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『もう良いのか?』
「はい」
『お腹いっぱい食べたか?』
「はい」
パンを食べ終わり、立ち上がってファリードに向き直る。
『次はザクロとか食べて欲しいな』
「ザクロがお好きなんですか?」
『人間が食べるのを見るのが好きだ。音が可愛い』
「はあ」
ファリードの言う可愛さはよく分からない。
『俺の体は今、手足と尾が地中にある。眠っている間に堆積した土を全て払うから、地響きが起こる』
「は、はい」
『そこにいると危険だ。口の中に入りなさい』
「はいっ」
気をつけをすると、すぐに湿った温かいものに包まれ、真っ暗になる。揺れている感覚はあるが、体感は馬車と同じくらい。揺らさないように気をつけてくれているのだろう。
外の音もほとんど聞こえない。ファリードの話では今ごろ、天変地異のような騒ぎが起こっているはずなのだが。
「…………」
わたくしは今、ファリードの口の中にいる。体の前面に押し付けられている柔らかなものが、ファリードの舌。
つまりちょっと首を突き出せば、わたくしは有史以来初めて、竜と接吻した貴族令嬢。
なんと不埒な!!断りもなしに殿方(?)の唇(?)を奪うなど!こういうことは双方の合意あってこそ。それにファリードは対話を重んじる竜だ。無断で口づけされたと知ったら流石の彼だって怒るに違いない。
でも口の中に招き入れると言うことは、憎からず思われているという証左とも言えるのでは?いやファリードはこうも言っていた。昔は口の中に入ることを怖がる人間はいなかったと。
つまりファリードにとっては、人間を口の中に入れるのは何でもないこと。そもそも人間のことが大好きなのであって、ラファール個人を好ましく思っているわけではない。
わたくしが好きなのではない。人間が好きなのだ。ファリードはサスキアのことも、両親のことも、エドガー・ファレルだって財務大臣だって王妃様だって、犬好きの侍女だって口に含むに違いない。
『終わったぞ』
「わぷっ」
『地形が少々変わったが、人里離れていてよかった。俺が眠る間は禁足地にせよとの願いを、人の子はよくよく守ってくれたようだな』
あんなに茂っていた樹木が、一掃されていた。
ファリードが眠っていたと思われる場所は谷ができていた。土や礫が崩れて谷底に落ちていくのが見える。
彼の顔がどこにあるのか、一瞬わからなかった。きょろきょろ見渡して、はるか頭上に緑の瞳を認める。
「ファリードー!!」
『何だ?』
「大きいですわねー!!」
『大声出さなくても聞こえるぞ』
「えっ」
『可愛いなあラファールは』
両手をメガホンにして絶叫していたラファールはポッと赤くなった。わたくしったらはしたないわ。恥ずかしいわ。
『喉が乾いたろう。向こうに水場があるぞ』
「どうやって行きますか?」
『どれ、持ってきてやろう』
ファリードがググッと首を伸ばした。大樹がメキメキと軋む音が聞こえてくる。ラファールからは何が何だかわからないが、水を飲んでいるらしい。
『ラファール、上を向け。水をやる』
「?」
言われるままに上を向くと、首を戻したファリードが、下に向けて口をパカリと開いた。
「っ!!?」
ザババババババと滝のように降り注ぐ水。上を向いていたラファールはもろに顔で受けた。
鼻と喉に、同時に水が入ってくる。泳いだことのないラファールは、滝の中で溺れかけた。
「エ゛ッ、ヴェ、」
『ラファール!』
自分から聞いたことのない音がする。こんな咳き込み方したことない…。
『ラファール!悪かった。みんなこれで喜んでいたから、君も平気かと思って……』
「い゙え゙…」
これでもつい一ヶ月前までは、王族の関係者にマナーや教養を教える立場だったはず…。
急速に貴族令嬢から遠のいていく自分が、楽しくあり、愉快だった。
「お水ありがとうございます」
『すまないな。他の方法を考えよう』
「服も濡れますしね」
『人間は濡れたままでいると病を得るからな。今すぐ乾かそう。踏ん張れ』
今度はファリードが息を吸う気配がする。反射的に目を瞑り、足に力を込めた。
途端に熱い突風が吹く。全身を風に包まれて、湯に浸かっているような気分になった。
「……昔からこれを?」
『ああ。みんな喜んでくれるからな』
縦に裂けた瞳孔が、和やかに膨らむ。ファリードは私が喜ぶと思ってしてくれたのだ。
……私は誰かの喜びを、こんなにまっすぐ考えたことはあるだろうか。
『次は食事の確保だな。替えの服も欲しいんじゃないか?夜は俺が抱いて寝てやれるから、住処は優先度低めだ。ラファールが暮らしやすい場所を探さねば』
「わたくしのため?」
『“精一杯努めて”くれるのだろう?冒険しよう。ラファール、俺はな、』
巨大な頭部が近づいてきたと思うと、顎下の逆さに生えた鱗が、ぺちっとラファールの上半身にくっついてきた。
『俺を起こしてくれたのが、ラファールで嬉しいんだ』
あたたかい鱗。ラファールはやっと気づいた。ファリードにとって、この鱗はきっと愛情表現だ。
「わたくしも、探していた竜がファリードで嬉しいです」
ならば人間なりの愛情表現を返そう。手をうんと伸ばして、鱗を抱き締める。ちゅ、と親愛のキスを送れば、グルグルと重低音が腹の底に響いた。
ファリードにとって人間の食事は、人間にとってのペットのASMR