バーテンダーの話
からんからん――
ドアベルが軽やかになって、探偵を出迎える。この音にもずいぶん耳慣れたと思いながら、彼はゆったりと、なにげなく辺りを見つめた。今日の客は自分ひとりらしい。外から入ってきた風がびゅうと彼の背を押したので、扉を後ろ手にしめて、席へと向かう。
指定席なんてものはありはしないが、常にがらんどうの店の中では、席など選び放題だ。カウンター席の適当なところへ座り込むと、手を軽く拭く。
アルバートンは、カウンターの向こう側で、丁寧にグラスを磨いていた。飲む人もいないのに、グラスを拭く意味があるのだろうか。
「いらっしゃいませ。今日のご注文はいかがしましょう」
「……ワインを頼めますか? できるだけ弱い物を」
――なんだか今日は、酔わないほうが良い気がするので。
ぼんやりと浮かんだ言葉に従って注文をすれば、アルバートンは何も言わずにワインボトルに手を伸ばした。とくとくと注がれゆくワインを見ながら、一人呟く。もうずいぶん、ここに通っているなと。
二月か、三月か。もっとずっと前から、ここへ足しげく身を寄せている気がする。始めて来た日は、冬はじめだったが、もうそれも終わろうとしている。人の世は今、大晦日の準備でてんやわんやと動いているのだ。
春が来ますね、と探偵が言う。店主は、そうなのですか、と返した。
「では、もうそろそろ、店じまいですね」
その言葉に、怪訝な顔を浮かべて、彼は腕時計を探した。右腕についたどこか安っぽいそれは、しかしまだ、宵口のあたりを示している。ここ、BAR白昼夢に置いて閉店時間というものはろくに定まってはいないが、それでもまだ、普段よりもずっと早い。
首をかしげて、視線を戻せば、アルバートンはいつの間にかグラスを吹き終わっていて。目は、探偵の方をしっかりと見つめていた。
「聞いてくださいませんか。私の、話を」
「……ええ。自分でよければ、喜んで」
自分の話はした。人の話も聞いていた。なら、今度は店主の番だ。探偵は目を閉じて、ただ言葉を待った。
「私は昔、何もかもおしまいだと思っていた日があったのです」
第二次世界大戦というと、一世紀近くたとうとしている2020年に置いても記憶に新しい大戦争だ。それ以上の戦争というものが、未だ起こっていないのだから、そうそう書き換わるはずもないが。
さてそれ以前にも生活というものはあって、いかに敵国となろうとも、その手前まではただ隣人であったアメリカから、ある一人の留学生が来ていた。
名を、アルバートンという。
彼は日本の事が知りたいと言って親と三日三晩喧嘩し、半ば絶縁を言い渡されたその足で、着の身着のまま、日本へと飛んできた。もはや帰る事も難しいとわかっていながら、驚くべき行動力であったが、いささか考慮というものが足りなかったとも言える。
実際彼は路頭に迷った。学費だけはどうにか出せたが、しかしそれ以上の生活は期待できそうもなく、結果として一人の学生の家へ転がり込む事となったのだ。
食うや食わずで苦学生を続けていたアルバートンを、彼らは呼んで、良ければ家へ泊らないかといった。ただ親切でもあったろうし、また海外の情報を知りたいという打算もあっただろうが、アルバートンにとってはただただ、天より差し出された救いの手のごとく感じられたのであった。
「それからの三年はあっという間でしたよ。違う国の視点、違う国の文化――聞くこと全てが新鮮で」
胸元で揺れる質素な首飾りを、バーテンダーの指が撫でる。古びてもなお、その輝きは色あせる様子がない。
何日も何日も連れ添ったのだろう。並んで歩き、時に語らい、互いの国を知っていったはずだ。それぞれに違う考えと、それぞれに違う見方。たったそれだけで、世界は新鮮になるものだ。けれどそれも、長くは続かなかったのだろう。探偵は歴史をなぞって歩くような感覚を覚えながら、ぼんやりとそう思っていた。
店主の年齢を考えれば、話の中の時代はおそらく、八十年以上前。そしてその時期は。
「……全ては、戦火に消えていきましたがね」
彼はそういって、指が震えるほどに拳を強く握った。その声は、怒っているようにも、寂しげにも、悲し気にも、あるいは虚ろ気にも感じられた。
「何度も本土空襲に巻き込まれましてね。その中で、皆消えていきました。家族も、恋人も、友人も、家も、車も、学び舎も、思い出も。そして、アルバートン自身もね。……財産ばっかりが残っていました」
探偵は目の前の老人を見た。老いさらばえた様子のない、かくしゃくとした翁である。背は高いが、その顔つきはどちらかと言えば東洋的だ。端的に言えば平べったいのである。
そこでようやく、探偵は自らの思い違いについて知った。目の前の男は、アルバートンではないのだ。彼はおそらく、友人だった学生の方の。
「どこかで死んでしまいたくて、でも自死するような勇気もなくて。半ば逃げるように、私はここを開きました」
息継の間に、探偵はグラスを置いた。もう酒は入っていない。アルバートンも追加を注ごうとはしなかった。話は、そしてこのBARに居られる時間は、もう残っていないのだと、そんなことが何となく感じられた。
「酒飲みにろくなやつなどいないだろう、だからいずれ、静かに死んでいけるだろうと……そう思っていました」
店主が黙り込み、店の中をゆっくりと眺めた。探偵もそれにつられて目を背後へと向ける。
いい店だ。来るたび、探偵はしみじみと思う。上品な木製の机と椅子。あたたかな光を下ろす、昔ながらの照明。時々、どこかから流れてくるクラシックが、あるいは入店の旅に鳴らされるドアベルが、鼓膜を心地よく揺らしていく。
なにより、ここでこうして、カウンターで店主と向き合っている間だけは、外の喧噪と忙しさから逃れられたような気がした。実際にそんなことはなく、酒を飲んでいる間も時間は過ぎていくのだが、それでも確かに、安らぎがここにあったのだ。
それはある意味で、このバーテンダーが求めてやまないものであったのかもしれない。ただ安らかに、静かに死んでいきたいと。そう思いながらも、しかし誰かと話していたいと。
人と触れ合った暖かな思い出。人と離れる冷たい絶望。それはそのうちに、彼の中で混ざり合って、いつの間にかここは存在していたのだろう。そんなオカルト、とか。どんな理屈で、とか。そんな事は、当事者たちにとっては極めてどうでもいいことだった。
「……当店にいらっしゃるお客様は、皆不思議な方々でした。そして多くが、どこか悩みを抱えていて……」
「ええ。私もその一人でしたね」
いや。今も、悩みは抱えていたのかもしれない。結局のところ、望みは未だ叶わず、それは遥か遠くの夢だ。
「でも皆様、何か答えを見つけて去っていきます。私も、どうやらその順番が来たようなのです」
店主は相違と、どこかから一本の酒を取り出して、とくとくとグラスに注いだ。"白昼夢"の銘だけが、酒瓶から読み取ることができた。
口に含めば、強いからみと心地よい甘みが一瞬ばかり、喉を通り抜けていく。良い酒だ、と探偵は思った。眠気覚ましには特に、と。
「私も、踏ん切りがつきました。だから――」
ひゅう、と冷たい風が一筋、頬と背を撫でていく。
振り向けば、そこには一件の店がある。だが、それはずいぶんふるい拵えで、張られた蜘蛛の巣は、埃の重さで今にも崩れそうだった。
かけられた看板からその店名を読み解くことは難しいが、その下の「CLOSE」だけがかろうじて読み取れる。探偵はそれに改めて背を向けると、ゆっくりと冬の道を歩き出した。心地よい場所の喪失と、喉の奥の温かみを、そっとしまい込むように身を丸めて。
――あなたも、答えを見つけられることを祈っています。
夢のような時間、夢のような一言が、脳裏をめぐって離れない。
寒さに震え、くしゃみを一つ。それからハァと白い息を吐いて、家路を早足でずんずんと進んでいく。
振り返る事は、しなかった。
次回、最終話です