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サスキアはまた欲しいと言い出した──こともあろうに、エドガー・ファレルを。
普段はサスキアに甘いところのある両親も、今回ばかりは激怒した。祖父母まで出てきてサスキアを叱った。
家格が合えば誰でも良い、という類の縁談ではない。ラファール個人の能力を見込んで婚約したのは明らかである。
縁談が持ち上がってからというもの、サスキアは一貫してこう主張した。
「一度でいいから、エドガー様に会わせて」
「2人でなくて良いから、お姉さまとエドガー様の顔合わせする同じ部屋にいるだけでいいから!」
「お願い、エドガー様にひとめ会わせてください」
社交界で自信をつけた妹は、しばらく話さない間に随分と傲慢になっていた。
美しい妹を見れば、姉ではなくサスキアを選ぶと言いたいのだろうか?こんなに露骨に馬鹿にされたのは初めてで、ラファールはサスキアがごねている間、彼女の顔をまともにみることができなかった。
王宮に部屋が与えられていたのに甘えて、逃げるように王妃のサロンに通っていたのが悪かったのかも知れない。否、こんな馬鹿げた要求を誰も通すはずがないとたかを括っていた。
王妃と刺繍をした後、ごく少数で開かれるお茶会で、王妃が爆弾を落とした。
「そういえば、ヴィアンカが言っていたわ。あなたの妹、ファレル邸に招かれたんですってね。……ラファールを差し置いて、妙な話だとは思ったのだけれど。何か聞いていて?」
公爵家跡取りの婚姻ともなれば、婚約前に国王の意向を伺うのは必定である。よって王妃の耳にも、ラファールとエドガーの婚約内定の話は届いていた。公爵夫人ヴィアンカは王妃ヴィヴィアンと姉妹である。ラファールと婚約しているはずの息子がサスキアを招いたことを訝しんだ公爵夫人が、王妃に探りを入れるよう頼んだのだろう。
サスキアとエドガーがラファールに黙って面会したと知ったのは、王妃の話を聞いて三日ぶりに王宮から伯爵邸に戻った晩だった。
会ったから何?とも考えていた。まだ公表していないものの、両家の間で書簡は交わされている。
「妹の方が美人だから、やっぱり変更で」などと言うはずがない。まともな人間なら。
まともな人間などいなかった。
ラファールとの婚約を白紙に戻し、サスキアにあらためて縁談を申し込む旨の書簡が届いたのだ。
申し訳なさそうな父と執事の視線に耐えられなかった。肩をさする母を振り解いて、部屋に戻った。母の手を無理やり払うなど、人生で初めてのことだった。
足の力が抜けて、立っていられなかった。
床にべったり倒れ伏し、吐き気と闘った。冷静な頭のどこかで、絨毯を手で触るのは初めてだなんて考えていた。まだ子供の頃、妹はよく絨毯に寝そべって叱られていたことを思い出した。
こんな時でも泣かなかった。当然だ。エドガーを愛していたわけじゃない。
目の前が絶望で暗くなる。次に怒りで頭がふわふわとした。顔は熱いのに指先は冷え切って震えていた。
ただ誇りを踏み躙られて、怒り狂っていた。
ラファールの誇り。それは継続した努力と、努力に裏打ちされた能力である。
毎日寸暇を惜しんで勉強してきた。刺繍とダンスは、家庭教師にもう教えることがないと言われてからも、独学で研究している。
王妃やサロンの女性たちを楽しませるため、遠い異国の文化も勉強し、実際宮廷に持ち込んだりもしている。
通訳だって。会話と通訳は似て非なる能力なのだ。こなすために外国語を母国語とする侍女に付き合ってもらい、何度も予行演習したから成功できた。
男性との会話で遅れを取らないよう、政治や国際情勢もある程度対応できるように知識を仕入れ続けている。
だからこそ、エドガー・ファレルからの縁談は、純粋に嬉しかった。
努力が報われた気がした。
頑張りを見てくれる人がいたのだと、……いや、誤魔化すのはよそう。
君の能力は、サスキアの美貌よりも魅力があると、そう言ってもらえたようで、嬉しかったのだ。
サスキアには、女性としてこの上なく恵まれた容姿がある。父上譲りの上流階級らしい色素の薄さ。ピンクブロンドと、けぶるような水色の瞳。母上譲りの優しげな美貌。
一方私は、父上からはよく言えば聡明そうな、悪く言えば神経質そうな顔立ち。母上からは榛色の髪と瞳をもらった。
昔から妹の方が優遇されているようで、悲しかった。
両親も家庭教師も侍女たちも、昔からサスキアを嗜めはするが強く叱ったりはしない。決まって最後にはこう言うのだ。
「サスキアよりもあなたの方が良くできるのだから。これくらいは譲ってあげてちょうだい」
サスキアが話せるのは、貴族の公用語である王国語のみ。ダンスも刺繍も上手とは言い難いし、記憶力も思考力もお世辞にも優れているとは言い難い。確かにサスキアと比べたら、私は“よくできる”のだろう。
小さな頃はよく熱を出していたから、それも関係しているのかもしれない。
だからこんなに頑張ってこれたのかしら。持ち物は譲るしかなくても、身につけた能力は自分だけのものだから。
ラファールの職場は宮廷である。すでにサロンのメンバーには、ラファールが婚約内定していたことは伝わっている。言いふらしたわけではない。宮廷では宝石よりも情報に価値がある。どんなに内密にしていても、国家の運営を担う人間の動向はどこからか漏れる。
今後ラファールは、婚約者を美貌の妹に横取りされた女として王室に通うことになるが、それは無理だ。ラファールは王族を教えている。
気位の高い王室の女性たちが、醜聞のある女性を受け入れるはずがない。ラファールのキャリアは、完全に断たれた。サロンから招集がかかったけれど、質問攻めにされるのが目に見えて、全て断った。
サスキアが何度か部屋の前に来て、話がしたいと言ったけど、もう一度声を聞かせたら首を吊ると脅した。はしたないやり方だとは思ったけど、幸い諦めたようだった。
両親も話をしようと言ってきたけれど、誰からも、何も聞きたくなかった。部屋の前に置かれる飲み物と食事を流し込んでは時折吐いて、ぼんやりする日々が続いた。
誇りを踏み躙られて、平気でいられる人間がいるとしたら、それはなんの努力もせずに生きてきた人間だ。
例えば、妹のような。
あの子は一度でも、血の滲むような努力をしたことがあるのだろうか。報われずに泣いたことがあるのだろうか。
侍女とも会話せずに数日経った頃、父が部屋のドアをノックした。
「ラファール。……明日、エドガー様がいらっしゃる」
クロフォード伯爵家は国内に点在した領地を持っており、インフラや国内流通の中継地を整備するのが、領主の主な仕事です。