武士の話
――珍妙だ珍妙だとは思っていたが、まさかこれ程とは。
そう思いながら、酒もそこそこに、探偵は茶を飲んでいた。今日は久方ぶりの友人に愚痴を山ほど聞かされて半ばグロッキーであり、酒など飲んだが最後、睡魔との格闘に敗れる気しかしなかったのである。
さて、何が珍妙かと言えば、白昼夢へと訪れた客のことだ。無論、探偵含め、珍客しか訪れないというのはこの店の常ではあるが、今日の客はそれより頭一つか二つ抜けて珍しい姿をしていた。
それは、紋付き袴らしき和装に身を包んだ、一人の男である。ここまではまだいいが、何よりも特徴的なのはその頭である。
――なにせその頭には、見事に整えられた髷が乗っていたのだ。これが、いかにも侍といった風貌のいかつい顔つきの男がしているのだからよく似合う。
あまりにも時代錯誤な恰好だ。一体全体、何時の時代から来たのだろうか。いくら考えても、答えらしい答えを見つけることはできそうにない。
しかし、ぶしつけに睨みつけてくる侍の視線を、しかしアルバートンは意に介さず、あろうことか酒まで提供しだした。正直、いつ腰の刀が抜き放たれるのかと気が気ではなかったが、武士もいきなり斬った張ったをやろうとすることもなく、出された酒を口に含み、飲んだ。
すると、その仏頂面が一瞬緩む。横顔を見る探偵の眼には、その侍がほんのわずか、しかし確かに笑ったのが見えた。酒が好きなのだろうか。その気のせいとさえ思えるような微々たる笑みも、すぐにまた、仏頂面の底へと消えていった。
それから二言三言話すと、アルバートンはカウンターの後ろから出ていって、奥から戻ってきたかと思えば、今度は焼酎を抱えていた。
けっこう、上等そうな酒である。包装になんと書いてあるのか読めなかったが、少なくともただの酒ではあるまい。相当いい品なのだろう。
思えば、酒の種類も謎と言えば謎だ。普通、こう言うバーに、焼酎がおいてあるものだろうか? 彼自身、バーによった経験というものが少ないために判断はつかなかったが、それでも雰囲気の合う合わないぐらいは分かるつもりだ。
注がれた焼酎を――よく見れば、グラスもお猪口に変わっていた――飲んだ侍は、一瞬目を見開き、笑みをこらえるように口元を指で覆った。先程の笑顔を見ていなければ、酒嫌いと受け取れそうな仕草だが、目からは喜びが絶えず溢れているように見えた。
そうしてしばし俯いていた侍は、ひとしきり楽しんだのか顔を上げ、アルバートンの方を見た。耳を傾ければ、すぐに声は拾えた。
「いざ、酒の勢いで死のうと思っても、難しいものだな」
いきなりの重い話題に、探偵は茶を吹き出しそうになった。かろうじて抑えたが、驚きは隠せなかった。
「まして、こんな旨い酒を飲んだのは久しぶりだ。惜しくなるな、現し世が……」
「そんなに惜しいなら、残るわけには行かないので?」
「行かん、行かん。古くからの友も皆行く。拙者ばかりが生き恥をさらせば、死なずともご先祖に殴り殺されてしまうわ」
そう言って笑う侍の顔には、死ぬ事へと恐怖はないように見受けられた。しかし、どことなく納得の言っていないようにも見える。
この侍は、どこかへ戦に行こうとしているのだ。それも負け戦だ。死ぬことは目に見えていて、だからこそ、生き死にを口に出したのだろう。
「しかし、なぁ。死こそ武士道たるは真だろうかと、今になって思うのだ」
「それはまた、なぜ?」
アルバートンが自然に続きを促せば、侍はううむと唸った。寡黙な侍の舌を回させるために、アルバートンも普段より口数が多い。
「拙者はな。民を守る為、足軽から武勲を上げ武家となった。たが、死ねば民は守れん。死して残す誉は、民草を守る侍にはとはなれんのよ」
――そう考えたとき。死して残す名誉より、あるいは幽世で祖先から受ける称賛より、もっとずっと、守るべきものがあるのではないか。
この侍にとって、もはや死ぬことは決定事項なのだ。言葉の端々からそれは感じられた。
けれど踏ん切りがつかないでいる。侍として死ぬと決めたというのに。あるいは、決めたからこそ。迷っているのだ。残される者達の為に、生きて守り続けるべきではなかったのかと。
「まっこと、うまく行かぬものよ。逝くと決めたあとも、あれこれ思うてしまう。……悔いては逝かぬと、心に決めていたのだがなぁ」
酒を煽った侍の手元へ、アルバートンが何も言わずに酒を注ぐ。侍もまた、それをしみじみと見てから、無言でそれを飲んだ。
しばし、痛い沈黙が流れた。この後に及んで茶だけ飲んでいる自分が場違いでならないような気がして、探偵は居た堪れない気持ちで目を閉じた。
すると、バーテンダーの声が聞こえてきた。どこか同調を示すような。あるいは、独り言のような。そんな呟きだ。
「死ぬだけなら、誰にでも出来ます。武士道における死とは、名誉を、或いは他の何かを残すための死と存じます」
侍からの返答や相槌は返ってこない。アルバートンは続けた。
「たとえ無為に帰すとしても、あなたが何かをなすために死んだなら。あなたの背を見て生きてきた民も、何かを為すために生きるでしょう」
「あとに残す……生き様か」
カコン。カウンターテーブルから、微細な振動が響く。侍が酒を置いたのだろう。
この酒好きの侍が、どんな顔をしているのか、目を閉じた探偵にはわからない。けれど、その声は静かで、どこか思うところがあるようだった。
「なら、祝い酒だな」
ポツリと溢した声に、探偵はとうとう目を開けた。すると丁度、侍がのそりと席を立ち、探偵の方へと歩いて来るところだった。
がっしりとした肩幅に、相応に高めの体格が相まって、まるで壁が迫ってきたような錯覚に陥った探偵だったが、突き出された一升瓶に、咄嗟にグラスを差し出した。
とく、とく、とく……心地よい音とともに注がれていく、澄んだ酒に、おっと声を上げた。その見た目と、微かに流れてくる香りだけで、それが旨い酒だと分かったからだ。
「南蛮の服をまとった御仁、一緒に祝ってくれんか?」
「……ええ、私で良ければ、喜んで」
おめでとう、と呟くように言って、探偵は酒を口に含んだ。辛い。だが、どこか爽やかな口当たりで、喉をするんと通り抜けて行った。
そうしてすぐに、体がカッと熱くなる感覚に見舞われた。かなり強い酒だったのだと、そうなってから気づいた。侍が平気な顔で三杯四杯と手を付ける様子で油断したらしかった。
「ぐぅ、お、これ、は……っ!」
「ハッハッハ、おっと、すまんな、少し強かったか? ハッハッハッハ!」
ハッハッハッハ、アーッハッハッハッハ!
高く響く侍の笑い声が、次第に遠ざかって、それにつれて探偵の意識も、ゆったりと薄れていった。
気がつくと、侍の姿はもう無かった。静かにグラスやお猪口を磨くアルバートンと、探偵が、異様なほど静かに感じる店内にいるばかりだ。
ようやく冷え始めた身体を、机に倒れさせながら、探偵はぼんやり思った。
あの侍は、どうなったのだろう。どこで生き、どこで死んだ侍なのだろう。名前の一つもけ聞けなかった以上、詮索など無意味だ。けれど、考えずにはいられない。
「一期一会、か……」
ポツリとこぼれた呟きが、ただ虚しく広がり、何処へも届かず消えた。
しかし、一つだけ、探偵は心に決めた。例えば、今日であった侍が誰であったとしても。明日、宇宙人と出会うような羽目になったとしても。もはや驚くまいと。
所詮一夜の夢のようなもので、難癖つけるのも馬鹿馬鹿しい。溜息をはきながら、探偵はカウンターに顔を突っ伏した。すると、まるで思い出したかのように、頭がガンガン痛み始めた。