53話 契約
この世界には精霊と呼ばれる存在がいる。
高位次元に存在するとされるそれらは古くは「悪霊」、「悪魔」などと呼ばれていた。彼らが起こす未知の現象は人間達を恐怖に落とし入れ、その所業は悪魔の呪術──即ち魔術と呼ばれ人々に恐れられていた。
人は理解できないものに恐怖し、慄く生き物だ。
だからこそ、理論的に形態化された現代でもその魔術そのものを畏怖する人間は少なくない。そして、その一つの理由に魔力は人間そのものを悪魔へと変質させてしまうというオカルトがまだ根強く大衆に残っていることもある。
その代表的な例が『吸血鬼』。
悪魔に取り付かれた人間は人の生血を啜る鬼へと変わってしまうというものだ。今では物語の中にしか登場しないような怪物だが、彼らは確実に存在していた。人族よりも圧倒的な膂力と魔粒子特性を持ち、人を襲う彼らは人間達に恐れられた。
故に……大人は子供に彼らを説明する時に、こう呼ぶのだ。
決して触れてはならないイキモノ。即ち、禁忌の鬼人と。
「り、リリィ……」
俺の首に噛み付いたまま、血を吸い続けるリリィ。血によって真っ赤に染まった口元を拭うことすらせずにリリィはただ一心不乱に俺の血を吸っていた。
体から力が抜け、意識すら朦朧とし始めたとき……
「ルイスから離れなさいっ!」
何かが俺の傍を駆け抜けた。
それは魔粒子を全身に展開した先生だった。
先生は常識外れの身体能力でリリィを掴むとそのまま地下室を駆け抜け……
──ドゴォォォォォオオッ!
硬い壁に、リリィを力任せに叩き付けた。
ぱらぱらと落ちる石の破片と、煙に紛れ……小さな影が先生の頭上を舞った。
「があああぁぁぁッ!」
「────ッ!」
神速の踵落としが先生に向けて迫る。咄嗟に両腕をクロスしてガードするが、その全ての勢いを殺すことは出来ず、今度は先生が床にクレーターを作ることになった。
そして……
「魔粒子──掌握!」
口から血を流す先生は右手を掲げ、呪文を唱えた。
すると、部屋中に書かれた術式が光を放ち始め、それらはまるでツタのようにリリィの体に巻きつくとその動きを封じてしまった。この部屋に準備された術式の一つ、それが拘束術式だったのだろう。用意周到な先生らしい。
だが……
「はは……ちょっと部屋を壊し過ぎましたね……」
どうやら部屋の一部が決壊したことで、術式に不備が生じてしまっているらしい。冷や汗を流す先生の視線の先では何とか光の縄を解こうともがくリリィの姿があった。
「がぁぁぁあああああああっ!」
獣の雄叫びのようなその声。
それが俺には悲鳴のようにも聞こえた。
(当たり前か……アイツはあんな風に誰かを傷つけるような奴じゃない。きっと我を忘れちまってるんだ。だったら……何とかしてやらないと……)
最早意識を保つことすら困難なこの状況、一秒後には死んでいてもおかしくないこの体で俺はリリィのために何かしてやりたいと思った。
だが、指一本動かすのが精一杯の今の状況で俺に出来ることなんて……
「やや強引ですが……仕方ありませんね。魔粒子の回収を急ぎましょう」
右手の拘束術式と同時に左手なにやら新しい術式を完成させ始める先生。
どうやら時間もあまり残っていないらしい。早く……早く何とかしないと。
(だけど……今の俺にいったい何が出来る? 俺はリリィのために何がしてやれる? 俺はリリィに……何を残してやれる?)
分からない……何も分からない。
だって俺はリリィの素性にすら気付かなかった男だ。あれだけ長い間、一緒に過ごしたというのに俺は何一つ気付けなかった。ちょっと注意していれば分かったかもしれないのに。
そんな俺が……リリィに何をしてやれる?
見ているつもりで何も見えちゃいなかった俺に、一体何が……
どんどん重くなっていく思考に、全てを投げ出しかけた、その瞬間……
『ルイスっ、ルイスぅっ!』
──誰かの泣き声が、聞こえたような気がした。
俺の名を呼ぶ声。それはいつか彼女と交わした約束の光景だった。
リリィが望む限り……俺は傍にいる。
リリィが俺に何を望んでいたのか、その答えを俺は聞いていない。だけど……彼女との日々を思い出せば、それが自然と浮かんでくるような気がした。
「……まだ、だ……」
体中の力を集め、俺は必死に指先を動かす。今回は書くものがなかったので、自分の血で代用した。幸い血なら大量にこぼれている。足りなくなるということはないだろう。
(俺はまだ……リリィに何も返してない……)
記憶の中にある術式を総動員し、初めてとなる構築を行っていく。
(アイツがくれたんだ……この気持ちも、この強さも……だから……)
確認している暇はない。俺は書き込んだ傍から術式を活性化させていった。
(リリィを助けるのは……俺じゃなきゃ駄目なんだッ!)
最後に俺は大きく手を地面につき、激痛に支配される中、最後の魔粒子を絞りだした。
そして……
「──契約は等価……我が身を以って対価とす……」
俺は絶対に使うことがないと思っていたその呪文を唱えた。
「ここに、契約文を掲げ……神聖なる魂の誓いを立てん……っ」
それは正式に契約を行うための呪文。魔法陣だった。
眷属召喚の儀式によって呼び出された眷族と今後、一生付き合っていくという覚悟を示すもの。俺の場合、すぐに破棄されてしまう事になるだろうが……この一瞬に役立てばそれでいい。その為なら俺の全てを捧げる。だから……頼むよ……
「帰って来い……リリィィィィィッ!!」
俺の呼び声に呼応するかのように地面の魔法陣が輝く始める。
それは俺がリリィに渡す最初で最後の贈り物。
リリィの望みを叶えるための、眷属契約の儀式だった。




