一射目 「始まりの銃声」
罪も血も優しさも記憶すら流れてしまうような雨が降っている。
雨の中に男が二人。
一人の男がゆっくりと銃をもう一人の男に向けた。
ひどく無機質な音が響く。
残った男は一人雨の中に立ち傷ついた体を雨に打たせていた。
ここにあるのは、銃と死体と空っぽになっていく男だけだ。
「おい! さっさと酒運べ! この役たたずが! それから便所も掃除してねえだろ!!」
丸々と太った店主の怒声が店に響いている。
その声はひどく不快で、喉の中で下手糞なバイオリンでも奏でているのかと問い詰めたくなるようなほどで、自己管理能力の低さを知らしめるような体はすでに九十キロはある。
「ごめんなさい! 今やります!」
華奢な体で二十キロはあろう酒樽を必死に運ぶこの少女の名はカナ。
身長は百六十センチほどで腰まで届く長い黒髪に、大きな黒い瞳、そして連日の強い日差しの中でも白さを失わない美しい肌が特徴的だ。
センスを感じさせない店のエプロンですら彼女を引き立たせる重要な装飾品と化していた。
彼女は、今から十八年前、この酒場の前に産着にくるまり捨てられていた。
それをこの酒場の前店主が保護したのである、彼はカナを実の娘のように育ててくれた。
しかしカナにとって優しさや幸せといった言葉は六歳を境に遠く遠くへと消え失せてしまった。
前店主が病で急死し、この店を買い取ったのが現店主の山瀬利一だった。
利益を最優先とする経営方針を取った山瀬が人件費を削ろうと目を付けたのがカナだった。
山瀬はカナを奴隷のように働かせると同時にカナで日ごろのストレスを解消するようになっていた。
小さなミスも必要以上に咎め怒鳴り散らし手を上げることも少なくなかった。
山瀬は人のミスを見つけることに関しては天才的で普段からその才能を遺憾なく発揮し店という小さな囲いの中で支配者を気取っていた。
入り口の古い鐘が少し曇った音で鳴り新しい客を歓迎した。
「おいカナ!! ちんたらしてねえで、早く客を案内しろ!!」
店の奥にあるテレビの前に寝転び山瀬は動こうとはしない、山瀬を言い表すなら怠惰という言葉が服を着て暮らしているようだとしか言い表す言葉を持てなかった。
「は、はい!」
カナは掃除の手を止め入口へと急いだ、この時の衝撃をカナは忘れる事は無いだろう。
すでにこの星では温暖化が進んでいた。
五月でも平均気温は二十五度を超えることはざらで店の温度計は三十度を指し示している。
現にカナの額には汗がにじみ、動いていないはずの山瀬ですらシャツに脇と背中に大きなシミを作っている。
にもかかわらず男は黒いトレンチコート着こみ、顔は疲れ切りそして寂しげな眼をしていた。
カナが今まで見たどの大人とも違う目をしている。
カナは声が出せず、今まで何百と繰り返した質問ができない。
男の見た目に驚いただけではない、この質問はしてはいけないような気がする。
静かに汗が背中を伝っていくのがカナには分かった。
我にかえったカナはそんな動揺を隠すためにあえていつもよりも元気に声を出した。
「いらっしゃいませ! おひとりですか?」
カナの無暗に元気な声が店に響く。
「ああ」
そっけなく男は答える。
まるでお前となど関わりたくない、というような拒絶の混じった口調に少しばかりカナはひるむ。
「今はカウンターしか空いておりませんがよろしいですか?」
「大丈夫だ」
席へ案内しようとカナが歩き出すとカウンターの一番隅の席に男はさっさと行ってしまった。
カナは呆気に取られながらも男の席に水を持っていく。
「ありがとう」
男はそう言ったきり、喋らなくなった。
カナはここでいつもの悪い癖を出してしまった。
「水だけですか? 疲れているようなので何か召し上がっては?」
男は少し驚いたような表情でカナを見た。
くすんだビー玉のような男の目にカナが写る。
「ありがとう、でも今は腹がいっぱいなんだ」
そう言って男は少しだけ笑った。
それは不器用な笑顔だった、まるで久しぶりに笑ったような。
「あ、そうなんですか私余計なことを……ごめんなさい」
頭を下げたカナは静かに男の元を去ろうとする。
どうしてあんな事を言ってしまったのだろうーー毎回そう思うのだがカナはこの癖を中々直せなかった。
「ちょっと待ってくれ」
カナを呼び止めた男は先ほどよりも少し柔らかめの雰囲気になっていた。
真っすぐにカナの目を見つめ優しく微笑む、その顔に先ほどの拒絶するような意志は感じられない。
「君は俺を気遣ってくれたんだろう? なら謝る必要は何もないさ、その優しさに誇りを持ってくれ」
それきり男はうつむいて黙ってしまった。
そんな言葉をカナかけてくれたのは今まで会った大人の中にはまずほとんどいない。
カナはこれ以上ない喜びを胸にその場を後にした。
それから少しして、区の管理官がやって来た。
頭には白髪が群生し、紺色を基調とした小ぎれいな軍服を着こんでいるはずなのに全くと言って良いほどそれを着こなせていない様子はこの男の器量の無さを表しているかのようだ。
しゃがれた声で笑いながら山瀬の肩に手を回す。
「おーう山瀬、相変わらず繁盛してんなぁさすがだぁ」
「いえいえ、北山さんのおかげですよ」
山瀬はにやにやと笑う。
へたくそな作り笑いとしらじらしい世辞にもかかわらず、北山は機嫌よく笑っている。
役人の名は北山と言いカナの住んでいる二十二区の管理官の一人。
山瀬のいつもの横暴さは北山が来るとすっかり隠れてしまうのがカナには可笑しかった。
「あっ! そうだ北山さん、これこの前のお礼です」
そう言って山瀬は北山に重そうな袋を渡す。
「おいおい、よしてくれよ~お礼をもらうために仕事してんじゃないんだからさぁ」
北山はしわの刻まれた顔をゆがめて笑いながらしっかりとお礼を受け取っている。
袋の中身を確認しながら北山は満足げにそれを懐にしまった。
十八年前、カナたちの住む国は大きく変わった。
『警察』というものが無くなり、住んでいる地区ごとに、『軍隊』と『管理官』そして『統括官』が配備された。
しかしこの『軍隊』は治安を守るどころか仕事すらしていないのがほとんどで、仕事中の賭博、飲酒はもちろん市民に対する暴行などを日常的に行い犯罪行為も『お礼』でもみ消している。
席に着き、二人は酒を飲みながら日々の愚痴をこぼしあう、いつもと変わらない何気ない光景だ。
「そういえばよぉ山瀬、お前『破銃』って知ってっか?」
程よく酒の回った北山が唐突に話し始めた。
ずいぶんと飲んだらしく顔は真っ赤になっていた。
「なんですかそれ? 聞いたこともありませんね」
山瀬は頭をひねった、それは普通に生活している分には聞かない言葉だった。
「噂だとよ、どんなもんでも壊せる銃なんだと、んでもって必ずウロボロスとか言う蛇のシンボルがはいってんだとそいつを探せって命令が来てんだよ」
大きな声で話しているため嫌でも話が聞こえてしまいカナはテーブルを拭きながら少し呆れていた。
軍がほかにもやらなければならない事がたくさんある事は誰にでもわかる。
「大変ですね、そんな命令聞くのも」
山瀬は酒の入ったグラスをカラカラと回しながら興味なさげに答えていた。
正直な話そんな一文にもならない話など心底どうでもいいと山瀬は思っていたが良好な関係を崩さないためにも聞き役に徹していた。
「だろ? それで昨日も残業させられてよ……思い出したらイライラしてきた、おいあのガキ借りんぞ?」
おもむろに北山が立ち上がりカナの方へ歩き出す。
人は眠かったり疲れている時ほどイライラするものだ、それが人よりも北山は強く表に出すタイプの人間だった。
「どうぞお好きなように、ただあんま店壊さないでくださいね直すの金かかるんであと代わりの補充おねがいしますね」
山瀬の声がやたらとカナには遠くに聞こえた。
カナは手を止め逃げようとしたが遅かった。
北山の足が降り上がる。
直後、カナの腹に衝撃と激痛が走った。
「が……はっ……」
内臓を全て吐き出しそうな痛みにカナは立っていられずよろめきながらテーブルに寄り掛かるがそれでも体重を支えることが出来ずにテーブルをひっくり返し地面にうずくまる。
床に料理や、落ちて割れたボトルから流れ出すワインが広がった。
--痛い。
だだその言葉だけでカナの脳内は埋め尽くされる。
痛みのせいか息をするのも辛い、もちろん体など動くはずもない。
「やっぱ、イライラしたらなんかに、あたんねーとな!」
北山は倒れたカナをを踏みつけ笑う、周りの客たちは北山の報復を恐れ止める事などできない。
正確には北山ではなく『管理官』の報復を恐れてだ。
巨大に膨れ上がった権力を正しく扱える人間は少なく、そのほとんどは権力に溺れていく、なんて事はない北山もそんなありふれた者の一人だっただけの話だ。
見て見ぬふりの牢獄に閉じ込められたカナに残された運命はーー死だけ、だったはずだった。
--私……死ぬのかな……。
何度も踏まれ、蹴られカナの考える力が弱まり始めていた時だった。
足音がする、誰かがこちらに向かって歩いてきているのがカナには分かった。
そして誰かの足がこぼれ出たワインに波紋をつくったのを確かに見た。
カナは痛みに耐えながらゆっくりと顔をあげた、足から腰、胸そして顔をはっきりと見る。
それは先ほどのトレンチコートの男だった。
男は北山と正面から向き合う、北山に向けられた目は先ほどカナに声をかけてくれた男とはまるで違うものだった。
「なんだ、お前? ヒーロー気取りか? ああ!?」
すっかり酒が回り気の大きくなった北山が叫んだ。
近くに会った椅子を蹴飛ばし声を荒げている。
「その辺でやめないか?」
北山に全く臆することなく男は静かに言った。
周りに客たちと山瀬は固唾を飲んでその様子を見守っていたと同時にこの馬鹿な男に同情と憐れみを込めた視線を送っていた。
「はぁー? 止めるわけねえだろ? ガキはこうやって使うのが正しい使い方なんだよ!」
北山はカナを踏みつけ更に足に力を加える。
痛みにカナは顔を苦痛に歪ませた。
「もう一度だけ言う、やめろ」
先ほどとはまた違う空気を纏った一言だった。
だが北山は酔いのせいかそれに全く気付かない、もっとも酔っていなかったとしても気付けたかは甚だ疑問であるが。
「ハイハイ分かった分かった……」
そう言って北山は降参のポーズを取りながらカナからゆっくりと足をどけると同時に北山は腰の拳銃に手を伸ばした。
「お前みたいな偽善者が一番嫌ぇなんだよ!!」
そう言って北山が弾丸を撃ち出すよりずっと速く男の銃から弾丸が放たれていた。
弾丸は北山の頭を熟したトマトを握り潰すように簡単に吹き飛ばしその中身を店中にまき散らした。『撃ち抜いた』のでは無い、『吹き飛ばした』のだ。
この男が酒場にいなければ、北山が疲れでイライラしていなければ、誰かが北山を止めていれば北山という男は死なずに済んだかもしれない。
だがそれはありえない、すべての出来事に偶然はないのだ。
北山が今日ここで死ぬのは必然だった。
一人の少女の新たな世界への扉を開くために。
目の前に広がる新しい世界と男の手に握られた蛇の刻まれた銃を見ながら、カナはさっきの話を思い出していた。