死人の話
――焦げ臭いな。
探偵はわずかに顔をしかめて、カウンター席の端っこに座る男を見た。
男は年若い、しかし落ちくぼんだ目をしている。死相、と言うべきだろうか。頬はこけ、肌は青白い。いっそ死人の方がまだ健康的に見えるだろうが、動いているせいでほとんどゾンビのように見えた。焦げ臭い匂いの発生源は彼だろう。見れば、着込んだコートの端っこが真っ黒に焦げていて、またよく見れば、まだわずかにくすぶっているように見えた。
髪は生来のものらしきくすんだ金色をしていて、おそらくイギリス系の外国人なのだろうとは思うものの、それ以上の事は分からなかった。
「……この、マティーニっていうの、もう一杯もらえますか?」
「ええ、喜んで」
顔は年若い。西洋顔というものは堀が深く、日本人の探偵にとってはその年の詳細は分からないが、それでも雰囲気が若い。だがその、悲惨なまでにうかがえる苦労は、ある種老人的でもあった。
飲み慣れない様子で、カクテルグラスを恐る恐る持ち上げ、ゆっくりと飲む。見るに、酒を飲むという行為自体への慣れが少ないようであった。あるいは、これが初めての飲酒のようにも見える。
「おいしい……ですね。それに綺麗で」
「ええ。"カクテルの王様"とも呼ばれるような品でございますから」
居心地の良さそうな、優しい雰囲気。場面だけを切り取れば、暖かな絵面として見えるだろう。だがその場にいる探偵にとってはそれが、どこか物悲し気なものにしか感じられなかった。焦げ臭さが鼻につく。浮かぶ言葉は、癒しではなく空虚であり、そこは温かさと無縁の墓地のようにさえ思えていたのである。
もう一度、探偵は客の男をじっと観察した。青白い肌、落ちくぼんだ瞳、こけた頬。それだけでも不気味さを隠しきれてはいないが、上半身にばかり目を向けるのは得策ではない。
覚悟を決めて、ゆっくりと、視線を下げる。
そこに、足はなかった。
否、正確には膝から下が、と言うべきか。まるで空に溶けているかのように、ぼんやりとした影ばかりがそこで揺蕩っている。聞き耳を立てみれば衣擦れの音一つ聞こえず、グラスの音ばかりが響いているのも分かった。
幽霊。陳腐な言葉が、探偵の脳裏をよぎった。
もとより、ここは理屈の通用しない場所。不思議な客が来る事もあれば、不思議な時と繋がる事もある。死人とて訪れることもあるのだろうと、そう納得する他ないが、やはり死人と同じ部屋にいるとわかり切っている状況は心臓によろしくなかった。
奇妙な依頼というのもいくらか受けて来た探偵でこそあるが、霊感というものは薄く、また心臓に毛が生えているような人間でもない。そういうのは後輩の役目だ。
とはいえ、今の所悪さするような様子もない。そして此処に来る人間というのは、良性悪性の差はあれど落ち着いている状態の人間が多い。大事にはならないだろうと、探偵は楽観的に考えて、また酒をちびちびと飲んだ。
「ついこの間、婚約したんですよ」
「それは、おめでとうございます。大変めでたい事で」
死んでいる男の話は、そんな平々凡々な話題から始まった。彼女はどこの生まれで、どんな背格好で、どういう性格をしているのか。多分に惚気が含まれているのは明らかで、実在の人物像とはかなり違うだろう。
ただそこには、確かな愛がある。だからこそ男はこうも語っているのだ。
「僕にはもったいないぐらいの人で……ええ。本当に……もったいなかった、でしょうね。」
幸せそうに語り続けいた男の口は、そんな言葉とともに、止まった。それからまた話始める。今度は、まるで底の抜けた穴を見ているような、末恐ろしい虚ろさを感じる声であった。
「事故、だったんです。向こうは飲酒運転で、横合いから、突っ込まれて……」
情景が探偵の脳裏にもかすかに浮かんだ。
ひしゃげ、転がった車体。鉄塊さながらの車の衝突に合って、飴細工のごとくねじ曲がった誰かの死体。焦げ臭さは、ガソリンが摩擦で引火でもしたのだろうか。
少なくとも、男はそれで死んだのだ。非業の死だ。愛しい人との、幸せな生活を夢見ながらの、理不尽な死である。彼の無念は、いかばかりだろうか。探偵は無言で酒をちびちび飲んだ。
「私は生きていました。かろうじて。でも、すぐに死んでしまいました……あの人が、軽傷で済んだのを見ながら」
おそらく、突っ込まれたのは左からだったのだろう。欧米の車は左ハンドルだ。突っ込まれた時の被害を、彼がほぼ全て受けて、その代わり愛しい人は助かった。頭に浮かぶ情景が更新されていく。不幸中の幸いと言えるだろう――それはそれで、残酷な話ではあっただろうが。
自分を愛している男を、婚約者の側が愛していたのかは、今となってはわからない。まして、こうして話を聞いているだけのアルバートン、ないし探偵になど、到底わかるはずもない。
だがそれでも、目の前で人が死んだことを。仮だとしても婚約者が死んだことを、気に病まないでいられるだろうか。
「心配なんです。もう死んでしまった。もうこの手で抱きしめられない。あの人は……僕のことを、忘れてくれるでしょうか?」
その言葉に、探偵は思い違いを少し正した。この男は、愛した人の関心が、誰かへと移ってしまっても全くかまわないのだ。あるいは、初めからそれが、自分に向いていなかったとしても良いとさえ考えているだろう。
ただ、思っている。婚約者のことを。愛した人のことを。ただ健やかに生きてくれと願っている。幸せになってくれと祈っている。その幸せに、自分の影一つなくても構わないと、そう思っているのだ。
それも、一つの、愛の形だろう。探偵は心の中で、素直に賞賛した。それほどの覚悟を――否、それほどの"愛"を、死して尚抱き続けるその男を。
だからこそ、口は勝手に開いた。アルバートンはそれを見て、こぼしそうになった言葉をひっこめた。
「あなたがそう望み続けるなら、きっとそうなりますよ」
男は驚いたように探偵の方を見たが、少しして、どことなく恥ずかしそうに笑った。
「失礼。口を出す気はなかったのですが」
「いえ、ありがとうございます。少し、気が楽になりました」
それは重畳。そう語った探偵の顔には、しかし、いまだに明らかな緊張が浮かんでいた。
なにせ、相手は死人である。全てが良くある怪談話のように悲劇的結末だけで終わるなどとは思えないが、それでも超常現象は超常現象。普段の、つまり外にいる時であれば、きっと話かけなどしなかっただろう。むしろ、早急に帰って塩をまいていたはずだ。
けれど、酒に酔った今ならば。まして、現世の理をあれこれ無視したこの場所ならば。少しぐらい、話しても良いだろうと、そう思えたのである。
「これは受け売りになるんですがね」
そう言って探偵は、グラスに残って居た分の酒を、ぐいと呷る。そして、グラスをアルバートンの方へと突き出しながら、言葉を零した。
「"望み続けるなら、何時かは叶う"らしいですよ。……死んだ後でも、きっと」
「……"求めよ、さらば与えられん"、ですか。あまり敬虔な信徒ではなかったんですが」
そう言って死人の彼は、小さく笑った。そしてがたりと席を立ち、アルバートンと探偵に一度頭を下げ、それから背を向けて歩き去った。からんころんと静かなベルの音が鳴り、死人は外の闇へ、溶け込むように消えて行った。
気づけば探偵のグラスには、新しい酒が注がれている。アルバートンもいつの間にか、酒の入った自分のグラスを握っていた。分かってるなと笑って、探偵はグラスを小さく掲げる。店主もそれに倣った。
「夜の死者の安寧に」
「祈られた彼女の幸せに」
――乾杯。