9話 とある夜の憂鬱
今でも夢に見る。
去年の春、俺はこれまでの人生で一番の挫折を味わった。
それは順調に昇級を重ねてきた俺の初めてとなる停滞。留年だった。
この学園において留年なんて珍しいことではない。むしろストレートで卒業していく生徒の方が珍しいだろう。だが、それでも俺は自分を許せなかった。
まるで泥の中を這いずっているかのような忸怩たる思い。
そんな焦燥感にも似た感情が俺の中に巣食っていた。
思い出すのはあの日、あの時味わった屈辱。
何の目的もなく、ただ学園の卒業生であるという肩書きだけを求めている貴族の連中には負けられない。負けるわけにはいかないのだ。
俺には……
──時間がないのだから。
「……眠れねえ」
すでに深夜と呼べる時間帯。
寮の自室でベッドに横たわる俺はどうにも冴えてしまう意識を持て余していた。こういう時、いつもなら魔導研究でもして時間を潰すのだが今はリリィがいる。灯りをつけて起こしてしまうのも忍びない。
(……って、なに居候に気を使ってんだか)
自分で自分の思考に突っ込む。
視線だけ横に向けると、リビングを挟んで反対側のベッドに横になるリリィの姿が目に映った。すやすやと気持ちの良さそうな寝息を立てる幼女には何の心配事もないように見える。
その能天気さに苛立ちと羨望を同時に感じてしまう自分がいた。
自分もあの年頃には何の葛藤もなく、ただ日々を漫然と過ごしていたというのにだ。
「……やっぱり疲れてんのかね、俺」
どうにも考えすぎてしまう自分の頭を抑え、深く目を瞑る。
魔術師を志してから七年。
家族の下を離れて二年半。
随分と遠いところまで来てしまったように思える。
憧れだけで進むには辛い道だと分かっていたつもりだった。
だが、実際に進めばそれはやはりつもりだったのだと理解させられる。
この学園は……地獄だ。
誰もが限られた席を奪い合うため、同輩を蹴落としながら進んできた者ばかり。そこには友情も仲間意識も存在しない。ただただ己を高め、邁進する日々。
俺にはそんな日常が合っている。
実際、実家にいた頃は常に勉強と家業の両立でむしろ今より忙しかったくらいだ。それに比べれば今の生活はむしろ楽とさえ言える。
だけど……地元を離れ、たった一人で生活をする中でどうしても感じてしまう時があった。胸が締め付けられるような孤独感を。
(この歳になってホームシックなんて……情けねえ)
だが自分の感情を誤魔化すことは出来ない。
俺に出来ることは精々、強がりながら一刻も早くこの学園を卒業して国家魔術師になること。ただそれだけだ。それだけが……唯一俺に出来ることだから。
「…………」
ぎしっ、と音を立てるベッドから身を離し、立ち上がる。
窓辺に寄り、空を見上げると美しい満月がその存在を夜空の中に主張していた。俺は腰を下ろし、眠れないなら少しでも知識を増やそうとまだ知らぬ術式理論に挑むことにした。
静かに進む時間の中、傍にリリィがいるという事実に少しだけ昔を思い出した。まだ幼かった頃、母親と父親とそして……妹と仲良く暮らしていた頃を。
だがそれはただの記憶。
過去の残滓に他ならない。
時の歯車が過去に回ることは決してないのだから、人は前に向かって進むしかない。そうすることでしか望む未来が訪れないのなら……
──俺は進み続けよう。ただ前だけを見て。振る返ることなく。
(俺は立ち止まらないぞ。誰になんと言われようと……国家魔術師になってやる)
リリィの寝息とページをめくる音が微かに聞こえる室内。黙々と読解を進める俺を月明かりだけが優しく照らしていた。