もう獣将姫さまの戦利品~身代金さえ惜しいんだろ? たとえ奴隷でも高く『買って』くれる相手を選ぶ権利はある。知る人ぞ知る王家の奴隷、知らぬは当の王家のやつばかり。
「王室の所有奴隷イスハル解放のための身代金の支払いを、王国の次期王位継承者、ヴァカデスの名において拒否する!」
イスハルは王子の言葉に思わず目を剥いた。
お互いの国境付近に設置された天幕での重要な会議。敵国である獣氏族連合と王国との和平交渉。
その途中で行われた王子の、自分を切り捨てる発言にめまいがする。
「それは……どういう事ですか。殿下」
黒目黒髪に不機嫌そうな印象を与えている唇は、主君の恥ずべき裏切りに怒りと失望で震えだす。
「ふん、お前などしょせん替えのきく奴隷風情だ。わざわざ金を出してまで買い戻す必要がどこにある」
イスハルは助けを求めるように王子の後ろに控えていた騎士たちに視線を向ける。
王子直属の騎士達は冷酷な嘲笑を浮かべ……反対に心ある武人たちは皆一様に苦々しい顔をし、王子に見えない位置で詫びるように頭を下げた。
その罪悪感は本物で、恐らく周囲に人目がなければ土下座ぐらいはしていただろう。
「俺は……お味方の撤退支援のため、最後まで陣地に残り……指示を出し続けておりました。この固有魔術『糸』の派生である『糸伝令』で」
その指先から虹色の光が灯る。魔力で編まれた光は糸となって……騎士達数名と繋がっていた。
彼らは全員が全員指揮権を持った高位の騎士たち。繋がった騎士を起点に強化魔術を遠隔で発動、軍団単位で強化。彼らと密に連絡を取り合い、位置情報を共有しあうことで全軍撤退を成し遂げることができた。
「武勲に置いては第一と自負して……!」
「黙れぃ! 奴隷であったならさっさと自害でもして主人の負担を減らせばよいものを!」
奴隷も法で彼らの人権も一定は認められている。
主人は彼らに一定の俸給を支払わねばならないし、死に等しい命令を与えることは禁じられていた。もちろん法の目を潜って虐待を繰り返す悪質な主人は絶えないが、例え建前でも主人は奴隷を守らなければならない。
ましてや、イスハルのように『主人の命を守った』『財産を守るために多大な働きをした』と、誰の眼から見ても賞賛に値する功績を立てた場合は、主人は感謝の意を示すために解放奴隷にする……これが当たり前のことだった。
だがしょせん奴隷は奴隷。相手が道理を無視する恥知らずであれば意味はない。
ヴァカデスは薄ら笑いを浮かべる。
「第一、お前は奴隷でありながら指揮を執っていたではないか。これは明確な軍規違反、処刑されても可笑しくはない大罪であるぞ」
イスハルは主人である王子のあまりにも理不尽な物言いに目の前が真っ暗になった。
常識に乗っ取れば、ヴァカデス王子はイスハルの身柄を解放してもらい、さらに解放奴隷として身分を保証し、大功の報酬として祝い金を持たさねばならない。
もちろん負け戦だからイスハル以外にも身代金を支払う必要がある。
その金額が想像よりはるかに大きいために切り詰められるところは切り詰めたいのだろう――例えば、王室所有の奴隷を捨てればいい節約になる。
ふざけんな。
恩を仇で返す王子にだんだんと腹が立ってくる。
捕虜交換の際には上位で身柄を確保してもらえる。
王子の後ろで苦渋を浮かべる騎士達は『糸伝令』越しにそれを確約した。捕虜交換リストの優先対象になると考えたからこそ最後まで残り、撤退支援をし続けたのだ。
主人である王室のものに対しては丁寧な対応が骨身に染み込んでいたが……相手のあまりにも理不尽なものいいに、自然と守るべき礼儀作法は剥がれ落ちる。
「……そもそも王国軍が撤退したのは……彼ら獣氏族が王子のいる陣幕に奇襲を仕掛けて!
それにおびえたヴァカデス王子が近習のものを引き連れて近くの城に逃げ出し、中軍は混乱、後詰を失って前衛がむちゃくちゃになったからじゃないか!!」
「き、きさま……なんと無礼な?!」
自分に絶対服従である奴隷――その証明のように首には重厚な首輪ががっちりと嵌っている。
その存在が、ヴァカデス王子に対して絶対に不利な事はしないという思い込みを産んだのだろうか。だが奴隷でも自衛は認められている。主人が理不尽な理由で奴隷を虐待しようとするなら抵抗することも、自分の無実を証明するため証言することもだ。
……静かに嗤う声がする。もちろんイスハルに対してではない。
敵対する獣氏族からだ。彼らからすれば失笑ものの内輪もめだろう。
「なにが……何がおかしい!!」
今にも剣を抜いて切りかからんばかりのヴァカデス王子を周りの騎士達が慌てて押しとどめる。和平交渉の場で剣を抜いて流血騒ぎになれば確実に再度の戦争となるが、この王子にはそんな分別さえないのだろう。
相手側の士官は、王子に対して軽侮の視線を向けた。
捕虜の面倒を見る役人がイスハルの肩を掴んで立たせる。王国ではなく……獣氏族の捕虜用天幕に逆戻り――暗然とした気持ちでイスハルは立ち上がり、そのままつれられていく――その時だった。
「あら。ならば王国側は彼の所有権を自ら放棄。
以降は彼の身柄をどのように扱ってもよいと――そう仰せなら、わたくし、今回の武勲に対する報酬は彼を要求いたしますわね」
これまで……天幕の端にひっそりと潜んでいたのだろう。
声の主は、どうして存在に気付かなかったのかといぶかしむほどの美しい人であった。
金の頭髪に猫科の獣の耳。金色に黒の混じったカラフルな髪の色合いの服装から虎の獣人であろうか。長身と均整の取れた肉体は文字通り獅子のよう。お尻の辺りから伸びるしっぽを見るとねこさんを思い出す。
目つきは鋭いが、何かとてもよいことがあったように微笑みに緩んでいて美しい。
その美しさといい、全身より漲る自信といい、獅子の女王めいた威厳があった。
イスハルと目が合う。しっぽがまっすぐ上に立った。嗅覚に優れた虎の獣人はにおいで感情を伝えあい、しっぽの動きでコミュニケーションをとる。
まっすぐ上を向くしっぽは『仲よくしようよ』『すき』のしぐさ。
「獣将姫レオノーラ、そうは申されるが」
「上のご長老方もわたくしの報酬に悩んでいるのではなくて? 獣人特有の身体能力で真正面から力押しすることを『王者の戦い方』と信じる方々が、敵陣の強襲という『弱者の戦い方』で勝ち。その立役者であるわたくしにどう報いればよいのか。
……それを、彼一人で済まそうというのです。あなたが仕える族長もそれを喜ぶのではなくて?」
レオノーラ。
そう呼ばれた虎の獣人の娘の言葉は、獣氏族の文官にとっても頭の痛い問題だったのだろう。
熟考するように考え込む人が大勢だが、その目にはあからさまな安堵と喜色が浮かんでいた。
「おお! なんと美しい娘だ、このヴァカデスの寵愛を得る事を許そう!」
だがまるで空気の読めない言葉を発するヴァカデス王子に――レオノーラ、彼女はあからさまな軽侮の眼差しを向け、うっすらと嗤った。
その笑い方を、受け入れられたと勘違いしたヴァカデスに彼女は言う。
「あなた、わたくしを妾か妻だかにしたいと仰せかしら」
「左様だ! このヴァカデスに奉仕する栄誉を与えるぞ。さ」
と言って手を伸ばし、胸元に抱き寄せようとしたのだろう。彼女はそれを避けた。
「あなたのにおいは覚えています」
「む?」
意味が分からない、という風なヴァカデスに言葉を続ける。
「わたくしが王国の本陣に奇襲をしかけて、指揮官がいると判断して踏み込んだ天幕の中にべっとりと染み付いた、臆病塗れの失禁のにおい。あなたから今も小便のにおいが臭くてたまらないので失せてくださいません?」
「な……き、貴様!!」
「それにあなた、自分に従う騎士をどれだけ侮辱しているかご存じないの?
わたくしは先の戦で大勢貴国の兵を屠った敵将。騎士たちからすれば、自分の同僚を殺した相手を主君の妻として仰ぐことになりかねませんわよ。どれだけ神経を逆撫ですれば済むのかしら」
彼女の言葉は真実だった。ヴァカデスが思わず振り向けば、そこにはどうにか怒りを飲み込もうと努力して、失敗した鬼の如き凶相の騎士が無言で佇んでいる。
ヴァカデス王子はとうとう臆面もなく、悲鳴をあげて逃げ出し。
一幕を呆然とした面持ちで見つめていたイスハルに、彼女はにっこりと微笑んで言った。
「これであなたはわたくしのものですのよ、イスハル」
レオノーラに連れて行かれるイスハルの背を見送りながら、交渉にきていた獣王国の文官は口を開いた。
「ひどいな、王国は」
「ええ。……あの奴隷の子供ですが、王国のからくり師サンドールの弟子でしょう? もったいなくないんですかね」
……副官の言葉に外交大臣は笑った。
「恐らく『糸伝令』の能力しか持たない弟子なんだろ。
あの国の王子が如何に馬鹿で阿呆の間抜けだろうと……王国の屋台骨である自動人形の技師を手放すほど愚かではないはずだ」
イスハルはレオノーラの天幕に移され、身を洗い清めることを許された。
清潔に出来ることはありがたい。捕虜の身分では体を拭うことさえ許されず、全身が埃っぽい。
『細かな話は明日にしましょう』と言われ、久々に柔らかな寝台でゆっくり眠ることが許された。
「どうなるんだろう……」
イスハルは如何に高度な知識や学問を身に着けようと、自分で人生の舵を取ることができない奴隷の身分だ。
幼い頃に困窮した孤児院から奴隷として売りに出され、師であり、父代わりであるからくり師サンドールに転売用の奴隷として購入されたのだ。
……転売用の奴隷、そう言われると聞こえは非常に悪いが、奴隷本人にとっても悪い話ばかりではない。
師によって一級の知識を伝授され、学者や技術者として大成した後、奴隷として売却される。
奴隷を購入した相手にとっては、最高級品を購入したわけだから長持ちしてもらわないと困るわけだし。当然命を使い潰すような過酷な労役を強いられるわけでもない。
……だが、解放奴隷を目指すものにとっては正直微妙な制度という気もする。
奴隷は主人が購入の際に支払った金額で自分自身の身柄を買い戻せる。
つまり卓越した技術や知識を磨けば磨くほど奴隷として高値で売れ、結果、自由を得るための対価が高額となる。
イスハルの知っている高級奴隷の中には、自由を得る事を諦め、主人から与えられる金で楽しく遊び暮らしているものもいた。
そういう生き方が悪いとは言わない。
だが……イスハルにはどうしてもそれが良いとは思えなかった。
幼い頃、イスハルと親しかった女奴隷がいた。
師の『からくり師』サンドールは優しいが厳格で、代わりに彼女は母代わり姉代わりにイスハルに優しくしてくれた。
だがある日、王宮に賊が忍び込む。
王国は重税を強いており、苛政を恨む反乱分子が王宮へと侵入し……それを見咎めた女奴隷を捕らえたのだ。首に刃を突きつけられ『喋るな』と脅されて一体何ができようか。
結果、反乱分子は城内に侵入し、貴族数名を死傷させた後、殺害された。
女奴隷は無事だった。
ただし、その次の日に処刑された。
命を捨てて警告を発し、殺害されることこそ奴隷の正しいあり方である――それが、処刑の理由だ。
だが、それはあくまでお題目。反乱分子によって死傷した貴族の親戚が八つ当たりじみた怒りで、その女奴隷に死を命じ、王国もまた奴隷一人を処刑して貴族の不満をやわらげられるなら、特に惜しくもなかったのだ。
もし、彼女が権利を保障された『人』であったなら、処刑されることなどなかったはず。
イスハルは奴隷は嫌だった。
……王国の兵は弱兵だ――それは間違いない。
にも関わらず、強国としての地位を確立しているのは……王国の貴族さえ頭を下げる知識奴隷『からくり師』サンドールの力に寄るところが大きい。
自動人形。
魔力繊維と呼ばれる強靭な筋繊維によって強大な力を発揮する労働力にして軍事力。
魔術師の命令に従い自動で動き、様々な業務に従事する機械たち。
正面からの戦いでは、自動人形を擁する王国と戦うのは厳しい。
獣人はなまじ普通の人間よりも優れた身体能力を有していたからこそ、正面からの力押しで勝てていた。正面突撃は彼らにとっての伝統であり……だからこそ、これまでずっと自動人形に敗れ続けていた。
それでも『仲間の屍を踏み越え、敵陣に到達できれば我らの勝ち』という考えの族長は多く……しかしこのままではまずい、と現実を見据えたものも確かにいたのだった。
「それで、わたくしに白羽の矢がたった訳です。……以前王国に留学していた、このレオノーラに。
……まさか、イスハル。あなた、わたくしの事を忘れてた……などとは仰いませんよね?」
「……え? あー……その」
ぎゅー、とほっぺを抓られるが、麗しい女主人の不機嫌そうで拗ねた表情は妙に可愛らしかった。
覚えは、ある。
イスハルは王国に仕える高級奴隷で、普通の民衆よりも遙かに高度な知識を有している。
「……今思い出しました。申し訳ありません、レオノーラさま」
「敬語はけっこうですわよ、イスハル先生」
「ええと、はい。うん……ありがとう、レオノーラ」
イスハルは当時12歳。レオノーラは当時は15歳。自分より年下に教わると聞いて怒り出すかと思ったが、彼女は獣人にありがちな知識に対する軽視とはまるで無縁で、自分達獣人が知識に置いては劣っていると謙虚に受け止めることができた。
「わたくしは王国にいた時……だいぶ参っていたのです。
新しい知識や学問を学ぼうにも、皆わたくしを獣人と見下げるにおいを発し。なのに、顔ではにこやかに友好的に振舞う。においと振る舞いに差がありすぎてずっとノイローゼでしたのよ。
あなただけでしたわ、素直なにおいがしたのは……」
昔のように首筋に顔を埋めて抱きついて来る。においで相手の感情を読む獣人として有り触れたスキンシップと知ってはいても恥ずかしいものは恥ずかしい。
レオノーラは少し顔を赤らめながらも身を離すと、書類を差し出した。
「それでは……実利的な話をしましょう。わたくしはあなたの活動、行動に対してこれだけの賃金を支払います」
「え?」
差し出されたのは契約書とも言うべき内容。労働時間からそれが伸びた際の残業手当。休日。外出の自由。その他こまごまとした内容が記載されている。
「申し訳ありません。あなたのように『糸伝令』という優れた伝達手段を持つ人に提示する額としては少ないかもしれないですが、わたくしもそれほど手持ちのお金が多くはないん……」
「給料がもらえるんですか?!」
レオノーラとしては……少し彼に不利かもしれないと提示した書面に対して、歓喜の声をあげるイスハルに思わずびくり、と震えた。
「……イスハル。あなた、何を仰ったの?」
「え? 給料をもらえるのですか? と、ですけど」
「……あなた、何を仰ってるの? 獣氏族の言語を流暢に会話し、自動人形の設計に通じ、さらにはタイムラグなしで意志疎通を行える値千金のあなたが……給料を貰ってないの?!」
まるで信じがたい不義を見たかのようなレオノーラはお尻を突き出してしっぽを倍以上に膨らませる。これはかなりお怒りのしぐさだ。そのまま駆け出そうとする彼女のしっぽを間一髪で掴んで止める。
「れ、レオノーラ! レオノーラ! 何する気だ!」
「あの失禁王子、イスハルを買い戻さないだけに飽き足らず、奴隷に賃金を支払ってなかったんですのよ!? 奴隷にだって認められた最低限のルール、自分を買い戻して自由になるという望みさえ……! 許せませんわよ!」
恐らくここでイスハルが止めなければ、怒り心頭に達したレオノーラは昼夜を駆けてヴァカデス王子に追いつき八つ裂きにしただろう。
だがそうなったら王国と獣氏族の間でかわされた和平はたちまち崩れ、再度戦争になりかねない。
両国の運命はイスハルの声量にかかっている。
誰かー、誰かきてー、と引きずられながら大声で叫ぶイスハルは、どうしてこうなったんだと泣きたくなった。
「ヴァカデス王子、ご帰還~!」
物見の兵が大きな声を上げて城内の兵士に通達する。
同時に城門に並んだ兵士と、その周囲に直立する自動人形が旗を掲げた。
二メートル半の巨躯は、まるで全身甲冑を着込んだ巨人種のようだが、中身はばねと滑車、そして魔力繊維と呼ばれるものでできている。
動作こそ鈍重だが、人間よりも強力な腕力と、疲れ知らずの体。まさに王国躍進の原動力であった。
その人形が整列する中、ヴァカデス王子を始めとする騎士たちが入城していく。まるで主人の帰還を祝福するかのように楽器が音をかき鳴らし、城の内部で歓声が聞こえてきた。
「ふっ、このヴァカデスを皆が待ち望んでいたというわけだ。歓声に応えてやらねば……なっ?!」
だが、ヴァカデスは、城の外壁に貼り付けられた横断幕に目を剥いた。
『忠勤にして名誉ある奴隷の鑑、イスハルの帰還を最大限の感謝を以って迎える』と刻まれている。そしてその下、人の中心には父である王が歓喜の表情を浮かべ、待ちわびた様子で立っていた。
ヴァカデスはこの時……ようやく自分が途轍もなくまずい事をしでかしてしまったのではないかと思った。
「おお、ヴァカデス。良くぞ戻った。……イスハルはどこにいる?」
「それは、その……父上、実は」
「なにせ奴は死地にてお前の尻拭いをしてくれたからな。我が精兵達を大勢死地から生還させてくれた上、奴は最後の最後まで殿軍を努めてくれた。大きな恩がある」
王は上機嫌な様子で顎のひげをなで、ご満悦の様子である。だがそれに反し、ヴァカデスの顔色はじわじわと青褪めていく一方であった。
「ち、父上。俺は反対ですッ! あのような下賎な奴隷にそれほどの厚遇を……」
だが、その言葉を黙らせるかのように王は息子の襟首を掴んで引き寄せた。
周囲に聞こえないよう密談の距離まで顔を近づける。
「誰のせいだと思っておる……お前が尻に帆をかけて物見遊山気分の仲間と一緒に逃げ出したせいで、わしの騎士たちが大勢無駄に死んだ。自動人形を擁する無敵の我らが、勝てる戦でな……っ! その損失を減らしてくれた彼に報いるならば金など惜しくはないわ……!」
そのまま息子を突き放すと、王は馬車に呼びかけた。
「さぁ、イスハルよ、出てきてくれ……ああいや、もしや戦場で怪我でもして一人では出られぬのか?
さぁ、皆も見るがいい、主人のために尽くす、まこと奴隷の鑑であるぞ!」
「ち……父上。実はその…………イスハルめは死にました」
「……なぁに?!」
王は激怒を浮かべてヴァカデスを真っ向から見据える。
「馬鹿な、敵軍は命に触るような怪我はないと太鼓判を押したぞ!」
「ち、違います、それは――」
「陛下! 違います! ヴァカデス様の言い訳です!」
ヴァカデスは咄嗟に父の追及から逃れるべく底の浅い嘘を付こうとしたが、彼の事を心よく思わぬ文官の一人が膝を突き、主君に注進する。
まさか下僕が高貴なる己に不利になる証言をしようとするなど許し難い、ヴァカデスは口を封じようと前に出ようとする。
だが、そんな息子には一瞥もくれずに王は言った。
「話せ」
「その……イスハル殿を解放する代わりに身代金支払いを要求なさいましたが……ヴァカデス王子は、その場で身代金の支払いを拒絶なさいました」
王は――感情の抜け落ちたような目で、息子を見た。
まるでとてつもなく下らないもののために、人生を台無しにされたかのような目だ。
「ヴァカデスよ」
「はっ、はひっ」
「わしはお前に命じたはずだ。イスハルの身代金を即座に払うと答えよ、と。
もし膨大な身代金を要求された場合は、支払いの要求期限を延ばすよう依頼せよと。
支払いを拒否した理由を述べよ。偽りは許さぬ」
王は、剣を抜いた。
もしわずかなりと嘘偽りが混じればわが子であろうと殺すと言わんばかりだ。
腑抜けのヴァカデスが父の苛烈な怒りを前に嘘などつけるはずもない。彼はすべてを明かした。
「……つまり。
お前は己の尻拭いをした奴隷の忠誠に厚く報いることなく、身代金を惜しんで奴隷を見捨て。
そしてわしがお前に託した金で個人的な借金を清算し、また新しい女奴隷を買ってすべて使い込んだと」
「でっ、ですがっ、父上! あんな替えの効く奴隷一人に身代金を支払うなどっ」
「阿呆、まだわからんかっ!!」
王は激昂する。
「金を惜しんだせいで、お前はわが国に仕えるあらゆるもの達の信望をドブに投げ捨てたのだぞ!! これを回復させるのにどれだけの手間と金と時間がかかるかわかるかっ!!
真っ先に逃げた主君のために剣を持って必死に戦おうとも、その忠誠に応えようとしない相手などにどれだけの家臣が付いてきてくれると思うかっ!!
わが子であるゆえ甘く見たが間違いであった、もう我慢ならん……こやつと共に逃げた騎士たちを連れて来いっ!!」
主君の怒りに騎士たちが一斉に動き、あちこちからヴァカデスに付き従って戦場から逃げ出した連中が捕らえられ、引き出される。
ヴァカデス王子に媚びへつらい、次代の王の覚えをめでたくして甘い蜜を吸おうとしていたやからだ。
その彼らに、王は冷酷に命令する。
「10分の1刑を執行するっ!!」
「ひいいいいぃぃ!!」
「陛下、お許しをっ!」
ヴァカデスのみは父の言葉の意味を知らなかったが……他の仲間達はみな恐怖の悲鳴を上げて逃げ出そうとし、周囲の騎士たちにたちまち取り押さえられる。
文官が10個のくじを持ってきた。王はそれぞれくじをひくように命令する。ヴァカデスは周囲の仲間が青い顔でがくがくと震えながらくじを引くさまを見ながら、自分も引いた。外れであった。
それを見て、父である王は言う。
「ふん、生き残ったか。これでそなたが死ねば、少なくともわしが息子であろうと刑を執行する、冷厳にして公平な男と評判が立ったであろうにな」
「ち、父上、それは……」
「い、いやだあああぁあぁっぁぁ!!」
当たりくじを引いてしまった男が悲鳴をあげて逃げ出そうとするが……それをさせじと、外れくじを引いた仲間たちが逃走を阻んだ。
何か恐ろしいことが起こっていることだけはわかったが、それが何なのかヴァカデスには分からない。
「処刑台を組め! ヴァカデス、お前もだ!」
ヴァカデスは周りにせかされるまま、当たりくじを引いてしまった友人を、言われるがまま地面に打ち立てた木材でしばりつける。
何か恐ろしいことが進んでいた。
「い、いやだああぁぁぁ! わたしはあんたの息子が臆病風に吹かれて逃げたのに釣られただけで、あの時までは真剣に戦うつもりだったんだぁ!!」
「運が悪かったな」
王の声はにべもない。空恐ろしいほどの冷酷さが溢れていた。
涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにゆがめながら、当たりくじの男はヴァカデスを睨みつけ罵倒する。
「ヴァカデス、この馬鹿やろぉ、お前が逃げなきゃこんな目に合わなかったのにぃ、いやだああああぁぁぁぁぁ!!」
「一人につき十回の殴打、刑90回の殴打で妥当とする。刑を執行せよ!!」
当たりくじを引いてしまい……台座に縛りつけられた不幸な一人を取り囲み、一人が棒を振り上げる。
殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。殴る。
一打ちごとに血が飛び、肉を打ち、骨を砕く恐ろしい音が響く。
全員の罪を1人に背負わせて他の9人が、親しい友人を撲殺する。渾身の力を込めて殴るように命令された彼らには手心はない。ここで手ぬるくすれば、10分の1刑が10分の2刑になるからだ。
撲殺する9人と処刑される1人を決定したのは10枚のくじの中に1枚だけ忍ばされた、たったひとつの当たりくじ。10分の1の確率。ゆえに10分の1刑。
父王の言葉の意味が今更ながら理解できる。
人間は渾身の力で90回も棍棒で殴られて生きていられるわけがない。実質的な死刑。それもよく顔を見知った相手を処刑人にすることは、残った9人にトラウマものの罪悪感を刻みつける結果となる。
運が悪ければ、ヴァカデスもこうして木に縛られ、撲殺されるかもしれなかったのだ。
そこには親子ゆえの甘さなどは全く存在しない。自分が生き残ったのは――偶然だったのだ、死ぬかも知れなかったのだ、それが……例えようもなく恐ろしい!!
「何をしておる、ヴァカデス! お前もやるのだっ!」
「ひっ、ひいぃ!」
父王に逆らえば殺される。ヴァカデスもそれだけは分かった。
己にしたがっていた友人を棒で殴りつければ、既に息も絶え絶えの哀れな犠牲者の眼が、ヴァカデスをにらみつけた。
「呪って……やる……ヴァカデス……」
たった一度、主筋に当たる男の臆病風に当てられ逃げた結果が、友人たちによる撲殺刑であるなら、まだ敵に勇敢に突っ込んで死ぬほうが名誉も守られる。この刑罰を受けて、そして10分の9に当たった生存者は他の人間から白い目で見られることが確定していた。命は助かるが、これから不名誉が一生付き纏うのだ。
半死半生の犠牲者に、口に溜まった血ごと唾を吐きつけられ、ヴァカデスは震えながら後ろにさがる。
棒ごしに人を殴打したおぞましい感触が伝わってまだ離れない。彼もこの10分の1刑が世にもまれなる残酷な処刑法であることを実感した。
「なにを休んでいる、殴れ!」
命令のまま、ほんの少し前まで歓談していた友人を己自身の手で殴り殺すおぞましさと恐ろしさ。
あと何度もそれを繰り返さねばならない地獄。
(お、おのれぇ、おのれぇ! この俺が、高貴なる俺がなぜこんな目に会わねばならんのだ!)
ヴァカデスが恵まれた生活が出来るのは父である王のおかげであるから彼を憎むことは除外される。
で、あれば彼は当然逆恨みする。
(殺してやる、きさまのせいだっ! 絶対に許さんぞイスハル!
あの奴隷め、奴があの戦場で殺されていれば俺はこんな目に会わずに済んだんだ!!)
矛先を誤った憎悪を胸に抱え、ヴァカデスは友人だった男を仲間達と共に撲殺した。
……王は、運悪く当たりくじを引いた男が死亡したと確認する部下の言葉に頷いた。
そして部下に命じる。それも正道を歩むものではなく……破壊工作や噂の流布、表沙汰にはできない汚れ仕事を一手に引き受けるものだ。
「……イスハルはわしによく仕えてくれた。しかしこうとなってはわしは王家を優先せざるを得ぬ」
「よろしいので? 陛下」
「彼は『糸伝令』にくわえ、自動人形の構造にも熟知しておる。
殺せ。
我が国を強国に押し上げた自動人形の秘密は守られねばならない。
……あの子の師であるサンドールめは怒り狂うだろうが……ふん。奴隷だ。わしには逆らえぬ。問題はない」
「は……直ちにかかります」
配下の男は黙って頷いた。
頭の切れる主君であることは間違いない。
ただ、その鋭敏な頭脳も、暗愚のわが子が絡むと途端に輝きを失ってしまう。
王にこれから纏わりつくであろう悪評をすべて解決する一番の策はヴァカデスにすぐ死を命じることだ。
……王はのちに、ここで親子の情に目を曇らせず処刑しておけば、暗殺者を放たねば、以降の大禍を避けえたのだと後悔する事になるのだが。
この時点では、知る由もなかった。
イスハルは主人レオノーラをなだめた後、とりあえずは天幕に引っ込むことにした。
これからどうするのか、様々な事を話し合わねばならないのだけど……なぜか彼は室内の長いすの上で膝枕をやるはめになっている。
彼女はふん、と息を吐いた。
「……奴が救いがたい大馬鹿だったために、あなたの身柄を得られたのですから。今回はその馬鹿さ加減に感謝しておきましょう」
レオノーラは艶やかな髪ごと頭をイスハルの腹にぐりぐりとこすりつけている。これは『だいすき』のしぐさなので秘かにイスハルは照れていた。
獣氏族の人はこういうスキンシップが多めな気がする。嗅覚が人間より優れているし、しっぽの動きでだいたいの感情表現だってできる。獣人と接してみるとスキンシップは多いが、その代わり会話量の少なさに驚く人間は多い。
レオノーラは獣人としては例外的なまでに口数が多い。人間と接する機会が多い証だ。
しっぽは左右にふりふりしているので彼女の機嫌は悪くないのだろう。
「いつまでこうしていればいいんだろう」
「わたくしの気が済むまで」
まぁ奴隷身分なので拒否権はない。それに王国で酷使されていた頃を思えば、こっちの意志を尊重してくれるし、今後はキチンと給料も支払われる。
ならば給料を積み立て、最終的には自分自身の身柄を買い戻す事もできる。
それを思えば前途は明るいと言ってよかった。
「それにしても。レオノーラ。あなたは先の戦で大功を立てたんだろう?
もっとほかに得られるものが……」
ぐるり、とレオノーラは身を捩ってイスハルを見上げた。ちょうど膝枕みたいな姿勢になる。
「イスハル。あなた何ができますの?」
む。
とイスハルはちょっと困った。確かに今後は奴隷身分として働くわけだが、自分ができる技能ぐらいは教えておいたほうがいいかもしれない。
「まず。『糸伝令』による意志疎通。自動人形の修理、構造に対する知識」
「ええ。存じ上げていますわよ」
「人体構造は知ってますので簡素な外科手術。建築に関する知識とその手順」
「ん?」
「あとは……魔力繊維の構築」
「…………」
「それと……」
レオノーラは無言のまま起き上がった。
……確かに今回の戦では褒賞を手放した。しかし代わりにイスハルという素晴らしい才人を我がものにできたのだからまったく問題はない。彼の技能を並べさせ、『あなたは価値がある。すごいんですのよ』と褒めてあげようとしたら……トンでもない爆弾がでてきた。
「……聞いていませんわよ」
「伝える機会は今初めて得たものだから」
それはそうですわね……とレオノーラは頷いた。
……魔力繊維。王国にしか存在せず、他の国家がその製法を血眼になって探している秘密の繊維。
一見すれば普通の布地だが、魔力を強烈に増幅する力を持ち、身体能力強化や硬化機能を持つ。冒険者や騎士などにとっては戦闘力を劇的に向上させる魔法の生地だ。
自動人形の内部構造にはこれらを束ねた人工筋肉が用いられており、非常に強力な力を発揮する。
それを生産する能力がある? レオノーラはぐずぐずしていられないことを悟った。
「イスハル。それを知っているのは?」
「知っているのは師のサンドール先生。宮廷魔術師のジークリンデ様だけど……ああ、でも」
「でも? なんですのよ」
イスハルは、これは言うべきか迷ったようではあったけど……自分を王族の奴隷から自由にしてくれた恩義もある。それに王国の人間で無ければ害はないだろうと考えた。
「サンドール師は……実は、もう数ヶ月前に逝去しているんだ」
「……な……なぜ?!」
「なぜって……歳を召されていたし、老衰だよ? ……俺は師のご遺言どおり、死を隠せと言われてたんだ」
レオノーラは頭がくらくらした。
先に言ったとおり、魔力繊維はありとあらゆる面で応用が聞く魔法の繊維だ。
その製法を巡り諸国は目に見えない暗闘を続けている。
「ま……魔力繊維を生産できる人は他には?!」
「うん。……サンドール師がご存命の時には、待遇改善と共に同じように作れる人を増やしてほしいって頼んだんだけど、却下されてね。
もう俺しか作れない」
イスハルの言葉にレオノーラは悲鳴を挙げそうになった。
すなわち、諸国が喉から手が出るほど欲しがっている技術は、今や自分の奴隷の頭の中にしかないということ。
魔力繊維の製法は、暴力に訴えてでも欲するものがいるはず。
「……レオノーラ?」
「……ここを引き払いますわよ、イスハル」
「え。なんで?」
イスハルは卓越した技術や才能を持っていたにも関わらず、王国内で籠の鳥として成長したために自分の能力に無自覚だ。
頭の固い獣氏族の長老たちではその重要性を理解はできまい。取引材料とされる恐れもある。
彼の面倒はわたくしが見なくては。レオノーラは母虎が子虎を守るような心境ですっくと立ち上がった。
イスハルの言葉からして、サンドール師の死はよほど巧妙に隠蔽されているのだろう。
今日明日に魔手が伸びることはないはずだ。
だが、自分の身を守る戦力は多いに越したことはない。
「イスハル。ちょっと物資保管所に寄ります」
「どうするんだ?」
幸い、戦力には一つ当てがあった。
「あなたが撤退戦の最中、護衛に置いていた自動人形が一つだけ鹵獲されて。そのままになっていますのよ」
王は、後継者問題に関してはそれほど問題視していなかった。
ヴァカデス王子は10分の1刑を執行され、正気を失った目でぶつぶつと呟き続けている。
しかし彼にはもう一人、親戚筋から養子としてもらいうけた頭脳明晰な義理の娘、宮廷魔術師のジークリンデがいた。玉座には適当な子を着け、英明な彼女を宰相として登用すれば問題はないだろう。
馬車を降り王宮へと戻る。
歩きながら侍従が一人近づいてきた。至急耳に入れねばならぬことがあるのだろう。真紅の絨毯を進みながら報告に耳を傾ける。
「陛下、お帰りなさいませ。実は人形管理局より、自動人形の駆動におかしな点が見受けられるそうです」
「どのような問題が発生したと?」
「魔術師の命を受け、自動人形どもは変わらず稼働しているのですが……近くに道具をおいても修理を始めぬのです」
人形管理局といっても、実際に彼らが行うのは魔術を用いて自動人形に命令を与えることだけ。
実際の修理などは自動人形が自分で自分を分解して行う。
……そういえばサンドールは、「せめて修理は他のものに任せるようにしてほしい」と懇願していたことを思い出す。
馬鹿な事を申すな、と主人の権限で黙らせ、雷撃で懲罰を加えたが。
秘密とは知るものが少なければ少ないほどいい。もし修理マニュアルでも作ろうものならば、そこから内部構造を把握されたり、修理工を誘拐されて情報が漏れる恐れがあるではないか。
サンドールめにはきちんと仕事をさせねばならない。
王は彼の部屋に行く。
外から鍵がかかる作りの工房ではあるが、内部はほかの奴隷によって丁寧に掃き清められている。内装も王侯貴族並みに豪勢だ。出される食事も王に準ずるものをそろえているし、サンドールやイスハルが望めば貴重な書物も大金を投じて買い揃えている。
何が不満なのだろう。
ここには、自由以外のすべてが揃っているのに。
「サンドール! サンドール! おぬし、何を手抜きしておる!」
大股で室内に踏み入る王は……彼のための椅子と、その横に宮廷魔術師でありヴァカデス王子の代わりに後継者と見込んでいたジークリンデがひっそりと佇んでいることに気付いた。
長い銀色の髪に、透き通った美貌。生唾を飲むような艶美な曲線を魔術師の装束に包んでいる。自分があと十年若ければ手を出さずにいられなかっただろう。彼女は王に対して恭しく一礼した。
だが、王の叱責を受けた当人であるサンドールは、その皺の浮いた体を微動だにさせていない。
奴隷の分際で王の命令に答えぬとは。彼は怒りでサンドールの襟首を掴み上げようとして――。
彼の首が、ころん、とボールのように転がるさまを見た。
「は?」
意味が分からずサンドールの体に目を向ければ、首の切断面は、明らかに人間のものではなかった。
中身は脊椎の代わりに棒、ばね、滑車が詰め込まれており、今では動きを止めている。
人間ではない、自動人形――それも、人間と外見が瓜二つなまでに精巧に作られた代物だった。
「なんだこれは……ほ、本物のサンドールめはどこに行ったぁ!?」
「本物のサンドール師は、数ヶ月前にご逝去なさったよ」
「なんだ、ジークリンデ! なぜ!」
なぜ教えなかった! という怒号を受け、美しい魔術師は王をねめつけた。
ずっと長い間腹の中で飼いならしていた殺意を、ようやく解放する機会を得たような眼差しだ。その眼光に王も思わず後ずさる。
「サンドール師は、自分が陛下の奴隷にされたことは、自分の愚かさゆえの事だと諦めていた。
だが、自分と共に奴隷になったイスハルの事を自由にしてやりたいと常々思っていたんだ。そうでなくても……この王国中の自動人形を制御、統括することは『糸』の才能を持つサンドール師とイスハルの二人にとっても重責だ」
「奴らは成し遂げていたぞ」
「……陛下は覚えていないんでしょう。『出来ねばあの女奴隷と同じになるぞ?』と仰った」
「? ……言ったかもしれぬ。それがなんだ」
ジークリンデは大きく溜息を吐いた。
「生殺与奪を他人に握られた奴隷へのあなたのそんな言葉は、もう暴力だ」
「……奴隷に暴力を振るう程度の事で咎められる筋合いはない」
相手に理があると認めれば、王は鼻を鳴らして開き直る。
ジークリンデの視線はいっそう冷ややかになるが、彼はそれを無視した。
「そう。そうやって主人の顔色を伺いながら生きていく人生にイスハルもサンドール師も耐えられなかった。自由が欲しかったから……サンドール師は一つの賭けに出た」
「賭けだと?」
「あなたの暗愚の息子が、イスハルの所有者である権利を愚かにも手放す可能性だよ」
王は目を見開いた。
「ヴァカデス王子は金遣いが荒い。戦に出れば失敗もしよう。その際に――そう。イスハルが捕虜になり。王子が僅かな金を惜しんで身代金の支払いを拒む。
だが陛下はそれを聞いてすぐには取り戻す行動に出なかったはずだ。なぁに案ずることはない……サンドールめはまだ手中にある。彼を用いれば魔力繊維は作れるし、自動人形の制御は可能。
また新しく奴隷を買って奴に養育させればよい。……概ね陛下はそんな風にお考えだったのでしょう。もしサンドール師が死去していたとご存じなら、陛下は大金を積むか、あるいは密偵を放って誘拐して取り戻すぐらいはしたでしょうから。
……だから、サンドール師は自分の死を隠すように命じた。僅かな可能性に賭けて、ね」
己の考えをいい当てられ、王は息を呑む。
「ま……待て! だが可笑しかろう、それならばこの数ヶ月はどうしてなんら不備がなかったのだ!」
まるで自分がイスハルを出迎えから戻って来るのを待っていたかのように、自動人形の不具合が見つかったという。
だが、二人の会話を遮断するように外から慌てた様子で魔術師の男がやってきた。装束を見るに人形管理局のものだろう。
「へ、陛下! 大変です! 人形の中に組み込まれた魔力繊維が……次々と消滅していきます!! これでは人形ががらくたに、使い物にならなくなります!」
「な……馬鹿な! なぜ!!」
「それはそうですよ……陛下」
どうしてそのような簡単な事に気付かないのか、と呆れたようにジークリンデは言う。
自動人形は無償の労働力にして最強の軍事力、国家の要が崩れ去ったにも等しい凶報を前にまるで他人事のジークリンデに王は怒りのあまり怒鳴りつけた。
「なにをのほほんとしておる、きさまぁ!!」
「あはは。だって自動人形の中枢、魔力繊維はサンドール師の……ひいてはその遺産を継承する立場のイスハルのものなんですから。
そのイスハルの所有権を放棄したから、魔力繊維が分解され、所有者であるイスハルの元に戻るんです。おかしな事なんて何もない。主人であろうと奴隷の私的財産に手をつける事は許されない。その契約が正しく実行されただけ」
「わ……わしのものだぞ!」
そんな馬鹿な、と唖然と叫ぶ王に対してジークリンデは続ける。
「陛下。法に定められている通り主人は奴隷に対して給料を支払わねばならない」
「なにを……それがどうした!」
「陛下は奴隷のイスハルに魔力繊維を作らせた。それに対して買取のお金を支払っていれば所有権は陛下に移っていた。
だがあなたはイスハルに僅かな給料さえ支払わずに酷使し続けていたから魔力繊維の所有権はイスハルのもののままだった。
そしてヴァカデスが、彼の所有権を放棄したせいで、魔力繊維は契約どおり所有者であるイスハルの元に戻っていくんです」
この事態を招いたのは確かにヴァカデス王子が勝手に身代金支払いを誤魔化したため。
だが最悪の事態を引き起こしたのは、王が、奴隷に対して正当な賃金を支払わずにいたせいだと指摘を受け、顔が青ざめていく。
国家の支柱である自動人形が使いものにならなくなる――その恐怖から膝から崩れ落ちた。
「ああ、それとあなたの疑問に対する回答だけど。……自動人形が、サンドール師が死去していたにも関わらず、問題がなかったのは簡単。
彼は『糸』を使い。この国にいる数百体の自動人形を遠隔で、戦地から、操作してたんだ」
「なぜだ……」
王は絶望と落胆の中にいたが……一つだけ腑に落ちないことがあった。
宮廷魔術師ジークリンデ。王の外戚の子であり、頭脳明晰。いずれは宰相としてヴァカデス王子を支える地位につけるつもりだった。
この国が崩壊する事は、自ら権力を手放すことを意味する。
「イスハルをこの国の奴隷にしておけば、お前はいずれ宰相となったろう! ヴァカデスめを傀儡にして国政を我が物にすることも容易かったはず! どうしてなのだ!?」
王にとっては地位と権力を我が物にできる機会を棒に振ったジークリンデが理解できない。
彼女は室内を見回した。美しく煌びやかな建物。鈴を鳴らせば専属の執事がすぐに食事を持ってきてくれる。天国といってもいいめぐまれた環境。
だが。
鍵は外からかけられるようになっている。
ここは、この世でもっとも煌びやかな牢獄だ。
「あなたには。わたしやイスハル、サンドール師の気持ちなど永遠に理解できないだろうね」
王は籠の中の道具であり続けることが人の幸せだと決め付けた。
だがこの世には危険や貧困、生命の危機と引き換えにしてでも……自由を欲する人がいる。
ジークリンデは目を細めた。唇から呪詛めいた声をこぼし、王を睨む。
「陛下、わたしが親元から引き離された後、あなたと一つ約束をした。……宮廷魔術師として大成したあかつきには、イスハルをわたしのものにすると。あなたもそれを了承した」
王は目を白黒させながら頷いた。そんな気もする。
「両親が恋しくて、寂しくて泣いていたわたしを慰めてくれたイスハルを……自分だけのものにするはずだった――のに!
こんな国なんかいるか! 彼を自由の身にするためだけにこの国にいたのに!!」
「げふぅ!?」
ジークリンデの足が翻り、王の顔面を蹴り飛ばす。
それでも怒りが覚めやらぬのか、彼女の爪先が執拗に王の腹へと何度も叩き込まれた。
自分のかけがえのない大事な宝物を、他人が自分のものにしている。はらわたが捻れるような激しい嫉妬と暴力をぶつけるように、彼女の蹴り足が王に食い込んだ。
「イスハルはわたしのだ! わたしのだったのに……!! お前の馬鹿息子の面倒なんか見るかよ!
死ね、ばーか!!」
……積年の恨みを晴らす執拗な暴行の後で、彼女は肩で息をする。
ジークリンデは苦痛に喘ぐ王を見下ろしながら、窓の外から町を見た。
あちこちで、蜂起の火の手が上がっている。自動人形という労働力と軍事力を備えた機械はすでに動かない。重税を課せられ、長年苦しんでいた民衆が、自分達を押さえつける暴力が消え去ったことで、とうとう爆発したのだ。
「陛下、あなたは殺さない」
「ぐ、ぐぅ……」
苦痛に呻く王に対してジークリンデは優しげですらある口調だった。
「魔力も持たず知性も乏しいと見下げていた民衆によってこの国はゆっくり沈没していくだろう。
この国が保たれていたのは、あなたや貴族たちの力ではない。
たった一人の奴隷によって維持されていたこの国は、自ら大黒柱だったイスハルを捨てたことで自滅する」
ゆっくりと。相手の矜持をむしりとるように囁いた。
「この国で、本当に重要だったのは王でも貴族でもない。イスハルだった。
あなたは息子のヴァカデスと共に、寄生虫同士、仲よく城のてっぺんから見物するといい」
「こ……の……余が、き、きせ……?!」
王は激烈な憎悪を向けるものの、ジークリンデは嗤った。
その屈辱と無念が快感だと、嗤った。
王国の軍が撤退の際に残していった戦利品は膨大な数になる。
食料、水、衣類などは獣氏族も扱えるため、それぞれの備蓄として配られるだろう。刀剣や防具なども同様に。
イスハルをレオノーラの私的な奴隷として譲り渡すという契約はすでに獣氏族の中では話が纏まっていた。
頭の固い古老たちに自説の正しさを実力で示した彼女は、周囲からは『あれほどの大功を立てながら、なんと欲のない』と無私無欲な振る舞いによって敬意を抱かれている。
そんな彼女が、先の戦いで鹵獲された自動人形を戦利品としてもっていきたい、と言われればもちろん断わられなかった。
むしろそれだけでよいのか? と申し訳なさそうな顔をされたので、今では幾ばくかの金銭と水に食料を馬車に積んでいる。
「……解析調査とかしなくていいのかなぁ。これは先生が残した形見のひとつなんだけど。分解すれば様々な技術が分かる教材なのに」
自分の護衛として亡きサンドール師が譲ってくれた遺産、自動人形の高位量産型を眺めながらイスハルは呆れたように呟いた。
「わたくしたち獣氏族のものたちの、知識や技術に対する根源的な不理解の解消は……目下の課題ですわね」
レオノーラも馬車を御しながら同意した。同族たちの技術に対する意識の低さに困ったように眉間を揉む。
数頭の馬に引かせ、二人は街道を行く。時折雲の隙間から差し込む陽光が行き先を照らしてくれた。
イスハルは完全な自由を得た訳ではない。けれど、過去仲良くしてくれたレオノーラは自分を尊重してくれる。これからどうしたいのか正直に言えば配慮だってしてくれるだろう。
しばし進むと、どうやら足を泥濘に取られたと思しき馬車と遭遇する。
「レオノーラ、どうしようか」
旅は道連れ、世は情け。
旅人はこういう時に足を取られた馬車を手助けする。イスハルは善良な気質であったため、助けるべきでは、と主人に尋ねた。
だが彼女は形よい鼻をひくつかせると、イスハルに頷いて……馬車の荷台に隠していた大戦槌に視線を向けた。
お互いにそれで意思疎通は終わる。レオノーラは身を翻して馬車から降りると――ものも言わずにぬかるみに嵌った車輪を掴んで、ふんっ! と、掛け声と共に車輪を引き上げ乾いた道路へと馬車を立て直させた。
華奢に見えても獅子の獣人。根源的な膂力は人間とは違う。
「あ、そこのお人、悪いが手伝って……ええぇ?!」
「御用は済みましたわね。ではさよなら。……あら。そこの人、うちの馬車を秘かに囲んで何の御用かしら?」
レオノーラはただの旅人に扮した男たちの、頭から爪先までびっしりと滴るような鮮血の臭いを嗅ぎ取っていた。
無辜の人々を手に掛けた外道は、どれだけ洗い流そうともおぞましき殺業の臭いがこびりついている。彼女は相手から不審の気配をしっかりと嗅ぎ取っていた。
それでも念のために相手の不審な行動を確認してから、レオノーラは反撃に移る。
「イスハル!」
レオノーラの一声で、イスハルは彼女愛用の大戦槌を全力でぶん投げた。大の男でも重量に振り回される代物を、彼女は片腕で掴んで、ぶるんっと重々しい風切り音を響かせる。
「く、くそっ……なんで!」
暗殺者が焦りの声をあげる。
彼女が見抜いたとおり、相手は王国より派遣された暗殺者だった。
王がヴァカデス王子の尻拭いのために派遣した暗殺者たち。
……魔力繊維を生産できるのは、もうこの世でイスハル一人となってしまった。だから、王はこの時慌てて暗殺者に仕事の中止を命じる急使を送っていたが、『糸伝令』が使えない以上は間に合わず後の祭り。
レオノーラは愛用の大戦槌を振るう。腕力で力任せに振るのではない。まるで全身を独楽のように回転させて、遠心力の乗った先端を叩きつける。骨肉が爆砕の勢いで爆ぜ、胴を砕かれた暗殺者が悲鳴をあげて崩れ落ちた。
暗殺者はお互い視線で意志を交し合うとそれぞれ分散した。
闇討ち、不意打ち、奇襲を基本とする暗殺者と重量のある大戦槌を風車のように振り回すレオノーラとでは膂力に根源的な差がある。
毒のぬめる短刀を構え、待ちの姿勢になった相手を見て狙いを悟る。レオノーラを足止めしている間に他がイスハルを殺害する考えだろう。
彼らがそう思うのも無理はない。
イスハルは剣闘奴隷のように戦いを生業にしていたわけではない。知識をもって主人に仕える高級奴隷であり、その命を奪うなど赤子の手を捻るより容易いこと。レオノーラの目の前で笑みを浮かべる暗殺者を見れば何を狙っているか、一目瞭然であった。
だが。
彼らは知らない。
イスハルは長年自動人形を操っていた。それも数百体を並列して動かし、故障したならそれを遠隔で修理する。そんな生活を送りながら、先の戦では味方の撤退援護のために指示を出し続け損耗を抑えた。
そしてヴァカデス王子によって王族の奴隷という身分から解放され――王国の人形数百体を操る必要がなくなった今、イスハルは頭の中に圧し掛かっていた重みのようなものから解放されていた。
馬車の幌が爆発する。
いや、正確には両足から膨大な推進炎を放出して空中に飛翔する自動人形によって吹き飛ばされたのだ。
イスハルを殺害しようとした暗殺者は、目を白黒させながらそれを見上げた。
暗殺目標は人形の背中に捕まり空中へと飛び上がっている。
「ああ、いいな。脳が軽い」
今やイスハルは遠隔操作の重責より解き放たれた。その桁外れの演算力に加え……サンドール師の遺産である魔力に変換された魔力繊維を全身に受けている。魔力は有り余るほどだった。
潤沢な魔力供給を受けた自動人形は本来の性能を発揮する。推進炎の噴射角度とタイミングを完全に制御し、空中で静止。
イスハルは自動人形を操り自分自身の体を空中に投げ出させた。
「ば、か……!」
レオノーラが叫んだ。落下して地面に叩きつけられれば即死する高度。にも関わらずイスハルは両眼を閉じて感覚を人形に同期させている。
暗殺者の一人はどうすればいいのかと半瞬迷った。
空中から落下する暗殺目標、目前に迫る自動人形……自分自身を守る選択を取ったときにはもう遅い。
眼前に迫る自動人形……全身に鋼鉄の甲冑を着込んだ騎士のようないかめしい外見のそれは急制動をかけながら掌打を打ち出す。打撃というよりは、そっと触れるような一撃であったが……その身に蓄えた慣性エネルギーは暗殺者を吹き飛ばし、レオノーラの前にいた相手と激突させるほどの威力があった。
「おのれぇっ!」
暗殺者の数名が掌に炎を浮かべる。注ぎ込まれた魔力によって膨れ上がるそれは爆炎の魔術。
どれほど守りを固めようとも諸共に吹き飛ばす自慢の一撃だ。
自動人形の速度を鑑みれば、一人は殺害されるかもしれない。しかし残りの暗殺者が一斉に攻撃を放てば問題なく殺害できるだろう。
攻撃のタイミングはイスハルが地面に落下してきた時。自動人形が彼をキャッチして動けなくなる瞬間だ。
その相手の意図をすべて察知し、イスハルは自動人形を動かした。
これまでは使用できなかった武装も、王国の自動人形を遠隔操縦の必要がなくなり魔力に余裕ができたことで問題なく使える。
自動人形は腰に下げた剣の柄を手にした。
刀身のない柄だけの代物に暗殺者は馬鹿め、とほくそ笑み――次の瞬間、驚愕に目を見開いた。
「オートマータ。ビームサーベルを使え。手首回転」
握った剣の柄から……赤い光の刃が生み出される。
針のように細く、炎のように赤い。超高熱の焦熱の刃を握る腕はまるで独楽のように高速回転し――光の剣、ビームサーベルは円盤のような軌道を描く。
膨大な熱量が収束した光の剣、ビームサーベルは相手の爆炎の魔術がもたらす高熱をはるかに上回る超高熱で吹き消し、完全に散らしてみせる。
相手の暗殺者たちは一瞬、迷った。再度時間を掛けて爆炎の魔術を放つか、肉薄しての攻撃か……即時撤退か。
そして。
その迷いの一瞬で命を断つには十分。
「払え」
自動人形は、今度はビームサーベルを手首で回転させるのではなく横薙ぎに振りぬいた。
尋常な剣術勝負では確実に空振りになる距離――だが魔力の供給量で刀身の長さを決定するビームサーベルにとって、その程度はすでに間合い。
通常の剣の常識など軽がると飛び越える、弓矢ほどの間合いさえ薙ぎ払う光刃の一刀両断を受け、暗殺者たちは容易く両断された。
脅威は消え去った。自動人形が頭部をぐるりと回転させて落下中のイスハルを視認。
推進炎を吹いて飛び上がり、主人である少年をキャッチして着地する。
「うし、計算どおり」
「このお馬鹿!」
イスハルにとってはこういう結果になるのは自明の理……であってもレオノーラは肝を冷やした。
大丈夫だよ、と答えようとしたイスハルは……自分を気遣う彼女の眼差しに、照れたように俯いた。如何に有能であっても身分は奴隷。自分を心配してくれる相手の眼差しにむず痒さと喜びを感じる。
「ごめんなさい、ありがとう……」
ただ相手に無用の心配をさせたことはすぐ謝っておく。
「……ま、分かればよいのです。それで……」
あの相手はどうしようかしら、とレオノーラは視線を別な方向に向ける。
未だに敵の気配を感じる。恐らくは暗殺が成功したかどうかの見届け役だろう。数は一名だが、さすがに距離が離れすぎている。
見届け役ゆえに仕掛けてくることはないだろうが、これから自分達がどこに向かうのか確認されるのは面白くない。
どうしようかと思ったその時……その見届け役がいる場所で人間が吹き飛び。
その後、飛行の魔術でこちらへと一目散で飛んでくる魔術師の姿を見た。
「ジークリンデさま?」
「ああ、イスハルッ! よかった、やっと会えた!」
長衣に身を包んだ魔術師の姿、あの王城でサンドール師に次いで気を許していた親しい友人の姿にイスハルは驚きの声をあげ。
ジークリンデと呼ばれた彼女はにこやかに微笑んだ後……レオノーラに対しても視線を向けた。
「……はじめまして。わたしの名はジークリンデ。友人であるイスハルの主人はあなたでいいでしょうか」
「……ええ。はじめまして、宮廷魔術師のジークリンデさん。……確かにわたくしが彼の主人に当たります、何の御用でしょう」
二人とも、どちらも礼儀作法にのっとった非の打ち所のない言葉遣い。
しかし互いを見る目には冷ややかな敵対の意志を漲らせ。
その間に挟まれる格好となったイスハルは、二人の視線が激突しあう様に――なにか恐ろしいことが起きていると思った。
自分が原因という自覚もなく。
ジークリンデは微笑んで、言った。
「……まずはヴァカデス王子の暴言、失言を詫びます。そしてわたしの友人であるイスハルの身の安全を保障していただき感謝します」
その言葉に偽りはない。
イスハルがあの時にレオノーラによって購入されなければ、彼は奴隷として転売されていたに違いない。
それも知識、技術に対する不理解なものばかりの獣氏族ではイスハルが値千金の奴隷などと評価せず、労働力にするには不適切な二束三文の安奴隷として乱雑に扱われていただろう。
「ただ、イスハルはわたしの友人でもある。是非その身柄を譲り受けたいのです。あなたはわたしの友人イスハルを幾らで購いましたか?」
ジークリンデはイスハルを買い戻す気であった。
相手がどれだけ高値を吹っかけようとも王宮で宮廷魔術師として働きひと財産を築いている彼女は、全財産はたいても惜しくないと思っている。
「……ご丁寧にどうもありがとう。しかしわたくしは彼を手放す気はありませんわよ」
しかし……レオノーラはジークリンデの人となりを知らない。
イスハルの頭の中の知識は、これから獣氏族の発展には必要不可欠。それにジークリンデがイスハルを無給で働かせ続けた王国の宮廷魔術師と知っている。レオノーラは今度こそ、イスハルを守るつもりだった。
だから、ジークリンデは矛先を変えた。
「イスハル、きみ。幾らで買われたんだい?」
「え? ……いや買われたんじゃない。獣氏族内での戦利品扱いとしてレオノーラの奴隷になったんだけど」
「ちょっ……なに本当の事話していますのよ、あなたー!! わたくしは、あなたを!」
イスハルをこき使っていた王国の人間から守ろうとしているのに、守ろうとした味方から裏切られたのだからレオノーラはちょっと涙目になる。
「ふふん。そういう事なら今すぐ買い戻せそうだね! イスハルを保護してくれたことに感謝して購入金額の三倍の値段、すなわちゼロで彼の身柄を購わせてもらおうか!」
「いや、さすがにそれは義理に欠けるよ、ジークリンデ」
「……そこでなんで自由を得られる機会を自分で捨てるんだい?!」
これでイスハルを自由にできるぞ、と相手の不注意に付け込んだジークリンデであったが……しかし解放されるはずのイスハル自身から止められ思わず声をあげる。
彼女からすればレオノーラはしょせん獣氏族の人間。知識に理解のない蛮族だと思い込んでおり、きっとイスハルの事を乱暴に扱っていると決めつけていた。
「俺を助けてくれたのはレオノーラだ。彼女には恩がある」
「それでこそわたくしのイスハルですわね! 彼はまだわたくしの奴隷をやるのです……彼を無給で働かせてきた王国の走狗になど譲り渡しませんからね!」
そういってレオノーラはイスハルをぎゅっと抱きつくと……そのまま身をぐいぐいとこすりつけ始める。
柔らかな体が密着してイスハルは顔を赤らめじたばたと抵抗する。
「な……そんなっお前……!」
ジークリンデは激しい悋気を覚えながらレオノーラを睨んだ。
今のしぐさは知っている……獣氏族の人は愛しい人に自分の体をこすりつけ、においをうつす。それが愛情、独占欲を持った相手にしか行わない親愛と恋情の習性だと知っている。嫉妬心が頭の中ではち切れた。
「離せー!」
「いやですわよー!!」
そう考えるとジークリンデは冷静さもかなぐり捨ててイスハルの手を掴んで引っ張り始めた。が……びくともしない。
魔術師が獣氏族の人間と綱引きをやって絶対に勝てるわけがないのだ。
レオノーラはジークリンデをにらんだ。
……本当はこのままイスハルを奴隷扱いする気などなかった。このまま近くの都市に移動したあと彼との奴隷契約を解除し、解放奴隷にしてから……改めて自分の手助けをしてくれるように頼むつもりだった。
けれど、イスハルを自分の奴隷だとしたままなら、王国が彼を誘拐しようと目論んでも『自分の財産を盗もうとしている』と法に則って守ることができる。
「イスハルはわたしの大切な……大切な……ずっとわたしのものにするつもりでいたのに、いきなり横から掻っ攫ってぇ!!」
「あら、王国のほうで一緒に居たのに全然自分のものにできなかったなんて、望み薄なんじゃありませんの?!」
同じくジークリンデもレオノーラをにらんだ。
王国の奴隷という籠の鳥からの解放を成してくれた彼女には感謝する気持ちがある。先ほどだってイスハルが無給で働かされていたことに怒ってくれていた。彼の味方かもしれない。
けれども彼の傍にいるのが自分ではないという事実がなんともむしゃくしゃする。
そんな二人の火花散る視線の激突を一段低い位置から見上げながらイスハルはのほほんとしていた。
他者に所有され、自由を物語と歌でしか知らない少年は自分の所有権に対してにらみ合う二人から少し離れた。
自分の人生を自分で決定する権利を持たない奴隷の自分が割って入っていい話ではない。
けれど女性二人はイスハルの無関係という様子になんだかムッとしたのか、この時ばかりは息を合わせて叫んだ。
「イスハル! あなた……」「わたしとこいつとどっちを選ぶんだい?!」
それは奴隷にとって、とても新鮮な言葉だった。
自分で自分の望む事を選んでもいい。
望むまま欲するまま行動しても鞭打たれることも食事を抜かれることもない。
「……そうか、好きにしていいのか」
感動と共にイスハルは呟き、答えた。
「どっちも、大事な友達だよ」
そうして答えたイスハルは二人から怖い目でにらまれたが。
決断に伴う結果もまた、自由の代償であると受け入れることにした。
こうしてイスハルは……技術にほれ込んだ工房主に大金を積まれ、『わらわの奴隷になってほしい、いや、なれ!』と絡まれたり。
とある学園で服を捕まれ『差し上げられるのはもう体と未来しかないけど、勉強が、勉強がしたいんですぅ!! が、学費とか一銭も払えません、でも熱意だけはあります! いつか高く売れる高級奴隷になってみせますから……あたしを売り飛ばしてくださいぃご主人様ぁ!』と、とても人聞きの悪い懇願をされたり。
古代帝国の鉄道計画復活のため物資輸送を行い移動列車の工房を得たり。
動作を完全にトレースする自動人形で、マジックスクロールを大量生産し、その結果、戦争を目論む貴族の陰謀に巻き込まれたりするのだが。
それはまた別のお話。
作者
『ポイントと人気が欲しい』
↓
『よし、人気が出そうなタイトルと有能主人公の追放、ざまぁ展開で読者を呼ぶんだ!!(欲望に素直)』
↓
『しかしざまぁ展開に至らない短編は読者として残念だった。ちゃんと到達するまで書こう』
↓
『想像より体力がいるなこれ……』
そんな風に頑張ったので面白いと思ったら、ブクマ、評価、感想いただけると嬉しいです。
ここまで読んでくださったみなさまと。
職場近く住んでて作者が近づくと警戒するねこさんのごかぞくへ。
ありがとうございました。
2020/11/18 総合日間:38位になりました。ありがとうございます。
2020/11/18 総合日間:11位になりました。ありがとうございます。
2020/11/19 総合日間:7位になりました。ありがとうございます。コワイ。
2020/11/20 総合日間:3位になりました。ありがとうございます。どこまでいけるのか楽しくなってきたような……。
【連載版】をはじめました。ページ下部のリンクよりどうぞ。
今後ともよろしくお願いします。