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扉の鍵

作者: 碧海コオ

短編シリーズものです。今作は三作目になります。

よろしければ一作目からどうぞ!


シリーズ一作目 消える人

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シリーズ二作目 くじら

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 大学の友人に簡単な仕事をしないかと誘われた時、僕は嫌味な正社員たちに耐えられずちょうど二日前に居酒屋のバイトを辞めたばかりだった。

二匹の犬の世話をするだけの簡単なバイトなんだ、住み込みだから二週間も田舎でのんびり出来る、おいしい話だろと彼は言った。

それほど親しい訳でもない僕にその話をもちかけた理由は分からなかったが、僕は即座に了承した。彼は「よかった」と安堵した顔を見せ、彼女がいないのはお前ぐらいだから断られたら困るところだったよ、と笑顔で言った。

バイト料は決して多くなかったが、仕事は一日二回の散歩を含めた犬の世話と家庭菜園の水やりだけだから、バイトを辞めたばかりの僕に文句はなかった。何より田舎の家で一日中ぼんやりできるのは魅力だった。

受験を終えて大学生になった僕たちは確かに浮かれていた。あちらこちらで付き合っただとか別れたのだとか聞こえてくる学生たちの中で、僕は確実に周りから後れを取っていた。

僕には好きな女の子の手を握ったくらいしか経験がなく、しかもそれは僕にとっては大事件であったが、彼女にとってはそうではなかった。

僕には人と付き合うための何かがそもそも欠けているのかもしれない。最近ではそう思うようになっていた。


僕には変な空想癖がある。

僕の父は自分のストレスを母に八つ当たりすることでしか発散できない人だったから、最近はDVとして認識され始めているそれは、当時の僕たちにとってはただの日常だった。

僕は母を心配して両親の会話に常に聞き耳を立てているような子供だったが、次第にそれにも厭きてくると、父が大声を出していない時には器用に自分の心を空想の世界へ連れて行くようになった。

内容は何でもいい。空を飛び回ることもあったし、架空の友人と語り合うこともあった。誰からも裏切られたり責められたりする心配のない頭の中の世界は、現実よりいつでも僕に優しく快適な空間だった。

父が亡くなった後もその癖はあいにく直らず、一人でいることが一番気楽な僕は、自分が本当に彼女を欲しいと思っているのかどうかすら分からなかった。


バイト先の家へ、交通費を浮かすために新幹線には乗らず特急を乗り継いで行った。最後は二両編成の電車に乗り換えて三十分後、ようやく緑に囲まれたその小さな街に着いた。

昼の二時だと言うのに駅にはほとんど人影がなかった。乗るように言われていたバスは二時間に一本しかなく、三十分前に出たばかりだった。


「あんた、どこに行くの?」

自分が話しかけられていると気付くまでにしばらくかかった。辺りを見渡すと小型の古いバンにのった丸々とした顔のおばさんが僕を見ていた。

「え、僕ですか」

「他に誰もいないよ」

僕は知り合いの家に行くのだと言ったが、おばさんはどこだ、とすかさず問い返してきた。普段なら決してないことだが、目的地の住所が僕の口からすらすらと出てしまったのは、それが自分の住所ではないせいか、おばさんの人の好い微笑みのせいだったのかはよく分からない。

「乗んなさい。バスは当分来ないよ」

僕はそれほど都会ではない新興住宅街で育ったが、知らない人の運転する車に乗る無謀は過去に経験がなかった。だがおばさんは僕が乗るのは当たり前と思っているらしく僕を早くと急かした。

「心配せんでいい。私ら悪い人じゃない」

助手席には運転しているおばさんとは対照的に痩せたおばさんがいて、何がおかしいのかケラケラと笑っていた。

「私らも近くまで行くから遠慮せんでいい」

僕はありがとうございますと戸惑いながら小さな声で言った。人に優しくされることに慣れていないから、お礼の言葉を言うのも不慣れなのだ。

十五分もしない内におばさんは車を停め、「ほい、着いた」と言った。

半信半疑だったが表札を見ると確かにそれは僕のバイト先の家だった。僕はさっきより少しだけ上手におばさんにお礼を言った。

ナビもなしによく分かったなと感心していると「いま鍵を開けてあげるから待って」痩せたおばさんがそう言った。

僕は事情が分からずぼんやりとしていた。

するとおばさんは緊張した声で「辺りに人がいないかどうか確かめて」と言ったので、僕は慌てて周囲を見渡した。おばさんはまたケラケラと笑った。

「冗談の通じない子だね。周りに人なんかおらんでしょ」

おばさんは「秘密の隠し場所だよ」と言い、玄関前の大きな鉢植えを難なく持ち上げ鍵を取り出した。

「はい、どうぞ入って。ここがあんたのこれから二週間の宿。あんた、今日は駅で偶然私たちに会えてラッキーだったね」


僕は家に入り二日分の着替えが入ったバックパックを玄関横に置いて靴を脱いだ。おんおん、と犬の鳴き声が聞こえた。

おばさんは、この家の持ち主が予定よりも早く出かけた理由や、僕の仕事内容を早口で説明してくれたが、僕はおばさんたちの存在が不思議でならなかった。

だが、「私達は隣に住んでいるから分からんことあったら何でも聞いて」とあっさり僕の疑問に答えたあと、痩せたおばさんは自分の家に帰って行った。

ようやく一人になって安心した僕は縁側に腰掛けた。

ゴールデンレトリバーのキンタロウとマルチーズのマルコは庭にいたが警戒心があまりないのか、それともおばさんに連れられ家に入った僕をすでに信用していたのか、興味深い様子で近寄って来た。

「二週間、よろしくな」

犬を飼った経験のない僕は恐る恐るキンタロウを撫でた。マルコは触られるのが嫌なのか僕が近寄るとキャンキャンと吠えた。

僕は慣れない電車の旅で疲れていた。手はキンタロウの背をなでていたが心はあっという間に空想の世界へと飛んで行った。

僕はこの家でこれから一人で暮らすことになった不幸な青年だ。この家に住んでいた夫婦は、最近交通事故で亡くなってしまった。

僕は、昔浮気した相手との間に出来た子供で、産みの母にも捨てられ孤児院で育った。夫婦には子供もなく身寄りもなかったから、僕にこの家が譲られた。

僕はそこまで考えて次の瞬間に震えあがった。小さなおばあさんが隣家の縁側に身体を丸めて座っていたからだ。おばあさんの目はまっすぐ僕を見ていた。僕は急に恥ずかしくてたまらなくなった。もしかすると一人でにやにやしていたかもしれない。


「あれ、この暑いのにひなたぼっこかね」

太ったおばさんが縁側に現れた。

「ひいばぁ。キンタロウとマルコの面倒を見てくれる子が来たよ」とおばあさんの耳元で大声を出した。

「怒鳴り声で悪いね。このばぁはもうすぐ百歳になるんだけども、耳があまり聞こえんから」おばさんは悪びれない様子で言った。


僕にもようやく事情が見えてきた。おばさん二人は姉妹で、痩せている方が妹らしい。二人は顔も身体付きも全然似ていないのに、声だけはそっくりだった。ひいばぁは呼び名の通りおばさん達の曾祖母で、痩せたおばさんは、私たちは三人で暮らしているんだ、他の家族はみんなはもう死んじゃったから、と寂しそうに言った。

僕はあれだけ一人になりたかったはずなのに、一緒に食べようとおばさんが好意で言ってくれた食事につられ、一日に何度も隣家を訪れるようになった。

僕は食事のお礼に草むしりをしたり、ひいばぁの世話をするようになった。世話をすると言ってもひいばぁの隣に座っているだけだ。それでもおばさんたちは、一緒にいてくれるだけでいいと言って喜んでくれたので、ひいばぁの隣は僕の特等席になった。

僕にはおばさんのような大声は出せないから、ひいばぁには何も話しかけなかった。ひいばぁも何も喋らなかった。最初居心地の悪かったその静けさも次第に気にならなくなった。

一週間も経つと僕は日中のほとんどを隣家で過ごすようになり、気兼ねなくひいばぁの隣で四六時中空想にふけるようになった。


おばさん達はひいばぁにいつでも優しかった。歯がほとんどないひいばぁに食べやすいおやつを用意したり、数時間ごとにひいばぁを抱えて座る場所を変えたりした。

僕はそれほどおばさん達にお世話になっておきながら、心の中でひいばぁに対する献身的に尽くすおばさん達の態度を不審に思っていた。

あまり幸福とは言えない家庭環境で育った僕は、無償の行為に対する懐疑心が人一倍強かった。

僕は勝手な想像を拡げた。実はひいばぁはかつて冷血な金貸しで、巨額の財産を今でも隠し持っており、おばさん達はそれを狙っている。

あるいは、ひいばぁは若い時にはものすごく意地悪な人で、おばさん達の祖母や母親をひどく苛めた過去がある。昼間は優しく見えるおばさん達は、実は夜中になるとひいばぁを苛めて復讐しているのだ。


僕はおばさん達の優しさを否定したかったのだろう。

もし、それほどまでに献身的で無償の愛が本当にこの世に存在するのなら、それを全く父親から受けなかった僕の過去は今よりも更に辛いものになってしまう。僕は亡くなった父親をこれ以上憎みたくなかった。


時間はあっという間に過ぎた。

最初おばさんたちの態度を怪しんでいた僕も、二週間経つとおばさん達の好意が善意であると認めざるを得なくなっていた。それは残念なような、嬉しいような複雑な気持ちであった。

「ひいばぁ、きーちゃんが明日帰るよ」

おばさんたちは僕をきーちゃんと呼んでいた。母だけが使うそのあだ名で呼ばれることに僕は違和感を感じなかった。

最後の夜、おばさんたちはちらし寿司作ってくれた。食べ終わってから花火をすることになった。いつ買ったのかよく分からないと言って納屋から探してきた花火は、湿気ているのかどれも簡単には火が点かなかった。いつまでも花火をろうそくの火に向けている僕に太ったおばさんは何度も謝った。

僕の胸は熱くなった。この人たちは僕に滞在中何度も食事を出してくれただけでなく、こうして最後の夜を少しでも楽しいものにしようと探してくれた花火が古いと言って僕に謝るのだ。

ろうそくの火を見つめる自分の鼻につんとした涙の匂いを嗅ぎ取り、僕は慌てた。父親の葬式のあとにほんの少しだけ涙を流したような非情な僕が、理由もなく泣く訳にはいかない。


痩せたおばさんがすいかを縁側に運んできた。

すいかなんて食べるのは久しぶりだ。僕はいただきますと呟き、ためらわずに三角に切られたすいかの一番甘いところに齧り付いた。

父が好きだったから母はすいかを時折買って来た。自分のおかげですいかを食べれるだろうとの父の恩着せがましい言葉に反発して、僕はお腹がいっぱいだから、と本当は食べたかったすいかを何度も断ったことを思い出した。

今夜のすいかは、僕の口にどこまでも甘かった。


太ったおばさんは小さく切ったすいかをひいばぁの口に運んでいたが、突然ひいばぁは首を小さく横に振りその痩せた手を上げ僕を指した。ひいばぁの口がかすかに動いていたので、痩せた方のおばさんが耳を近づけ、うんうんとうなずき「そうだねぇ」と言った。

「きーちゃんは可愛い子だねって、ひいばぁが言ってるよ」

僕は呆気にとられてひいばぁの言葉を聞いた。過去に誰からもそんなことを言われたことがなかったからだ。

今思えば、母は父親から僕を守るのに一生懸命で、僕を可愛がる余裕などなかったのだと思う。小さな子供に言うようなひいばぁのその言葉は、父親はもちろん母親からも言われた記憶がなかった。

「きーちゃんに会えて嬉しかった、ありがとうって」

僕の目から不意に涙がこぼれた。泣いている自分に一番驚いていたのは僕自身だっただろう。僕は食べかけのすいかの皿を膝においたままぽろぽろと涙をこぼした。

あらあら、と二人は全く同じ声で言い、「帰るのが寂しくなったの」太ったおばさんが言って、「いつでも遊びにいらっしゃいな」と痩せたおばさんが言った。

僕は感動していたのだ。生まれて初めて聞いた「可愛い子」という言葉に。十九歳の男が言われて嬉しいはずもないその言葉を、僕は涙を流すほどに喜んでいた。


僕のこの気持ちは誰にも理解出来ないだろう。僕自身、自分がその言葉をそんなにも欲していたのだと今日まで知らなかったのだから。

可愛い、その言葉はまさに人に好かれ愛されている証だ。僕は人に愛されていいのか。


ひいばぁの言葉が僕の呪縛を解き始めている。僕は泣きながら、確かに自分の奥深くにあった感情の扉が開こうとする音を聞いた。

僕はいつまでも子供のように泣き続けた。


翌日、僕はまた電車を乗り継ぎ帰途についた。

晴れ渡った気持ちのいい天気だ。二両編成の電車は行きと同じように数人の地元の乗客を乗せてゆっくりと走った。窓からは田んぼや木々が見えてその景色はどこまでも僕の目にのどかであった。

僕は空想の世界で遊ぶ代わりに、おばさんたちとの食事や会話、キンタロウとマルコのおもちゃの取り合いを思い出したりした。

電車の窓を少し開けると、ひいばぁの隣で座っていた時と同じ匂いの風が入ってきた。

電車の窓に忍び込む蝉の鳴き声が二週間前と少し違う。夏がもうすぐ終わるのだ。


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