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むかしむかしあるところに、竜と人の、それはそれは仲睦まじい夫婦がおりました。
竜は妻のことが可愛くて仕方がなくて、口に含んだりペロッと味見をしたりして、よく叱られておりました。
妻も竜を深く愛しており、竜がいかに素晴らしいか、目が合った人間を片っ端から捕まえて熱く語ったので、少し引かれておりました。
竜は永遠を生き、人間には死が訪れます。
二人がどう思いあっても、別れは避けられないのです。
竜とその妻は、永遠に共にいられるように、かたくかたく抱き合いました。
とうとう死さえも二人を引き裂くことはできず、いつしか岩となり、ひとつになりました。
竜とその妻は、永遠に愛し合い、幸せになりましたとさ。
めでたし、めでたし。
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鬱蒼と生い茂るファリードの森。太陽は中天にあるというのに薄暗い森の獣道は、下草が生えない。深く積もった落ち葉と土で、旅慣れない足は絡めとられる。
クロフォード伯爵家長女ラファールは、痛む足を叱咤して、竜の樹海と恐れられる広大な森林地帯を1人で進んでいた。
森の取り付きには、まだ小鳥の囀りやかすかに小川の流れる音もあった。半日ほど歩き続けているが、だんだん生命の気配が遠のいて、湿った土と樹皮の匂いがするばかりである。
「怖くないわ!!死ぬ気でここまで来たのよわたくしは!!」
ラファールは声を張り上げた。止まりそうになる足を叱咤し、森に来た目的を忘れないために。
わざわざこのファリードの森──竜の眠る樹海、生贄の深野とも呼ばれる──この森に、死にに来たのだ。
ラファールは大声を上げたことがない。ゆえに、初めて張り上げた声は裏返って、小さくて、みっともなかった。
それが情けなかった。
「絶対に竜を見つけて、食べてもらうと決めたのだからっ!!」
鼻の奥がツンとして、声はのどの奥で絡まったように震えた。奮い立たせるように地団駄を踏んでみる。かさかさと乾いた落ち葉ばかりだった地面に、ガツっと硬質な音が鳴った。ブーツの踵が何か硬いものを踏む。石?
屈んで落ち葉を避けてみると、石畳のように、規則正しく並んだ赤褐色の石が現れた。こんなところに文明?王国史が根底から覆る大発見だ。これは死んでる場合じゃないかも。
さらに落ち葉を避けていくと、石畳は長く長く続いている。明らかに自然にできたものではない。
鱗のように続くそれは、研磨前の瑪瑙に似ている。
瑪瑙を道に敷くなんて聞いたことがない。であれば日常使いの道路ではなく、儀式や貴人の通り道として敷かれたものと推測できる。
王国では北方の山脈に赤瑪瑙の鉱脈があるが、50年ほど前に開かれた場所だ。それまでは大きな瑪瑙の産地といえば隣国が有名だった。森の中に鉱脈があるのだろうか、それとも別の場所で採取して普請したのだろうか。
失われた太古の文明?それとも王国に属さない民が住んでいたのかしら?
持ち前の探究心で、体の疲労をしばし忘れ、石畳を辿っていく。
カサカサ、カサカサ、落ち葉を掃除するように腕を動かしていたラファールは、中腰で地面を見つめていた。だから気づかなかったのだ。彼女を見つめる、巨大な緑の瞳に。
『おい、俺の背で何をしている』
生命の気配が薄い、深い森の奥。そこでいきなり声をかけられ、反射的に顔を上げた先に、目があった。
いや、おそらく顔と頭部もあったのだろう。巨大すぎてわからなかっただけで。
「はっ……」
死ぬだの何だの息巻いたところで、所詮はラファールも世間知らずな貴族の令嬢だったということだろう。
その後の記憶はない。
竜、──のちにファリードと名乗った彼曰く、「白目をむき、泡を吹いて倒れた」とのことである。
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事件は一ヶ月前に遡る。
きっかけはラファールの元に、エドガー・ファレル公爵令息から縁談が来たことであった。
ファレル家といえば、曽祖父の代に臣籍降下した、正真正銘、王族に連なる名門である。
現公爵リドリー・ファレルは財務大臣を歴代最長の15年間勤めており、その辣腕ぶりは国王、貴族のみならず、国民からも広い支持を受けている。
クロフォード伯爵家は家格が劣るが、両親もラファールも、縁談が来た際には何も疑問を抱かなかった。
なぜならユーラスは、天才と称されるエドガー・ファレルと遜色ない秀才だからである。
貴族令嬢の嗜みである刺繍、ダンスは一年でマスターした。今は請われて王妃のサロンで、歳若い王女や侍女たちに教えている。読み書きは3カ国語、簡単な日常会話なら5カ国語できる。能力を買われて、王妃と使節団の通訳を任されたり、簡単な文書の翻訳を行っていた。
一度覚えたものは決して忘れないから、貴族の顔と名前はもちろん、使用人に至るまで、正確に把握している。礼儀作法も完璧だ。宮廷に出入りしているから、王室の行事ごとにも精通している。
外交の助けとしても、公爵家を切り盛りする上でも、王室との関わりでも、ラファールはうってつけと言ってもいい。
間違いなく良縁である。
ファレル公爵家と婚姻関係ができれば、ラファールはこれまで以上に実力を発揮できる場所を得る。
「謹んでお受けします」と、すぐ返事を出した。エドガーと話したことはないので面会機会を何度か設け、婚姻に向けて準備するはずだった。
ラファールの妹、──サスキアの困った癖が出るまでは。
サスキア・クロフォード。ラファールの年子の妹である。
誰もに愛されるサスキアだが、正直ラファールはサスキアが苦手だった。
前述の通り、彼女に困った癖があるからだ。
幼い頃から、なぜかラファールの持ち物を欲しがる。
「お姉さまのがいいの!」
「お姉さまのが欲しい!」
サスキアに譲ったものは数知れず。ドレスや靴、髪飾りならまだ理解できるが、時には刺繍枠や羽ペン、部屋の調度まで。
年子なものだから、サイズや年齢が合わないという言い訳も使えない。
そのくせ譲った瞬間は満足するが、その後継続的に使っているところは見たことがない。人のものがよく見えるたちの子なのだろう。最近は悪癖が落ち着いていたから、すっかり忘れていた。
サスキアはまた欲しいと言い出した──こともあろうに、エドガー・ファレルを。
サスキアはレンブラントの妻の名からもらいました。