて客観的に見ても無い。数学界では(彼女の人形のような容姿をアイドル的に消費している側面もあるが)イオを神聖視している連中もいる。


 先ほど「棲んでいる」という表現をしたがこれは比喩ではない。彼女は本当にここ、茅崎高校数学研究会の部室に住んでいるのだ。数学なんて毛ほども興味のない、正直イオがどれだけ常軌を逸しているのかもよくわかっていないぼくが数学研究会に所属しているのも、この少女の命令に依る。


 どれだけ見えている世界が僕たちと違っても、社会的にイオは高校2年生、年頃の女の子であり、離婚と再婚を繰り返す茅ヶ崎グループのトップ、つまり彼女の母親が連れてくる男達が彼女を変な目で見たりいやらしい目で見たり性的な目で見たり色々大変そうなのだった。


そもそもの始まりはぼくが可愛がって貰っている文学部の先輩に頼み事をされ、部室棟を歩いている時だった。

数学研究会と書かれた部室の前を通ると、バタン、という音が聞こえた。

ドアをノックした。返事は無い。

「大丈夫ですか?」返事は無い。


思いきってドアを開けると、ビスクドールが倒れていた。

本当にそう思ったのだ。

輝く闇のさらさらの黒髪。有機物の限界に近づいた白く透き通った肌。こんなに美しい人間を見たのは生まれてはじめてだった。

数刻の後、彼女が「姫」だと気づきさて名前はなんだったか、と考えつつ近づいた。

仰向けに倒れたイオが僕に一瞥をくれる。

彼女の瞳は僕とはまるで違う、獣のそれに近かった。


「空腹……だ」

「……」

「栄養失調ともいう」

「救急車呼ぶね」

「いやだ、食べ物を、なにかすぐ胃に入る食い物を持って来い」


丁度ぼくは栄養を含んだゼリー飲料を5個程持っていた。結月部長の頼み事が終わったら飲もうと思っていたものだった。ぼくは食事というものが少し億劫なタチなのだ。


「君!それは十秒で栄養補給が出来る人類の発明した最高の食糧じゃないか!」


 ぼくはまだあげるとは一言も言ってないのにイオはぼくの手からゼリーを奪い取り、三十秒もかからずにすべて飲み干してしまった。


「ぼくもそれ好きだよ。楽だよね」

「ああ。食事に娯楽を求めるのは暇人のやることだ」

「君、ここに住んでるんだって?学長の娘ってのはなんでもありなの?」


そういうとイオは頬をふくらました。どうやらご機嫌を害したらしい。


「来週までだ」

「どうして?」

「そもそも同好会とは二人以上の部員がいなければ成立しないのだ。それを私が母にわがままを言って特例で作ったのがこの数学研究会なのだ」


イオはうつむく。


「私が家に帰らずここにこもっているので、学則を使って来週にここは潰される……」


家に帰りたくない高校生なんて珍しくもない。理由も人それぞれだ。ぼくはなにもいわなかった。


「ところで君?君は私の命の恩人なわけだが、名前を聞いてもいいかい?」


織神ルカ、と名乗った。


「学年番号は?」

「220」


途端にイオが驚いた顔をした。


「220?220か?」


 とたんに興奮しだした彼女に気おされながら僕はうなずく。


「私は284だ!」


 どうだ!と言わんばかりの笑顔で彼女は学年番号を教えてくれたが、ぼくには彼女がなにを言いたいのかわからない。


「友愛数だよ、君。220の約数は1,2、4、5、10、11、20、22、44、55、110。和が284になる。284は1,2,4,71,142。和は220。このようにお互いの約数の和が他方の数と等しくなる数字を友愛数と呼ぶ。私たちに割り振られた数字が、こんなに綺麗な絆で結ばれている。運命的だと思わないかい?」


 数学者にモノクロの論理的思考を自在に操るイメージを持っていた僕は、数字に「綺麗」だとか「運命」なんて色彩のある言葉を使う彼女に変な印象を受けた。


「そうだ!」

ぱっとイオの顔が輝く。

「織神ルカがここに入ればいい!」

「え~と、どうして?」

「私たちが友愛数で結ばれているからに決まっているじゃないか。それに私は折り紙に数学的興味がある」


『なぜぼくが入らなきゃいけないのか』を聞いたつもりだったのだが、折り紙を一瞬織神と聞き間違えたこと、「友愛数」という言葉に少しときめいたことで、僕は数学同好会に入部した。

率直に言う。ぼくは彼女に一目惚れしたのだ。


 今日もイオは殺風景な学校の部室に似合わない、つけっぱなしにしたハイエンドのPCの前でB5の白い紙に美しい数式を物凄い勢いで埋めていく。部室には彼女が真っ黒に染め上げたプリントが無数に散乱しており、イオはまるで数式に取り囲まれる白雪姫のようだった。


 彼女が今取り組んでいるのは「ゴールドバッハ予想」という数学の未解決問題だ。

4以上の整数はすべて二つの素数の和で表せるか?という昔の数学者の作った問題らしく、現在四千兆までの全ての数で正しいことが確認されているらしいが、無限に比べれば四千兆なんて0と変わらない。彼女達天才はまだコンピューターでは出来ない抽象的で高度な思考をもって戦わなければならない。


 凡人の僕はというと、ノートパソコンとにらめっこしながら眉間にしわをよせていた。数学研究会が実態を持ったことで、今年の文化祭に部誌を出すのだ。


意外なことに、発案者はイオだった。

内容はイオが今年気まぐれで書いた未発表の論文。そして僕が書いた今年度の数学研究会の活動日誌だ。


僕の日誌なんて彼女の論文に比べればおまけにもならない。そもそも活動と言ったって僕は彼女のやっていることなんて髪の毛の先ほども分からないからいつも部室で本を読んで暇つぶししているし、僕のやった数学研究会らしい活動なんて雑談の合間に彼女の数学にまつわる蘊蓄を聞くことだけだった。

ページが埋まるわけがない。それなのにイオは活動日誌を部誌にしろと言いだし、僕らは壮絶な舌戦を繰り広げた。

妥協案として彼女の論文をメインにすることで落ち着いたが、毎日日記をつけていないのに記憶のみを頼りに日誌を書くのは困難を極め、僕は彼女との今年の思い出や数学の蘊蓄を聞いてどんな感想を抱いたかを必死に思い出そうとしていた。


「ねえ」

「なんだ」

「なんで文化祭乗り気なの?」

「活動日誌の部誌を出したいのだ」

「わっかんないなあ」

「言い忘れていたが、部誌は売るとき一部だけ残しておけ。残り一部になったら売り切れだ」

「へ?」

「……」

「なんで?」

「……」


返事をする気がない彼女から返答を聞くのは徒労だとこの一年で学習したぼくは、またノートパソコンに向き直り、活動日誌の執筆を再開した。



次々と入れ替わるパパをパパと呼ばなくなったのはいつからだったか。

だから私はその人のことも「おじさん」と呼んでいた。このおじさんは前のおじさんみたいに一緒にお風呂に入ろうとしてきたり、くすぐったいところを触ったりしてこないから嫌いではなかった。


それに、このおじさんはいつものおじさん達と違う気がした。お母さんが怒鳴ると、大抵のおじさんは「あいしてるよ」とか「傷つけてごめんね」とか言ってなだめる。お母さんのおはなしなんて全然聞いてない。「私がいないとなにも出来ないくせに」「ごめんね、ほんっとごめん。愛してる」。このはなしっておかしくない?私だったらイヤだけど、お母さんはいつもそれで落ち着くようだった。


でも、そのおじさんはちゃんとお母さんのおはなしを聞いていた。それはお母さんにとって嫌なことだったらしい。いつもならすぐに別のおじさんに変わるけど、企業イメージ?とかいうお仕事の都合でそのおじさんは長い間おじさんだった。

このおじさんは目を見ておしゃべりしてくれて、私のおはなしをちゃんと聞いてくれるから、パパって呼びたかったけど、恥ずかしくて呼べなかった。


私、茅ヶ崎イオに数学の世界への扉を開いてくれたのはこの人だった。始まりはただのいたずらだ。この人の仕事部屋に入ったとき、画面にあったなぞなぞの答えを全部書いたのだ。


「ロジックパズル」と呼ばれると後に知るそのなぞなぞはいままで解いたなぞなぞとは全く違っていて、優しくて、透明で、進めば進むほどなぞなぞの中に引き込まれて行って、気づけば私の脳味噌の全てが問題を解くためだけに稼働していて、その感覚が切ないくらいに心地良かった。


千問を三十分くらいで解いた直後、その人は昼食を済まして仕事部屋に帰ってきた。驚いた顔をすぐに引っ込ませて、「イオちゃんが解いたの?偉いねー」と撫でてもらった。「5歳が大学生用のロジックパズルを一時間足らずで解くなんて!」とか、「君は数学者になるために生まれてきた」とかじゃなくて、

ただ、「えらいねー」と温かい手で頭を撫でてもらった。


 もっと問題が欲しいと駄々をこねる私に、「これは数学というなぞなぞだよ」と言って数冊の問題集を出してきた。四則演算がまともにできることはその人も知っていて、それで十分だと思ったのだろう。ジュニア数学オリンピックの過去問だった。


最初は分からない言葉を調べながらだったから、解くのが遅かったけど最初の一冊は一カ月、次の一冊は一週間、次の一冊は一日で終わらせた。


 そのうちに、解き終わってもなでなでより先に次の問題を欲しがるようになっていった。


後にも先にも、あれほど私の才能のサイズを適格に理解してくれた人はいなかった。出される問題は飛び越えられるギリギリのハードルで、この最高の教師のおかげで私は私の才能が許す最大速度で「私の数学」を構築することができた。


 数学オリンピックで初めて優勝した時、あの人は涙を流して笑いながら私の事をたかいたかいして振り回した。


 視界が回る。熱のこもった頭の中に気持ちいい風が吹き渡る。私は心から笑う。


人生で最も幸福な瞬間だった。

次の日、母親から離婚の話を聞かされた。


 数学を続けているのは、楽しいからだ。小遣いが稼げるからだ。

 答えを考えるのは楽しい。問題をつくると楽しいし、しかも数学雑誌の人の為に問題を創ってあげると結構稼げる。

 でも、あの人を最後まで「パパ」と呼べなかったななんて些細なことだけ、心に引っかかっている。



 最近、数学研究会に入りたいと泣いて頼んできた新入部員の織神ルカは、少しだけあの人と同じ感じがする。全然似てないのに。


 こいつときたら全く私の才能を理解出来ない凡庸な人間で、私が部室の管理や生徒会に届ける書類を出さなかったくらいで説教を始めるのだ。

上から目線で怒る奴は論理が破綻していて聞くに絶えないしこっちの話を聞かないから、無視してやればいいのだが、こいつの言っていることは論理的整合性がとれているし、「集中しすぎていつのまにか三日経ってた」「生徒会の人たちが嫌いである」などの私からの主張をきちんと聞いてくれるのだ。

これでは無視が出来ない。


しかし、なぜか苛々せずに、胸の奥、一番脆いところが段々温かくなってきて、泣き出してしまう前にとっさに笑ってしまうので、さらにアイツを怒らせるのだ。それがうれしくて、また泣きそうになってしまうのに。


 とりかかっている問題が解けると、懇意の大学教授より論文誌より先に、答えをあいつに教えてやりたくなる。こいつは凡人な上に数学のことなんて全くわからないから、教えるだけで朝から晩までかかるのだが、こいつは驚いたり眉を顰めたり目を輝かせたり、くるくる表情を変えながら聞いてくれて。「イオは凄いね」なんて微笑みかけられると最初はあの温かい手を思い出していたが、今はなんだか恥ずかしくて顔を背けてしまう。


 「天才」だれもが私をそう呼ぶのに、ルカから「イオは天才だね!」と言われると、言われ尽くされたその言葉が宝物になる。


 私が数学研究会を作ったのは、誰にも邪魔されず研究をするためだ。でも、今は私と織神ルカ、ふたり揃って数学研究会という感じがする。普通の、高校生の部活動だ。


 これが青春と呼ぶのなら、そう名付けた奴にはセンスが無い。

 私は、この生活が、数学研究会が、織神ルカが、気づいたら夏になっていた。




文化祭当日、学校はちょっとしたパニックだった。学生たちが登校し始めるより先に

すでに校門前は人でごったがえし、列をつくるためのスタッフなど当然配備されていない為交通に支障が出ていた。


僕がうかつだったのだ。クラスメイトに部誌の内容を伏せていなかった為、部誌にイオの論文が載せられることがSNSの数学界隈にいる誰かに漏れ、数学者や数学マニア、イオのファンが詰めかけてしまったのだ。人の波をかきわけながら校門に辿り着き、部室棟の数学研究会のドアを開ける。


「ずいぶんと外が騒がしいようだが?」


イオは紙の上で方程式を弄びながら呑気そうに言った。


「うん。みんな君の論文が欲しいんだって。ごめんよ」


僕はそう言いながら部室内で販売する予定だった部誌の詰まった段ボールを外に出し、机と椅子で簡易な売り場を作る。


 文化祭開始、8時。8時4分に部誌は完売した。これは校門から数学研究会に走って辿り着くまでの時間とほぼ同じだった。


完売です、完売です、ぼくは出しなれない大きな声で群衆にお目当ての物はないと呼びかける。しかし群衆はなぜか後ろのほうでどよめきを上げる。


 背の高い白人がモーセのように人波を裂き、ぼくの前でスマホのリアルタイム翻訳アプリを起動した。


 人のイントネーションを真似ようとしている、不気味の谷から女性の声が僕に違和感のある日本語を放つ。


 「イングランドから来ました。 私は整数論を研究して素晴らしい成果をあげています。 イオは本当に素晴らしい、神の愛された子供です。 彼女はとても天才で、私は彼女の公式に夢中になっているようです。 彼女はゴールドバッハ予想を研究しています。 その論文のテーマが何なのか知りたいです。」

「わかりません。部誌は完売です」

「元データは残っています。私のUSBにコピーして売って欲しい。私は十万円より大きい金額を支払う用意があります」


ぼくは少し考える。そんなことってありなのだろうか。


ぼくは部室のカギを開け、イオに相談しようとする。


スマホのカメラが一斉に部室の中に向けられる。なんだか嫌な感じだ。


「イオ?」


部室にイオはいなかった。


振り返ると下の方、窓の外から明らかに十代のものでない騒ぎ声が上がった。それは文化祭で上がるべき声では無かった。


 見るとイオが走っている。フランクフルトを握りしめながら。


あの天才は馬鹿なのか。どのタイミングで部室を出た?気づかれずに出られたその奇跡はあまりにも阿呆ではないか。食事に娯楽を求めるのは暇人のすることでは無かったのか。


 僕は走り出す。後ろから肩をつかまれて振り返ると先ほどの外国人が英語でなにかまくしたてるが、翻訳アプリがなにか言い出す前に僕はつたない英語で返す。

「イッツシーズデータ!ソーアイキャントセルイット」




「イオ!」


校庭に辿り着き、ぼくが叫ぶとイオと目が合う。途端にイオは泣きそうな顔になった。


「っ、ルカっ、わたしは、わたしはだな」


イオの手を引く。もう片方の手には大事そうに食べかけのフランクフルトが握られている。


「もう捨てろよ!フランクフルト捨てろ!」

なりふり構わず男子トイレに駆け込み、文化祭の「裏」、流石に誰もが入るのを躊躇う作業スペースに逃げ込んだ。


「ハァ、ハァ」

引き籠もりのお姫様は限界を超えていた。


息を整え、身を潜める。気配を消せ──自然と一体に

「おい……おい!」

「うわっ──なんだお前か」


僕が仲良くさせてもらってる美人文芸部部長の後輩の女子だ。 


「お姉様が手を回して、非常階段の鍵を預かってきた。うちの部室に来い」

「部長──女神、慈悲ぶかき救い主。いや、あの麗しき文学少女をなにかに喩えることは出来ない。我々が喩えられるのだ。なぜなら彼女は文学少女だから」

「わかる──お前気にいられてて気に食わないけどお前は分かってる」


回し蹴りが鳩尾に炸裂した。

イオが真っ赤になって怒ってた。


「状況かんがえろ!一秒でも早く逃げなきゃだろ!」


諸悪の根源に言われたくなかったが、正確な論理に返す反論はなかった。


非常階段を使って比較的楽に文芸部部室に到着した僕達は、部長の笑顔と冷たいコーヒーに出迎えられた。


「ありがとうございます。——あれ、文芸部の部誌販売は大丈夫なんですか?」

「うふふ、おかげ様でもう売り切れてるの」


 そうだ、この人はプロの作家だった。学校では有名な話だ。ではなぜイオのような事態になっていないかというと、ペンネームを使っているからという味気ない理由からだった。


「そもそもなんでお姫様は外に出たんだよ。こうなることはだれだって予想出来ただろ」

「……」 


イオはコーヒーのコップを見つめて答えない。


「売り切れる前に、模擬店の食べ物を持って帰ってルカ君と一緒に食べたかったのよね」


イオがうなずく。


僕の中に、ようやく怒りが渦巻いてきた。僕等は文化祭を楽しみたいだけなんだ。イオが希代の天才だなんてそんなの僕も、イオも、騒動で嫌な思いをした他の生徒も、知ったこっちゃないよ。


一年に一度、三年間だけ。


そんなお祭りの為に僕もイオもみんな普通に頑張って普通に楽しむつもりだったんだ。


イオが出す部誌が危険なら、学校側が文集の中身は僕の活動日誌だけと誤認させるようにしたり、セキュリティを考えたり、色々できたはずだしそれだって知ったこっちゃないよ。


生徒の文化祭くらい守れないで何が教師だよ。


 僕は立ち上がる。

「おい、どこ行くんだよ」

「売り場に戻る」

「はあ?お姉様がせっかく」

「イオを追っかけてる奴等、今は闇雲に走り回ってるはずだ。僕が売り場に戻れば手掛かりを得るために人が集まってその分他の生徒が普通に文化祭が出来る。部長、お願いが──」

「はいはい、多少乱暴にお帰り願えるための正当っぽい理由をでっちあげて先生方に流しとく。彼らは正当に文化祭に参加している外部参加者だから時間はかかるかもしれないけど──『廊下を走ってはいけません』って、あのオトナどもに思い出して貰わなきゃ」



売り場に戻ると、背の高い男性が売り場の前で所在なさげにしていた。

売り切れの看板、出しときゃ良かった。


「売り切れです」


僕は売り場に腰掛けた。


「そうか。こんなに早く売り切れると思ってなくてね。君、数学研究会?」

「はあ」


少し語気が荒くなっているが、この人の前ではなんだか駄々をこねる子供のようになってしまい、空気が険悪にならなかった。不思議な雰囲気の男性だった。


「イオは元気かい?」

「はあ?」

「つまり、楽しく暮らせているかな」


 予想外の質問に、つい素直に答えてしまった。


「元気すぎますよ。僕からは楽しそうに見えますし、僕も楽しいです」


男性は目じりに皺を寄せ、微笑んだ。


「それが聞けてよかった。では失礼したね」


 そう言って立ち去った、あまりにも普通の大人に、毒気を抜かれた。


いや、多分普通の大人ではないのだ。子供の思う普通の大人になるって、多分僕が思うより物凄いことで、それが出来ない人だって大勢いるんだ。


イオの追っかけとか。

イオの母親とか。


僕は集まり始めた連中に、出来るだけ冷静に、一人ずつ、話をして帰らせていった。


しかし最前列の人たちは最後には帰ってくれるが、話をしていない列の後ろ側から、熱いなにかが伝播しだしていることに僕は気づいていた。


大きな舌打ち。

部数への文句。

ぼくへの悪口。


思考がかき乱され、目の前にいる人のとり扱いを失敗しそうになる。

(やばい)

そう思った瞬間、堰を切ったように集団が騒ぎ出した。誰かが効果的なアジテーションになる意見を言ったのだ。

(やばい、やばい、やばいやばいやばい。だれか、だれか大人の人を)


拡声器特有の、割れた声が響く。


「『イオの論文』が欲しい方は校門の外の公園に集まってくださーい。Web経由でのQRコードとダウンロードキーを配布しまーす」


割れていても、その声の主が誰か分かった。

あの人だ。

さっきの、「大人の人」だ。


群衆の中から声がする。「季川教授だ」「数論の」「東大の教授だよお前知らないの?」

さらにボルテージが上がる、そう思った直前にまた拡声器が静かにどなる。


「繰り返します。『イオの論文』が欲しい方は校門の外の公園に集まってくださーい。Web経由でのQRコードとダウンロードキーを配布しまーす。午後二時で締め切りとさせていただきまーす」


アナウンスは繰り返される。同じ声明を子供に言い聞かせる、何度も、なんども、

繰り返されるアナウンスに、催眠にかかったように群衆が引いていく。

ハーメルンの笛吹きのように。

拡声器の声にしたがって大人たちが学校から出ていった。


拡声器の人は、いつの間にか僕の近くにいた。やはり、「イオは元気かい?」と聞いてきたあの男性だった。


「困っているようだったからね。余計なお世話だったかい?」

「いえ、そんなこと。でもあの、イオの論文は」


そう、この人は部誌を買ってない。


「私の未発表の論文を配布するよ。一年かけたものだから、イオのお遊びくらいの価値はあるし騙せるさ」

「な──」


 ぼくはイオがどれだけ頑張って研究してるのか知っている。一年かかる論文が出来上がるまで一番近くで見続けたこともある。

なんでそこまで、と言おうとしたとき


「パパ!」


懐かしい、今一番聞きたかった声がした。透き通った青のような。

僕が大好きな可愛い女の子の声。

イオが胸に部誌を抱えてやってきた。


(あ)

『部誌は売るとき一部だけ残しておけ。残り一部になったら売り切れだ』


「700円です」

「活動日誌は何ページから?」

「八十五ページからです」

「元気かい?」

「元気だぞ」

「楽しいかい」

「ルカが来てから楽しいぞ。私、パパよりルカの方が好きだ」


急に好意を伝えられる。心が処理落ちして、身体が瞬間湯沸かし器になったかと思った。


「こりゃ参った」

イオの父親は笑って、700円がイオの手に落とされる。


「イオ、おじさん帰るね。またね。ルカくん、イオを必死に守ってくれてありがとう」

「パパ」

「ん?」

「パパはおじさんじゃなくて、イオのパパだぞ」

「そうか。またパパと遊ぼうな」

「待ってるぞ」



それからの文化祭は、平凡な、物語どころか後日談にもならないありふれた高校文化祭だった。


「ところでルカ」

「なあに、イオ」

「私はルカが好きだ。恋人になりたい。ルカは私の事が好きか?」


文化祭で出来た高校生カップルがどんな文化祭を楽しんだかなんて、そんなの読むくらいならイオの論文読破した方がマシだろ?


 



イオ、ルカという名前は、今は遠い場所に旅立ってしまったイラストレーターのざらめゆきさんが名付けてくれた大切な名前です。

ご冥福をお祈りします。


研究不正、ダメ、ゼッタイ!

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[一言] イオちゃんかわいいしルカくんもすき 最後の論文読破した方がましに笑いました イオちゃんパパって呼べて良かったね!
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