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夢捨て人の話

 ――この重い空気をどうしたらいいだろうか。探偵は答えのない問いを模索しながら、酒をちびちびと飲んでいた。


 というのも、隣に座った女の唸り声である。それも、ただの唸りではない。涙を抑えるような、湿ったそれである。探偵は不器用な男だ。女性の扱いなど知る訳もなく、まして慰め方など期待するべきではない。


 というより、何故隣なのか。BAR白昼夢は、いつも経営が心配になるほど閑古鳥が鳴いている。今日もそれは変わらず、事実店内に見える影は彼を除いて、バーテンダーとその女の二人である。他に開いている席はいくらでもあるというのに。


 酒がまだ半分ほど残ったグラスを掴んで離さない女は、スーツ姿のキャリアウーマンといった所か。短くまとめられた髪や、四角い眼鏡やらと、どことなく()()()雰囲気のある風貌ではある者の、その雰囲気はあえなく酒の匂いに沈んでいる。


 それが、大きな唸り声――いや、これはすすり泣きか――を上げながら、となりで倒れているとなれば、空気が重いどころではない。それを聞かされる探偵の方まで泥のように沈んでしまいそうになる。


 こういう時、首を突っ込みがちなバーテンダーは、しかし今カウンターの裏側だ。女が高い酒ばかりを注文しては飲み干して行くので、酒も取って来ないとならない。高い酒は、必然、奥にある訳だ。当然の帰結と言えばそうだった。


 ハァと溜息一つ吐いて、探偵は重い口を開いた。億劫だが、このまま隣で泣かれているよりは、面倒を押しのけて喋った方が数段良いと思ったのである。


「そろそろ控えた方がいいのでは? もうずいぶん飲んでますよ」


 そう言いながら、チラリと覗き見たカウンターの奥には、飲みに飲んだり、(ワイン)のボトルがズラリと十本。探偵ではこの半分も呑む前にぶっ倒れる事だろう。とんでもない()()()()である。逆にいえば、それほど飲まねば酔えないということは、不幸でもあったのだろうが。


「良いじゃない……いくら飲んだって」

「お会計も大変ですよ。……ほら、水です、どうぞ」


 わずかな物音とともに、水の注がれたコップがカウンターを滑って来たので、探偵はそれを、そのまま女に渡した。もちろん、超能力の類ではなく、バーテンダーの茶目っ気だ。見ればカウンターの端から、顔だけのぞかせるアルバートンが居た。


 女はそのグラスを、胡乱気に受け取って、一口に飲み干した。なんとも豪快すぎる飲み口であるが、まさか目の前に転がっているボトルも、こんなふうに飲み干したのだろうか? 探偵がそう思えば、いかにも古そうなラベルのワインが、どことなく悲し気に光を反射しているようにも見えた。


「……あなた、今の仕事は好き?」

「仕事ですか? ええ、まあ。もとより憧れでしたし、もはや引くに引けませんしね」


 現状、この仕事に誇りがあるかと聞かれればまた別の問題なのだが、それは今言うべきことではないと口を閉ざした。


 その様子に、彼女は何を思ったのか。小さく息を吐いて、天井を見上げる。彼もつられて視線を上げた。見えるのはただ、古風な豆電球が、つつみを通して薄橙色の光を店内にもたらしている様子だけだ。


「私は嫌いよ」


 ぽつりと零した言葉は、多分、誰にも言わなかった本音なのだろう。顔を見ようかとも思ったが、結局やめた。たよりない背もたれに体重を預けて、ただ退屈な天井を眺めていた。そう望まれている気がしたのだ。女は話を続けた。


「昔からね、貧乏だったのよ。お金が欲しかったの。沢山の……そうしたら、きっと幸せになれると思って」


 ――でも、違った。


 より高く、より効率よく、収入を求めた。今後の成長が見込めない大企業ではなく、これからの発展著しい業種へ自分を売り込み勝ち取った。ほとんど最高位に近い地位も得た。望んだお金も山ほど手に入れた。だが、捨てた物の方が、その何倍も重かった。


 学業の為に愛を捨てた。結果を出すには、無駄にしていい時間など無かった。


 就職の為に友を捨てた。結局争い合うなら、態々つるむ必要もない。


 仕事の為に情を捨てた。リソースは限られていて、欲する限り、勝ち取り続けるしかなかった。たとえどれだけ汚い手を使っても。


 そうして立った。望んだ富の前へ。


 けれど気づけば、隣には誰もいない。あたりまえだ。切り捨てたのは彼女の方なのだ。家族は居ない。育った彼女の顔の一つも見られないまま、病で死んでいた。誰も彼女の方を向こうとはしない。情が返って来なければ、壁に話しかけるようなものでしかないからだ。


 望み、欲し、何もかも切り捨てて辿り着いた金の山の上で、しかし彼女は孤独だったのである。


 たった一人で立つ、その現実の姿を前に、全てが消え去ってしまったかのような空虚感に耐えきれず、彼女は崩れ落ちた。


 得られるはずだった幸せは無く、大量に得た富は行き場を失い、そうしてここに、白昼夢に流れ着いたのだ。


「夢があったわ。私ね、花屋がしたかったのよ。……でも、もう無理ね」


 抱えたものも、捨てたものも、多すぎるから。


 氷ばかりが残ったグラスを、からからと揺らしながら、女は言った。今にも泣きそうな顔で、どうすればいいか、探偵にもわからなかった。


 元々口下手で世渡りが下手な男だ。うまい言葉など、そうそうひねり出せはしない。


 けれどその代わり、思った言葉は、そのまま言葉として口から転がり出た。正解も不正解も、一切考えない、ただ一つの本音だった


「私は、憧れの職業につきました。夢に生きています。でも……でも、うまくは行きませんでしたよ。苦しいことばかりです」

「……そう」

「道は引き返せません。いくら願っても、十代に戻るなんてとても」


 だが、それでも。それは、人への望みを失いかけの彼だからこその願望であった。


「でも、捨てた物は、拾おうと思えばまた拾えます。抱えた物は、誰かに預けられるでしょう。生きている限り、ね」


 いつか、自分にかけられた言葉を思い出す。望む限り、いつかは叶う。――あるいはそれが、失われた未来であっても、望むだけなら自由なのだ。どうするかは、当人にだけ託された話である。


 夢を再び見つめるのも良い。だが、望みを捨て惰性で生きるのもまた、立派な選択肢だ。彼女がどちらを選ぼうと、探偵はそれを祝福するだろう。


 そのうち、アルバートンが帰ってきた。その腕にはまた、随分高そうなワインのボトルが一本、抱えられていた。


 女はしばらく黙っていたが、アルバートンの注いだワインに手を伸ばし、今度はゆっくりと、味わって飲み始めた。


 探偵もそれを横目に、またちびちびと飲み始めた。


 ただ、誰かに吐き出したかったのだろう。自らのうち内ある空白を。それが発する痛みを。誰かにわかってほしかったのだ。


 たとえ納得できる答えが得られなくても、痛みが少しも和らがなくても、それで良かったのだろう。


「まだ、間に合うのかしら」

「生きているなら、遅いということはないでしょう」


 言っている間に酒を飲み終わってしまった。探偵は静かに立ち上がって、グラスをアルバートンに手渡すと、お酒はもうほとほどにと、女に向かって言う。


「店、開いたら寄りますよ。花が似合うような人間じゃあありませんが」

「……ふふ、そうね。ちっとも華やかさなんてないものね」


 全くだと笑って、彼はさっさと店を出た。落ちた花びらに、ふと見上げてみれば、夜の桜が月光を浴びて(あで)やかに光っていた。


 ――良い夜だ。歩きながら、ただ、そう思った。




 それからしばらく、その女に白昼夢で出会うことはなかった。ただその代わりに、新しい花屋が一軒、近くに建っていた。

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