52話 高貴なる獣の王
目の前で鮮血が宙を舞う。
その光景を前に、俺は驚愕に目を見開いていた。
なぜなら……
「ではそろそろ……儀式を始めましょう」
先生は自らの手を切り、どくどくと血を流していたから。
なぜ自分で自分の手を切ったのか、俺には分からなかった。続くその光景を見るまでは。
「さあ、目覚めなさい! 高貴なる獣の王よ!」
先生はそう言うと、自ら血だらけのその手をリリィの口元に押し付けた。彼の手に捕まっているリリィはその手を振りほどくことも出来ず……
「ん、ぐっ……!」
強引に先生の血を飲み込んでしまう。
そして……変化が訪れた。
「く、あ……あああああああああああああっ!」
「リリィっ!?」
苦悶の表情を浮かべ、絶叫を上げるリリィ。
俺はそれをただ見ていることしか出来なかった。
「良く見ていなさい、ルイス。そうすれば僕がなぜ、こんな面倒な手順を使って彼女を呼び出したのかが分かるでしょう」
手元で暴れるリリィを先生は薄く笑みを浮かべて見ていた。
その狂気に染まった笑みに寒気を感じながらも、俺はゆっくりとリリィに視線を戻す。そして……気付いた。
「……え?」
リリィの髪の色がまるで脱色剤に漬けたかのようにその色を失い始めたのだ。美しかった金髪は初雪を思わせる白色へ。そして、宝石のようだった蒼色の瞳は鮮血を思わせる真っ赤な真紅へと。
「り、リリィ……!?」
突然、彼女に訪れた異変に俺は先生を睨み付けた。
「や、やめろっ! リリィに何をするつもりだっ!」
「僕は何もしていませんよ。これは彼女の本当の姿なのですから」
「本当の……姿、だと?」
「ええ。君は何も見えてはいなかったのですよ、ルイス。一緒に生活していてもその事実に気付くことはなかった。他人を遠ざけ、拒絶し続けた君には気付くことが出来なかった。良くミスティアにも言われていたでしょう。君は鈍感に過ぎると。だからこれは……君の失態です。本当の彼女を見ようとしていなかった君の失敗です」
「い、一体それはどういう……」
先生の言葉の意味が分からず聞き返す俺に、先生はただ視線だけをリリィに向けた。釣られるように視線を向けると、更なる変化がリリィに起こっていた。
「ぐ、うっ……あ、ああああッ!」
バキバキと何かが折れるような音と共に、リリィの額に漆黒の角が現れたのだ。それと、同時にリリィは先生の手を掴み、吼えた。
「ああああああああああああああああッ!」
それは思わず身が竦んでしまいそうになる声だった。
いつも穏やかなリリィが出した声だとは思えない。まるで奈落の底から響くような低い声音。そして血走った目を見開いたリリィの視線が、先生を捉えた。
「は、な……セッ!」
「……ッ」
そして、リリィの手が先生の腕を掴み……
──ゴキッ!
まるで細枝を折るかのような呆気なさで先生の腕を握力だけで圧し折るのだった。
「ちいっ!」
咄嗟にリリィを投げ捨て、距離を取る先生。
「伝聞には聞いていましたが、ここまでとは……これは僕もうかうかしていられませんね」
不自然に垂れた腕を押さえながら先生が笑う。
これは……チャンスだ。
「今だ! 逃げろリリィ!」
拘束の解かれたリリィにそう呼びかけるのだが……
「…………」
リリィは虚ろな視線を俺に向けると、小さくその首を傾げた。
ぞっとするようなその視線と、変わってしまった風貌に俺は思わず硬直した。これが俺の知っているリリィだとは、どうしても思えなくなってしまっていた。
「リリィ、お前は……」
それでも諦めきれず、リリィに対話を持ちかける。本能的な恐怖に支配されそうな中、俺は無様に地面を這いながらもリリィに手を伸ばした。
「っ! 駄目だ! ルイスっ!」
それは危険な反射。机から落ちた包丁に咄嗟に手を伸ばしてしまうような、そんな危険な行為だった。
ゆっくりと俺に近づいたリリィはその小さな体で俺の頭を抱きしめると……
「…………え?」
──ズブッ……そんな音と共に、リリィの歯が俺の首筋に食い込むのを感じた。
「ぐ、が……っ!?」
深く肉に食い込んだ犬歯は俺の血管を切り裂き、大量の血液を流させる。そして、噴水のように溢れ出る血液をリリィは……
「あはっ……あははははっ!」
哄笑と共に、美味しそうに嚥下していた。
その様子を見て、俺はいい加減に気づいた。
なぜ今回の眷属召喚にリリィが選ばれたのかを。
通常の儀式であれば人族の幼女が召喚されるはずなんてなかった。術式によりプログラミングされた魔方陣が対象を選別してくれるからだ。だが、こうしてリリィは実際に召喚されている。
その疑問。その答えは簡単だった。
つまり……リリィは最初から人族の女の子などではなかったのだ。
「リリィ……お前は……」
血と共に刻一刻と失われていく命を感じながら……俺はようやく全てを知った。
「──"吸血鬼"……だったのか……っ」
知りたくもなかった、その真実を。




