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作家の話

 ――入店して三十八回目の溜息が聞こえて来て、探偵は少し後悔していた。


「せんぱぁい、聞いてるんスかぁ?」

「聞いているよ」


 こう聞かれるのも、通算八十回目となる。いい加減鬱陶しいというのが本音ではあるが、さすがにそれを吐き出せば彼女とて怒るだろう。それは避けねばならない。なにせ、探偵のもつ、数少ない知人の一人であるのだから。


 とはいえ、この"後輩"にも困ったものである。たかだか二年先に生まれただけの探偵に、ことあるごとに頼るのだ。頼られて悪い気はしないが、年に六度はさすがに多いのではないかと、彼はこの年になってようやく思うのだ。


 ちらりと目をやると、どこから取り出したのか、カメラをいじくりだす後輩がいる。年はさほど変わらないが、背は低く、顔はもっと若い。高校生――否、中学生と言ってもまだ通るだろう。そのぐらいの若さだ。


 髪は染めも焼けも見て取れない綺麗な黒であり、しかし肌は健康的な小麦色だ。まさしく陽の子、といった雰囲気であるが、子と言える年齢はとうに越している。というより、とっくの昔に行き遅れの域など踏み越えている。とはいえ、本人がその気になれば、あっさり結婚するような気もした。


「スランプと言われても、私にはどうしようもないのですが……」

「無敵のたんていちからでなんとかしてくださいよぉー」


 そううめきながら机に突っ伏す。さっきから割とがぶがぶ飲んではいるのだが、まだまだほろ酔いと言ったところか。探偵と違って酒に強いのも、彼女の特徴の一つである。


 後輩は作家である。小説が主で、手慰み程度に漫画も描いているらしい。本人談では売れっ子とのことだが、実際のところはどうなのだろう、と彼は思う。恥ずかしいからと、ペンネームも教えてもらった事がないのだ。


 カウンターに転がったペンとメモ帳には、しかし何も書かれていない。空白の紙一枚が、しかし彼女に迫る悪夢そのものを示していた。


 何も書けない。何も作れない。たったそれだけが、作り手(クリエイター)にとっていかに重いのか。正直に言うのであれば、探偵にはわからない。なにせ彼はそうした経験が一切ないのだ。故に生みの苦しみを真に理解することはできない。


 スランプ。どんな作り手にも、ある時ふと襲い掛かる大いなる壁。一度ならず、二度、三度と訪れるそれに、心折れる者も少なくないと聞く。


「しかしね。外から他人がどうこう言って、なんとかなるものではないでしょう? あなたの、熱の問題です」


 む、と彼女は口をへの字に曲げた。それはそうだけど、そう言いたげな顔である。この後輩は非常にわかりやすく、また裏表がない。少し心配になるほどない。彼の思う、"善い人"の一例である。


 どうにかしてやりたい。それは本音だ。がしかし、結局のところ本人の熱に、荒野を歩ききるだけのものがあるかどうかなのだ。なければ、どこまで歩けたとて、道半ばで倒れ伏すだろう。


「仲がよろしいようですが、昔からのお知り合いで?」

「ええ。一応、中学の頃――この子が作家を目指し始めた頃から、先輩後輩の関係ですよ」


 その頃から既に先輩先輩とやかましかった、とはさすがに口に出さない。だが長い付き合いなのは確かだ。もう、かれこれ十年以上の付き合いになるのだから。


「そうそう、運命の出会いっス!」

「自分から押しかけておいて運命も何もないでしょうに」


 彼女との初遭遇は、部室の扉を蹴破って入ってきた彼女に説教することから始まったのだ。まして彼女の方は、当時から変人と名高かった探偵の噂を聞きつけて、その足で飛んできたというのだから運命もなにもあったものではない。


 ただ、変人ならよかったのかと言えば、おそらくそうではなかったのだろう。彼女は人を引き付ける、一種のカリスマ的に魅力があるものの、反面親友と言える程の人間は現れなかったのだ。彼女が眩しすぎたが故に。


 だから明るい仮面をかぶりながら、何処かで真正面で話し合える人間に居て欲しかったのだろう。自らの光に引き寄せられないような、偏屈な奴を求めたのだ。その条件にたまたま、探偵が合致したのだろう――と、探偵自身は考えていた。


「それで、そのままずるずると高校も大学も一緒でしたね」


 当時は酷く驚いたものだ。何せ、彼女はカリスマと才気にみち溢れていても学力はどちらかと言うと低め。成績はお世辞にも良いとは言えず、対する探偵はと言えばかなりのものであった。必然、探偵の志望校のレベルは彼女に推奨された進学先とはかけ離れたものである。


 追いかけるの大変だったっス、とは彼女の弁だ。


 なし崩しと言うべきか、腐れ縁と言うべきか、結局学生生活の七割方において彼女との付き合いはあった。といより、彼女の方から寄ってくるのだから、幾たびも遭遇するのが当然の運びだった。


 ほう、と呟いたアルバートンの目が、細められ、薄い曲線を描く。その様子に気づかず、二人は昔ばなしに花を咲かせた。酒が入れば口下手とて舌が回る。まして相方は話上手の聞き上手、次々に話題が出ては消え、干されるボトルは次々と増えていった。とはいえ、それの大半は、後輩の方が飲んでいたのだが。


 そうして夜も更けてきて、探偵の頭に弱くも睡魔が遅い来た頃、彼女は縮こまって、小さく呟いた。


「でも実際、どう思ってるんスか」


 ことん。探偵は静かにグラスを置いて、言葉を待った。それから出てくる言葉は、茶化してはならない類だと、何となく思ったからだ。それは長年の対話経験からくる、ある種の直感であった。


「腐れ縁って、よく言いますけど……うざかったり、嫌いだったり……しないんスか」


 顔が赤い。手がわずかに震えている。酔っているのだろう、と彼は思った。


 実際にはそんなことはない。彼女はうわばみであり、ウォッカを一瓶飲み干してもほろ酔い程度の女、並の酒ではいくら飲んでも酔うことはない。それとて彼は分かっていたが、しかし、そう思った方が彼にとって楽だった。たとえどんな弱音が出て来たとしても、ただ酔った時の一幕にすぎなくなるからだ。


 考えるそぶりも無く、探偵はグラスのふちを指でなぞりながら、ハッキリと答えた。


「もちろん、私も人間ですからね。どんな相手でも好きな部分があり、嫌いな部分もある。特にあなたは、私とはまったく違うタイプの人間だ。苦手なテンションを持ち込まれる事だってありましたよ」


 彼女が"陽"であるならば、探偵は"陰"だ。暗がりに居て、人の明るさに期待し、しかし失望する。上向きに生きる事はできなくて、だから下を綺麗にしようとする。 そんな人間なのだ。天上の明るさに目の眩まない、むしろ光源の側にいる彼女とは、徹底的に違う。


 だから、常に上に、明るさの中にいた彼女は、ただただ眩しかった。だが、それが嫌いかと言われれば、きっとそうではない。


「それでもあなたは、私のかわいい後輩ですよ。今も昔もね」


 だから彼は、明るいとか、暗いとか、そういう視点で彼女を見なかった。そういう目で見たなら、もう二度と、彼女を水平な目で見ることはできないから。眩しく、そして羨ましく思うだろうからと。


 初めて得た関係がそうであったように、ただ人に頼りがちな後輩と、なんだかんだ応えてしまう先輩。それだけでよかったのだ。


 後輩は、しばらく黙っていた。五分、十分、いや十五分も経っただろうか。長い、あまりにも長い沈黙であった。もしかすると返答を誤ったのだろうか。そう不安を募らせる探偵を横目に、彼女はメモに何かを荒々しく書きつけ終わると、すぐさま席を立つ。


「……熱、出たので、帰るッス」

「え? あ、ああ。お気をつけて……?」


 真っ赤な顔のまま駆け出す彼女。探偵は頬を掻きながらその背を見送った。確か、家は近場だったけれど、と思いながら。彼女の健脚は瞬く間に最高速へと達し、彼女の背は夜の闇へ消えて行った。


「……不憫というか、なんといいますか」

「? なにか?」

「いえ、お分かりにならないのなら、今は結構です」




 ちなみにこれは、まったくの蛇足だが。


 彼女の書く物語は、全て恋愛モノのみである。それを、大恩ある先輩に見せないともなれば、モデルは――言わずもがなであった。

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