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ラファール・クロフォードは、ぼんやり星空を眺めていた。ファリードの体の上に敷き詰められた枝葉のベッドで、大の字になって今日を反芻する。
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「よく頑張ったな!この辺りで休むか!」
森の中を一日歩き通し、比較的開けた場所を見つけた時、ファリードはそう言ってラファールの頭を撫でた。
ファリードには森の地図が頭に入っているらしい。迷いなく道を進み、定期的に川の近くで水分をとりながら、崖や谷は避けてルートをとる。
あっという間にファリードだけで薪を集めてきて積み上げたかと思うと、中から一本枝を取る。
ぎゅっと力を込めて握ると枯れ枝は一瞬のうちに燃え上がり、それを焚きつけとして火は大きく育った。
「ご飯を取ってくるからな、ラファールはここで休んでいなさい」
あまりの離れ業に呆然としていると、ファリードは腰を下ろすこともなく、あっという間に木立の中に消えていった。
ここでラファールは気づく。ファリードは人間の姿であっても、身体能力は人間のそれではない。今日一日、ラファールの歩調に合わせて移動してくれたのだと。
焚き火の前で足を抱えて座っていると、ものの数分でファリードは帰ってきた。黒々とした大きな獣を肩に抱えて、どさっと地面に下ろす。
この森にはこんな大きな獣がいるの?服の上からファリードの牙を握る。これがなかったらとっくの昔に襲われて死んでいたわよね。
「な、なんです?それは」
「猪だ。見たことないか?」
「図鑑で見たのと雰囲気が違いますね……」
ズカン?とファリードは不思議そうだ。図鑑の挿絵で見た猪はもっと色が薄かったし、毛の生えた豚という印象だった。実際に見ると想像より大きくて、獣臭もすごい。顔は豚に似ているが正直怖い。
「食べたことは?」
「ありません」
「うまいぞ。少し待て」
ファリードは器用に猪の皮を剥いていく。刃物は持っていないはずだが、爪と腕力だけで毛皮と肉を解体し始めた。
「あの、これもし良ければ使ってください」
「ありがとう」
護身用に持ってきた小型のナイフを渡す。祖父が狩りの際に携帯していたもので、小さい頃にわたくしに譲ってくれたのだ。北方の民の工芸品らしい。質素な品だが、柄に小さな宝石と、飾り彫りが施されている。
「あら……あらら……」
「よく研がれているな。使いやすい!」
ファリードは褒めてくれるが、おそらくこのナイフ、実際に使われたことなんてないんじゃないだろうか。
宝石は血脂でみるみる濁っていくし、飾り彫りの深い溝に血が溜まって汚れている。お飾りのナイフなんだ。思えば祖父が実際に獣を殺した血生臭い品を、孫娘にあげるわけがないんだった。
ファリードは肉を切り分け、枝に刺して焚き火にかざした。
「あっ、それは見たことがあります!」
「うん?」
「絵本の挿絵で!旅人が焚き火で肉を焼いて食べるんです」
「へえ。どんな話だ?」
「ベールニンゲンの指環というお話ですわ」
「……ほう?」
「世界を支配する黄金の指環を狙う悪者たちに、透明人間と」ドラゴンが協力して立ち向かう、痛快冒険活劇譚ですわ!」
小さい頃に読んでいた、挿絵がたくさんある絵本。世界中を旅しながら、平和を守るために冒険するのだ。久々に思い出した。
「わたくしも大きくなったら、世界の平和を守るために仲間と冒険するのだといつも申しておりましたわ。世界中を飛び回るつもりなら賢さが必要だと両親に言われまして、うまく乗せられて語学や地理、歴史の勉強には特に精を出しておりました。このナイフは、冒険には勇者の剣が必要だろうと言って、祖父がくれた物なのです」
「そう……その物語に出てくるドラゴンは?」
「これが大きくてかっこいいんです。どんなピンチにも駆けつけてくれて、優しくて力持ちで。指環に魅入られた人間は本当に馬鹿なことをするんですけれど、ドラゴンはいきなり懲らしめたりせずに、まず説得から入りますのよ。紳士でしょう?最後は指環に魅入られて、破滅するんですけど……」
「最後に裏切るわけか」
「でもわたくし、その本の結末に納得いきませんでしたの」
ファリードは肉を回して焼きながら、ゆるく首を傾げる。
「納得も何も、本に書いてあるのに」
「いいえ、ドラゴンが急に指環に魅入られるなんて、話の内容的にあり得ないんです。きっと作者はお話を続けるのが面倒になって、適当に終わらせようとしたんですわ。抗議のお手紙をしたためたのですが、そもそも300年以上も前のお話だと言われて、作者に直訴するのは諦めたんですが」
「あははっ」
「わたくし悔しかったのです。好きなキャラクターが最後の最後で雑に悪役にされて終わるのが!そもそも指環なんかなくてもドラゴンはいちばん強かったのに。うんと助けてもらっておいて、最後はポイなんて物語の中であっても悲しすぎますわ!ベールニンゲンが最後よくわからない力に覚醒するのも、そんな伏線どこにもなかったのにって」
「すごいな。こんなに饒舌なラファール初めてだ」
ファリードはトランクからパンを出して、切り分けた肉を挟んでくれる。一方的に喋って、食事の用意は全て人任せなんて。
「ありがとうございます。……久々に思い出したら、つい熱くなってしまいました」
「かまわない。ほら、食べなさい」
「いただきますわ。……わたくし、こういったお肉をいただくの初めてです」
お行儀悪く、思い切りかぶりつく。塊肉にかぶりつく英雄とドラゴンの挿絵を見た時の、憧れが蘇ってくる。
豚よりもかみごたえがあって味が濃い。独特の臭みがコクになっていて、なかなか癖になりそうな味わいだ。
「うまいだろう?」
「美味しいですわ。ありがとう、ファリード」
「近くに水場があった。食べ終わったら、泥を落としに行こうな」
焚き火にゆらゆら照らされるファリードの表情は、よく見えない。
食事の後、ファリードに手を引かれ、水場まで案内された。小さな池のようになっている。小さく魚影が見えて、水は綺麗そうだ。
ファリードが水に手をひたすと、池から湯気が立ち上った。待って、お魚……。
「あ」
「ああ……」
何匹か浮いてきてしまった。気まずい空気が流れる。
「……明日の朝ご飯ができましたわね」
「そう言ってくれるか」
「ファリード……」
しゅんとするファリードの背中をさする。
「それにしてもファリードの力はすごいですね。一瞬で火を起こしたり、温泉を作ったり。助けられてばかりですわ」
「できるからやっただけだ。俺が君を助けるのは当然だよ」
落ち込みつつも、不思議そうなファリード。
ファリードの言葉に、わたくしもあっけに取られてしまう。
できるからやっただけ。助けるのは当たり前。
「俺はその辺で背を向けているから、終わったら声をかけてくれ」
「えっ」
ファリードは浮いた魚たちを手早く回収すると、その辺の落ち葉を集めて焼き魚にし始めた。
背を向けられていると言っても、男性の姿があるところで服を脱ぐのは。でもファリードだし。ファリードだから恥かしいのかしら。
焚き火のあるところまで戻ってもらおうか。今はまだ日が落ちきっていないので道がわかるが、帰りはどうだろう。暗闇の中、一人で焚き火のところまで帰れるだろうか。
結局夜陰への不安と、久しぶりのお風呂の誘惑に負けて、浸かることにした。
「ファリードは?浸かりますか?」
「俺の湯加減だと、水が全部蒸発するからやめておく」
「そうですか……」
「水に手を入れて3秒。これが人間にちょうどいい湯加減のコツだ」
「それも、みんなが喜んでくれたから?」
「ああ」
最初の葛藤は何処へやら、湯に浸かるとどうでもよくなってしまって、すっかり気持ち良くなって例の熱風も自分からおねだりしてしまった。ファリードは嬉しそうに竜の姿に変化してリクエストに応えてくれた。
ファリードが頭上高くにある枝葉を口で器用にむしりとり、体の上に並べていく。お口の中に入れてもらい、葉っぱの上にそっと下ろされたら、就寝準備完了である。
葉を揉んで青臭さを堪能しながら、星空を眺めて今日を反芻する。
道案内も焚き火も食料の準備も、お風呂までファリードの世話になってしまった。
「ファリード、たくさんありがとう」
『どういたしまして。あまり気にしなくていいんだぞ。俺にとっては朝飯前なんだから』
「嬉しいからお礼を言うの。色々してくれて助かっただけじゃなくて、わたくし、嬉しかったのよ」
『俺もラファールと森の中を歩けて、嬉しいよ』
真っ暗な中にも美しい緑の瞳が、上から優しくのぞきこんでくる。手を伸ばすと、逆鱗がそっと体の上に降ってきた。
抱きしめてキスを送る。
「わたくしも、ファリードが喜ぶことをしてあげたいわ」
「もう充分喜ばせてもらっているが、……そうだな、」
「言ってみて」
「ベールニンゲンの指環の話を聞かせてくれ」
「喜んで」
でもそれはまた明日ね。
あたたかな鱗に包まれて、あくびが出る。心地よく抱きしめられて、わたくしはあっという間に眠ってしまった。
ラファールのナイフは、贈られる前に祖父が刃引きしたので切れません。ファリードが切れたのは馬鹿力だからです。