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ファリードが眠っていた場所は、渓谷と言っても差し支えないほどの巨大な穴が開いてしまった。
すり鉢状になっているため、周囲の地面も脆い。崩落の危険があるから大きく迂回することを余儀なくされ、今は小川のほとりで休憩中だ。
「ほらラファール、お水飲みなさい」
ファリードが小川から水をすくって、目の前に差し出してくる。
ええ、わかっていますとも。彼にとってわたくしなんて卵同然ですものね。自分の手でお椀も作れない幼子だと思われているのでしょう。誤解は正さなくてはね。
「自分で水くらいすくえますわ」
「足を滑らせたら、浅い川だって危ないんだぞ」
「お気遣い感謝しますわ。でも殿方の手のひらに口をつけるなんて、はしたないもの」
「全然はしたなくないぞ。むしろ可愛い。人間の口はムニッとしてて可愛いんだ!」
あ、わかったわ。これはあれだわ、犬猫に手ずから干し肉をやりたがるそれ。小鳥を手に留まらせて粟を啄ませるそれ。
伊達に生馬の目を抜く社交界でやってきたんじゃないわよ。顔色を読む力が竜にも発揮されるなんてね。
ファリードのお望み通りに直接飲むのは少し癪だった。癪だと感じた自分に驚いた。忘れていたけど、絶賛反抗期中なのだ。そう思い通りにはなってあげないわ。
ファリードの手のひらに湛えられた水を自分の手で掬い上げ、水を飲む。
「ありがとう、ファリード」
「……どういたしまして」
しゅんとしないでほしい。
さっさと倒木に腰掛け、膝にハンカチを広げる。トランクからビスケットを出し、2つに割ってファリードに渡す。
「俺はこの姿でも腹は減らないから、いらないぞ」
「欲しくないなら無理強いは致しませんが。そんなに美味しいものでもないのですけれど、興味ありませんか?」
「興味はちょっとある」
「では、どうぞ」
硬いビスケット。お茶会で供されるバターたっぷりのものとは違う、保存に適したほぼ無味のもの。
「食べ物なのに、模様がある」
「焼く過程で火ぶくれしないように、針で穴を開けているのです」
「綺麗だな」
「どうせ穴を開けるなら、見栄えいいように、ということでしょう」
「俺は人間のそういうところが好きなんだ」
ファリードをお茶会に招いてあげたい。
ボーンチャイナを見たらファリードはなんていうかしら。果物たっぷりのパルフェや、ジャムを乗せたソフトクッキーを見たら。
もっと人間を好きになってくれるかもしれない。
半分こしたビスケットは、すぐになくなってしまった。
丸太に腰掛けたまま、お行儀悪く足をぷらぷらさせる。ファリードはわたくしの膝にかけていたハンカチを、いつの間にか手に持っている。日にかざしたり揉んだりして、3000年の織布技術の進歩に感動しているようだった。
「それにしても、街からまっすぐ東に歩いてきただけなのに、ファリードに行き当たったのは運が良かったですわ」
「俺の牙を持っていたからだろう」
「牙に特別な力が?」
「爪や鱗でも同じだ。俺を呼ぶ力がある。魔力があるからな」
鱗。実はずっと気になっていたことがある。
「……ひとつ聞いても?」
「何だ?」
「その姿の時、鱗はどこに仕舞われているんですか?」
「なくなった。強いて言えば髪じゃないかなあ。髪を切っても鱗が禿げたりはせんが」
「では、その姿ならどこにわたくしが触れても、手が切れたりしないのでしょうか」
言ってから、自分で呆れた。まるでべたべたしたがっているみたい。
「怪我の心配はないぞ。存分に触れ」
ファリードの返答は斜め上をゆく。
「顎の下の、あの柔らかい鱗も……」
「ないな」
「そうですか……」
「気に入っていたのか、逆鱗」
「はい」
「あたたかいもんな」
「はい」
ニコッと笑って、ファリードは両手を広げた。
「寒いならあたためてやるぞ。ほら!」
「結構ですわ」
「冷たい」
またしゅんとしてしまって、少し慌てた。悲しませたいわけではないのに。
わたくし、もしかして可愛げがない?こういうところがサスキアに負けた原因?
「そうではなく……殿方とあまり親密に触れ合ってはならぬと教えられてきたもので」
「はあ。しばらく見ない間に、人間はお堅くなったのだな」
「婚姻前の女性は、身分にかぎらずそう教えられますのよ」
「じゃあラファールが結婚したら、俺は君を抱きしめてもいいんだろうか」
「夫の許しを得られれば」
「なぜ夫の許しが?俺が抱きしめたいのはラファールなのに」
言葉に詰まった。なぜって、決まっている。妻は夫の財産だから。婚姻後にも女性には貞淑を守る義務があるから。貴族の女性はみだりに異性と触れ合ってはならないから。
説明できないのは、わたくしがその答えに納得できないからだ。
「竜のお姿なら、例外かなと感じるんですけれども」
微妙にずらした返答をしたら、ふーんとファリードは言い、ハンカチを畳み始めた。返されたハンカチは端が揃っていない。
「どちらの姿が好きだ?」
「竜と人の姿、ですか?」
「そうだ」
「どちらも素敵ですが、強いて言えば竜のお姿の方が」
「理由は?」
「大きくてかっこいいからです」
「ははっ、俺はかっこいいか!そうか!」
先ほどから落ち込ませてばかりで申し訳なかったから、上機嫌になったファリードを見て安心した。
「人間のお姿もかっこいいですけれどね」
「男は嫌いか?」
「男性が嫌いなのではなく」
ちょっと息を吸った。少し勇気を出してみる。
「竜が好きなのです」
「……………」
「初めてみるお顔ですね……」
ファリードはわかりやすく赤くなって、フシュフシュと湯気まで出した。大昔に食べたというマグマの名残だろうか。私まで熱くなってしまうではないか。
「竜、好きか。そうか……」
「だ、大好き……」
初めて会った時、ファリードからもらった言葉をそのまま返したつもりが、吃ってしまった。軽やかな親愛を込めてさらっと言いたかった。
へにゃ、とまなじりが下がって嬉しそうなファリードからは、火と岩の匂いがした。
この世界にエキノコックスはありません。