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探偵の話

 からから――ことん。


 机にひびく硬質な音に、ハッとして顔を上げる。


「難しい顔をしておいでですね」


 見れば、彼の傍では酒が揺れていた。色濃くも半透明な酒だ。果実のような甘い匂いが、アルコールの独特な香りと一緒になって流れてくる。頼んでいないはずだとカウンターの向こう側を見つめると、うすくぼやけた視界の中に、次第に店主の姿が見えてきた。


 店主は白、といよりは銀にちかい、艶のある髪をオールバックにまとめた老人だ。皺は多く、しかし腰はしゃんとして、肩幅はほどほどだが背は高い。百八十ほどもあるだろうか。その為か、酷く大柄に見えた。


「何か考えごとでも?」

「……ええ。仕事柄、あれこれ考える事が多くてね」


 鼻背を軽く押さえて、あいまいに言葉を返す。いまいち状況が呑み込めず、置かれた酒に手を伸ばす気にはなれなかった。


 何故自分は此処に居るのだろうか。背もたれをたよりに、ぐいと背を伸ばす。硬くなった関節が、伸びるにつれてボキボキと不安な音を立てた。


 たしか面倒な仕事を終えた帰り道にいたはずだ、彼は薄く髭の生えた顎をさすり、一人ごとをぶつくさ言いながら考えた。10キロ近い街を方々車で走り回り、歩き回り、結局猫は依頼人の隣家の軒下にいたのだ。まったくくたびれる話であるが、それはともかくとして。


 彼は自分自身のことを几帳面だと認識している。あれこれスケジュールを立ててから動くし、その通りに動けば大体の事は無事終わる。無論、完璧主義と言えるほどのものではなく、その間によそ事をしないかと言えば別の話だが、こと今日に限って、酒を飲みに寄り道するほどの体力的余裕はない。


 なのに、彼はバーにいる。


 酒も、正直にいってあまり得意な方ではない。下戸と言うほどではなくとも、好き好んで水のように飲み干せるほどの()()()()でもないのだ。結局最後には、奇妙だ、と呟いた。


「世の中は奇々怪々なものでございますから」

「……一理ありますね」


 適当な返事をしながら、あたりを見回す。窓から見える外は既に暗く、わずかに街灯の明かりが見えた。


 多くが木材で出来た、質素ながら上質な、店主の趣味の良さが伺える建物である。店内はがらんとしていて、それなりの広さがある事がかえって寂寥感を駆り立てる。しずかにかかるレトロな曲は、なにとはなしに郷愁の念を抱かせる。だが少なくとも、見える範囲には店主と彼以外の人間を確認することはできない。


 やはり奇妙だ。今度は口に出さなかった。


 だが、その奇妙さの正体をうまく舌で捉えられない。しばし空を見つめて考え込んだが、結局諦めて、出された酒にわずかばかり口を付けた。


 爽やかな果実系の味と、酒精の苦みが喉を通っていく。舌を滑って行った感覚は、なるほど良いだろうと彼は思った。無論、酒が別段好きでない彼に、酒の良し悪しなど、分かるはずも無いが、それでも美味いと思える酒であった。


 カウンターを見渡すと、店主は相変わらず、飽きもせずコップを磨いていた。よくよく見てみれば、服装が随分古風だ。白いシャツに黒いベスト、よく言えば古き良き、悪く言うのであれば前時代的と言うべき恰好で、いわゆる時代錯誤と言う奴である。


 とはいえ、茶色のトレンチコートに山高帽、いかにも古式ゆかしき探偵然とした彼が言うべき事ではないだろうが。


 そんな老人に、ふと思い立って、彼――"探偵"は声をかけた。


「あなたは……この仕事を、何時から?」

「はて、何時からでしたかな。それなりに生きて来まして、ここを出る機会も減りましたから……さてはて、五十年は、と思いますがね」


 そうですかという呟きを最後に、また沈黙が訪れた。店主はグラスを洗い、探偵はちびちび酒を飲む。そうして十分ほどが無為に過ぎた後で、ようやく彼が口を開いた。


「私は十三年ほどです。……探偵を、やってましてね」


 きゅっ。きゅっ。グラスを拭く音はやまない。だが老人は、続きを促すでもなく、話を無視するでもなく、静かに耳を傾けているように見えた。探偵は続けた。


「いろんな依頼がありました。ペット探し、浮気調査……あるいは、素行調査だとかね」


 そうして、人の闇ばかり見つめてきたのだと。




 始まりがなんだったのかは定かではない。彼自身、ぼんやりとしてあまり覚えてはいない。しかし、憧れがあったのは確かだった。


 たとえば、謎を解き明かす物語に。そんな題材の主人公のようになれたらと。そんな、至極ありきたりな、どうでもいいような憧憬が、彼に探偵という仕事を選ばせたのだ。


 しかし、結果はといえば、あまり芳しいものではない。ましてミステリー小説のように華々しい活躍など、そこらへんにほいほい転がっているはずもない。万が一転がっていたとして、それが彼の方へ向かってくる可能性など無いに等しいのだから。


 結局、彼の元に集まるのは、警察には任せられず、かといって自分の手を汚したくはない、そんな面倒なばかりの仕事だ。


 そうして面倒な仕事というからには、面倒な人間もつきものだ。何かと理由を着けて金を払おうとしない依頼人。浮気調査で暴かれる醜い人の性。あるいは、素行調査という依頼そのもの――人を信じられない人々。


 そういうものと、十年、向き合ってきたのだ。


 時にどうしようもなく苦しくて、いやになることもある。なにせ、自分の仕事で何かを好転させることはできないのだ。


 猫を探したとて、またすぐにいなくなる。浮気を調べれば、現状がどうあれ家庭関係は壊れるし、素行調査がつつがなく終わっても、疑いが消えることなどあり得ない。


 誰かの役に立っている、そんな実感を得られず。いっそ、自分が真実を暴かなければ、救われた人間もいたのではないか――最近、そんな考えばかりが頭をよぎっていくのである。


「もう嫌なんですよ、人に失望するのは……なんて、初対面の人に言うセリフではなありませんがね」

「いえ。お気になさらず」


 ことん。グラスを置く音。拭き終わったのだろうかと、うつむいた顔を上げると、探偵の丁度正面に、店主が立っていた。


「しかし、"失望"という言葉は妙ですな。失うということは、まるで、"人"に期待しているようだ」


 そういわれて、確かに、と彼は目を閉じた。


 期待。彼を失望へと招くのは、つまるところそれである。期待するから、希望するから。より良い物であってほしいと願うからこそ、その正反対の姿をさらす者に失望するのだ。初めから期待などなければ、"失う望み"などありはしないのだから。


 人に良くあってほしい。そう願って、真正面から見据えて。善に誠実であるために、自分自身もまた、良くあろうと足掻く。けれど藻掻いた手が掴むのは闇ばかりで、ただただ、苦しかった。


「高望み、なんですかねぇ……」


 ぽつりと、そう零した。涙は出てこなかった。ただ、喉元にひっかかりがあるばかりだ。


 人に期待するのも。良くあろうと足掻くことさえも、過ぎた願いなのだろうか。もしそうだとしたら、それは酷く、悲しい事じゃあないか。そう思って、そう思いたくなくて、グラスの中、わずかに残った酒をぐいと呷った。喉がかっと熱く感じて、風味などほとんど感じられなかった。


 グラスをやや乱暴にカウンターに置くと、もう帰ろうと思った。たとえ全てが高望みでも、明日は来るし、今の生活を捨てられるほどの、より良い明日への希望は抱けない。結局、どれだけ嫌でも、だらだらと生きるしかないのだ。


「どうでしょうな。生きるということは、何かを望むということでしょう。そして望み続ける限り、いつかは叶うものです」


 探偵が席を立つと、店主は小さく頭を下げた。そこで彼は、ようやく店主の首に、銀のネックレスが掛けられているのに気が付いた。質素だが、輝きのくすんでいない、見事な品だ。その作りの繊細さとは裏腹に、粗く刻み込まれた文字は、"アルバートン"だろうか。


「そんなもの、ですかね」

「私はそう願っていますよ。何もかもが叶わないと思うよりは、随分楽でしょう?」


 アルバートンが言う。確かになと探偵は小さく笑って、店を出た。酒でわずかに熱い体が、風で一気に冷やされる。


 振り返れば、そこには依然として、シックな店構えのバーが建っている。掛けられた表札には、"BAR白昼夢"とあった。


 家代わりの事務所へと歩き出すと、心が静かなのを不思議に思った。酒が得意ではないのに、もう来ないだろうとは思えなかった。


 そうして、がらんとしていたBAR白昼夢に、しかし、一人の常連ができたのであった。

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